逃亡兵か、徴兵忌避か

 里村欣三が徴兵忌避の後、満州を放浪したと推測される大正11年、12年を年譜的に振り返ると、大正11年6月ないし7月に(『神戸又新新聞』等)徴兵検査を受け、甲種合格したが(里村欣三の葉山嘉樹宛手紙 昭和10年7月10日『葉山嘉樹』浦西和彦 昭和48年6月15日 桜楓社)、そのまま郷里を飛び出し、入隊日である大正12年2月にはすでに満州に渡っており、金もなく帰ってこれなかった。そのため、父の前川作太郎は責任を感じて岡山市警防団長の職を辞した(「或る左翼作家の生涯」堺誠一郎『思想の科学』1978年7月号)、というのが真相だろう。里村欣三は逃亡兵ではなく、徴兵忌避者である。

逃亡兵伝説

 里村の「逃亡兵伝説」が広く流布したのは、平林たい子の「二人の里村欣三」(『自伝的交友録・実感的作家論』、昭和35年12月10日、文芸春秋社、初出は昭和30年6月28日『別冊文芸春秋46』)によると言われる。
 もっとも「逃亡兵伝説」そのものは里村生存中から相当流布していたと思われ、昭和23年8月の『現代文学代表作全集』(第二巻、萬里閣刊、解説平林たい子)や昭和30年刊行の『現代日本小説大系42(プロレタリア文学第一)』(日本近代文学研究会刊、解説青野季吉)等にも逃亡兵伝説が見られる。
 「二人の里村欣三」で平林たい子は次のように書いている。
 「徴兵検査に合格して姫路の聯隊に入営したのはその車掌時代であるらしい。彼が社会主義同盟に入ったことを、隊の幹部が知ってゐたので、普通の兵卒以上に軍隊ではいぢめられた。苦しさのあまり自殺を計ったこともあったが死ねなかつた。そこで用意周到に脱営を計劃した。彼は、隊内に遺書を残し、海岸に靴や軍服を残して、海に投身したといふ形にした。彼はすぐに、上海に逃亡したらしい。」
 平林たい子は『鉄の嘆き』(昭和44年12月25日、中央公論社)では次のように書いている。
 「花田(里村)は兵役中兵営から逃走した逃亡兵であった。(中略)彼が水死を装って逃げたのはそのあとであった。(中略)本来この隊にたまに起る逃亡計画が成功した例は絶無だった。はじめての例としての成功者が自分だということには誇らしい感慨もなくはなかった。」
 おなじく平林たい子は、『砂漠の花 第二部』(昭和32年7月10日、光文社)で、
 「彼(里村)はごく抽象的にしか言っていなかったけれども、じつは逃亡兵で、そのときは変名で逃亡中だったのである。」

 マレー戦線従軍の「六人の報道班員」の一人、松本直治も『大本営派遣の記者たち』(1993年11月20日、桂書房)で、「徴兵忌避か脱走か、(中略)里村はそのいずれかの結果をついにしゃべらなかった」と書いている。
 最も信頼しあった堺誠一郎も、戦後昭和53(1978)年7月号の『思想の科学』で、自身がその真相を明らかにするまで、逃亡兵か、徴兵忌避者かについては、あいまいなままだったのではないか。中公文庫の『河の民』(1978年2月10日初版)の堺氏の解説では「歩兵第十連隊に入隊したが、約三ヵ月後兵営に遺書を残して脱走、海岸に軍服その他を脱ぎ捨てて水死を装い」と記し、平林たい子の「逃亡兵伝説」そのままである。

 「里村の一身上の秘密を(中略)知つてゐいるのは、葉山嘉樹氏と青野季吉氏と小堀と中西伊之助氏だけ」(平林『鉄の嘆き』)だったのである。

 井伏鱒二は『徴用中のこと』(1996年7月10日、講談社)で、
 「里村君は郷里が岡山である。岡山の聯隊にゐたとき、意地の悪い下士官に苛められるのがつらくて脱走し、東京に出て上野の精養軒で皿洗いをしてゐたところ関東大震災に遭つた。(中略)だから里村君は脱走兵である。私は誰からともなく聞いて、里村君はさういふ経歴の人だらふと思つてゐたが、大阪の兵舎に入って三日目に、里村君自身から本当の告白だといふ話を聞かされた。その身上話によると、岡山の兵営から脱走した前川二亨は里村欣三と変名して左翼小説を書いてゐたが、(中略)或るとき新宿駅で、岡山聯隊にゐたときの小隊長にばつたり逢つた。(中略)元小隊長の後姿を見てゐると涙がこみあげて、すぐ岡山までの旅費を調達して元の聯隊司令部へ自首して出た。(中略)私はこの懴悔話をそのまま信じてゐたが、(中略)最近になって、堺誠一郎の書いた「或る左翼作家の生涯」といふ記録を見て、大阪の兵舎で語った里村君の告白には念入りな嘘を織込んであるのが判つた。」

