満州小考(1) チチハル満鉄建築事務所

 【お断り】JIS第二水準漢字を使用した地名があるため、Uni-Codeで入力している箇所があります。一部のブラウザーで「?」に文字化けすることがあります。その文字は、さんずいに兆、および昴に似た字で、これを擬似的に示すと、「兆昴」、「昴昴渓」、「兆南」、「四兆」です。

 里村欣三は昭和6年11月から12月にかけて、改造社の特派員として戦乱の満州(中国東北部)を旅し、雑誌『改造』昭和7年1月号に「北満の戦場を横切る」、同2月号に「戦乱の満州から」を発表した。後者はのち集英社の『昭和戦争文学全集1 戦火満州に挙がる』(昭和39年11月30日刊)に収載され、橋川文三の「解説」では「恐らく作家の報道記録としては、もっとも早い時期のもの」と紹介されている。
 『葉山嘉樹全集第6巻』(「未投函書簡」昭和51年6月30日、筑摩書房)には「里村は、僕がまるで尻を押し出すやうに押し出した満州特派でも、内部からの酷い嫉妬を十二分に受けた。」とある。『葉山嘉樹日記』( 昭和46年2月9日、筑摩書房)昭和7年1月10日の記事に「里村の満蒙談を聞いているうちに、粉煙草も無くなつたので、ゴーリキー全集を質に入れて一円借り刻みと塩せんべいを買ふ」、同11日の記事に「里村と一緒に改造社に行く。(中略)里村は満蒙座談会の稿料を受け取り」とあり、この里村の満州特派には、里村欣三の以前の満州放浪経験を周知している葉山嘉樹の推薦があったのかも知れない。
 平林たい子は『自伝的交友録・実感的作家論』(昭和35年12月10日、文芸春秋社)で、「(里村は)改造社にいた水島氏に頼んで、満州へ改造特派員となって行った。これが、彼の戦争に対するある種の心理的変化のきっかけだった。」と書いているが、当の水島治男の『改造社の時代 戦前編』(昭和51年5月25日、図書出版社)にはこの辺りの事情は何も記されていない。
 里村欣三の「満州逃亡」ないし「放浪」がいつ頃行なわれたのか、について要約すると、里村の第1回目の「徴兵忌避・満州逃亡」は、徴兵検査の年、大正11年10月末か11月の初めから大正12年5月ごろにかけて行なわれた。そしてこれとは別に大正13年、または大正14年のどちらかの夏を含む時期に第2回目の「満州放浪」が行なわれたのではないだろうか、というのがこれまで当サイトにおいて考察してきたところです
(考察「労働運動上の傷害事件はあった」「中西伊之助との関係」をご覧下さい)が、この第2回目の「満州放浪」に関連する記述を上記「北満の戦場を横切る」中に発見したので、このことを巡って考察を行なっていきたい。

満州事変(概要)

 まず初めに、里村欣三が改造社特派員としてルポした「満州事変」とは何であったのか、その概要を見ることにする。(出典は一々記さないが、各種歴史関連図書を当サイト家主がまとめたものです。)

 日本の満州における権益の中心は南満州鉄道であった。
 ハルビン(哈爾賓)から旅順に至る東支鉄道南部線は、ロシアが1903(明治36)年に開通させたが、明治37、38年の日露戦争後、ポーツマス条約および日支善後協約により、関東州の租借権とともに、長春(寛城子)以南の鉄道およびこの附属地に関する権利、駐兵権を獲得した。この鉄道が南満州鉄道(満鉄)で、地図が小さいので分かりにくいが、左の地図で
赤い路線で表示されているところがそれ(地図は大正12年5月現在)。

 この地図は「南満州鉄道」用の地図なので、満州北部(地図上部)の黒龍江省はほとんど欠損して表現されていないが、
満州(中国東北部)というのは朝鮮半島に直につながる地域であることが分かる。赤い路線で表現されている南満州鉄道南部の半島先端部が旅順、大連のある関東州。同じ赤い南満州鉄道路線の最上部(北部)が長春、この長春から水平に東(地図では右)に移動したところが吉林で、この線を基準に南満州と北満(北満州)に分けられる。

