『暁鐘』をめぐって 日本交通労働組合(東京市電)後退期の確執

はじめに

 本考察の原資料である8ページのリーフレット『暁鐘』(大正10年2月25日発行)が、石巻文化センター(宮城県)の布施辰治先生関係資料中にあり、この『暁鐘』の発行編輯兼印刷人が里村欣三の本名である前川二享となっていることをご教示いただいた小正路淑泰先生、また『暁鐘』をはじめ東京交通労働組合(東京市電)関係の資料複写をお許しいただいた石巻文化センターさま、親切に心のこもった対応をしていただいた学芸員さまにお礼申し上げます。

 弁護士布施辰治先生の生地、石巻市の石巻文化センターに保存されている東京交通労働組合(東京市電)関係の資料は、「布施辰治関係資料収蔵品目録 II」東京市電争議関係”として整理され、資料No.837〜860に分類されている。資料の時期は大正7年〜11年に亘るが、大正7年、8年のものは電車事故に関する弁護依頼で、大正9年2月、4月の「東京市電大争議」関係のものではない。資料の大半は、この大正9年2月、4月の「東京市電大争議」による検挙投獄者84名の弁護関連資料とその通信応接関係のものである。
 大正9年の「東京市電大争議」関係の資料がなぜ布施辰治のもとにあるのか。
 それは東京交通労働組合(東京市電)理事長の中西伊之助と面識のあった布施辰治先生が、市電争議起訴者の弁護を一括して引き受けたためである。(後述の「布施辰治先生の決意」で取り上げるガリ版刷りの資料No.
840「書簡(布施辰治より市電従業員宛)」にそのいきさつが記されている。)

 以下の本考察で参照した石巻文化センター所蔵の布施辰治先生関係資料は次の通りである。

  
No.838 電車従業員より市民諸君へ      1920(大正9)年3月
  
No.839 書簡(片岡重助より布施辰治宛)   1921(大正10)年3月14日
  
No.840 書簡(布施辰治より市電従業員宛)  1920(大正9)年5月18日
  
No.841 中西伊之助刑事訴訟記録       1920(大正9)年
  
No.844 交通労働第2年第7号4月号      1921(大正10)年4月1日
  
No.845 暁鐘                1921(大正10)年2月25日
  No.846 交通労働者団結之革命 
       1921(大正10)年3月
  
No.847 決議 (日本交通労働組合東京市電気局従業員部からの決議文) 1920(大正9)年4月17日
  
No.849 宣言 (日本交通労働組合東京市電気局従業員部より)     1920(大正9)年4月17日
  
No.854 (仮)電車罷業事件弁護のための調査回答類          1921(大正10)年
  
No.855 書簡一括              1920(大正9)年
  
No.859 東京市電争議に関する資料6点     1919(大正8)年〜1921(大正10)年
  
No.860 東京市電争議に関する資料4点

 
布施辰治先生関係資料中の日本交通労働組合関連資料は、年代順に整理された資料ではなく、また同一ナンバーの資料中にも、時期や性質の違うものが一緒にファイリングされている。従って、以下、資料の概要をご紹介する場合も、あちこちに移動せざるを得ないのでご了解ください。

 さて、これらの資料のうち、里村欣三(本名前川二享)との関連で言えば、資料No.845『暁鐘』、同No.846「交通労働者団結之革命」の二つの資料に「前川二享」の名前が出ており、里村欣三の足跡をさぐる上で重要な資料である。

 次に資料No.
841「中西伊之助刑事訴訟記録」である。これは大正9年4月の「東京市電大争議」に先立ち、大正9年2月25〜28日にかけて突発的にストライキが発生、中西伊之助は治安警察法違反容疑で検挙された。この時の検事調書が「中西伊之助刑事訴訟記録」であり、理事長として日本交通労働組合(東京市電)を指導した中西伊之助の思想、考えを知る上で重要な資料である。また、資料No.855「書簡一括」中に、大正9年4月25日〜同29日のストライキで再拘束された中西伊之助の獄中書簡(大正9年7月28日、同8月17日付)二葉が含まれており、貴重なものなので、後で写真版で紹介する。

 資料
No.860「東京市電争議に関する資料4点」の一部分である「市電問題入獄者名簿」(大正9年5月)は、大正9年4月のストライキで入獄した84名の市電労働者の氏名リストであり、これも後ほど紹介する。この84名は起訴者そのものではない。この「市電問題入獄者名簿」中に、前川二享(里村欣三)の名前がないことから、里村欣三は、この大正9年4月のストライキでは入獄していないことが分かる。
 検挙投獄された者は84名であるが、他の資料では83名となっている。

 資料
No.840「書簡(布施辰治より市電従業員宛)」はこの入獄者の弁護を引き受けた布施辰治先生の決意表明であり、入獄者への励ましであるが、その志の高さにおいて、まれに見る名文である。これも後で紹介する。

 
資料No.854「電車罷業事件弁護のための調査回答類」(大正10年)は、検挙入獄者の一部29名分の、弁護のための身上調査書で、当時の組合本部庶務部長佐々木専治氏や本所支部支部長島上勝次郎氏ら著名な活動家のものもある。
 資料No.
859「東京市電争議に関する資料6点」は大正8年10月の電車事故に対する当局との係争についての、佐々木専治氏から弁護士布施辰治への書簡を主とした資料である。この時点で日本交通労働組合(東京市電)と布施弁護士との関係がすでに発生していることを示す資料であるが、以下の「考察」とは直接関係はないのでここでは取り上げない。(なお、以下の「考察」中の[ ]内は引用者の補足です。)

東京市電争議の概略 団結権、ストライキ権と治安警察法

 以下の「考察」を分かりやすくするため、日本交通労働組合(東京市電)の設立(大正8年9月3日)から大正9年4月のストライキにいたる経緯の概略をまず振り返っておく。資料の出典はいちいち記さないが、主に『東京交通労働組合史』(東交史編纂委員会編、昭和33年2月)、『都市交通20年史』(日本都市交通労働組合連合会、昭和42年6月1日)等を参照した。

 中西伊之助は大正5年(1916)ごろから、売文社に出入りし、堺利彦、高畠素之ら社会主義者との親交があった。
 当時、「時事新報」記者をしていた中西伊之助は、交通労働者の組織化を考えて、東京市電従業員への接近を試み、ある程度の同志を得たので、大正8年9月3日、東京市外中渋谷の日本メソヂスト教会講習所で創立総会を開き、日本交通労働組合を結成した。出席者は35名で佐々木専治や島上勝次郎、武井栄、箕沢友三郎、尾崎乙吉ら、のち本部役員や支部長となる人々がおり、中西伊之助を理事長に選出した。
 大正8年から同9年2月にかけて、三ノ輪、三田、青山、巣鴨等各支部を次々と結成した。玉川、王子支部は市電従業員ではなく、私鉄従業員であった。中西伊之助の社会主義的意識と、都市交通に働く交通労働者の大量な登場を背景に、大正8年という時代において、すでに産業別組合をめざしていたのは相当大胆な発想であった。
 大正8年は10月の大阪市電争議をはじめ、各地で交通労働者の闘いが勃発した。
 大正8年11月8日、日本交通労働組合は、人格の尊重、8時間労働制、賃金、手当、退職金等の5ケ条の要求を掲げたが、当局は10名の組合幹部を解雇した。11月21日、21ケ条の改善要求を提出、12月13日、岡警視総監の調停があり、闘争をいったん打ち切った。この闘争を通じて、中西伊之助理事長を中心に結束が強まり、組織も拡大した。
 大正9年に入り、普選運動が高まる一方、市電当局は懸案事項の改善を図る気配を見せなかった。2月23日から当局と交渉に入ったが、当局は組合交渉委員の代表資格を認めず、24日巣鴨車庫でサボタージュが突発、28日には70%の電車が止まった。この時の事情を市民に訴えたビラが下に写真版で示す資料No.
838「電車従業員より市民諸君へ」の宣伝ビラである。

 市電当局は弾圧を開始し、憲兵隊も従業員中に在郷軍人がいることを理由に各車庫に張り込みをはじめた。
 大正9年2月27日、中西理事長は、大塚支部で行なった2月13日の演説が治安警察法第17条に触れたとして、収監された。同日、当局は車掌359名、運転手216名の解雇を発表、一部待遇改善を認めた「平井・益田優遇案」を出して来た。組合は、2月29日、解雇者の復職が認められたのでひとまずストライキを打ち切った。
 大正9年4月1日、中西理事長は未決収監1ヶ月で出獄した。中西を迎えて意気のあがる組合(組合員数6.030人)に対し、当局は組合役員の配置転換を行ない、「平井・益田優遇案」を私案であるとして反古にしようとした。
 大正9年4月17日、組合は神田明治会館において弾劾大会を開いた。この時の「宣言」(資料No.
849)が左の写真版である
 ここには8時間労働制と賃金制度の改善を求めて闘ってきたが、市電当局はかえって「此の運動を利用して電車賃値上の口実と為」したとし、市民に対しても「吾等の生活改善は吾等の絶対権威なり、若し市民にして単に自己利便の為めに吾等の生活改善を否定せんか、吾等は亦市民とも戦はざるを得ず」と書いている。これは2月末のストライキで、在郷軍人会を中心にしたスト破りの動きが相当あったためであろう。
 大正9年4月25日早朝、大塚出張所からストライキが始まり、各支部に漸次波及、東京全市の交通網は完全に麻痺した。組合員千数百名は持久戦を覚悟して雑司ヶ谷の玉椿相撲道場に籠城、夜、中西伊之助理事長が巣鴨署に検挙された。深夜、警察隊と組合員の大乱闘が発生、検束者30名。29日、当局は254名の懲戒解雇を発令。残留組合幹部は、馘首者救済をとなえ、強硬派の反対を押さえてストライキの中止を決定、30日から運転は平常に復した。5日間にわたった全線ストは、馘首者328名、入獄者83名(または84名)、起訴34名の犠牲を出し、組合は事実上壊滅を余儀なくされた。
 直後の大正9年5月2日、上野公園で行なわれた我が国最初のメーデーに参加、同年9月の
日本社会主義同盟の創立発起人会に前川二享(里村欣三)が日本交通労働組合を代表して参加したが、壊滅状態となって以来、事実上「大正十三年春までの日本労働運動にとって、もっとも波乱のおおい四年間を、なんらの自主的組織も持たず、当局の懐柔と弾圧にあやつられ、やむを得ず組合運動の埒外におかれ」(『東京交通労働組合史』)た。