 逃亡兵には山狩りをしてでも捜索する時代であったから、徴兵忌避者である里村が、自身の経歴をカムフラージュするのは当然である。しかし、井伏鱒二には、「念入りな嘘を織込んで」自己を語った。徴兵忌避の自首、日中戦争従軍の経験を経て、多少は自己を語る境遇(転向)にあったのだろうし、井伏に気を許したのだろうが、では
なぜ、徴兵忌避者としてではなく、逃亡兵として自身をカムフラージュしたのだろうか。

 その心情を推し量ってみると、逃亡兵として自己をカムフラージュするなら、「苛められるのがつらくて脱走し」たと言えば、それ以上の根拠の追及は少ない。逆に、徴兵忌避者として真実の自己を語るなら、行き着くところ、徴兵忌避の思想を語り、後述する東京市電、神戸市電での労働運動活動家時代を語り、労働運動上で発生した「傷害事件」を語らなければならなくなる。
 里村欣三には「輿論と電車罷業」「罷業者の妻」「デマゴーグ」等、市電労働者の闘いを描いた作品がいくつかある。しかし「これが里村欣三をモデルにした」と推測させる人物は登場しない。里村の知られているすべての作品を通しても、直接に市電労働者としての里村自身の姿を推測するのはむつかしい。
 なぜ、市電労働者としての自己を直接に語った作品がないのだろうか。
 
里村欣三と市電労働者(東京市電)の関係につては、本「考察」の後半で説明しますが、作家生活の初期においては、徴兵忌避の追及から逃れるために市電労働者時代の真実をいえなかったのであり、昭和10年、徴兵忌避を自首して出た後は、「かつて僕を厚い友愛と同志愛で包んでゐてくれた人々に迷惑のかゝることを怖れる」(昭和10年5月1日、里村欣三の葉山嘉樹宛手紙)ために言えなかったのである。
 しかし、里村のこころの、その最も奥深いところでは「若い放埒な時代を振り返へることも、彼には苦痛だつた。」(『第二の人生』)。
 市電労働者時代の自己を率直に語ることは、自身を丸裸に曝すことである。市電労働者時代を赤裸々に語らなかったということ、敷衍して言えば、徴兵を忌避し満州に逃亡したその核心である市電労働者時代の闘いを秘匿したということは、里村の軍国主義への傾倒が、真実でもあり、かつ仮装でもあったといえるのではないだろうか。このあたりに、徴兵忌避者ではなく、逃亡兵として自己をカムフラージュした理由があるように私には思える。

満州放浪の時期

 徴兵を忌避した里村は、いつごろまで満州を放浪(逃亡)したのであろうか。
 「数年間、満州で放浪生活をしていたらしい」(『京築の文学風土』城戸淳一 2003年3月22日 海鳥社)というのが一般的な理解のされ方である。
 しかし事実はもっと短い期間であり、少なくとも大正12年8月以前には帰国しており、
満州放浪の時期は大正11年7月頃(9月の可能性がある)から12年6月(5月の可能性もある)の1年弱の期間である。さらに考察が進めば、もっと満州逃亡の時期が短くなる可能性さえある。その理由等は後で朴烈、中西伊之助との関係で考察します。

 
中西伊之助は「朴烈君のことなど」(『文芸戦線』第三巻第一号 大正15年1月号)で、「[朴烈君とは]震災前、僕[中西]の出獄を迎へてくれた時に会つて、それきりで、僕は千葉の海岸へ躯を養ひに行つてゐるうちに、震災だつたのだから。」と書き、
 里村欣三は「思い出す朴烈君の顔」(『文芸戦線』第三巻第五号 大正15年5月号)で、「[朴烈、金子文子と最後に会った]翌日、私は中西さんと一緒に九十九里の海岸に行つた。私たちは一ヶ月中(中西さんは出獄の躰を休めるために)思ひ存分に真黒になつて遊んだ。後にも先にも、一ヶ月思ひ存分に遊べたのはこれが最後であろう。そこへあの地震が来たのだ。」と書いている。
 中西伊之助の「出獄」とは、1920年(大正9年)4月25日からの東京市電第二次ストライキで、治安警察法違反で検挙されたときの判決が確定したために、この大正12年に約90日間再収監されたもの。(『都市交通20年史』日本都市交通連合会 昭和42年6月1日ほか)。読売新聞「よみうり抄」(大正12年3月27日、同6月18日朝刊)によると、「治安警察法違反事件の判決で言渡は六ヶ月で(内三ヶ月未決通算)[三月]二十六日入獄し」、「[六月]二十八日早朝中野刑務所を出」た、とある。
 
