上の写真は、越山堂版『近代人の人生観』で里村欣三の初めての書物である(共著)。(左)外箱(右)本体表紙。大正14年2月15日刊、四六版413ページ。
 この『近代人の人生観』の編者は、「人生哲学研究会」で、あとで紹介する里村の共著『聖哲の懺悔』『名僧の人生観』の編者と同じである。この「人生哲学研究会」がどういう組織なのか不詳
だが、中西伊之助、江原小弥太を中心とする研究会と推測され、出版元の越山堂は、同時期に中西伊之助の『死刑囚の人生観』(大正13年11月15日)、『我が宗教観』(大正14年4月15日)を発行している。
 なお、昭和14年5月10日、人生哲学研究会編、金竜堂出版部刊で『近代哲人文豪の人生觀 』があり、越山堂版『近代人の人生観』から大杉栄、大西祝の項を削除したものらしい(340P、未見)。
 三水社版の『近代人の人生観』。(左)外箱(右)本体表紙。昭和2年9月20日刊、四六版413ページ。
 『近代人の人生観』は、左にあげた大正14年2月15日刊の越山堂版、上にあげた三水社版のほか、昭和2年6月刊の日新社版(未見)があり、いずれも四六版、413ページで、越山堂版を元版に、出版元だけが移動したと思われる。
 『近代人の人生観』中での里村の著述は、「夏目漱石」(P159-195)と「樋口一葉」(P271-303)で、「夏目漱石」では『我輩は猫である』 『三四郎』『それから』『門』『明暗』をとりあげており、「樋口一葉」では「反抗的人生観の超脱」「恋愛観」が節のタイトルである。共著者は中西伊之助、 大坪草二郎らで、中西伊之助は「中江兆民」「高山樗牛」「国木田独歩」「大杉栄」を書いている。
  この『名僧の人生観』には異本がある。上の写真は大正14年4月12日越山堂刊で左が外箱、右が本体の表紙、四六判320ページ。里村は「白隠」「一休」 を書いた。里村の作品はいずれも本格的に論じたものであり、1・2ヶ月の付け刃では書けないと思われる。平林たい子が『自伝的交友録実感的作家論』(昭和 35年12月10日文藝春秋新社、初出は昭和30年『別冊文藝春秋46』「二人の里村欣三」)で「すでにその前後には日蓮に関する著作があった」と記した のはこの『名僧の人生観』を指すと思われる。ただし、里村に日蓮の記事はない。下は、昭和3年6月1日、京都の洛東書院から発行されたもので、越山堂版を 元版にした四六判、720ページ。前に親鸞、日蓮、空海、後ろに夢想、一遍、法然、最澄、蓮如が追加され、布装の厚冊になっている。里村に新たな記事はない。編者は共に人生哲学研究会。この洛東書院版には昭和5年4月10日刊の異本があり、同内容、同装幀だがエンジ色のハードカバーになっている。  『聖哲の懺悔』大正14年3月15日越山堂刊、四六判318ページ、編者は「人生哲学研究会」。
 里村は「ゴオルキイ」(P127-177)を担当、「ゴオルキイの伝記を読む度に、私は、大きな感動を受けるのが常である」と書き、『懺悔』の解説を試みている。大正11年、勝屋英造訳、太陽堂刊を底本にしているのだろうか。
 中西伊之助は「ルソー」「トルストイ」を、他に大坪草二郎、小島徳彌らが書いている。
 あいにく箱付を入手できなかったが、本体の装幀は上の『名僧の人生観』等と同一であり、その巻末広告によると、ともに「人生哲学大系」の一冊として広告されているので、『名僧の人生観』と同一の外箱があったと思われる。
 『戦争ニ対スル戦争』は昭和3年5月25日、南宋書院刊、四六判、408ページ。
 里村は「シベリアに近く」(P283-296)を載せている。
 この書の編集は「左翼文藝家總聯合」で、これまで分散し対立していた前衛芸術家同盟や日本無産派文藝連盟、そして里村等の文芸戦線派(労農芸術連盟)そ の他を含めた一時的な連合体。「戦争の危機が全世界を蔽ふてゐる」ではじまる序文は実質的な編集者の蔵原惟人のもの。金子洋文、小堀甚二、前田河も書いて いる。