 以上が、大正9年4月前後を主とした日本交通労働組合の概略史である。
 この間の闘いの具体的な動きは、中西伊之助が、自著『冬の赤い実』(昭和11年3月20日、實践社)で、「桜花爛漫下の大ストライキ」「市電大争議を語る」として回想している。


 次に、治安警察法と、団結権、ストライキ権の歴史をみることにする。まず『労働法』(木下正義、小川賢一著、平成4年7月10日、成文堂)から引用します。

 「日清・日露戦争後の経済恐慌の試練に直面し、資本主義経済体制の基礎がかたまり、明治30年に金本位制が採用され、海運、紡績業を中心に産業が拡大発展した。(中略)労働組合の組織化が一般化するようになり、劣悪な労働条件をめぐり労働争議が増加するにいたった。」
 「政府は明治33年治安警察法を立法化し、労働争議は全面的にほとんど違法とされることとな」ったが、「労働争議が多発し足尾、別士銅山の労働争議のように暴動化の現象が起きた。」
 明治44年3月、工場法が制定公布され、大正5年から施行された。
 「大正3年第一次世界大戦が勃発し、」「わが国の経済は重・化学工業および電気事業が飛躍的に発達し、賃金労働者も急激に増大したが実質賃金の低下により、労働争議も増加し労働組合の組織化が急速に進」んだ。
 「大正9年に経済恐慌が始まり、(中略)失業者の増加により労働争議が激化」。
 「大正14年に治安警察法が改正され、これに代って、暴力行為等処罰に関する法律、および労働争議調停法の制定によ労働運動が抑圧され同盟罷業がくりかえされた。」
 「昭和6年に満州事変が勃発し、(中略)労働組合法案や労働協約法案がかえりみ」られなくなり、戦時下、「国防国家体制の確率、挙国一致体制の確率のため、(中略)労働組合は産業報国会に融合され組合運動は消滅するにいたった。」
 「治安警察法の制定目的」は「とりわけ
17条、30条の規定に表徴されているように、ストライキの形成過程の一連の行為が誘惑・煽動に該当するものとして、組合幹部、争議指導者を一網打尽に検挙、処罰し、ストライキあるいは組合自体に破滅的打撃を与えることを可能ならしめた。」(以上『労働法』からの引用)

 終戦後、財閥解体、軍国主義除去、組合運動を解放する占領軍の指針を受け、昭和20年12月、「旧労組法」の改正が行なわれ、団結権保証が規範化された。
 今日の「労働三法」は、「労組法は昭和二四年六月一日に制定され、労調法は昭和二一年九月二七日に制定され、労基法は昭和二二年四月七日に制定された」。(『労働法の基礎』小西國友、1993年8月20日、日本評論社)

 以上、簡単に見てきたように、労働者の団結権、ストライキ権は、昭和20年の敗戦に至るまでは法的には認められていなかったのである。

 労働組合を壊滅させることを目的にした「治安警察法」の17条、30条の規定を簡単に見ることにする。(出典は主にインターネット上の記事)。

 治安警察法の主たる内容は、「政治集会の開催、政治結社の結成の場合の届出義務を課した上で、当局は「安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル」場合は、自由にこれら集会や結社を禁止・解散させる権限規定を設けたことにあった(1〜4条及び8条)」。
 治安警察法は1926(大正15)年4月9日改正公布(7月1日施行)され、17条、30条の規定が削除された。これは大正15年4月10日公布の「暴力行為等処罰ニ関スル法律(暴力行為法)」に引き継がれたもので、前年1925(大正14)年4月22日に交付された「治安維持法」と相まって政治結社、労働争議、農民争議に対する弾圧体制が強化されたためである。

 大正15年4月
削除前の治安警察法17条

 左ノ各号ノ目的ヲ以テ他人ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀シ又ハ第2号ノ目的ヲ以テ他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコトヲ得ス
 1 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ協同ノ行動ヲ為スヘキ団結ニ加入セシメ又ハ其ノ加入ヲ妨クルコト
 2 同盟解雇若ハ同盟罷業ヲ遂行スルカ為使用者ヲシテ労務者ヲ解雇セシメ若ハ労務ニ従事スルノ申込ヲ拒絶セシメ又ハ労務者ヲシテ労務ヲ停廃セシメ若ハ労務者トシテ雇傭スルノ申込ヲ拒絶セシムルコト
 3 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ相手方ノ承諾ヲ強ユルコト耕作ノ目的ニ出ツル土地賃貸借ノ条件ニ関シ承諾ヲ強ユルカ為相手方ニ対シ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀スルコトヲ得ス

 大正15年4月
削除前の治安警察法30条

 第17条ニ違背シタル者ハ1月以上6月以下ノ重禁錮ニ処シ3円以上30円以下ノ罰金ヲ附加ス使用者ノ同盟解雇又ハ労務者ノ同盟罷業ニ加盟セサル者ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀スル者亦同シ

 大正9年2月、4月、理事長中西伊之助を始め、入獄者83名(または84名)、起訴者34名を出した
日本交通労働組合(東京市電)のストライキは、この削除前の治安警察法17条違反として処罰されたものであり、治安警察法の狙い通りに、この検挙と市電当局による解雇により日本交通労働組合は壊滅させらたのである。
 里村欣三(前川二享)は『第二の人生 第二部』( 昭和15年10月28日、筑摩書房)で、「東京に出ると、自活のため市電の車掌になった。大正八年、兵六が十八歳[数え年]の時だった。彼が市電の車掌を選んだのも、ロシア文学の影響からナロードニキ運動に興味を持ってゐたことも原因してゐた。」と書いている。
 この『第二の人生 第二部』の記述通りに、里村欣三は、大正9年2月、4月の東京市電ストライキを闘い、のち日本交通労働組合(東京市電)を代表して日本社会主義同盟の発起人の一人となり、疾風怒濤の時代を突き抜けていった。その日本社会主義同盟も大正9年12月10日神田青年会館で創立大会を開いた翌年、大正10年5月、第二回大会の後、この治安警察法によってその結社を禁止されたのである。

84人の検挙投獄者と当時の組合役員

 下に掲げた写真は、『東京交通労働組合史』(上述、P35-37)に掲載されている大正9年4月当時の日本交通労働組合の役員である。これらの幹部を中心にストライキが実行されたのである。前川二享(里村欣三)の名前はない。

 次に、布施辰治先生関係資料No.860「東京市電争議に関する資料4点」の一部である「市電問題入獄者名簿」を掲載する。これは大正9年4月25日を中心とする東京市電ストの検挙投獄者のリストであって、起訴者のリストではない。人数は84名で、『東京交通労働組合史』や後で見る『暁鐘』の83名という記述と異なる。これは「市電問題入獄者名簿」が中西伊之助を含めているのに対し、他の資料は、検挙日が異なり、二度の検挙となった中西伊之助を別扱いし、除外したためかも知れない。起訴者は『東京交通労働組合史』(P57)によると34名である。
 中西伊之助の『冬の赤い実』(前述、P180)では、「下獄者98名、解雇された失業者約300名」としている。
 この
「市電問題入獄者名簿」に前川二享(里村欣三)の名前がないことから、前川二享(里村欣三)は検挙されなかったことがわかる
 
上の組合役員表と以下に掲載する検挙投獄者リストを比較すると、組合のどの層が検挙されたか見えてくる。容疑は中西伊之助と同様に、治安警察法17条違反である。検挙者は、組合活動の意義を認め積極的に活動した者、あるいは立場上、やむを得ず組合役員を引き受けただけの者、等さまざまであったろうが、おしなべて闘いの先駆者であり、団結権、ストライキ権を否定する治安警察法の時代的犠牲者であったと言える。

 この「市電問題入獄者名簿」中の肩書きに「理事」とある人は、中西伊之助の肩書きが「理事長」であるように、今日風にいえば「中央執行委員」なのであろう。
 この
「市電問題入獄者名簿」と上記の日本交通労働組合の「役員名簿」には、肩書きに一部異同がある。
 そのうち、「組合役員名簿」中の広尾支部幹事長「片岡重吉」は誤りで、資料No.846「交通労働者団結之革命」中に、前川二享(里村欣三)と並んで「片岡重助」の名があることから、資料を保存
している石巻文化センターでは、資料No.839の書簡を「片岡重助より布施辰治宛」と認定しており、片岡重助」が正しいと思われる。しかし、『日本社会運動人名辞典』(1979年3月1日、青木書店)では「片岡重介」と記し、「1818、19年ごろ上京、東京市電気局に市電車掌として入り、’20年の市電ストライキに参加、4月警官隊との衝突で検挙され、懲役6ヵ月を科された」(P159)と書いている。(この「片岡重助」の書簡については、本考察の最後で取り上げる。)
 有楽橋支部幹事「笠間満吉」は、資料No.
855「書簡一括」中の、東京交通労働組合から布施弁護士宛のはがきで「風間万三」と訂正されている。

 次に、身上に渉る資料であるため写真版は掲示しないが、資料No.854「(仮)電車罷業事件弁護のための調査回答類」がある。これは検挙投獄された者の一部、あるいは起訴者34名の大部分なのかも知れないが、弁護のための身上調査書で29名分ある。
 それによると、のち解雇復職後、組合再建(大正13年5月、東京市電従業員自治会)の中心になる佐々木専治(組合本部庶務部長)は、この大正9年4月のストライキ検挙時点で35歳、勤続年数12年5ヶ月の車掌。宮井昌吉は31歳、勤続6年7ヶ月の運転手、本所支部長の島上勝次郎は41歳、勤続13年2ヶ月の乗務(車掌)及び監督代理である。ストライキを推進した本部理事匂坂義太郎(有楽橋副支部長)は26歳、勤続2年の車掌である。
 検挙投獄された者は、下は21歳から上は47歳、そのほとんどが20歳台後半から30歳台で、勤続年数も10年前後の運転手、車掌。このことから
大正8年末から大正9年4月にかけての一連の闘いは、東京市電労働者の中核部分が決起した闘いであったことが分かる