この中西の出獄に里村欣三が付き添い、九十九里浜での静養中に大正12年9月1日の関東大震災に遭遇した
 里村は前掲の「思い出す朴烈君の顔」で、「私は秋風とともに、まもなく流浪の旅に出た。」とも書いているが、大正13年8月には『文芸戦線』に「輿論と電車罷業」を発表しており、大正12年秋から13年にかけて再度満州を放浪したとは思えない。
 したがって、里村欣三の満州放浪は、姫路で徴兵検査を受けた大正11年6月ないし7月の直後から大正12年の5月頃までが可能性の期間であり、以下に考察するように、事実は前後1・2ヶ月さらに短いかも知れない。この1年弱の放浪経験をもとに、次の作品群が生み出されているのである。

満州放浪の足跡

 里村欣三の満州放浪の足跡を垣間見せる作品は、
  「河畔の一夜」 『文芸戦線』大正14年11月号
  「モヒ中毒の日本女」 『文芸戦線』大正15年2月号
  「苦力頭の表情」 『文芸戦線』大正15年6月号
  「飢」 『解放』大正15年8月号
  「北満放浪雑話」 『中央公論』昭和2年7月号
  「放浪の宿」 『改造』昭和2年12月号
  「放浪病者の手記」 『中央公論』昭和3年5月号
である。

「河畔の一夜」「ちょっと一列車遅らして、名高い鴨緑江の流を見るつもりで安東に下車した。が、いざ雨に洗はれた駅前の清々しい広場に佇んで、楊柳の青葉越しに聞えて来る櫓の音に(中略)「支那ピイを」素見してみたくなった。」そして翌朝、「女から輿えられた接吻を最後の思ひ出に断食の儘私は、北満への汽車の旅をつゞけて行った。無論、長い面を車窓に撫でる李炳君と一緒であった。」これが満州放浪の初めである。楊柳の青葉の頃に、朝鮮半島を抜け、国境の鴨緑江を見るために、満州入口の安東に降り立ったのである。そしてこの旅に「李炳」という「プロレタリア運動者が淫売を買ふことの可否に就いて、悲しい論議をつゞけながら」ともに淫売を買いに行く同行者が居たのである。この「同行者」のことをどう考えたらいいのだろうか。

「モヒ中毒の日本女」「満州の朔風は針の如く、凍地の砥の如き滑かさは支那靴の底皮をともするとすくひ上げるのであった。」「支那服の太田と靴屋と私との間には、遂ひに先輩の諸浪人達が歩んで行詰った道程を踏んで終りに「折角支那まで来て盗棒じゃなさけない、一つ不正売買者を脅かすんだねェ」と、相談がなり立ったのである。」として、「日信洋行」主の中崎を脅す話である。「朔風」は北風のことで、季節は冬である。

「苦力頭の表情」「指の金が往来を越えて、五月の陽にピカリと躍った。」「だが俺には出て行くところがなかった。ここを無理に出てみたところで、不潔な見知らぬ街と、言葉の通じない薄汚い支那人と亡命の露西亜人に出喰はすだけのことだ。(中略)俺は今朝ここの停車場に吐き出されたばかりなのだ。」「女は俺の財布から七圓とった。(中略)この北満の奥地で運命を試すことは如何にも痛快なことではないか」「眼がさめると夕暮であった。五月といふのに薄寒かった。」

「飢」「日本にゐりあ、野垂れ死することもあんめえものを。」「「行かう、乞食するなァ、最後の時まで蔵って置きなよ。」俺の見栄が、この村にとゞまって乞食することを拒む。「公園よ、停車場よ、さらば……」」「夏の朝風が妙に體にこたえる。(中略)のめったら最後だと思った。」「行っても行っても、太陽の直射を避ける一樹の木陰も渇きを醫す一滴の水もない。真夏の日に、葉をすぼめ、頭を垂れた草原の草いきれ(中略)暑い、苦しい、食ひたい……息を抜く腹力もない」「水、水、水、(中略)欲望だけが全意識であったのだ。それだからこそ、野中の一軒家である線路工夫イワン・イワノウィチ・セミヨーノフの家のドアに衝きあたるまでは(中略)途中の記憶は少しもない。」

「北満放浪雑話」「雪解時の湿ッぽい朝ぼらけである。(中略)日本では春だといふのにこゝでは冬なのだ。」「流石街は綺麗なものだ。露西亜の帝政時代の東洋根拠地だから。(中略)私は清澄な朝、(中略)うっとりとこの騒がしい市場の光景に対してゐたのである。恐らくハルピン中のおかみさん連がこゝに集るのであらう。」
 「俺が始めてトウニャを識ったのは、あの北満名代の蒙古風が吹きすさんで、街も煙突も人も馬車も一切が、濛々たる黄塵の中に、ぼんやりとしてゐ、(中略)この暴虐無謀な風砂に戸惑ってゐる時だった。」
 蒙古風とは、4月から5月頃、ゴビ砂漠からくる砂嵐のことである。
「北満の夏は殊に烈しい熱さである。それが日本の夏とは違って、乾燥し切った大地の上に太陽が刺し貫くやうな白熱を投げるのだ。」「われわれが働いてゐるテニスコートは、日本のある商会の宿舎の敷地内にあった。」「その炎天下に、土を運び、水をふり、石灰を撒き、ロールをひき、汗だらだらで働いてゐたもんだ。」
「これはずっと後の話であるが、私がハルピンから東部線に乗って一面披(イーメンパ)へ行く車中であった。私の座席と向かひ合って、ひとりの美しい娘が乗合してゐた。」