 古書価は3万円、不二出版の復刻版は3千円前後。
 『新興文学全集第7巻日本篇』。
昭和4年7月10日、平凡社刊、四六判、730ページ。『新興文学全集』は昭和3年4月から刊行が始まったが、どういう事情か、「非売品」となっている。 この第7巻には葉山嘉樹の検印がある。装丁者の名前はないが、布製の風格ある表紙。
 葉山の「海に生くる人々」を先頭に置き、黒島傳治、今野賢三、里村、小堀甚二、平林たい子、岡下一郎、小島勗が書いている。それぞれ自伝や略歴をつけて いるが、里村だけはない。里村の掲載作品は「苦力頭の表情」「黒い眼鏡」「疥癬」「放浪の宿」「十銭白銅」。
 金子洋文、前田河廣一郎の編集による労農芸術連盟のアンソロジー。昭和6年10月23日、改造社刊、四六判、549ページ。序文は前田河が書き、里村欣三は85ページから105ページまで「ある村の素描」を載せている。
 前年に黒島傳治等が脱退し、さらにこの年細田民樹、源吉、小島勗、間宮茂輔らが脱退し、「第二次文戦打倒同盟」を結成するなかで、「文芸戦線」残留組の総力をあげたフルキャストのアンソロジー集。
 また里村にとっては、プロレタリア作家としての最後の書物になった。
 古書価は1万5千円くらいで、比較的流通している。
 『征戦小説名作集』は昭和15年9月8日、博文館刊、四六判、316ページ。
 
里村欣三は昭 和10年5月、徴兵忌避を自首し、昭和12年7月、蘆溝橋で始まった日中戦争に、姫路第十連隊の通信隊輜重兵として動員され、昭和14年暮、脚気ほかで召 集解除され帰国するまで北支を中心に各地を転戦した。また昭和16年12月、陸軍報道班員としてマレー戦線に従軍、20年フィリピン戦線で戦死するまで、 次第に従軍作家の花形に祭り上げられていく。
 この著作に載せられた「怪我の功名」は中国戦線での経験を元にしたもので『現地報告』(文藝春秋社)昭和15年7月号に載せられたものの再録。
 昭和16年5月10日、三省堂刊、B6判、465ページ。
 上田廣、倉島竹二郎、山本和夫、柴田賢次郎ら後に陸軍報道班員として引き出される作家のアンソロジー。
 里村の「輜重隊挿話」(P307-344)は、『第二の人生』と同じく、輜重隊の戦陣風景を描いたもので、里村はここでも「おっさん」と呼ばれている。
 上の写真は神戸市立中央図書館に蔵するもので背の部分が補修されている。
 昭和16年11月5日、三省堂刊、B6判、250ページ。
 左の『我らは如何に闘ったか』と同じアンソロジーで、「加納部隊長其の他」日比野士朗「水路行」、火野葦平、「胡弓」加藤愛夫、「悲報前後」棟田博、「悲しき犠牲」佐藤観次郎、「英魂記」里村欣三(P151-179 )
、「二人の少尉」杉坂弘、「写真」上田廣、「 戦友への思慕」山本和夫を収める。
 杉坂弘は『少年戦車兵』の共著者(表紙では船坂弘と誤植されている)。
写真左は上巻、右は下巻
  『青人草』は軍事保護院から発行された上(昭和16年11月3日)中(同11月15日)下(同11月15日)の3巻本で北海道から沖縄まで、各地の傷痍軍 人、遺家族を訪ねる。日比野志朗、上田廣、山本和夫、柴田賢次郎、火野葦兵等が書いている。里村は中巻(一番上の写真)で静岡県、長野県を訪ね、計5本の 訪問記を書いている。訪問時期は昭和16年の初夏と思われる。
 『出征将兵作品集戦線点描』は昭和17年4月1日、日本電報通信社刊、B5判、292ページ。
 はしがきに「本書は文化奉公会々員の戦場に於て描いた繪と文を主として収めることとし、」とある。文化奉公会は昭和15年に前田利為中将を会長に、戦地 からの帰還作家、画家、音楽家、雑誌、演劇、映画関係の人々をあつめて結成された翼賛団体。この本には100人前後の人が作品を寄せ、戦地や中国のスケッ チも多い。里村は『第二の人生』から抽出した「黄河占領」等を2ページ分掲載。