布施辰治先生の決意

 布施辰治先生は、1880(明治13)年11月13日宮城県蛇田村(現・宮城県石巻市)生まれ、明治44年12月末の東京市電最初のストライキ(もちろんこの時点で組合はなかったのであるが)による犠牲者の弁護を引き受けている。
 弁護士布施辰治の社会的活動については私自身は十分に承知していないので、他の文献、インターネット上の情報等を参照していただくとして、大正10年神戸三菱・川崎両造船所の労働争議、大正12年の関東大震災時に平沢計七らが虐殺された亀戸事件、朴烈・金子文子の大逆事件の弁護もしており、石巻文化センター所蔵の布施先生関係資料の中には、これ等に関する根本資料があるのかも知れない。

 ここでは、資料No.
840「書簡(布施辰治より市電従業員宛)」を紹介する。資料は3枚に亘っているが、はじめの1枚目を左に掲げる。このガリ版で印刷された書簡は、大正9年4月の東京市電ストによる検挙者の弁護を引き受けた布施先生の決意表明である。日付は大正9年5月18日。


 資料はかすれ、裏写りしており、また私の浅学のため一部判読できない文字(■で示す)があるが、以下に読み下してみる。

 時下新緑 心身共に躍動の季なるに付けても卿等今日の不自由なる御起居甚だ御仝情に堪へませぬ。特に卿等這回の電車罷業事件に付いては前から中西君の弁護を担当して居た干係上、詳細の事情も聞いて居るし亦私としましても多少の調査研究を試みて居るのであるから何故這回の如うな大検挙を断行せられたのかを知って居る丈け、卿等弱き者─従業員の立場を気の毒に思ひます。
 一言にして悉くす本件の■■は財閥金権の弱い者苛めであるかも知れない。亦一言にして悉くす本件の検挙は官憲専恣の人権蹂躙であるかも知れないと考へらるゝ位仝情して居ります。
 私は前に中西君からの深き信頼を以て仝君の弁護を引受けて居たのであるが、這回は組合本部からの依頼で引続き卿等の弁護を引受ける事にしましたから其の積りで居って下さい。
 私は去る一五日附を以て社会運動の闘卒たらん事を任する社会運動の第一着手として先ず自己革命を断行せる旨の通知を発して置きましたが、是れからは当然の生活権を主張して社会制度の缺陥に落し込まれたり、金力権力の柱梏に絡み込まれたのであると思はるる卿等這回の事件の如うな社会的意義を含む事件の弁護のみに全力を尽くして──社会制度の缺陥を其の侭にし金力権力の強きに任せた柱梏を其の侭にして置いたのでは果てしの無い個人救済の一般事件を弁護する個々の救済よりも──社会救済の為に貢献したいと云ふ事に決心したのであるから、私は相当なる覚悟と決心とを以て卿等の弁護を引受けて居るのである事をも御含み置き下さい。
 私は卿等の為に出来る丈け尽力します。豫審の進行の一日も早いやうに保釈責付の一日も早く出来る如うに係判検事に交渉します。甚だ微力なる私であるけれども出来る丈け尽力します。卿等の今現に嘗めつつある苦汁を分けて嚥む丈けの覚悟を以て尽力します。
 本来を言へば、協働共闘社会連帯であるべき筈の事件を個々別々の責任に分けて其の帰着点を誤魔化して居るにも等しき不徹底至極の司法裁判から観た這回の事件は所謂卿等の事件であるけれども──私は左様思って居りません。当さに社会協働の或る仕事が卿等の手に俟った丈けのものだと信じて居ります。つまりは社会協働の仕事を卿等が他の者に代りて行ふたのが這回の事件であると仝時に、社会連帯の責任を卿等が他の者に代りて問はれんとするのが這回の事件であります。其処に私共は卿等這回の事件に関する私の仝情と社会連帯の責任を感じます。平たく言へば、卿等は私共一般民衆の悩みである財閥金権の横暴に抗して起った選民であり、そして更らに官憲専恣の下に踏み躙られて居る犠牲者であるかも知れません。
 斯の如うに卿等の事件を見、亦斯の如うに卿等の事件解して居る私は、決して卿等を見殺しには致しませぬ、私の力に許された弁護の上に尽力して
裁判上に救ひ得るものは之を裁判上に救ひ、萬々一にも今日の裁判上どうしても救ひ出す事の出来ないものは其の犠牲の大を輿論に訴へて社会的に救ひ出したいと念じて居ります。就ては其の参考とも材料ともなりそうな事は何でも遠慮なく言ふて寄越して下さい、由来裁判に遠慮は禁物です、言ひ度い事は何んでも言ひなさい「有る事は有る」「無い事は無い」「自ら正しいと信する事は誰れが何んと云はうが正しい」「正しからさる事は誰れが何と云はれなくとも夫れは正しくない」とする勇敢な犠牲者の心事態度を以て何んでも言ひなさい、亦云ふて寄越しなさい。
 別紙は卿等が萬一有罪として公判に移された時に裁判所へ提出すべき弁護届であるから可然記名拇印の上直ちに私の処へ送り返しを願います。
 時節柄犠牲者の心に勇む御身体の御自愛を祈ります。
    大正九年五月十八日
                布施辰治

 この資料を読んで、その志という点で、私はすぐに、中西伊之助が関東大震災での朝鮮人虐殺に抗議して『婦人公論』(大正12年11月12月合併号)に発表した「朝鮮人のために辯ず」を思い出した。その志、格調の高さにおいて共に卓越した名文であるが、はからずもこういう関係をもって二人は結びついていたのである。

中西伊之助刑事訴訟記録 大正9年2月27日

  大正8年9月3日、日本交通労働組合を結成し理事長に推された中西伊之助は、同年11月10日、人格の尊重、8時間労働制、賃金・手当の改善等五ケ条の要求を掲げて市電当局との交渉に入ったが、改善の口約束のまま年を越した。1月が過ぎ、2月になっても当局は懸案事項の実施に努力する気配がなかった。2月23日、各支部から選出された交渉委員30名が当局(平井総務・益田電車両課長)に要求の早期実施を求めたが、当局は交渉委員の代表資格さえ否定した。
 この「交渉顛末が報ぜられるや、役員一同激昂し、ただちにこれを全支部員に伝えたため、ついに翌二十四日夕刻より怠業に突入し、これが導火線となり同日以降五日間にわたる全線罷業が決行されるにいたった。」
 この過程で
中西理事長は、大塚支部で行なった2月13日の演説が治安警察法第17条に触れたとして、大正9年2月27日収監された。当局は同日、車掌359名、運転手216名の解雇を発表、翌2月28日、一部待遇改善を認めた「平井・益田優遇案」を出して来た。組合は、2月29日、解雇者の復職が認められたのでひとまずストライキを打ち切った。(『東京交通労働組合史』の要約・抜粋)
 これが2月のストライキであり、さらにこの「平井・益田優遇案」さえ、私案である、と放言する当局に対する「疑念と憤激」の爆発が、4月25日〜29日のストライキなのである。
 資料No.
841「中西伊之助刑事訴訟記録」は、収監された当日の大正9年2月27日付「聴取書」と「公判請求書」から成り、聴取者は検事久保田金四郎。はじめの数ページを下に写真版で示す。

 この「聴取書」は公判記録ではなく、検事調書であるが、中西伊之助の思想、考え方がよく示されている。貴重な資料なので、以下に読み下してみる。原文は固有名の「やまと新聞」を除いてすべて漢字・カタカナで書かれているが、可読性のため、漢字・平かなで転記することにします。原文は相当のクセ字で書かれており、私には一部判読できないところがあるのでご了解ください。(不明文字は■で示す。[ ]は推測又は補足、一部清音は濁音に直しました。)

 東京地方裁判所第一刑事部
 治安警察法違犯
  
中西伊之助刑事訴訟記録
      布施法律事務所

 
聴取書
        本籍 京都府宇治郡宇治村四十五番地
        平民
        住所 東京市麻布区笄町六十五番地
               中西伊之助
                  三十四才

 右者 大正九年二月廿七日 本職に対し左の通任意陳述を為したり

一、 私は明治四十五年中朝鮮平壌日々新聞で総督府と藤田組との問題を書いて平壌覆審法院で信用毀損罪で懲役三月に処せられ当時平壌監獄で服役致しました

一、 私は郷里で小学校を卒業后十九才頃まで大阪砲兵工廠の職2号を致し居り十九才の時学問の目的で東京に来り大成中学に一年正■国民英学會等に其后三年程最后中央大学法律科に一年程在学致したのでありまして其間学資を得る目的で新聞の配達夫、人力車夫の労働を致しておりました
 此間朝鮮で新聞記者を致し又中央大学を退学してやまと新聞記者を致しておりましたが最近は今より二年前即ち大正七年二月東京時事新聞記者になり月給他十円を貰って警視庁の丸の内倶楽部詰として仕事を致しておりました
 此間私は親しく労働に従事致した干係上労働問題に興味を覚へ又研究を致す事になりまして昨年六月頃から労働運動の実際問題に干係する様になりました

