『日本文学全集69(プロレタリア文学集)』(昭和44年1月19日、講談社)の口絵写真におさめられたもの。
 キャプションに「明治四十二年」とあるので、満7歳頃のものと思われる。
 里村欣三の戸籍上の生家で、父前川作太郎の実家(現在は別の人の所有。旧岡山県和気郡福河村寒河1073番地=現備前市日生町寒河)。右は西願寺、後ろは天狗山。ただし、里村の母金は、里村5歳のとき広島市で死去し、夭逝した兄も里村2歳のとき広島市で亡くなっていることから、実際の出生地は、広島市の太田川の近く、旧吉島村671番地、かとも思われる。母金の死後、父は再婚し、再起を期すため、この寒河の留守居の姉に、里村と妹を預け、里村は5歳から、福河尋常高等小学校高等科を卒業する12歳までの時期を主にこの家で過ごした。(写真は『おかやま文学の古里』山陽新聞社、1992年11月23日より)
 『文芸戦線』時代の一枚(昭和2年頃)。最前列左端里村。中列肩に手を置かれているのが山田清三郎。後列中央眼鏡をかけているのが葉山嘉樹。(筑摩書房『葉山嘉樹全集第五巻』昭和52年2月10日より)
 読売新聞昭和2年8月8日朝刊第4面。
 『文芸戦線』昭和2年8月号から3号にわたって掲載された里村の「デマゴーグ」。手前で絵を描いている小学生が里村欣三で、「職業的技巧なんぞ習つてない生徒」「この生徒のヒゼンには閉口する人もあるそうです」とひやかされている。「ヒゼン」は疥癬のことで、ヒゼンダニ(疥癬虫)というダニが皮膚に寄生しておこる皮膚感染症である。
 読売新聞昭和2年12月4日朝刊第4面。
 右の解説には「有難や、こゝに三人の創作作家を迎へた。(中略)黒島傳治君の「豚群」里村欣三君の「苦力頭の表情」北村小松君の「猿から貰った柿の種子」に収穫された数篇を見よ。来年の播種用に、よく日光にあてゝ、通風に気をつけな。
」と書かれている。里村は『文芸戦線』昭和2年1月号に、「疥癬」という小説を発表しており、ここでも「疥癬虫」がひやかされている。
 『文藝戦線』昭和4年9月号の随筆「モダン跳躍」に使われたイラスト。
 「私はいつか新宿の中村屋で、日本一に旨いライスカレーをおごられた後で、何とかの鉱泉水といふものを飲まされた。(中略)一気に飲み干したのであるが、それが後で一杯五銭の価格を有する鉱泉水だと聞かされて(中略)吃驚させられた。私ならば、一片のブッカキの方がよっぽどましだ!」
 『文学時代』昭和4年10月号「辱められた山高帽」で、写真代わりに掲載されたイラスト。
 「写真を借りにくると堤寒三氏の書いた漫画を貸すことにしてゐた」(平林たい子『自伝的交友録』)ものである。
 いつ頃の写真であろうか。中央公論社中公文庫『河の民』のカバー折返し、『日本短編文学全集28』(昭和45年6月20日、筑摩書房)の口絵、その他で使われ、よく見かける写真である。比較的若く、昭和初年代のものではないだろうか。
 里村は、昭和2年4月頃、小牧近江とともに上海に渡り、郁達夫、田漢らと歓談した。『文芸戦線』昭和2年6月号「青天白日の國へ」に掲載されたこの写真のキャプションには「後列(中央)は文筆を抛つて武漢政府の宣伝部長として活躍しつつある革命作家郭沫若氏 前列、支那服をまとへるは北京を追はれて逃亡の間に難を避けて活動せる郁達夫氏」とある。その風貌と本文から、左端里村欣三、右端小牧近江と思っていたが、これは誤りで、左端王独清、右端成彷吾。1921年東京で結成された中国の文学団体である創造社メンバーの写真である。
 郁達夫は里村が昭和17年2月マレー戦従軍でシンガポールに入ったとき、『星州日報』編集職を捨ててシンガポールを脱出、のちスマトラ本島で日本兵に殺された。小田嶽夫『郁達夫傳』昭和50年3月25日中央公論社がある。
 『文学五十年』(青野季吉、昭和32年12月20日、筑摩書房)の口絵に掲載されたもので、キャプションに「昭和5年頃の「文戦」の総会(前田河宅)」とある。赤矢印で示したのが里村で、前列中央子供を抱くのが前田河、その右隣伊藤永之介、左は画家・福田新生(鶴田知也の実弟)、その左、頭に包帯を捲いたのが岩藤雪夫、後列右から3人目が青野季吉。