「放浪の宿」は、下層労働者達の駆込み宿(無料宿泊所)を舞台に、奉天から歩いてきた左官の「若者」、革命ロシアにあこがれる「大連」と呼ばれる男、時計の修理をしながら流浪する「時計屋」、札付きの「金スジ」のやくざである「黒眼鏡」、「黒眼鏡」と親しい間柄の「支那服」が織りなす物語である。最後に日本人商館の薬種商が殺される部分は、「モヒ中毒の日本女」で、闇貿易商を脅すのと符合するが、里村の姿を「若者」に全面的に見ることには無理がある。「七月の太陽にゆだり切っ」た、その場所は何処だろう。「プラタナスの街路樹」「オレンヂ色の宏壮な中国銀行の建物」「支那街」「十字路の角は、ロシア人の酒場」、ここはハルビンだろうか。

「放浪病者の手記」「私はある年の一夏、ハルピンで苦力をやってゐた。たった独り異国の人夫に混って働くことの苦痛は、実に言外なものである。が、私は南満での遊蕩乱舞の後なので、その苦痛を天罰ぐらゐに諦め切っていた。」「露西亜寺院の金の十字架が、青い屋根の尖塔に麗かな陽ざしを浴びて、燦然と輝いてゐた。その快晴のある日である。私はトルゴワヤの裏通りを歩いてゐた。」「崩れ落ちさうなビルディングの三階の屋根裏である、私の部屋」「わたしは(中略)漠然たる空虚な心を抱いて、支那街フウザテンの一角をうろついてゐた。」

満州放浪のルート


 上の図は、昭和3年版の「鮮満案内所」発行のものである。「鮮満案内所」は満鉄(南満州鉄道株式会社、明治39年(1906)年12月設立)の無料旅行相談所である。
 里村の上述「河畔の一夜」には、「鴨緑江の流を見るつもりで安東に下車した」とあるから、下関から釜山に渡り、釜山─京城(現在のソウル)─新義州に至る半島縦断の鉄道ルートで満州に入ったと推測できる。「飢」の記述から、所持金を使い果たしてからは、鉄道沿いに徒歩で哈爾賓(ハルビン)に向かったと思われる。
 なお、『早稲田文学』大正12年4月号に載せられた中西伊之助の小説「奪還」中の記事から、釜山から汽車で仁川へ、折からの洪水で不通となったため、仁川から船で鎮南浦へ、そこから再び汽車で、という逃亡経路も可能性としてはある。
 「北満放浪雑話」に、「これはずっと後の話であるが、私がハルピンから東部線に乗って一面披(イーメンパ)へ行く車中であった。」とある。一面披は哈爾賓(ハルビン)からウラジヲストックへ向かう途次にあることから、里村の帰国は、ウラジオストックから敦賀の海上ルートを辿った可能性もある。

徴兵忌避、満州放浪の理由

 心にひびく言葉がある。
 「俺はいつかこの病気で放浪のはてに野倒れるに違ひない。」(「苦力頭の表情」)
 「斯くて私は放浪の涯に、野倒れなければならない運命を背負ってゐるのであらうか?」(「放浪病者の手記」)
 里村欣三にとって、放浪への熄みがたい希求は「放浪病者の手記」の「一 放浪の貧兒よ」、「北満放浪雑話」の「(一)雲」ほか、上記の満州放浪関連の作品に過分に表現されている。(本サイト「里村欣三哀切文集」の(1)北満放浪雑話(一)雲、をご参照下さい)。
 この「
放浪の涯に、野倒れる」という言葉は、フィリピン戦線において、ある種、自殺とも見なされる戦死に突き進む、その人生の軌跡、熄みがたい心根、そのことをこの最初期の作品において自覚的に認識し、自己の運命を端的に予言している。20歳にして、自己の人生を宿命的に認識した、ともいいうるのである。満州放浪の理由の、基本的なバックボーンはこの放浪への熄みがたい希求である。
 もう一つのバックボーンは、「放浪病者の手記」にも書かれている通り、幼少に母を亡くし、継母との折り合い、預けられた叔母の家庭での確執が、いっそう放浪への希求を育んだ、ということである。しかしこれもいまは詳細を検討しない。
 私が指摘したいことは、こうしたバックボーンとは別に、里村の徴兵忌避・満州放浪には、もっと直接の理由があるのではないか、ということである。