一、当時私は東京市電気局電車従業員に五六名の知人がありました 此等のものに其の従業者の労働状態を聞きましたので是れを改善する為めには是非労働組合の設立が必要であることを感じましたので私が日本交通労働組合を組織する事になって昨年九月中に東京市に於いて其の発会式を挙げるに至ったのであります
 此組合は日本全国の交通労働者を加入せしめる目的でありますが只今までに入会致しておるものは東京市電気局玉川電車株式会社、王子電車株式会社、東京市馬自動車株式会社の各交通従業員全部でありまして其会員は総数八千人位であります
 組織は理事合議制でありまして東京市電気局の方は各車庫に一個の支部を置き玉川、王子にも一個の支部を置き支部には支部長に副支部長各一人を選■せしめ此等のもの合計二十四人が本部の理事となり私が其長即ち理事長として理事の合議に依って組合の事務を処理しております
 会費は各組合員から始めは一人一月十銭宛を徴収致しておりましたが昨年十一月中から一人一け月三十銭の会費に増額致しました
 私は初め時事記者で組合の事務を執っておりましたが記者が実際労働問題に携はられると社では困ると時事の方から■はれたので昨年十月に退社致し専門に組合の方に尽力致すことになりましたので組合員より私の生活の保証する為め毎月百円宛の報酬を出して呉れる事になって居ります
 私も俸給を貰って理事長におるは色々誤解もされ又労働問題に対しても好影響を與へませぬから辞退を致しましたけれども去りとて別に収入もありませぬので当分貰っておる次第であります
 現在会費総計で不納もありまして約千二三百円位毎月集まりますが昨年十一月中十名程市電と組合との労働条件の交渉の際免職になったものがありますから此■は月俸七十円宛で理事として居りますので私の俸給と合計八百円宛毎月支出致し其他経費等で実際会費は未だ残余が生ずると云ふ程には余っておりませぬが只今積立金は組合として約二千円位はあると思ひます

一、私は理事長として只今申上げた通り労働問題の実際運動に携はっております
 昨年来より今日に至るまで市電当局者と其従業員の労働条件の交渉等も理事長として必要な指揮を致し或は介添へとして従業者と共に市当局者にも交渉等を致しおる次第であります
 又一方労働問題の解決は労働者自身の自覚に待たなければならぬ事は私の持論でありますから私は常々各支部に来り会員を集合せしめて労働問題の講演を致しております
 又私の持論は労働問題の解決は労働者の生活状態の改善にあるが只今の社会組織に於ては資本家と労働者の利害の衝突は到底免れる事が出来ないのであるから之を解決するには可成穏当なる手段に依て資本家の了解を求め労働者の要求を容れしむるは最善の方法ではあるが現在の資本家には到底其の了解を得ることは困難であるから其時は労働者は其自身の権利たる一致団結して罷業するの外はないのでありまして是が団結致して罷業するには組合の必要があり随分労働組合は即ストライキを訓練する組合であると云ふのが私の持論で此趣旨を常々講演致しておるのであります

 此時当職は供述人の大正九年二月十三日に本交通労働組合王子支部員に対し東京府北豊島郡西巣鴨大塚保車部に於て為したる講演■記を読聞けたる処

一、只今は読聞くの通り語句趣旨の講演を本年二月十三日王子支部員に対して私は致したのに相違ありませぬ
 此の点は私は争ひませぬで承服致します
 其の趣旨を簡単に申しげますれば労働問題の解決は労働の実際的悲惨を経験した者の叫びに待たな[け]ればなりませぬ
 即ち労働者自身の自覚に待たなければならぬ 労働者自身が実際生産に相当なる実力権威を持っておるから考へなければならぬ
 一度考が此処に至ると今日の制度の不都合が判り労働運動の実際問題として権威を持って来るのである 資本家は労働者を何処までも無視して居るのでありまして其の利害は今日の社会制度の下には衝突するのであるから労働者自身に之れを主張して其生活の改善を計らねばならぬ 併しながら今日の資本家は到底労働条件の改画に関する労働者自身の要求には応じませぬから■に労働者は其権利である同盟罷業をせねばならぬ 而して其の罷業も一日や二日では駄目である 可成長く続行せねばならぬ 又罷業には時機がある 王子の諸君には花見の時は最も適切である 会社即ち資本家の最も収入ある時を見計らって同盟罷業を数日致しますれば必らずや労働者の要求は容れられる事になるのであります
 花見の際日曜と祭日等の続く日等に於てすれば最も良い方法であります
 諸君は百人位の人員でありますから其の結束も容易である 又諸君が罷業の場合には何れ組合である市電の従業員は諸君の会社に来て諸君の罷業を妨げる様の事はしない 又罷業を一日二日では駄目で少なくとも数日継続の必要があるがそれには資金も必要であります
 其時になれば罷業資金は私の本部の方に少しは揃えてあるから御融通ろ致します 要するに今日の社会組織にては資本家と利害の衝突が起り而して労働者である自己の主張を通するには勢一致団結して継続的に同盟罷業をせねばならぬ 諸君の王子も同様で其改画を計り人間らしい生活をするには勢ひかかる方法を執らなければならぬ事になり其れをするには会社の利益ある時機即ち花見時が適切で若し諸君が決行する場合には本部より資金を融通するし又市電からも来ない事にするが其の方法は秩序整然として乱暴をせぬ様に致して決行すべきであるとの趣旨に帰着致します

一、私は労働組合は労働者を訓練し労働条件の改画を計り勿論穏当の方法で之れが目的を達成せられる場合は何よりの事であるが資本家が之に応ずせざる場合には勢ひ同盟罷業の最后の手段を執らなければならぬので其際には之れを指導し最も秩序整然として決行せしむる目的の為めに設立も致し又組合なる者の使命が之れに存するものと信ずるが故に只今御読聞くに為りました同趣旨の講演は各支部で数回致して来ったのであります
 又私は理事長でありますから組合において同盟罷業の場合に於ては私は援助も致し本部の基金は其時の用意の為めに積立て居るのでありますから労働条件の最后の主張の容れられぬ場合には同盟罷業をやる際には資金其他の援助は及ばずながら致す事を申して労働者の最后の手段は同盟罷工にあると云ふことを常々会員に宣伝致しておるのであります

一、右様の趣旨で私は只今御読聞く通りの演説を致したのでありますから是れが現行の法律に違反するとすれば止むを得ない事であります

         供述人 中西伊之助
 右録取書
 自著したり
  同日 於東京地方裁判所検事局
         検事 久保田金四郎


 
公判請求書

    治安警察法違反  中西伊之助
 右■書の被告事件公判に付する為め訴訟記録目録の通り及送致候条 被告人呼出有之度候也
   大正九年二月二十七日
     東京地方裁判所
         検事 久保田金四郎
  東京地方裁判所御中

  起訴事実
 被告は日本交通労働組合理事長なる処大正九年二月十三日其支部員たる王子電車株式会社従業員約八十名に対し東京府北豊島郡西巣鴨大塚保車部に於て同盟罷業を為さしむる目的を以て諸君の現在の労働条件を有利にし生活状態の改画を計るには同盟罷業を決行する外ない旨を力説して之れを決行するには「どうしても初[始]めたら一日位やっては駄目なんです 頑冥にしてなかなか屈辱[屈服]しないのだから十日でも二十日でもやると云ふ風に本当にやらなければ此の条件は容れられない 王子等でも御出しになるには花見時が好い 花が咲く日曜だと云ふ時に本当にやる、いやなら止めて仕舞ふぞとやる」云々「王子の方でも百人ばかり居られますが其れで結構だ 市電の方から一人も来ませぬから五六日やられた日にはまいって仕舞ふ 丁度花が咲いた時分日曜と祭日とが続いておる日がありますからどしどし追駈けて来る 其時ぴしゃと止めて仕舞う」云々「最も秩序ある罷工を行ふ其には百人ばかりですから其時になれば罷工資金は少し揃へてありますから御融通して宜い」云々と演説し以て是れが労務の■廃を誘惑煽動したるものなり

 以上が、資料No.
841「中西伊之助刑事訴訟記録」の全文である(原文は漢字・カタカナ。可読性のため一部改行を加えた)。
 時代認識、労働者の権利としての同盟罷業、戦術としてのストライキの時期等、検事調書ではあるが、中西伊之助の考えが読み取れる資料である。権利としての同盟罷業を主張する大正9年2月13日の演説により、同27日、中西伊之助は治安警察法17条違反で検挙収監されたのである。

中西伊之助の獄中書簡 大正9年7月28日、大正9年8月17日

 大正9年2月27日、治安警察法第17条違反で収監された中西伊之助は、大正9年4月1日、未決収監1ヶ月で出獄した。そして、「全従業員の義憤が一斉に爆発した」(『東京交通労働組合史』)4月25日のストライキ当日の夜、再び中西伊之助は治安警察法17条違反で検挙されたのである。
 4月25日に再検挙収監された中西伊之助の未決収監は、『『赭土』を書いた前後その他』
(月報「新興文学」1928年3月、平凡社、『中西伊之助 その人と作品』中西伊之助追悼委員会、1991年9月15日収載)によると、「九月の末まで未決監生活をした」とある。
 以下に示す
資料No.855「書簡一括」中の獄中書簡2通はこの時のものである。日付は大正9年7月28日と大正9年8月17日、宛先は弁護士布施辰治。

大正9年7月28日付の中西伊之助獄中書簡(消印は7月31日)

大正9年8月17日付の中西伊之助獄中書簡(消印は8月20日)

 あとの方の8月17日の書簡は、ことに文学的な香りを漂わせたもので、中西伊之助の人柄を偲ばせる獄中書簡である。
 中西伊之助は、この未決収監の後、大正12年に判決が確定して服役している。
 読売新聞「よみうり抄」(大正12年3月27日、同6月18日朝刊)によると、「治安警察法違反事件の判決で言渡は六ヶ月で(内三ヶ月未決通算)[大正12年3月]二十六日入獄し」、「[6月]二十八日早朝中野刑務所を出」た、とある。

 この中西伊之助の書簡中にある「組合も出獄者の生活問題で難関です。僕には一つの計画があります。若し出られるならば来る可き有罪服役者(若し有るとすれば)の生活保障は必らず出来ます。」(大正9年7月28日付)、「組合では失業者を抱へて唸っています。私が出獄さへすれば之れに臨機の職業を與へる成算があるのですが困ったものです。」(大正9年8月17日付)という言葉に注目しておきたい。
 4月のストライキで日本交通労働組合(東京市電)が壊滅していく中で、
組合員の生活をかけた闘い、その方法をめぐっての確執が発生するのである。