 満州事変の直後、昭和6年12月〜7年1月にかけて、改造社から特派された時のもの。『改造』(昭和7年2月号)に「戦乱の満州から」を発表。
 写真は「忠霊塔を前に歩哨に立つ著者」(『昭和文学全集1』集英社、昭和39年11月30日より)
 昭和8年1月23日、堺利彦氏の通夜に集まった人々。写真上、中央一番大きな顔で映っているのが里村欣三。キャプションには「右から小堀甚二、青山建、石井安一、大森義太郎、向坂逸郎、青野季吉、井伏太郎、岡田宗司、青木壮[一]郎、鈴木茂三郎、星政市、里村欣三の諸氏」とある。
 堺利彦は、葉山嘉樹と同じ、福岡県京都郡豊津生まれの、古くからの社会主義者。読売新聞昭和8年1月24日朝刊第7面掲載。タイトルは「お通夜一変 社会運動家座談会 故堺氏宅に揃ったプロのお歴々 更くるも知らず大論戦」で、「歯切れのいゝ葉山氏あたりが司会者になつて」と書かれている。
 里村にとって「生涯の一枚」ともいうべき写真。昭和10年10月20日頃。徴兵忌避→自首→裁判決着で再上京する途次、信州赤穂村に葉山嘉樹を訪ねた。
 後列立っているのが里村。前列右葉山嘉樹。左は葉山を支援した文学同好の小出小三郎。中央は里村の長男。(筑摩書房『葉山嘉樹全集第三巻』昭和50年6月25日より)里村はこの時32歳、葉山は40歳。
 里村は大正9年東京市電争議を闘い、葉山は名古屋セメントから愛知時計争議を闘い、投獄の後、プロレタリア文学の道を進んだ。里村は昭和20年2月フィリピンで戦死、葉山も20年8月満州からの引き上げの途次死去した。生死を共にした不思議な因縁が思われる。
 NHK・ETV特集「シリーズ山河あり〜戦争と自然〜」で『ボルネオ・楽園伝説〜従軍作家・里村欣三の旅』として放映されたもの(放映日不明)で、「自首」の文章が紹介されているところから、昭和10年5月1日付、長野県伊那郡赤穂村 葉山嘉樹宛の手紙と思われる。転向に至るこころの軌跡を述べた真情あふれるもので、里村にとって最も貴重な文献といえる。以前、岡山市の吉備路文学館で展示されていたのを見たが、薄手の茶封筒で、ブルーブラックのインクで書かれていたように思う。
 浦西和彦氏の『近代文学資料6 葉山嘉樹』(昭和48年6月15日、桜楓社)に、その他の里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(計18点)とともに全文が掲載されている。本サイト「里村欣三哀切文集」(里村欣三の葉山嘉樹宛手紙)にも転載していますのでご覧下さい。
 NHK・ETV特集「シリーズ山河あり〜戦争と自然〜」で『ボルネオ・楽園伝説〜従軍作家・里村欣三の旅』として放映(1995年10月17日)されたもので、前後の文脈から昭和10年5月に、岡山連隊に、徴兵忌避を自首した前後のもの(33才ころ)と思われる。
 ETVの『里村欣三の旅』は、ゲゲゲの鬼太郎と妖怪もので知られる漫画家水木しげる氏が里村の『河の民』(昭和18年11月25日、有光社)の紀行文に従ってボルネオのキナバタンガン河を遡り、ドゥスン族の村を訪ねる、というものであった。
 昭和12年7月通信隊輜重兵特務兵として徴兵されたときのもの。帽子の徽章は☆1つの陸軍二等兵(最下級)、襟に歩兵第10聯隊(第10師団)をあらわす「10」の字がみえる。大正11年に里村が徴兵忌避、逃亡したときは第10師団は姫路にあったが、大正14年5月、岡山に転営、したがって、里村が昭和10年徴兵忌避を自首したのはこの岡山である。
 昭和12年7月27日に第5、6師団とともに日中戦争に動員派遣が命令され、里村の属す歩兵第10聯隊の第一陣は8月14日、太沽(大沽)に上陸、津浦戦線から徐州、蘆州、固始と転戦、13年9月〜12月までマラリア、脚気等により病気入院、14年1月原隊復帰、14年12月内地帰還、召集解除になった。
 備前市日生町の加古浦歴史文化館に展示されている写真で、昭和12年夏、召集されて中国戦線へ出征する時のもの。前列、妻ます枝さんと長男、長女。後ろ中央里村欣三、右端の人物は不詳。 
 昭和12年8月7日、岡山練兵場での出征前の最後の面会。
 里村には、寄宿先の若いおかみさんが来てくれた。
(『岡山聯隊写真集』昭和53年10月1日、国書刊行会より)
