里村の本名は、「前川二享」

 里村欣三の本名が前川「二享」か、「二亨」かは、戸籍謄本に書かれているのが本名だから、その調査結果が全てである。浦西和彦氏の「里村欣三の『第二の人生』」『日本プロレタリア文学の研究』(昭和60年5月15日、桜楓社)は、その調査に基づいて書かれたものだろうから、「里村欣三の本名は前川二亨ではなく、「二享」である。」というのが正しい。
 専門家でない者にとって、戸籍調査までは力が及ばない。一般の里村ファンが書物を通して見ることのできるものは、『思想の科学』No.93(1978年7月号)に掲載された堺誠一郎氏の「或左翼作家の生涯」中に載せられている昭和9年の徴兵忌避・逃亡自首後の兵籍簿だけであるから、参考に下に引用する。

 「享」、「亨」の音はともにキョウであり、あるいは本人の書き字に混乱の原因があったのかも知れないが、今日でも「二享」、「二亨」の混乱が見られるので、参考に下に分類しておきます。
「二享」と表記しているもの
『近代文学資料6 葉山嘉樹』(浦西和彦、昭和48年6月15日、桜楓社)

『日本プロレタリア文学書目』(浦西和彦編、1986年3月10日、日外アソシエーツ)

『日本近代文学大事典』((上田正行)、昭和59
年10月24日、講談社)
「二亨」と表記しているもの
『従軍作家里村欣三の謎』(高崎隆治、1989年8月15日、梨の木舎)

『葉山嘉樹日記』(葉山嘉樹、昭和46年2月9日、筑摩書房)

ペンネーム「里村欣三」の由来

 「里村欣三」のペンネームは、本サイト掲示板への津留湊氏のご教示によると、『早稲田文学』大正12年4月1日号(通巻209号)に発表された中西伊之助の小説「奪還」(P2-54)中の「里村欣造」に由来する。
 この中西の小説「奪還」は非常に重要な意味をもっている。
 すなわち本サイト「考察」(中西伊之助との関係)で指摘したように、里村の徴兵忌避、満州放浪には中西伊之助が深く関与している。
 通常いわれているような、「徴兵を忌避し逃亡、里村欣三の名で満州を放浪する。上京し中西伊之助のせわになる。」(『日本近代文学大事典』講談社、昭和59年10月24日)というのは順序が逆で、中西伊之助の助言、もしくは手助けにより、満州に逃亡した、という考えは間違っていないと思います。
 
里村欣三の満州逃亡前後の事情は今でもほとんど明らかになっていない。その満州逃亡前後の事情を知りたい、というのが、当サイト運営(家主)の私にとっての最大の関心事である。
 中西伊之助のこの小説「奪還」だけで、なんらかの結論を出すことはむつかしいが、以下、津留湊氏へお礼の意味で本サイト掲示板に投稿した私(家主)の感想を再掲してみますと、
 作中の「里村欣造」の放浪者的心情、女に有り金を差し出す無鉄砲さ、体制に対する反抗等の中に、後年の里村欣三の風貌が随所に見られること、
 H市(平壌)に至る経路が、釜山から汽車で仁川へ、そして折からの洪水のため、仁川から船で鎮南浦へ、そこから汽車で、と読み取れること(里村の逃亡経路もその可能性があること)、
 作中の「里村欣造」に『私は、あちら[日本内地]でも、朝鮮の青年の人達をかなりに識つてゐますが、日本の青年とは余程違つたところがあります。──あのニヒリチックなところが尊いと思ひますよ。(中略)今度も、なるだけこちらで多く會つて行きたいと思つてゐるのです。』と言わせており、朴烈ら朝鮮人アナーキストとの交友を推測させること、
 『旅をして行く巡禮の姿が、子供の時代から好きでしたよ。』『両親には、殆ど養はれたことはないのです。』等、里村の『苦力頭の表情』の出生譚発想の原点がここにあるのでは、と思われる記述があること、
 この中西伊之助の「奪還」は平壌の妓楼の女、『改造』大正13年2月号に発表された中西伊之助の「アリナレ江畔の女」は鴨緑江畔・新義州の妓楼の女、里村欣三の「河畔の一夜」は新義州対岸の中国・安東の妓楼に絡む話、とある種の共通点があること、
 等、さまざまな疑問、感想が錯綜するが、また少しずつ勉強していきたい、と思います。
 とりあえず、里村欣三のペンネームは中西伊之助の小説「奪還」中の「里村欣造」に由来することを書いておきます。津留湊さん、ご教示ありがとうございました。