 昭和6(1931)年9月18日夜、旧満州奉天(現瀋陽)北方の柳条湖において、関東軍板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐を中心とする謀略によって満鉄が爆破(小破)された。これを合図に、
南満州鉄道の附属地を守備する独立守備歩兵第二大隊が、中国東北軍の駐屯地であり兵器工廠である北大営、東大営を攻撃し、満州事変が始まった。「初一撃」によって、満鉄の附属地を出て、沿線諸都市を占領したのである。
 第一次世界大戦後、中国では民族自立の声が高まり、1917(大正6)年のロシア10月革命による混乱に乗じて、各国が中国内で獲得していた権益を取り戻そうとする動きが起った。21ヶ条要求に反対した1919年の五四運動は北京から全国に拡大し、民族自立、反日機運が激しくなっていった。
破壊された嫩江第5鉄橋
『満州国と関東軍』新人物往来社、P52
 昭和2(1927)年、蒋介石の国民革命軍は封建軍閥打破、中央集権化を目指し北伐を開始、張作霖は北京にあって国民革命軍に抵抗していたが、昭和3年5月、勝敗の帰趨を知り奉天(瀋陽)へ退却しようとした。この機をとらえた関東軍による張作霖爆殺の直接の動機は、「日本が吉林ー敦化から朝鮮の会寧までの対ソ軍事作戦に重要になる鉄道の敷設を、このドサクサの間に承認させようとしたのを張作霖が拒否したためだといわれている」(『目撃者が語る昭和史 第三巻 満州事変』1989年5月10日、新人物往来社)。父を殺された張学良は「易幟」し、「中華民国共和国の五色旗を降ろして国民党の青天白日旗を掲揚し、国民党の治下に入」(同『目撃者が語る昭和史』)った。

 中国は1927年には南満州鉄道に並行する「満鉄包囲線」である打通線(通遼ー打虎山)を、1929年には吉海線(吉林ー海竜)を開通させ、1930年度(昭和5年)の南満州鉄道の営業収入は「前年度の三分の一を下まわるという、創業以来の不成績」(同『目撃者が語る昭和史』)であった。国内での深刻な不況、農村の疲弊を抱えた日本は、機会を捉えて満州権益の安定化、反日勢力の排除を企図していた。
 昭和6年6月、対ソ戦資料収集のためチチハル南方の察爾森方面を密偵していた中村震太郎大尉が殺害される事件が発生し、満州問題解決への世論が急激に高まる中で、昭和6(1931)年9月18日夜、関東軍の板垣征四郎、石原莞爾らを中心に謀略が仕掛けられたのである。この「柳条湖事件」を合図に、満州事変が始まった。
 関東軍司令部は旅順にあり、駐留第二師団(仙台部隊)約4,000人は奉天近くの遼陽にいた。満鉄を警護する独立守備隊は約4,000人が各沿線に配備されていた。東北四省(奉天、吉林、黒龍江、熱河)の中国軍は、東北辺防軍司令官張学良がこれを統括指揮し、正規軍268,000人、公安隊等の不正規軍180,000人とされている。(『第2師団のチチハル攻略』昭和42年1月10日、原書房)
 主要な戦闘は、奉天・長春附近の戦闘、吉林への進出、錦州爆撃、チチハル(齊々哈爾)への進撃である。チチハルは黒龍江省の省都であり、約5,000の兵力を集中して馬占山が総指揮に任じていた。
 チチハル攻略戦は昭和6年10月15〜18日にかけて、
洮昻鉄道の嫩江に架かる鉄橋を馬占山軍が焼却破壊したことから始まり、同年11月19日第2師団のチチハル入城をもって終結した。
 南満州鉄道の沿線附属地を大きく外れ、洮昻鉄道に沿った北満チチハルへの進撃はなぜ行なわれたのだろうか。そして里村欣三はこのチチハル(齊々哈爾)とどう関わっていたのだろうか