 昭和12年8月9日、岡山駅を出発、神戸港へ向かう。妻のます枝さんと長女夏子さんが見送りに来た。
「兵六はふと背後に十年間聞き馴れた妻の聲を耳にした。「おとうさん! 冬子、ほら、おとうさんよ!」彼が吃驚して後へ振りむくと、末の女の子を背負ったきみ枝が、寝巻の浴衣のまゝ、人々の波を押し分けて列の方へ出てくるのを認めた。」(『第二の人生第一部』)
(『岡山聯隊写真集』昭和53年10月1日、国書刊行会より)
 昭和12年7月通信隊特務兵として徴兵されたときの雰囲気を伝える一枚。『姫路歩兵第三十九聯隊史』昭和58年3月24日刊 歩兵三十九聯隊史編集委員会(非売品)
 右上黒い幕の前で顔を覗かせているのが里村に酷似しているが、第三十九聯隊は姫路市中心の部隊で、里村は岡山中心の第十聯隊である。ともに岡山第10師団に属し、同時に北支戦線に投入されたが、やはり別人であろうか。
 昭和12年8月14日頃、太沽に上陸。
「太沽へ上陸するや否や、六十年来の豪雨を衝いて、馬腹をひたす泥濘の行軍であった。」(『支那の神鳴』)
 写真は第10連隊小行李のものだが、通信班も同様に難行軍となった。
(『岡山聯隊写真集』昭和53年10月1日、国書刊行会より)
 襟に星2つの一等兵の印があるので、昭和14年ごろのものと思われる(昭和12年の応召時は星1つの二等兵)。里村37才。
 『キング』昭和17年3月号(講談社)に、マレー戦従軍記「陸の上のダンケルク」を軍報道班員の肩書きで掲載したときのものだが、写真そのものは日中戦争に従軍したときのもだろう。
 里村欣三は、姫路歩兵第10聯隊、通称「赤柴毛利部隊」の一員として中国戦線に出征した。作家棟田博もこの赤柴部隊に属していた。里村は本部に直属する通信隊輜重兵特務兵で、通信機材の運搬とそのための軍馬の世話が主な任務であった。(写真は『おかやま文学の古里』山陽新聞社、1992年11月23日より)
 NHK・ETV特集「シリーズ山河あり〜戦争と自然〜」で『ボルネオ・楽園伝説〜従軍作家・里村欣三の旅』として放映されたもの(1995年10月17日)。
 中国戦線を転戦中のもので、左端が里村。
 
 第10聯隊の鈴木律治軍医准尉(大尉)は、里村が後に熱心な日蓮正宗の信者になるきっかけをつくった人。「「准尉殿!……私は信仰を持ちたいんです。(中略)私のやうな兵隊でも、信仰に入れるでせうか? 准尉殿!……」と、兵六は我知らず叫んでしまつた。」(『兵の道』)(写真は『岡山聯隊写真集』昭和53年10月1日、国書刊行会より)
 「遺家族援護の模範稲葉治良吉翁を兵庫に訪ふ」のタイトルで『婦人倶楽部』昭和15年11月号に掲載されたもの。このころ軍事保護院から派遣され『青人草 中巻』(昭和16年11月15日、軍事保護院刊)に静岡県、長野県への軍人遺家族訪問記計5本、また昭和18年には山形県大曽根村国民学校を訪れ「はぐくまれる精神」(P45-57)を『軍人援護模範学校訪問記』に書いている(昭和18年9月30日、軍事保護院刊)。
 昭和16年12月、マレー戦従軍の途次、輸送船アフリカ丸にて。(『戦争の横顔』寺崎浩著1974年8月15日太平出版社所載)
 「前列左から 栗原信、里村欣三、山本和夫、堺誠一郎、高見順、倉島竹二郎、二列め左から 豊田三郎、小田嶽夫、菱刈隆文、著者、三列目左から七人め 北町一郎、三人おいて中村地平、四列め左から 海音寺潮五郎、井伏鱒二」とキャプションにある。
 昭和17年1月、マレー戦線にて。右からスケッチする栗原信、松本直治、長屋操、堺誠一郎、里村欣三(左端)、そしてこの写真を撮影した石井幸之助が「六人の報道小隊」を結成し、最前線を志願した。
 『六人の報道小隊』(栗原信、昭和17年12月25日、陸軍美術協会出版部)より。
 昭和17年2月13日朝、キャプションに「ブキテマの報道小隊(夜襲の翌朝)」とある。右から石井幸之助、里村欣三、栗原信、堺誠一郎。里村の右手には従軍中に転倒し負傷した包帯、左手の軍刀に数珠が巻かれているのが見える。
 『六人の報道小隊』(栗原信、昭和17年12月25日、陸軍美術協会出版部)より。
 陸軍報道班員としてマレー戦線に従軍。前が里村欣三で、後ろは作家の堺誠一郎氏。