 里村は後、昭和17年、前田中将の便宜により、ボルネオに渡り、『河の民』を書くことになる。
 『大東亜戦争陸軍報道班員手記 マレー電撃戦』は昭和17年6月15日、文化奉公会編、講談社刊、B6判、316ページ。
 戦勝の余韻がまだ残っているときに刊行されたもので、里村は「架橋部隊」「魂の進撃」「醜の御楯」「歴史的会見を観たり」ほか計6本を掲載。
 歴史的会見とは、山下奉文将軍がシンガポールに進軍し、英軍司令官パーシバルに例の「イエスか、ノーか」と迫った降伏会見を指す。第一線に従軍した里村等「六人の報道班員」に褒賞として特別に許可されたもの。
このほか、井伏鱒二や堺誠一郎、中村地平、寺崎浩らが書いている。
 『作家部隊随筆集 マライの土』昭和18年3月5日、新紀元社刊、B6判、302ページ。
 扉に井伏鱒二、海音寺潮五郎現地編輯とあり、井伏鱒二の「昭南日記」を冒頭に置き、珍しく海音寺潮五郎も「コーランポーの記」を書いている(海音寺は他に従軍記を書いていないのではないか)。
 マレー戦が終息し、シンガポールに腰を落ちけた、比較的安定したときに編まれたもで、シンガポールの占領地風景を描いたものが多い。
 里村は「歴史的会見を観たり」を再録している。堺誠一郎の「友への便り」は堺らしい落ち着いた自省もみられ、好ましい作品となっている。
  日本文学報国会の編集になる『辻小説集』はB6判、227ページ、昭和18年8月18日、八紘社杉山書店刊。「緒言」に「大政翼賛會の唱導の下に」「「建 艦献金」の国民運動」の一環として「日本文学報国会の小説部会の発案により」「原稿紙一枚を以て」作られた作品で、「全部で二百七篇」とある。
 伊藤整、稲垣足穂、宇野千代、圓地文子、大庭さち子、太田洋子、織田作之助、坂口安吾、谷崎潤一郎、立野信之、田中英光、太宰治、壷井栄らこんな人が、 と思う作家が寄稿している。生きにくかった時代である。プロレタリア作家だった葉山嘉樹、鶴田知也、伊藤永之介、中井正晃らもいる。里村は小話風の「たち ばなし」を書いた。もっとも中身はいろいろで、翼賛を装って実は反戦の気分を秘めている作品もある。
 『マライ戦話集』はB6判、382ページ、昭和18年3月30日、朝日新聞社刊。
 目次に作者名はないが、それぞれの従軍記のあとに、作者名が付されている。
 里村は、「国境突破」「アロルスター橋」「スリム殲滅戦」「西海岸部隊追撃記」「戦車突撃す」を載せ、計95ページ、全体の1/4を書いている。
 里村、長屋操、松本直治、堺誠一郎ら戦場の第一線を従軍した作家のの文が中心で、同じマレーに従軍しても後方だった井伏鱒二らの文はない。それだけに戦意発揚をねらったものになっている。
 『大東亜戦争陸軍報道班員手記 従軍随想』昭和18年6月28日、文化奉公会編、講談社刊、B6判、277ページ。
 里村は「カメロン高原の百姓少尉」(P152ー158)を書いている。尾崎士郎、三木清、小田嶽夫、堺誠一郎ら、フィリピンやマレー、ジャワ(インドネ シア)等に派遣された陸軍報道班員の翼賛従軍記が中心である。文化奉公会編の「報道班員手記」は全五輯で、番外編としてこの『従軍随想』がある。
 古書価は3千円前後。
左は『新生南方記』の扉、
中・右はキース夫人の著書
 『増産必勝魂』日本文学報国会編、昭和18年9月1日、文松堂書店刊、B6判、316ページ。国立国会図書館蔵。
 もとは昭和18年1月末から『讀賣報知』と日本文学報国会、大日本産業報国会の主催で行われた「生産戦場躍進運動」の一環で、里村の「磐城炭礦」 (P19-26)は昭和18年2月18日の『讀賣報知』第3面に掲載されたもの。『讀賣報知』の派遣予定作家には井伏鱒二の名があるが、実際は派遣され ず、本書への収載はない。
 巻末附録としてP269-316まで「増産の核心を衝く座談会」が掲載され、里村も参加している。