解雇者救済と救世団 

 『東京交通労働組合史』(東交史編纂委員会編、昭和33年2月、P69)に、次の記述がある。

 「大正九年春の総罷業により日本交通労働組合が壊滅状態となって以来、東京市電気局従業員は、(中略)なんらの自主的組織も持たず、当局の懐柔と弾圧にあやつられ、やむをえず組合運動の埒外におかれていた。
 その後、さきの争議により組合の中心分子として解雇された人々は、
陸軍大将大迫元繁、護国団本多仙太郎らの世話で、一時、明治神宮造営工事の土方などしながら復職運動をつづけていた。その労苦と努力がみとめられ、やがてその多くは徐々に復職していった。
 大正十年秋、のちの復職者の一人である島上勝次郎を中心に本所出張所の青年によって相扶会なるものが結成された。この名称はクロポトキンの相互扶助に因んだものであり、サンジカリズムの残滓をここにとどめていた。その会員数はわずか百名たらずの懇談会的組織であったが、これは組合再建の萌芽とみるべきものであった。ついで、関東大震災後の十二年十二月には、佐々木専治、宮井昌吉らの復職者を中心に、人間会が生まれた。」

 中西伊之助は『『赭土』を書いた前後その他』(月報「新興文学」、前述)で、次のように書いている。


 「東京市電従業員一萬人をもつて組織した日本交通労働組合が暮から争議を起した、翌九年二月と四月に總同盟罷業を敢行した。私はその『首謀者』だといふので、二月に一度東京監獄に叩きこまれ、三月に出て来て又四月にたたき込れた。そして九月の末まで未決監生活をしたが、やつと出て来てみると組合は打ち壊れ、解雇された失業者は街頭に溢れて飢を叫ぶといふ惨状だ。秋風蕭々、無産階級解放戦の悲哀が骨身に沁みた。その年の暮を思ひ出してみるも涙の種だ。失業した組合幹部と共に、少しばかりの金を工面して、今の新宿終點三越前で、カムチャッカの鮭賣りをした。青白いアセチレン瓦斯の光に照らされて呼び賣りする同志──失業労働者の姿は悲壮であった。(中略)だが、鮭賣りは一文も儲からなかつた。(中略)恵まれない大正十年が来た。(中略)眼の前に迫つて来る飢をどうしたらいいかと思ひわずらつた。」

 上の2つの記事から、中西伊之助は、大正9年9月末に出獄してすぐに解雇失業者の救済活動に起ち上がっていること、その過程で陸軍大将大迫元繁らの「救世団」に一部依拠するような復職活動があったことが推測される。
 「救世団」については不詳だが、以下で見る資料No.846「交通労働者団結之革命」にも「大迫」の名前が出てくる。その顔ぶれから、仲介者を装った慈善団体であろうが、そういう組合活動の意義を認めない団体に依拠した復職活動を潔しとしない一群の市電労働者と、生活を立て直し復職を勝ち取り、組合を再建しようとする人々との間に、活動方針をめぐって相当の確執があった、といえる。前川二享(里村欣三)は前者に、中西伊之助は後者に属していた。以下、その確執を見ることにする。

「交通労働者団結之革命」 里村欣三は本部実行委員だった

 資料No.846「交通労働者団結之革命」は、里村欣三(前川二享)が、大正10年3月の時点で、「日本交通労働組合本部実行委員」であったことを示す貴重な資料である。
 同時にこの資料は、「救世団」に一部依拠した復職活動を行なう中西伊之助や佐々木専治、島上勝次郎ら、いわば「本部派」(現実派)に対し、前川二享(里村欣三)や、片岡重助、山口竹三郎らが「批判派」として立ち上がり、
日本交通労働組合(東京市電)から分派して「全国交通運輸労働者同盟」を結成しようとしたことを示す資料である。
 はじめにこの資料を写真版で示し、以下に読み下してみる(本文は漢字・カタカナであるが、可読性のため漢字・平かなで表記。[ ]内は引用者の補足)。これも長文の資料であるが、内容はかなり刺激的である。

 交通労働者団結之革命
     (宣言及報告通知)
                全国交通運輸労働者同盟

 
全国交通運輸労働者同盟新綱領
一、本同盟は人類文化の基調に即し現社会制度の改善を期す
一、本同盟は真純なる文化的運動により人類共存の理想実現の為め協同の力に俟って交通労働者の生活権拡充を期す
一、本同盟は無産労働者階級の大同団結を慫慂するため純真なる労働団体並に思想団体と僚友関係を結び相提携して実際運動に当り併而思想宣伝普及に努めむことを期す。
     東京市外高田雑司ヶ谷弐弐八
         全国交通運輸労働者同盟本部
     仝 市外中渋谷三五八
         仝      宣伝部
         仝      編輯部

 
宣 言
 中西伊之助氏を始め『日本交通労働組合』の名を悪用し組合運動を堕落せしめつつある徒輩を排斥除外す
     大正十年三月
       日本交通労働組合本部実行委員
                武井 栄    山口竹三郎
                
前川二享    片岡重助
                平野寅二    佐野左江
                   (実行委員八名中六名)
               支部実行委員
       仝        大貫丑二    外弐拾名

  排斥理由(別項の通り)

 
排斥理由
 中西伊之助氏が吾「交通労働組合」と関係を結んだ当初、巷間兎角の風評があったが、夫は氏の順調を羨む者、若くは私怨の有る者の言と吾々は解して居た。氏が吾組合理事者(特に指導者の言を避ける)としての態度は、其生活が保証されたると正比例して居たと認めることが出来る。
 処が昨年四月罷業に、怪我に巻き添へを喰って(氏は常に斯く云ふ)入獄以来、昨の志士(自称)も今日の懦夫、更に出獄以後の態度は自ら犠牲者を以て任じ、自ら労働運動の先駆者を以て許すが如き誇張の言を弄する者の態度とは受け取れぬ。
 今に至って氏が組合に関係を結んだ当時の世評が全然空虚で無かった事と、現在に至って鍍金が脱落して昔の地金が露れたと云ふ事が思ひ合わされる。
 茲に氏自らが揚言せる『純真なる運動を期す』の「モットー」に背反する氏の運動の全部を指摘するは煩に堪へないから、其二三を摘発して排斥理由を闡明し、彼等不純分子を労働運動の圏外に去らしめむとするものである。
 
一、労働者を侮蔑し此を利用し自家を利せむとする手段
 氏が昨夏入獄中、組合運動の将来に対し態度を決し兼ね八方美人式辞令を弄したる書信を発し、為めに本部内に絶えず内訌を起さしめたる醜態は、本部会計部長として令名ありたる福島理事が氏の出獄と同時に桂冠し筋肉労働者に皈り再び組合本部に入る事を毅然として拒んだ事によって、若干其間の消息を窺ふ事が出来たが、近時に至り中西氏の運動が──組合運動に対する信条──全然大言壮語する其の口と相反する事実が原因を造ったのであった事が判った。
 更に氏が出獄後直ちに「救世団による復職哀願団」に対し自家の態度を決する必要に迫られたに際し、復職哀願団の一幹部が『復職希望者が各自毎月金壱円づつ負担し其れに依って理事長の生活を保証する考である』旨の言明を為したるに牽制されて約一ヶ月に亘り救世団反対派と哀願団との間に板挟みとなり賣笑婦的言辞を以て復職哀願者に媚び、一方反対派には白を切り真純さを装って居た事実が近く暴露された。
 其れは昨年[大正9年]十月二十七日復職哀願団が救世団の命によって「中西伊之助の主義に絶対反対にして是れと没交渉無関係」なる宣言を発した為め哀願団幹部の言明に失望した氏は急激に救世団反対派を極力称揚し以て共に行動せむ事を求めて、『更に真純なる運動を続ける』と呼号した。
 処が其後の氏の運動が氏の所謂真純さをも持て居ない為めに組合の孤塁を死守して来た救世団反対派も氏と行動を共にする事を差し控へたので氏は再び復職哀願団と提携するの必要に迫られ、先づ自家と最も妥協点(豹変病を有する意味に於て)を持てる哀願団の頭目島上某に秋波を送り遂に自家薬籠中の者とし彼の豹変宣言を代作して発表せしめ其の機会に野合した。
 爾来彼を仲介として、組合運動に何等の理解と節操を有たない救世団に依る復職哀願者の敗残者を使簇し、旧組合員に対し盛に寄附金強制的集金運動を行って居る。

一、労働組合運動を自家の営業科目の如く思惟せる所有観念の誤謬と
  ──組合幹部員を奴僕の如くする不遜なる資本家根性──

 氏の現下の運動方針は全然自家の生活保証運動であって何等労働組合運動の本質を備へて居ない。六ヶ月分金弐円也の組合費を元交通労働組合員に納入せしめる其の復活運動である為め実行委員は之れを廃し他の宣伝方法を献策したが肯ぜず、又、行動を共にする事の避ける者あれば「其は亡び行く者なり」と為し、終に復職哀願団中より一日弐円にて二三の集金員を雇ひ入れ之れを組合幹部員なりと称して旧組合員に対し出金を強制して居る、其云ふ所は、「講演会を本月中に二回開きますから」等の偽瞞の誇言、又、氏自ら集金を勇敢に行る場合には「俺を一年の間に二回も監獄へ行かして置いて知らぬ顔で居られるか」等聞くに堪へぬ言葉迄弄して居る。
 然して犠牲の押売、又は同情の強制が効を奏せぬ場合は「俺はまだ組合に対し千円以上の貸しがあるから旧組合員は当然金を出す義務がある」と放言しつつある。奈んぞ知らん、昨年[大正9年]四月罷業以来組合費徴収の途絶へ二百余の失業者の救済さへ為し得ぬ裡に中西氏のみは十一月迄の俸給月額百円宛を残存基金中より支給され尚其の上の残存基金も使途不明の裡に氏の懐中に残されてある筈であるにも不拘斯かる放言は実に唾棄すべきで氏出獄以来の組合会計状態は公選会計係に其出納をも明示せず自家経済と混同し華美なる風采宛然ブルジョアに匹敵する妻君の掌裡に隠され、其の発表を求むる者あれば言を左右に托して肯かず、以て氏の労働運動が「貸したる覚えなき掛取り運動」で一個の営業科目たるの感がある。