 NHK・ETV特集「シリーズ山河あり〜戦争と自然〜」で『ボルネオ・楽園伝説〜従軍作家・里村欣三の旅』として1995年10月17日に放映されたもの。
 昭和17年1月16日頃、ゲマス付近でのものではないだろうか。
 昭和17年、シンガポールキャセイホテル裏で。中央で坐っているのが里村。その前で手を前に組んでいるのが堺誠一郎。後列右端腰に手を当てているのが井伏鱒二。
 小学館『日本の作家16 井伏鱒二』1990年12月10日、口絵写真より。
 昭和17年、シンガポールにて。
 『マライの土』(井伏鱒二、海音寺潮五郎現地編集、昭和18年3月5日、新紀元社)の「歴史的会見を見たり」(里村欣三)の扉に掲載されたもの。
 昭和17年3-4月頃、シンガポールにて。左から里村欣三、堺誠一郎、松本直治、その右不明。
 『大本営派遣の記者たち』(松本直治、1993年11月20日、桂書房)より。
 講談社の『日本現代文学全集69プロレタリア文学集』の付録月報に載せられたもので、キャプションには「昭和十六年 マレーにて 右から栗原信 里村欣三」とあるが、落ち着いた雰囲気から昭和十七年四月〜五月ごろ、シンガポールにて撮影されたものではないだろうか。
 執筆中の里村欣三。NHK・ETV特集『ボルネオ・楽園伝説〜従軍作家・里村欣三の旅』として放映(1995年10月17日)されたもので、年代は不明だがこの時期のものではないかと思われる。
 昭和17年10月21日、ビンタサンのカザイ(商店)にて、オラン・スンガイ(河の民)の老人を治療する里村(左)。「ジャングルの切株で足の裏を踏み抜いた」老人を「俄医者になって、サンダカンの橋本軍医から戴いて来た薬品(アルコールとヨーチン)で治療してやった。」
 『北ボルネオ紀行 河の民』里村欣三著昭和18年11月26日有光社刊の本文より。
 昭和17年10月26日、ボルネオ タンバサ付近の中洲で炊事をする里村。
 『北ボルネオ紀行 河の民』里村欣三著昭和18年11月26日有光社刊の本文より。
 昭和17年10月31日、ボルネオ キナバタンガン河上流のトコサルンにて。後列右端が里村、一人おいて右足を前に出しているのが同行した三菱商事調査団の大沼氏。
 『北ボルネオ紀行 河の民』里村欣三著昭和18年11月26日有光社刊の口絵写真より。
 昭和17年11月4日、ボルネオ ミリアンで、ムルット族の人々と。前列左が里村、右三菱商事の大沼氏。
 『北ボルネオ紀行 河の民』里村欣三著昭和18年11月26日有光社刊の本文より。
 左から大江賢次、高見順、里村欣三。
『映画之友』昭和18年3月1日号(映画日本社刊)、陸軍報道班員座談会「遥かなる南の映画を語る」より。
 キャプションに「第一回マレー会。一九四三年三月新宿の料亭で。向う側左から一人おいて中島健蔵、井伏鱒二、里村欣三、寺崎浩、栗原信の面々」とある。『大本営派遣の記者たち』(松本直治、1993年11月20日、桂書房)より。
 昭和18年2月18日『讀賣報知』第3面「増産必勝魂」記事中の写真。キャプションにはドリルを握って採炭敢闘の炭坑戦士 左端里村欣三氏(磐城炭坑社員平野諭氏撮影)とある。
 里村欣三の家族。長男、長女、次女、右端、妻ます枝さん。中央は里村の妹・華子さんかと思われる(1995年10月17日、NHK・ETV特集『ボルネオ・楽園伝説〜従軍作家・里村欣三の旅』から)。『岡山の文学アルバム』(山本遺太郎著、昭和58年2月1日、日本文教出版)では左端の少年を切り取って「少年期の里村欣三」としているが、これは誤りで里村の長男である。 
 『日本文学全集69(プロレタリア文学集)』(昭和44年1月19日、講談社)の口絵写真におさめられたもので、「昭和十九年十月」とキャプションにある。フィリピン戦線に従軍する直前のもので、あるいは生前最後のものかもしれない。
 今日出海氏の回想「故里村欣三君のこと」(『人間』昭和21年1月1日創刊号)に使われた写真で、昭和20年3月3日『朝日新聞』第4面の「里村欣三氏戦死」記事にも使われている。雑誌社、新聞社にポートレートとして配布したものだろうか。
 「里村欣三の遺影」。
『日生を歩く』(前川満著、2002年7月21日、日本文教出版刊、岡山文庫218)より。