里村欣三・満州事変ルポのルート

地図は『満州国と関東軍』1994年12月30日、新人物往来社、P51
 里村欣三は事変渦中の満州(中国東北部)を昭和6年11月から12月にかけて改造社特派員として訪れ、雑誌『改造』昭和7年1月号に「北満の戦場を横切る」、同2月号に「戦乱の満州から」のルポを掲載した。
 ここからその足跡をみると、日本がチチハルを占領した直後の11月24日に、ハルビン(哈爾賓)から夜行列車で「避難民達と一緒に苦力車へ押しこめられ」て東支線「齊々哈爾」着、齊昻軽便鉄道で省城のあるチチハル市街地に「夜の二時過ぎ」に着いた。「睫毛までが凍氷」する寒さだった。初日を除き宿泊したのは「龍沙旅館」で、連日市街をルポ。
 11月27日午前10時、「洮昻線を南下して○○方面に出動する軍用列車に同乗して龍江站を発車した」。龍江站は齊々哈爾省城の駅で洮昻線の起点駅ある。
昻昻渓、三間房を経て大興で下車、戦場の「死体捜査に加はつた」。「直ぐ次の軍用列車で洮南に向つた。「破壊され修理が出来あがつたばかり」の嫩江橋をわたり、夜、洮南着。「たつた一軒しかない南満旅館に投宿した」。11月29日までは洮南にいたことが確認できる。八面城駅、四平街を経て奉天へ。
 12月10日午前10時、「奉天発の軍用列車に便乗して、新民屯へむかつた」。
その夜、「日本領事館分館に同宿の便宜をあたえられた」。馬賊討伐について腰高台子へ。
 奉天に戻り炭都撫順へ、朝鮮人民会で「避難の鮮農群」をルポ。
 以上が里村欣三の満州事変ルポのルートである。
 この二つのルポ、
「北満の戦場を横切る」、「戦乱の満州から」は、事変のもつ性格、満鉄の担った役割、戦争の悲惨な実相、中国人の視線、在満朝鮮人の悲惨をまっすぐに見ており、秀逸である。

 しかし、あえて言うなら、里村欣三の徴兵忌避の自首(昭和10年5月)から日中戦争従軍(昭和12年7月〜14年12月)を経ての転向過程を考えるとき、この特派員ルポではまっすぐに見えていた事変に対する視線が、どこで覆い隠されたのか、または自身で覆い隠したのか…。ルポルタージュとしては全き視線を有しているけれども、逆に、自身が徴兵忌避者であることの陰を見せないところにこそ、里村欣三研究の、あるいは「里村欣三の転向」研究の核心があるのではないだろうか、と思わせるルポである。

 さて、里村欣三がこのルポにおいて、まっすぐに「事変」を見ることができたのは偶然ではない。
 大正11年10月末か11月の初めから大正12年5月ごろにかけての「徴兵忌避・満州逃亡」、そして本考察の後半で検討する「大正13年、または大正14年」のどちらかの夏を含む時期の第2回目の満州放浪、それ以降も里村は満州に継続して関心を持ち続けてきたのである。そのことを少しく跡づけておきたい。

 蒋介石が北伐を開始しはじめた大正末から昭和2年のことである。

 里村欣三は1926(大正15)年10月、「毎日毎日、新聞面を睨めては、この支那の革命軍に、若い情熱が呼びさまされて来るのをどうすることも出来なかつた。(中略)そして兎に角、私たち三人は×月×日香港行の天洋丸の甲板上にあつた。(中略)船は、濁流を横切つて上海に着いた」(里村欣三「疥癬」『文芸戦線』大正16年(昭和2年)1月1日号)、「蒋介石の北伐軍に加わろうと、近所に住んでいた建具屋徒弟の石井安一や、もう一人の友人と語らって上海に出かけたが、金がなくなって這々の態で帰ってきた」(『自伝的交友録・実感的作家論』平林たい子、昭和35年12月10日、文芸春秋社)という行動をとっている。
 また翌年の昭和2年4月には、小牧近江とともに上海で開催予定の汎太平洋反帝会議に参加するため、再び上海に渡った。
 「そのころ上海は、帝国主義列国の軍隊によって、国民革命が武力干渉をうけていた。(中略)そういう上海に、『文芸戦線』は特派員をおくったのだ。中国の革命的文学者と、日本のプロレタリア文学者の友誼をかため、相互の運動を協力しあうために。(中略)上海への期待が、ゆくものの胸も、送るものの胸をも、大きくふくらませていた。同人たちは、二人を東京駅に、送って行った。革命の上海へ。ホームで小牧と里村の手をにぎったとき、意気地もなくわたしは泣いた」(山田清三郎『プロレタリア文学風土記』1954年12月15日、青木書店)。
 こうした行動の中から生み出された作品が「シベリアに近く」(『戦争ニ対スル戦争』収載、昭和3年5月25日、南宋書院刊)であり、昭和5年の
『兵乱』である。
 