一、無定見無節操で終始せる醜態
  ──放置すれば官憲の御用組合と化せむ──

 氏の運動が常に日和見的であって労働階級の福利よりも自家の地位、名望に重きを置きたるは世評の誤りなき判定として是を茲に掲示しないが最近奇々怪々の風聞ある官憲と握手の如何に就而は左の件を見逃してはならぬ。雑誌発行保証金を警視庁の某官吏の手を通じて出資せしめ様とした事と小石川労働会の名により忌はしき行為があると定評ある某々一二の者と気脈を通じ次で大いに画策する処あらむとせる事実である。
 雑誌発行保証金は郡部発行すれば充分積立て得る資金を残存基金として氏が保管中である筈にも不拘官憲の手により得むとせるが如きは一昨年京都奥村電機商会争議当時の氏の大々的活躍?に対する世評を裏書きするの感なりむばあらずで、其挙に反対して雑誌名義人たるを拒否したる者を卑怯なり等悪罵したる氏の心事の陋や許す可からざるものがある。更に小石川労働会の名を利用し普選の運動に参加し兎角の風評ある者と協調せるが如きは氏が昨年市電代表委員問題に対し組合幹部に教えられて議会政策を否定せる態度を裏切り今に至り政治運動屋と野合する無節操無定見は共に他の数個の問題と併而吾労働組合運動を惨毒するものであって断乎として糾弾せざるを得ないのである。
   ────────────

 改称宣言
 「日本交通労働組合」の名が中西氏及一二の不純分子に依りて毒せられし為め組合未加入交通労働者の厭忌の念を懐かしめ、加ふるに現に在籍組合員の好感を失ひ為めに組合運動の真価を疑ふ者続出するの状態に鑑み今後の倍旧の勇躍を期する為め組合名称を左の如く改称す。
  
全国交通運輸労働者同盟
    事務所 東京市外高田雑司ヶ谷弐弐八
 大正十年三月
         日本交通労働組合本部
            実行委員会

 本宣言補足参考資料
 ◎中西氏が吾組合に関係当初の世評の一端
   ──大正九年一月号「雄辯」所載『現存労働組合と其批判』より──
 中西君に対しては種々なる噂がある、甚だしきに至っては軽視庁の犬だとさへ云ふ者がある。私は其真偽を知らない。然しながら今回の事件に際する中西君の態度は極めて曖昧朦朧たるものがある様である。──中略──同君の労働運動が真に労働問題の自覚の上に立ち誠心誠意之れを為しつつあるか、又、一部に伝へらるる如く同君が官庁の犬として之を操縦しつつあるかは暫く措く──中略──
   ○同じく「日本労働聯合会本部」なる段に
 此の会の初めに当って中西伊之助君は井上倭太郎君を助けて居たが、同君の態度は兎角労働運動者として正しい態度とは思はれない様な処が間々ある。あっちでも、こっちでも其会の思想態度には何の顧慮する所なく関係をつけて、自分の野心を満足させ様と云ふやうな態度は最も卑しむ可きであって斯くの如きは所謂労働運動屋である。

 ◎救世団による復職哀願団の宣言
   ──島上某も参加せり──
 国家社会の現在及将来共に鑑み真正の意義に於て覚醒?せる我等は現在の態度並に将来の方針に関し各自の意思を茲に公表宣明す。
一、我等は中西伊之助の主義(当時労働組合主義)に対し絶対反対にして之れと没交渉無関係なるは勿論我等将来の公正(?)なる態度に依って彼等の覚醒を促さむことを期す
二、現在及将来に於て曖昧的態度を執る者は我等の同志と認めず
    大正九年十月二十六日
        大日本救世団に依る復職希望者一同
 註(代表者と称する三十名の名を掲げて都下の二新聞に広告したるもの)

 ◎前項宣言代表者の一人として復職団三頭目の一人島上某の豹変宣言書……抜粋──中西君が代作し同夫人代筆発表のもの
 (前略)此時
救世団長大迫大将閣下は閣下の地位と種々の事情を放擲して、是は国家の不祥事であるとて蹶然起たれて此の事件を解決せんと努められた。閣下は国家の元勲にして然かも六十余才の高齢であるに係らず此の二百有余名の同僚を救はんとせられた高志に対しては唯感激の外はなかった。これが為めに閣下の指導に基き、その高志に酬ゆると同時に同僚の苦境を救はむが為め復職運動を起した所以であった、此のためには組合創立以来中堅者となり労働者の生活改善を以て畢生の業とせられし仁人中西伊之助君と提携すること能はざりしは、これ余の最も遺憾とするところである……云々
    大正九年十二月七日
        日本交通労働組合本所支部長(僭称)
           島上 某

 以上が資料No.846「交通労働者団結之革命」の全文である(漢字・カタカナ文を漢字・平かなに変換)。
 一時は屈辱的ではあるが「救世団」に依拠し復職を勝ち取り、組合の再建をめざそうとする島上勝次郎や佐々木専治らの現実派、柔軟派に対し、前川二享(里村欣三)ら、より年若い(里村はこの大正10年3月の時点で、まだ19才になったばかり)人々はそれを潔しとせず、より観念的に、より理想主義的に行動し、組合の分派を目指した。「団結之革命」というのは、団結の表象である組合を改革する、という意味だろう。
 またこの資料は、「救世団による復職哀願団」が、「中西伊之助の主義(当時労働組合主義)に対し絶対反対にして之れと没交渉無関係」と声明した(大正9年10月26日)ことを受けて、中西伊之助は「急激に救世団反対派を極力称揚し以て共に行動せむ事を求めて、『更に真純なる運動を続ける』と呼号した」が、「組合の孤塁を死守して来た救世団反対派も氏と行動を共にする事を差し控へたので氏は再び復職哀願団と提携するの必要に迫られ」「哀願団の頭目島上某に秋波を送り遂に自家薬籠中の者とし彼の豹変宣言を代作して発表せしめ其の機会に野合した」と書いている。中西伊之助の中で多少のブレがあったのだろう。
 
中西伊之助や島上勝次郎、佐々木専治ら「現実派」に対する、「日本交通労働組合本部実行委員」の一部(実行委員8名中6名)である前川二享(里村欣三)や片岡重助、山口竹三郎らの批判は、「組合経理の不明」等を突くなど、一般的に闘いの中で生起しがちな“誹謗中傷”的な側面も持っているが、本質においては、「組合運動に何等の理解と節操を有たない救世団」に依拠した復職運動に対する不信、批判である
 こうして「現実派(柔軟派)」と「理想派(観念派)」の対立の中から、里村欣三(前川二享)らの「全国交通運輸労働者同盟」が分派し、その機関紙として次に紹介する『暁鐘』が発行された、と推測される。

『暁鐘』

 資料No.845『暁鐘』創刊号の発行日付は大正10年2月25日である。本文8ページのリーフレット(152×225mm)で、第1ページ目がタイトルページで、別表紙等はない。
 発行主体の明記はないが、本文6ページ目に「全国交通運輸労働者同盟宣言」があり、上の「交通労働者団結之革命」で見てきたように、「救世団による復職哀願」運動に対する批判派である「全国交通運輸労働者同盟」の機関紙であることが分かる。

 第8ページ目の奥付部分(「編輯だより」)に、
「北豊島郡西巣鴨町池袋九五五 石澤方 発行編輯兼印刷人」として、前川二享(里村欣三)の名がある
  この他、前川二享(里村欣三)は、「暁鐘』1ページ目の「創刊の辞に代えて」と、7ページ目の「労働者の活眼 知識階級への挑戦」、および8ページ目の「編輯だより」を「享」「二享」「編輯小僧」の署名で書いている。

 「創刊の辞に代えて」には「其の絶叫は、暁鐘の如き神秘さと崇厳さを持って」や「国境を越へ、川を渡って来る『自由の鐘の音』」等の言葉があるので、巻頭の詩もあるいは前川二享(里村欣三)のものかも知れない。
 「労働者の活眼 知識階級への挑戦」は、労働運動を批評の対象としている知識階級を批判したものだが、ある意味一般論であって、中西伊之助や復職哀願運動を批判したものではない。
 前川二享(里村欣三)の記事かどうか不明だが、5ページ目の「親愛なる同胞へ」という全国交通運輸労働者同盟への加盟を勧める記事中に「従業員の贈り物を喰ったりするらしい奴を頼りとして居ては何年経っても諸君の生活改善は愚か不安なのだから」というあたりにその批判がわずかに垣間見える程度である。
 4ページと5ページの中央境目には、欄外記事として「日比谷便り」があり、「元交通労働組合幹部八十三名に対する第二回公判(事実調べ)」の日程を記した記事がある。

 以下に『暁鐘』の写真を掲げる。

左は『交通労働』(大正10年4月1日号、第2年第7号)に掲載された、武井栄、大貫丑二の「迷惑千萬の至りに候」という記事

 『暁鐘』は、こうした本文記事よりも8ページ目の「編輯だより」の方が、私にはむしろ興味深い。
 「編輯だより」には「編輯事務に関する郵便物は市外中渋谷三五八番地林盛義方片岡宛願ひます。会計に関する郵便物は市外高田雑司ヶ谷二一八番地山口竹三郎宛に願ひます。」というように書かれている。
 この文章中の「片岡」は片岡重助で、山口竹三郎とともに、上で見た「交通労働者団結之革命」中に名を連ねている「日本交通労働組合本部実行委員」中の批判派の人々である。
 このことに関連して言えば、「交通労働者団結之革命」に記載された本部実行委員武井栄(本部研究部長)、支部実行委員大貫丑二(青山支部基金監査)は、日本交通労働組合の機関紙である『交通労働』(大正10年4月1日号、第2年第7号)に、「迷惑千萬の至りに候」という記事を掲げ、「批判派」ではないことを明言している(上の写真)。少し読みにくいので下に転記する(圏点は省略)。