 『少年戦車兵』は陸軍少年兵叢書全7冊の一つで、文化奉公会編、陸軍省報道部監修、昭和19年5月31日、東亜書院刊。B6判、本文172ページ+生徒志願者心得25P、刊行の辞2P、著者は里村と杉坂弘。なぜか表紙と扉には松坂弘と誤植されている。
 里村はこのうち「第二部 陸軍少年戦車兵実戦記」(P90-172)を担当、マレー戦線での戦車部隊の戦闘を書いた。
 巻末の「生徒志願者心得」は全く少年戦車兵の募集要項そのものであり、若年者を戦場に駆り立てる手引きになっている。行きがかりとはいえ、一般の翼賛記事以上に、著者の責任が問われざるを得ない内容である。
 上左『新生南方記』の扉。昭和19年3月10日、日本文学報国会編、北光書房、345ページ、B6変形判。
 「シンガポールの避難民」(P197−202)とともに、ここに掲載された里村の「サンダカンと「風下の国」の作者」(P314-318)は相当に意味 深長である。表面は『風下の国』の著者アグネス・キース夫人を批判しているが、「私は先ずまつ先に─(中略)籐のやうにひよろひよろした背の高い後姿を見 かけた事を正直に白状して置く。」「[昭和17年]十一月の始め頃であつた。私はこの[北ボルネオの]旅行に出る前に、サラワク州のクチンでキース女史の 「風下の国」を讀んでゐた」「私は、その筋の人から、その筋の許しを得て、キース夫人が愛児の育児をテーマに大長編を執筆してゐると聞いてゐた。」と書 き、「キース夫人に召使はれてゐた阿金」が「日本の酒保へ雇わはれて」いるときいて、阿金を訪ね、「キース夫人の事を、どう思つてゐるか」と聞いたりす る。どこかにあこがれが垣間見えるのである。
 このことを踏まえ、アグネス・キース夫人の『ボルネオ 風下の国』(昭和15年10月20日、三省堂)、捕虜生活を描いた『三人は帰った』(昭和24年12月20日、岡倉書房=里村は戦死しており知る由もない が)を読み返すと、その行間に別の感慨が立ち上がってくる。
 戦後はじめての共著になるのがこの『現代文学代表作全集第2巻』(萬里閣、昭和23年8月15日刊、B6判、342ページ)。「苦力頭の表情」が収められ、黒島傳治「渦巻ける烏の群」や小林多喜二「一九二八年三月十五日」他とのアンソロジー。上の写真はカバー。
 里村欣三の解説は平林たい子で、「久し振りに舊友里村欣三の「苦力頭の表情」をよみかへして不覚の涙が頬を傳ふのを覚えた。奪ひかへすこともやり直すこともできない二十年の歳月よ。その波瀾多い年月の間に作家の里村は生まれて死んだ。」、と書いた。
 この『現代日本小説大系40』は昭和26年9月15日刊、河出書房、B6判、326ページで、左の『現代文学代表作全集第2巻』(萬里閣)に次いで初期のもの。
 解説は青野季吉で、「大阪の市電争議のテロ行為で投獄され、破獄して満州を放浪した」「里村を知って、天才といふものの噴出的な力を信じるようにな」った、と書いている。
 戦後に刊行されたいくつかの文学全集には「苦力頭の表情」が載せられているが、この筑摩書房の『日本短篇文学全集28』(臼井吉見編集、昭和45年6月20日刊)は、「怪我の功名」「黒眼鏡の閣下」「回教部落にて」の3作品を収載している。
 作品はいずれも里村の中国戦線従軍体験に基づくもので、ファナティックでない、味わいのあるもの。
 上の写真はカバーで、版型は変型で、新書版を一回り大きくした横115、縦182mm。263ページ。「鑑賞」は山室静が書いている。
 この『「文芸戦線」作家集1』は新日本出版社の日本プロレタリア文学集第10巻で、里村のほか、伊藤永之介、岩藤雪夫、小堀甚二が収められている。
 里村の作品は「苦力頭の表情」「娘の時代」「シベリヤに近く」「放浪の宿」「旅順」「「帰ってくれ」」で、解説は津田孝。
 「苦力頭の表情」を徴兵忌避と「放浪の自由」の視点で解説している。
 1985年11月25日刊、四六判、402ページ。上の写真は外箱。

  

1