中西伊之助がキーマン

 私は、里村の徴兵忌避、満州放浪には中西伊之助が深く関与していると思う。通常いわれているような、「徴兵を忌避し逃亡、里村欣三の名で満州を放浪する。上京し中西伊之助のせわになる。」(『日本近代文学大事典』講談社、昭和59年10月24日)というのは順序が逆で、中西伊之助の助言、もしくは手助けにより、満州に逃亡した。中西伊之助と里村欣三の出会いは、里村が東京市電の従業員であり、中西が日本交通労働組合(東京市電)の理事長として指導した、大正9年2月の第一次、4月の第二次市電ストライキの頃に始まる。こう理解することによって多くの「謎」が氷解する。

 里村欣三は『第二の人生』第二部(昭和15年10月28日、筑摩書磨)において次のように書いている。
「持金を使い果たして東京に出ると、自活のため市電の車掌になった。大正八年、兵六が十八歳の時だった。」
「翌年[大正九年]には市電第一次の争議に敗れ、大正十年には神戸市電に再び車掌となって潜入し、組合の組織運動に従事しているうちに、当局の弾圧に腹を立てゝ、時の電車課長を襲って短刀で斬りつけた。直ぐ現場で取押さへられて警察へ突き出され十ヶ月の刑を受けた。(中略)十ヶ月の刑が、その後の彼の生涯にどのような障害になるかも考へず、若いアナーキストは英雄気取りで十ヶ月の刑を終へた。」
 中西伊之助は、「里村て男は、やつぱり野放しの労働運動でもやらせて置く方がいゝと思つた。あの男は大阪で『控訴なんかめんど臭い!』と云つて、一審で六個月を頂戴した程だが、近頃はだいぶ野性が抜けて来た。」(「Yに贈る手紙」『文芸戦線』大正15年8月号)と書いている。
 青野季吉は、「里村欣三は震災直後に中西伊之助がどこからともなく連れてきたので、この青年が大阪の電車争議で人を傷つけたり、兵隊にとられて脱営したりした前歴のあることを知ったのはよほど経ってからであった。」(『文学五十年』昭和32年12月、筑摩書房)と書いている。
 堺誠一郎は、「伯母志牙(しげ)(父の姉)の息子が大阪にいてこのことを父に知らせ、弁護士をつけるように勧めたが、父はこらしめた方がいいのだと言って相手にしなかった。」(「或る左翼作家の生涯」『思想の科学』1978年7月号)と書いている。この話の典拠ははっきりしないが、前後の文脈から里村の妹の華子さんからの聞き書きかもしれない。

 この労働運動上の「傷害事件」は、当然入営における軍隊内での抑圧を予期させるものであり、里村には耐え難いことだったろう。あるいは労働運動上の「傷害事件」の官憲による追及から逃れるために、満州に逃亡した。
思想的な徴兵忌避ではなく、労働運動上の「傷害事件」を直接の原因として満州に逃亡した、わたしにはこう思える。(当サイト考察「里村欣三が神戸市電にいた」を参照ください)

新事実を発見! 里村が日本社会主義同盟の発起人の一人 

 平林たい子は『自伝的交友録・実感的作家論』(昭和35年12月10日、文芸春秋社)で、「創立と同時に解散させられた社会主義同盟の記念写真には、創立者の一人として[里村が]別名でうつっている。」と書いている。
 
私は、平林のいう「日本社会主義同盟の記念写真には、…」というのは、検証の可能性のある課題であると思っていたが、今回、写真ではないが、里村欣三(前川二享)が、日本社会主義同盟の創立発起人に名を連ねている記事を見つけたので、下に写真を掲載する。

   

 『社會科學(日本社会主義運動史)』昭和3年2月1日、改造社 中の「労働運動の復興期」(荒畑寒村)P116

 