 ▲迷惑千萬の至りに候
 啓上昨今『交通労働者団結の革命』と題する印刷物に小生等の名義を利用列記し各所に配布したるものある由なるも右は小生等の全然相関せざる事にて迷惑千萬の至りに候誤解なき様為念御通知申上候也
    大正十年三月十五日
               渋谷区下渋谷六百十四番地
                        武 井   栄
               渋谷町中渋谷六百〇六番地
                        大 貫 丑 二
   中西伊之助殿
            本郵便物ハ大正十年三月十五日第六八〇号
            書留内容証明郵便トシテ差出シタル事ヲ証明ス
                        渋谷郵便局

 この「迷惑千萬の至りに候」という記事が掲載された『交通労働』(日本交通労働組合機関紙)のこの号は、組合が壊滅状態であるため、『暁鐘』と同じく8ページのリーフレットになっている。中西伊之助はP2-3で、「罷業一週[周]年の思出」を書いて、貧窮に苦しみながらもおおいに意気軒昂なところを示している。
 この『交通労働』の、あとがきに該当する「本部より」(P8)には「
本部の実行委員会は解散した。現在では性質上有給でなければならぬ実行委員は財政の点で事実に就任を許さぬ。で当時の会員であった佐野左江君は石鹸屋を開いているし、平野虎[寅]二君は昨年十一月委員を辞して帰郷してしまった。宮井昌吉君は単に有楽支部長のみの事務を取って呉れて他に就職している。武井君もやっぱり生活上昨年末一時委員を辞任した。で現在本部で事務を取っている者は中西理事長と田中理事と二人である」と書かれている。
 「佐野左江」や「平野虎[寅]二」は「交通労働者団結之革命」の「宣言」に前川二享(里村欣三)らと共に署名しているが、大正10年2月時点では帰郷等ですでに本部実行委員を離れているというこの『交通労働』の記事、および上に写真版で示した武井栄や大貫丑二の「迷惑千萬の至りに候」という記事から、「交通労働者団結之革命」に記載された本部実行委員名にはいささかフレームアップの感がある。いいかえれば、中西伊之助等の日本交通労働組合本部に対する「批判派」の中心は、この『暁鐘』に記載された前川二享(里村欣三)、片岡重助、山口竹三郎の三人であったといえるだろう。
 もう一つ重要なことは、
本部実行委員は有給であったということである。本部実行委員というのは今日でいう「専従書記」のようなものであろうか。“給与を支払える状態ではないから本部実行委員会を解散した”ということは、「本部派」に叛旗をひるがえした「批判派」に対する処置であろう。しかし「本部実行委員は有給であった」ということ、そして前川二享(里村欣三)がその本部実行委員であったということは、次のことを示しているのではないだろうか。
 すなわち、大正9年4月当時の日本交通労働組合の役員名簿(上掲)に前川二享(里村欣三)の名前がないこと、前川二享(里村欣三)が有給の本部実行委員であったことを考え合わせると、前川二享(里村欣三)は、身分は車掌であった(「自活のため市電の車掌になった」『第二の人生』第二部、昭和15年10月28日、筑摩書房)かも知れないが、実体的には組合員6千人とも8千人ともいわれる日本交通労働組合の、
専従活動家的な位置にいたのではないだろうか。その故にこそ、まだ18歳でありながら、日本交通労働組合(東京市電)を代表して、日本社会主義同盟の設立発起人の一人に名を連ね、大正9年9月の発起人会に参加し得たのではないだろうか。

 さて、このような「陣取り合戦」的な状況の「現実派(本部派)」と「批判派」の対立は、必ずしも修復不可能な決定的対立ではなかった、と思われる。

 『暁鐘』第6ページ目の「全国交通運輸労働者同盟宣言」にも、復職哀願の「現実派」に対する批判はなく、「交通運輸労働者の力を藉らないならば、世を挙げて宛然太古の姿に復るであろう。」という表現など、むしろ日本交通労働組合(東京市電)の「宣言」(大正8年9月3日)「若し世界から交通機関を取り除けば、必らずや世界は太古に復るであろう。」と同じである。「
真純なる運動」ということが至上の価値を持つかのように認識されているのも同じである。
 「救世団による復職哀願」運動に対する批判派の「批判と同情」は、次に紹介する
片岡重助の書簡でもそのニュアンスが感じられる。やむを得ず「救世団」に走った人々に対する思いやりが見られるのである。

片岡重助の書簡

 ここでは以下、「批判派」の一人として、里村欣三(前川二享)らとともに起ち上がった片岡重助の書簡(資料No.839「書簡(片岡重助より布施辰治宛)」)を紹介することにする。
 この書簡には鉛筆書きの、文意から布施辰治弁護士が書いたものと思われる付箋が付けられている(左の写真)。付箋には次のように書かれている。

 「この手紙は大正10年3月14日(この日も治警法でやられた人たちの公判があった)以後のものであろう。筆者は文面によって片岡氏と知れるが、どんな活動家だったか不明。アナ系の人らしい。」

 この書簡には差出人の署名がないが、資料No.846「交通労働者団結之革命」中に、前川二享(里村欣三)と並んで登場する片岡重助である。
 『東京交通労働組合史』(前述)の「組合役員名簿」にある広尾支部幹事長「片岡
重吉」は誤りであるが、『日本社会運動人名辞典』(1979年3月1日、青木書店)では「片岡重助」ではなく、「片岡重介」と記している。
 その経歴からこれらは同一人物で、この書簡を保存
している石巻文化センターが資料No.839の書簡を「片岡重助より布施辰治宛」と認定しているように、「交通労働者団結之革命」中にある「片岡重助」が正しいのではないかと思われる。
 片岡重助の肩書きは
、大正9年4月時点で、『東京交通労働組合史』によると「広尾支部幹事長」、「市電問題入獄者名簿」(資料No.860)によると「廣尾支部副支部長 理事」であり、この書簡が書かれた大正10年3月時点では「日本交通労働組合本部実行委員」(資料No.846「交通労働者団結之革命」)となっている。
 『日本社会運動人名辞典』(1979年3月1日、青木書店、P159)によると、
片岡重助(片岡重介)は、明治26(1893)年3月8日生まれ、「1918、19年ごろ上京、東京市電気局に市電車掌として入り、’20年の市電ストライキに参加、4月警官隊との衝突で検挙され、懲役6ヵ月を科された」。のち郷里の広島県に帰り、農民組合運動で活躍、昭和16年に没した、とある(P159)
 片岡重助は、大正9年4月市電ストライキ時点で満27歳1ヵ月、この書簡の書かれた大正10年時点で28歳。ちなみに、前川二享(里村欣三)は大正9年4月時点で18歳1ヵ月、片岡重助(片岡重介)とは9歳の差がある。

 ここで片岡重助の書簡を取り上げるのは、上で見た
「交通労働者団結之革命」や『暁鐘』で考察したように、中西伊之助理事長等の、「救世団」に依拠した現実的な復職哀願活動に批判的に対立し、より純粋に、より観念的に、よりアナーキーに市電労働者の闘いを継承しようとした一群の人々、当時の前川二享(里村欣三)と同一の認識をもつ人であるからである。
 
片岡重助(片岡重介)と前川二享には9歳の年の差があるけれども、この書簡に見えるアナーキーさは、この後、大正11年初め(あるいは大正10年後半)に前川二享(里村欣三)が神戸市電において起こす労働運動上の傷害事件(本サイト考察〈労働運動上の傷害事件はあった〉をご覧ください)につながる心情であると思えるからである。ある意味で、片岡重助と二重写しに前川二享(里村欣三)がそこにいるように見える書簡なのである。

 はじめの数枚を以下に写真版で掲げ、
書簡を読み下してみる(判読できなかった文字は■で示す)

 謹啓
 昨年来先生には非常な御厄介を掛けながら常に御無沙汰勝ちに打過ぎ何とも申訳の無い事で御座います。
 佐々木君を通じて事件に必要な事項を提示する様、書式様のものを頂戴いたしまして別紙に認めましたが、先生の有力な材料となるとも覚えませんが思い付いた丈け書きました。宜敷御取捨願ひます。
 次に私としましては、既に私を除く他の支部員の方は
救世団に走った人達ばかりで何分此度の苦痛にて運動に失望せられた人達(余り失礼ですが事実)の事でありますから、此の上の苦痛は御気の毒であると考へます(仮令執行猶予にしても)から是非是非先生のお骨折りで助かる様御尽力[お]願いたします。私も私に全責任を負って皆が助かるなればといろいろ是れ迄骨折った考でありましたが、思ふ様に行かなかった人達が取り残された訳で誠に遺憾に思って居ります次第で、私としては、出来るなれば無罪結構ですが既決囚としての体験も得て見たい様な気持もいたしますから私にだけ実刑を受けさせて他の人達の助かる事を望んで居ます。実際他の人は幹事に選挙されたが故に監獄へ行ったといふ結果になって居るのですから、大体に於て執行猶予の御方ばかりとの様先生方は御推測だとの事ですが私は前述の通り寧ろ兼々からストライキに対する責任を労働者のみに負はしめ、更に多数労働者の連帯責任を一部の者に丈け強いる事には極力反対しますが、治警の働く限り免れないとすれば執行猶予期間中に再び引っ張られて又前の刑と併合してやられるよりも度々に別けて行く方が都合が好いと考へて居るので御座います。
 そこで十四日の事実調べの際にも予審の調べの不徹底を鳴らさうと考へて途中まで云ひ掛けて先生方の御意嚮も如何かと見合せた次第です。
 事実は、
 「四月二十四日頃雑誌原稿を持って中西氏の処へ行って見ますと偶然中西氏と匂坂君とが話し合ってる処で私が室に入ると直ちに匂坂君が「片岡君いよいよ行る事になった、君も活動して呉れる時が来た訳だがどうだ」と云ったので私は「ウム可いだろう中西サンも行きつまって来たんだから大いにやらう」と其処で中西氏も大塚を止めさせたらそれを導火線として全線止めやうと云ふ簡単な言葉の裡に決して私は佐々木君と同道全線へ其宣傳に歩いて夕刻青山新富岳荘へ立ち寄って中西氏に「どうです全線廻りましたが大塚は明日大丈夫止るでせうか」と聞いた処が「大丈夫です」との事に私は支部へ皈って準備に取りかかったのですが、尚大塚が気に掛るので其裡十一時前新富岳へ使をやって大塚の罷業開始の確実である事を訊したのでした。
 それを収監中、中西氏が前回の保釈を取り消された丈か又は此の度のとダブルのかが判らぬので「午後七時頃新富岳の講演を聞いて途中から皈ったより後の事実は申立ててあるけれ共それより前は隠して居ましたので「本部と如何にして連絡を取ったか」が疑雲に閉ざされて予審判事と私の論争となり結局新富岳へ遣った使が命令とも返事ともつかぬ事を聞いて来た事に判事が造ってしまった訳です。
 それで先んな判り切った事に対しても予審調べが不徹底で然も他の支部同様に命令によったらしく調書を造ったりして居るのだから「何をやって居るのか判らない。」と他の人達の否認事実を裏書してやらうかとも考へたのでした。兎に角平素から実際猛烈な宣伝をして居たのだし罷業に就■も最初からやらせる意志で人に知られない活動もしてる訳なんですから罷業其者が我々の当然の権利である事が法律で是認されない限り私は行って来ても別に厭とも思はないのです。
 それで若し出来るなれば天秤にかけても他の人達を助けて戴き度いと思ひます。
 尤も法の理論から云って余りに立法を無視した云ひ分かも知れませんが理論としては権力を無視して居るのですから監獄へ行く事は今の私にとっては制裁でも何でもないのです。