『兵乱』(昭和5年4月30日、鹽川書房刊、初出は『文芸戦線』昭和5年1月〜4月号・計4回)は、後の『第二の人生』三部作を除けば、里村欣三にとって最長編に属するものであり、ある意味でルポルタージュ的作家である里村には珍しい、小説的結構の作品である。内容は貧農の側に立った反兵匪・反軍閥小説であるが、昭和2年頃と異なり、国民党革命軍支持ではないところに発表までの時間的経緯が感じられる。しかし継続して「満州」に関心を持ち続けていたことが判るのである。
 このあと昭和10年7月に書かれた
「苦力監督の手記」(『文学評論』昭和10年7月号)は、奉天を舞台に満州事変に題材をとったもので、満州事変のルポと同様の冷静な視線が感じられる。
 「江口のおやぢに拾はれて、小使とも苦力の世話役ともつかない仕事にコキ使はれて」いる「俺」。おやぢから「貴様は何かと言ふと、直ぐ支那人に同情しやがる。そんなことで仕事になると思ふか、馬鹿!」と罵倒されながら、戦役に使うため無理に徴集してきた「苦力」に逃亡され、二度目に集めた苦力にも逃亡されそうになり、ピストルを握る「俺」。
 愛する平康里(ピーカンリ=色街)の女に「お前のやうな碌でなしは、日本人の社会では大手をふつて威張れないものだから、自分たちより弱い、貧乏な支那人の中へまざり込んで、虚勢をはりたがるんぢやないか。」といわれて、「唖のやうに口に蓋をされ」たようになり、「唇だけがふわふわと痙攣して、一口も言葉にならなかった」俺。
 昭和10年における里村欣三の位相を見るかのような作品である。

チチハル満鉄建築事務所と洮昻鉄道

 さて、ここからが本考察「満州小考」の本番である。
 里村欣三はこの満州事変のルポ「北満の戦場を横切る」(『改造』昭和7年1月号)中に、左の写真の文章を載せている。
 この文章の中で里村欣三は筆の赴くところ
「かつて七年前にこゝの満鉄建築事務所で働いてゐた頃よく遊びに行つた淫売屋を思ひ出した。」と書いているのである。
 すなわちこの特派員ルポの書かれた昭和6(1931)年11月下旬を起点にした七年前にこのチチハルにいて満鉄の建築事務所で働いていたことがあり、淫売屋に「よく遊びに行つた」くらいの土地勘がある、と言っているのである。
 1931年を起点にして単純に2年前といえば1929年で、この方式で7年前と言えば1924年、すなわち
大正13年にこのチチハルにいたことがある、と言っているのである。けれども、人が五年前、七年前と言うとき、正確に満で年数をカウントするのであろうか。時には起点の年を第一年目としてカウントする錯誤も起こりうるのである。その意味で大正14年にチチハルにいた可能性も否定できないのである。

 満鉄(南満州鉄道)の建築事務所が、いつごろ、なぜ、このチチハルに置かれたのだろうか。

 『南満州鉄道株式会社第二次十年史(上)』(1974年6月29日、復刻原本=1928年刊、原書房刊)によると、ハルビンに「哈爾賓公所」が置かれたのは大正7年1月、チチハルの「齊々哈爾公所」は「大正11年8月24日公所創設と同時に省城財神廟街に事務所を開設し大正15年泰来南大街義興院内に派出所を設置せり」(P132)とある。

 チチハルに「齊々哈爾公所」が置かれたのは、旅客や大豆等の農産物の輸出を南満州鉄道に誘導するための出先機関としてである。しかし北満のチチハルは、満鉄の附属地でもないし、ハルビンのような“国際都市”でもない。従って里村欣三が働いていたことがあるというこの大正13年、ないし14年に、チチハルに「建築事務所」を置いたのは、満鉄が関与運営する公共施設の建設を行なうため、という可能性は低のではないかと思われる。むしろこれは大正14年に行なわれた洮昻鉄道建設に関係する「建築事務所」なのではないだろうか。

チチハルの町並み。キャプションに
「関東軍が占領した当時、このチチハルは人口約20万、
日本人居留者は約300だった」とある。
『満州国と関東軍』新人物往来社、P49
 『南満州鉄道株式会社第二次十年史(上)』(P459-460)によると、洮昻鉄道は奉天官憲と満鉄との間に借款契約が結ばれ、満鉄が大正14年から建設を行ない、同15年に完成したものである。
 「本鉄道は軌間四呎八吋半にして四洮鉄道の終点洮南より東支線の一駅昻昻渓に接する模古気(此の地を洮昻線にては昻昻渓と称す)に至る延長百四十二哩八を有し奉天官憲と会社との間に建造請負契約成立し大正十四年八月二十八日交通部の承認を得て起工したるものなり
 本鉄道は大正十四年三月十八日測量に着手し同年五月二十八日より工を起し翌十五年七月四日終端まで軌道敷設工事を了り同月十五日より仮営業を開始せり
 (中略)本鉄道沿線は泰来気附近を除き一帯自然に放棄せられたる原始的地域なるが可耕地積の広大なると東西の交通便利なりたるを以て遽に移住を喚起して移り来る者陸続とし集まり開墾は著々と行はわれつゝあれば近き将来に於て本鉄道により附近一帯の多量の農産物は市場に搬出せらるべく四洮線と相俟つて東蒙開発の先駆たることは明かなり」と書かれている。