 『社會科學(日本社会主義運動史)』昭和3年2月1日、改造社 中の「沈潜期以後─社会主義同盟の解散まで─」(近藤憲二)P171

 「前川二享」が里村欣三の本名である。本名が「二享」か、「二亨」かについては、別に記しますが、近藤論文では「前川二亨」と活字されている。

 この『社會科學』の記事に挙げられた30人の日本社会主義同盟発起人を、みすず書房『続・現代史資料2社会主義沿革2』(1986年7月25日刊)や、『日本労働運動史』(細川松太著、1981年7月30日、鼎出版会刊)等で検証してみると、無政府主義急進派(大杉一派)と分類されているのが赤松克麿、岩佐作太郎、橋浦時雄、服部濱次、近藤憲二、水沼辰夫、延島英一、和田巌、吉川守邦らで、布留川桂、山崎今朝弥は共産主義漸進派、高畠素之は国家社会主義者、堺利彦や高津正道らは共産主義急進派、島中雄三、植田好太郎は社会主義派とされている。渡邊満三は時計工組合である。大庭柯公はロシア通のジャーナリストで、大正12年、革命ロシアでスパイの嫌疑を受け消息を絶ったと伝えられている。吉田只二は、吉田只次で神奈川の社会主義者、横浜赤旒会。『貧乏人根絶論』(大正10年、凡人舎)がある。
 インターネットで公開されている『思想要注意人名簿』( 内務省警保局1921年)(http://members.at.infoseek.co.jp/kafuka1964/meibo.html)でみると、そのほとんどが「思想要注意人」であり、3〜4割が「特別要視察人」である。ただし、前川二享(里村欣三)はリストアップされていない。
 上に写真引用した『社會科學(日本社会主義運動史)』の記事から、日本社会主義同盟は、主義、思想としては社会主義者、無政府主義者、サンジカリスト、共産主義者、国家社会主義者、民主主義者、団体としては、友愛會(労働組合)、信友會(労働組合)、正進會(労働組合)、交通労働組合(労働組合)、日本時計工組合(労働組合)、鉱夫総同盟(労働組合)、建設者同盟(学生同盟)、新人會(学生同盟)、建設者同盟(学生同盟)、暁民會(思想団体)、扶信會(学生同盟)、労働組合研究会(思想団体)、北風會(思想団体)、著作家組合(思想団体)、文化学会(思想団体)で構成されていた。

 中西伊之助が理事長として指導する日本交通労働組合は「[市電争議]直後の[大正9年]5月2日、わが国最初のメーデー(東京上野公園)には、友愛会、信友会などの組合と共に、日本交通労働組合も堂々と参加している。(中略)同年12月には、日本社会主義同盟が結成され、(中略)日本交通労働組合も、これに参加した。」(『都市交通20年史』、昭和42年6月1日、日本都市交通労働組合連合会刊)のである。
 日本社会主義同盟は、大正9年9月創立発起人會を開き、機関雑誌『社会主義』を発刊、大正9年12月10日、神田青年会館で創立大会を開いた。このとき、前川二享(里村欣三)はまだ満18歳であり、他の発起人に伍し、何かの思想団体を代表しての発起人であるとは思えない。この年の2月、4月に東京市電争議を闘った経験を基に、日本交通労働組合(東京市電)を背景にした発起人参加であろうと思われる。
 
『吉野作造』(田中惣五郎著、1958.7.15、未来社刊)のP260では、その典拠は不明であるが、「前川二亨(交通労働組合)」とある。同様に、『日本労働組合物語 大正』(大河内一男、松尾洋、吉田晁著、昭和40年6月15日、筑摩書房)のP206にも「前川二享(交通労組)」とある。また、『日本労働運動史』(細川松太著、1981年7月30日、鼎出版会刊)も発起人の出身母体を記し、「前川二享(交通労働組合)」(P98)と書いている。日本社会主義同盟発起人の一人である近藤憲二(北風會)は、『私の見た日本アナキズム運動史』(1969年6月30日、麦社刊)のP39で、同じく発起人一人一人の出身母体を挙げ、「前川二享(交通労働組合)」と書いている。
 ただ里村欣三(前川二享)の日本社会主義同盟発起人参加は、相当に「個人的」なニュアンスが感じられる。
 その理由は、『東京交通労働組合史』(東交史編纂委員会、昭和32年2月、東京交通労働組合発行)に、大正9年4月現在の本部役員、支部役員の名簿が記載されているが、前川二享の名前はないこと、日本交通労働組合(東京市電)は4月のストライキに敗れ、ほぼ壊滅状態に陥っていたこと、また同盟が成立した大正9年12月10日後の執行委員リスト(『社会主義』大正10年3月号、6月号ほか)には前川二享の名はないこと。上記発起人の顔触れも、アナキストが多いせいかもしれないが、組織の正式代表というより、「つわもの」の集まりという感じだからである。
 いずれにしても、こうした考察からいえることは、里村欣三(前川二享)は、幾分「個人的」ニュアンスが感じられるものの、日本交通労働組合(東京市電)を代表しうる立場の活動家であったこと、同盟の創立発起人會が開かれた大正9年9月には東京で活動していたこと、本名で活動している点からみて、まだ「傷害事件」が発生していないだろうこと、大正9年12月には東京に居たかどうかは不明であること、等である。

 なお、参考に、法政大学大原社会問題研究所所蔵の、前川二享(里村欣三)関係の日本社会主義同盟の原資料を以下に掲載しておきます(写真3点)。この日本社会主義同盟創立大会告知ビラの日付は1920年11月であり、ここにはまだ発起人の一人として、前川二享(亨)の名前がある。


  