 以上が布施辰治弁護士に宛てた
片岡重助(片岡重介)の書簡である。

 「佐々木君」「中西氏」と書くように、「救世団」に依拠した人々に対する批判は、
修復不可能な決定的対立ではなかった。「若し出来るなれば天秤にかけても他の人達を助けて戴き度い」という思いやり、「無罪結構ですが既決囚としての体験も得て見たい様な気持もいたします」「権力を無視して居るのですから監獄へ行く事は今の私にとっては制裁でも何でもない」というアナーキーさ、無鉄砲さ、ロマン……。
 「十ヶ月の刑が、その後の彼の生涯にどのような障害になるかも考へず、若いアナーキストは英雄気取りで十ヶ月の刑を終へた」(『第二の人生』第二部、筑摩書房、昭和15年10月28日)と里村欣三(前川二享)がのちに書くような心情がそこに見えるのである。

まとめ

 以上、石巻文化センター所蔵の布施辰治先生関係資料(日本交通労働組合関係)を読み解いてきて、どういうことが言えるのだろうか。思いつくままに列挙してみると、

 (1)「交通労働者団結之革命」に前川二享(里村欣三)が「本部実行委員」として登場していること、『交通労働』(大正10年4月1日号、第2年第7号)の“有給であった本部実行委員”という記事、および里村欣三(前川二享)が18才の若さでありながら、なぜ日本交通労働組合(東京市電)を代表して日本社会主義同盟の設立発起人として名を連ねることができたのかということ、大正9年4月当時の日本交通労働組合の役員名簿にその名がないこと等を考え合わせると、前川二享(里村欣三)は、身分は車掌であったとしても、日本交通労働組合の専従活動家的な位置にいたのではないか、という推測は、合理的で、無理のない推測なのではないだろうか。
 この時代を背景とした中西伊之助の小説『赤道』(大正13年2月20日、聚英閣、P150)には「黒川廣造」という「本部の書記をしてゐる人」が登場する。「黒川廣造」は必ずしも前川二享(里村欣三)ではないが、専従活動家的な書記が日本交通労働組合(東京市電)の本部にいたことを示している。


 (2)
前川二享(里村欣三)は、大正11年3月16日、西部交通労働同盟(大阪市電)の結成大会に、神戸市電を代表して応援演説をしている(『交通労働運動の過現』長尾桃郎ほか、大正15年6月30日、クラルテ社)。『第二の人生』第二部( 昭和15年10月28日、筑摩書房)の「市電第一次の争議に敗れ、大正十年には神戸市電に再び車掌となって潜入し、組合の組織運動に従事」という記述は、今回考察してきた大正10年2月、3月の「交通労働者団結之革命」や『暁鐘』に見える戦闘的な意識とを重ね合わせれば、神戸市電への潜入は単なる“都落ち”ではなく、関西でも交通労働者の組合を結成しようというある種積極的な潜入だったのではないかと思われる。神戸の地が選ばれたのは、三菱、川崎大争議で沸騰する関西の熱い地域共同闘争が呼び水となったのであろう。
 もちろん前川二享(里村欣三)に挫折はあったのだろう。しかし闘いの意識は燃え尽き、再び燃え上がったというのではなく、ある意味一直線であった。そしてこの
一直線な闘いの意識のまま、大正11年6月ないし7月の徴兵検査にぶつかっていった、と言えるのではないだろうか。

 (3)『暁鐘』創刊号(大正10年2月25日)には、次号への抱負として「次号からは内容を充実させ」、「どしどし御投稿を願い升」、「印刷費の御同情を」等の記述があるが、『暁鐘』の第2号が発行された形跡は、今のところない。これは推測に過ぎないが、おそらく『暁鐘』の第2号は発行されなかったのではないだろうか。時期的にいえば、この直後の大正10年4月ごろ、または大正10年5月に日本社会主義同盟が第二回大会を開いた後、治安警察法によってその結社を禁止されたその頃に東京を離れ、土地勘のある神戸に戻り、神戸市電に車掌として潜入したのではないだろうか。

 (4)大杉栄らアナキスト系の労働新聞『労働運動』(1973年6月、黒色戦線社復刻)に里村欣三(前川二享)らの「全国交通運輸労働者同盟」の消息を伝える記事がある。大正10年4月3日号(第8号)2面の「光と闇」というコラムに、「交通労働組合が二分して、新に全国交通運輸労働者同盟が出来、両者の間に内争が起ってゐる。次号で詳報しよう。」とあるが、次号(大正10年4月24日、第9号)にその詳報はなく、「読者諸君から」という投書欄に「誇大な見方だ」というタイトルで中西伊之助の反論が掲載されている(5面)。
 「第八号の、交通労働が『二分』して『内争』があるとの報道は君等の忌憚する新聞屋式の誇大な見方だ。(中略)下らぬ野心家の、出タラメな宣伝ばかりの材料では真相は判らぬ。全く現在は、労働者同志が内争する程の余力はない。二分する程の豊富な力はまだなかなかない。(中西伊之助)」

 (5)『暁鐘』や「交通労働者団結之革命」の記述から、前川二享(里村欣三)
は、大正10年4月、ないし5月頃まで東京にいて、日本交通労働組合、つづいてその分派である全国交通運輸労働者同盟の活動に従事した。このことから、前川二享(里村欣三)は、日本交通労働組合(東京市電)を代表して大正9年9月の日本社会主義同盟創立発起人会に名を連ねたのみならず、同年12月10日の創立大会(神田青年会館)にも参加したと思われる。発起人でありながら、日本社会主義同盟の執行委員にならなかった(なれなかった)のは、日本交通労働組合が同年4月のストライキで壊滅状態になっていたこと、あるいは前川が18才と年若かったためかも知れない。

 (6)大正9年から10年にかけては、普通選挙促進をめぐって期成運動が社会的に盛り上がった。一方、普通選挙の効果を否定する立場から、「交通労働者団結之革命」の記述にも、中西伊之助の行動を批判して、「
小石川労働会の名を利用し普選の運動に参加」し、「議会政策を否定せる態度を裏切り今に至り政治運動屋と野合」したのは「吾労働組合運動を惨毒するもの」とある。
 これに関連して『民本主義の潮流』(松尾尊允
(上に八がつく允)著、昭和45年3月10日、文英堂)に次の記述がある(P211)。少し長いが引用してみる。
 「先進的労働者の間に影響力を強めてきたアナルコ-サンジカリズムの考え方は、普選の効果に否定的であった。欧米諸国をみよ、議会制度は労働者を解放しないではないか。(中略)労働者は議会で多数を占めることもできないのだ。(中略)直ちに社会主義への道を歩むべきだ──。気の早い若手は、革命は三年のうちに必ず来る、と信じこんでいた。しかし、全国普選連合会が[大正9年1月末に]成立し、
小石川労働会など労働組合にも加盟者がでてくるとなると、組合間の結束を固めるためにも、独自の組織をつくらねばならなかった。(中略)[大正9年]二月二十一日には上野公園に集まる普選連合会主催の大会のむこうを張って、芝公園から日比谷まで約一万人のデモを行なって気勢をあげたのである。」
 この『民本主義の潮流』の記述は主に大正9年のことであり、一方「交通労働者団結之革命」中の批判は、大正10年3月時点のものであるが、普通選挙促進をめぐって日本交通労働組合(東京市電)内部にも対立があり、同じ官業系の小石川労働会(東京砲兵工廠労働者で組織)とともに普選促進運動に参加したことを批判しているのである。


 今回の、リーフレット『暁鐘』をめぐる考察の中で、里村欣三(前川二享)が、日本交通労働組合(東京市電)において、専従活動家的な位置にいたのではないか、という認識を得たこと、およびある意味一直線な闘いの意識の中で
大正11年6月ないし7月の徴兵検査にぶつかっていったのではないか、という認識を得たことは、私にとって大きな喜びであり、知的な興奮であった。そして、おそらく二度にわたって行なわれたであろう「満州逃亡」の時期をめぐる真実を知りたいという思いがいっそう膨らむのである。

 (2006.2.13作成、2006.7.2まとめに『労働新聞』記事追加)