 この記述で、「工を起し」た五月二十八日と、「交通部の承認」の八月二十八日が前後し矛盾するようだが、おなじ南満州鉄道の
『南満州鉄道株式会社三十年略史』(1975年7月19日、復刻原本=昭和12年4月刊、原書房刊、P285)にも
 「洮昻鉄路は四洮鉄路の終点洮南から東支鉄道昻昻渓に至る鉄道で東三省官憲と会社との間に「洮昻鉄道建設請負契約」が成立し、大正14年8月北京交通部の承認を得、建設資金1,292萬円を以て同年5月起工、翌15年7月軌道敷設工事を終り同月15日仮営業を開始した。尚その延長線だけは日本資金を忌避し自弁建設に決定、昭和3年6月起工同年12月14日完成を見てここに四平街・齊々哈爾を結ぶ全線が開通した。」とあるので、大正14年5月から洮昻鉄道が起工されたことは間違いない。
 仮に
里村欣三が大正14年にチチハルにいて「満鉄建築事務所」で働いていたと措定すれば、この洮昻鉄道建設に関係する労働に従事していた可能性が相当あるのではないだろうか。

 本考察で主にとりあげた里村欣三の「北満の戦場を横切る」(『改造』昭和7年1月号)にも、
 「東支鉄道附属地を「齊々哈爾(チチハル)」と呼び、「
昻昻渓(ママンチー)」は附属地から一哩ばかり離れた洮昻沿線の市街だ。所謂「齊々哈爾城」と言はれるのは、東支線附属地から十哩ばかり北へ入つた市街地で、支那人は普通「卜魁(プークイ)」と呼んでゐる。人口約十萬、黒龍江省の首都で、軍事上重要な地位を占めてゐる。」と書いている。
 チチハル占領後わずか5日の昭和6年11月24日、戦乱の昻昻渓に、里村欣三は夜半一人で下車したのであり、チチハルに対する土地勘が端々に感じられるのである。

 いま見てきたように、洮昻鉄道は中国の所有であるが、満鉄の借款により建設されたもので、この償還が行なわれないうちに鉄橋が破壊されたことを口実に、関東軍によるチチハル進攻が行なわれ、つづいてハルビン進攻、1932(昭和7)年3月1日の「満州国」建国へと展開していくのである。
 チチハル進攻作戦については、『第2師団のチチハル攻略』(昭和42年1月10日、陸戦史研究普及会編、原書房=写真)が詳しい。

その他のこと

 本考察の冒頭に書いたように、里村欣三のふたつの満州事変ルポ、「北満の戦場を横切る」、「戦乱の満州から」は、橋川文三が「恐らく作家の報道記録としては、もっとも早い時期のもの」と紹介しているが、里村欣三とは切っても切れない関係の中西伊之助も、満州事変発生時、朝鮮にいて、同じ改造社の要請で奉天に入り、「銃剣の下を潜って」というルポを書いている。『改造』昭和6年11月号に掲載されたもので、9月20日の平壌の戦時気分を伝えるとともに、22日夜、奉天に向けて出発し、事変勃発の地、北大営や東北兵工廠、奉天市内の緊迫した状況を伝えている。伏せ字や削除も多く、「両腕を背手に縛り上げられた支那服の青年」に同情する姿が見られるが、事変の積極的な分析はなく、現地ルポに終っている。

 本考察とは関係ないが、このルポ中に、
 「S君は私が平壌在住中から二十年来の舊知で、ここで有名な料亭喜楽の経営者だ。昔からの変り者で、(中略)私と昔から気があったので、平壌へ来るといつもここで厄介になっている。」
という記述があるので、中西伊之助と朝鮮の関係を知る上で参考になるかも知れないので、書き留めておきます。


 続けて、満州小考(2)として、ハルビン(哈爾賓)と里村欣三の関係を考察しますので、完成しましたらこちらのほうも併せてご覧下さい。


 (2006.5.7)