 前川二享(里村欣三)の住所が空欄なのは残念。またこの段階から本名「二享」の「享」と「亨」の混乱が見られる。

 さて、こうした大正9年2月、4月の日本交通働組合(東京市電)のストライキ、5月2日、東京上野公園でのわが国最初のメーデーへの参加、9月の日本社会主義同盟創立発起人会等の激しい体験を経て、里村欣三(前川二享)は、「大正十年には神戸市電に再び車掌となって潜入し、組合の組織運動に従事」(『第二の人生』第二部)することになる。
 なお里村の作品、「デマゴーグ」(『文芸戦線』昭和2年8・9・11月号)は、神戸での車掌経験をもとにした作品ではなく、東京市電時代の経験に基づくものだろうと思われる。
 いま見てきたように、
大正12年6月28日、東京市電争議の懲役から出所した中西伊之助に影のように寄り添い、大正12年8月、九十九里でともに静養した里村欣三と中西伊之助の関係は、このように日本交通労働組合(東京市電)の活動の中から形成されてきたのである。

朴烈との交友(1)…『朴烈』(金一勉)より

 「朴烈事件」として知られる朴烈、金子ふみ子との交友について考察する前に、『朴烈』(金一勉、1973年9月1日、合同出版)より、関連記事を抽出してみる。

 「京城普通高等学校を三年で中退した朴烈が、東京に現われたのは一九一九年(大正八年)十月である。満十八歳のかれは学業を続けたかったようだが、とうとう学校には入学しなかった。渡日後の朴烈の足跡は、茨の道であった。新聞配達人、製ビン工、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちん棒、それから中央郵便局の集配人をしばらくやった。」
 「一九二〇年(大正九年)には、日本国内においても、朴烈青年らに刺戟を与えた二つの出来事が起きた。その一つは、朝鮮王世子・李垠と日本皇族・梨本宮方子との政略結婚式における投弾事件であった。(中略)その二は、日本社会主義同盟の結成であった。それまでの社会主義運動というのは無政府主義・共産主義・労働運動・進歩主義というものが雑然としていた。ただ日本の労働運動においては大杉栄が早くからサンディカリズムを取り入れた関係上、断然、無政府主義(アナキズム)が優勢であったが、一九二〇年十二月十日、神田のキリスト青年会館で、これらの各運動の統一組織として、日本社会主義同盟を結成させることになった。この大会には、朝鮮青年学生も多数参加している。」
「一九二一年の秋には、朴烈は筋金入りの無政府主義者となり、直接行動者になっていた。かれは一見して無政府主義者と判るような、首筋を覆うほどの長髪で、灰色のルパシカを着ていた。」
 「「日本社会主義同盟」が結成されて一年目の一九二一年十一月、在東京朝鮮人の社会運動者の統合ともいうべき「黒濤会」が組織された。これは岩佐作太郎のあっせんにより、同志約三十名で結成したといわれる。」
 「朴烈が「岩崎おでん屋」へ立ち寄ったのは[大正11年]三月上旬、(中略)こうして、朴烈と金子文子は出会った(後略)」
 「イギリス皇太子訪日のあおりで、淀橋警察署で一六日間の拘束を受けた朴烈は出所した[大正11年]四月末、文子と同棲生活に入った。文子が見つけた家は、[東京]府下荏原郡世田谷町(現在、世田谷区)池尻の相川新作という下駄屋の二階の六畳間で、間代は月一〇円である。(中略)まもなく朴烈は、黒濤会の機関紙刊行にとりかかった。はじめ八頁の計画を立て、六月いっぱいそれに没頭した。」
 「その年[大正12年]の四月中旬の日曜日の夜、かれは自分の住居の六畳間に十余名の仲間を集めて「不逞社」の結成を呼びかけた。(中略)その夜、不逞社会員になった者は朴烈のほかに小川武、張祥重、崔圭宗[りっしんべんに宗]、李弼鉉、河一、洪鎮裕、永田圭三郎、徐東星、鄭泰成らである。(中略)朴烈・文子が世田谷池尻の下駄屋二階を引き払って、代々木富ヶ谷一四七四の一戸を借りて引越したのは[大正12年]五月上旬であった。(中略)朴烈と文子が代々木富ヶ谷の一軒家を借りて移ってから不逞社の同人も急に増えた。(中略)そして『現社会』第二号(『不逞鮮人』からの通巻では第四号)の刊行にとりかかった。(中略)今度借りたのは二階家だったので何人でも泊ることができた。(中略)仲間がゴロ寝して議論しあい、食物があればともに食い、なければくわないという式であった。(中略)小川武は漫画家であった。それまでに壁に張った悲憤慷慨の文字のかわりに、小川が真赤な絵具で大きなハートを描き、その左右に墨で太く大きく《叛逆》と書いて張りつけた。しいていえば、このハートと《叛逆》という文字が不逞社仲間の意思であり、暗黙の綱領というべきものだったのかもしれない。二階の窓を開けると、道路から壁の文字が見え、いやおうなく道行く人の目に触れたという。(栗原一夫氏の話)(中略)かれらの例会や集まりは、朴烈の家に定まっていたが、たいてい日本のアナキストを招いて社会問題の話を聴くとか、誰々をなぐりに行く相談とか、仲間の出獄歓迎会や、朝鮮衡平社と鉄道ストライキへの応援電報を打つというものであった。(中略)
六月二十八日は、不逞社グループが集まって「中西伊之助出獄歓迎会」をやった。この夜は中西の獄中生活談を中心に、日本と朝鮮の監獄の醜状を話題にした。」
 「そのころ[大正14年十一月]、朴烈の同志や友人たちは市ヶ谷刑務所を訪れて慰めたようである。その同志のうちで頻繁に訪れたのは不逞社仲間で、すでに釈放された栗原一男と、労働運動家の中西伊之助であった。」

朴烈との交友(2)

 いま記した『朴烈』(金一勉、1973年9月1日、合同出版)の記事をふまえて、朴烈、金子ふみ子との交友について考察してみる。
 中西伊之助は「[朴烈君とは]震災前、僕[中西]の出獄を迎へてくれた時[大正12年6月28日]に会つて、それきりで、僕は千葉の海岸へ躯を養ひに行つてゐるうちに、震災だつたのだから。」(「朴烈君のことなど」『文芸戦線』大正15年1月号)と書き、里村は、大正15年3月25日大審院での朴烈と金子ふみ子二人への死刑判決に衝撃を受け、次のように書いている。
 「朴君はニヤニヤと笑ってゐる。その背のところには、富ヶ谷のあの二階の壁に書き投った赤い字の××歌と、血のたれる心臓を短刀で貫いた落書きがある。『おいめしでも喰へよ』朴君がさう親しげに言ひさうである。鱒の乾物とバサバサした麦飯をよく嗜はしてくれてゐたが……(中略)夏の始めであつた。何でも親日派の朝鮮人を殴り込みに行った話を、その時ボツリボツリ例の口調で私に話してきかせ、警察の干渉で『不逞鮮人』をやむを得ず『太いせんじん』と改題したことを語って大笑ひしたりした。そして朴君と金子文子さんと私と三人で、いつものやうに麦飯を食つた。そして三人で澁谷の終点に出た。金子さんは女学生のやうな袴を穿いて中西さんの『汝等の背後より』を手に抱えてゐた。よく笑つて歯切れのいゝ調子で快活に話す人であつた。(中略)いま考へると、それが最後であつた。翌日、私は中西さんと一緒に九十九里の海岸に行つた。」
 「ある日鄭君がやつて来た。もう[大正12年の]秋風が身に沁む頃だつた──と思ふ。鄭君と私と二人は、中野の救世軍の病院で毛布を貰つたり、増上寺へ行つてシャツや着物を貰つてそれを未決監に浴衣一枚で震えてゐる、朴君やその他の一同に差入れた。」
 「一昨年[大正13年]の夏ごろだと思ふ。吉祥寺に鄭君を訪ねたら栗原[一夫]君が出獄してゐた。皆んな共犯は出たのだと云ふが朴君、夫婦だけは保釈が許されず獄にゐた。恐ろしい予感が胸にこたへた。」(「思い出す朴烈君の顔」『文芸戦線』大正15年5月号)
 『文芸戦線』に朴烈の思い出を書いているのは、中西と里村だけである。
 里村の文章中の「富ヶ谷のあの二階の壁に書き投った赤い字の××歌と、血のたれる心臓を短刀で貫いた落書き」は、上記『朴烈』(金一勉、1973年9月1日、合同出版)中の「それまでに壁に張った悲憤慷慨の文字のかわりに、小川が真赤な絵具で大きなハートを描き、その左右に墨で太く大きく《叛逆》と書いて張りつけた。」「二階の窓を開けると、道路から壁の文字が見え、いやおうなく道行く人の目に触れた」と照応している。
 朴烈と金子文子が知り合ったのは、朴が、友人の鄭を仲介して、文子の働く「社会主義おでん」の名で通っている日比谷のある小料理屋(数寄屋橋ガード下の岩崎おでんや)を訪ねたとき、大正11年の「多分それは三月の五日か六日であった。」(金子ふみ子獄中手記『何が彼女をそうさせたか』1972年10月20日、黒色戦線社)
 朴烈と金子ふみ子は、はじめ荏原郡世田谷町(現在、世田谷区)池尻の相川新作という下駄屋の二階で同棲を始め、『朴烈』(金一勉、1973年9月1日、合同出版)の記述によると、一年後の大正12年5月上旬に「代々木富ヶ谷の一軒家を借りて移っ」たとある。
 ところが、当サイト掲示板への〈Kameda〉氏のご教示によると、この移転の時期は、大正12年3月の下旬から4月の始めと推測できるという。
 『金子文子・朴烈の裁判記録で確認すると、金子文子は富ヶ谷に移った月を「三月頃」と話しています。爆発物取締り罰則違反での予審、第四回金子文子訊問調書、1924年1月23日付け。他の予審に廻された、不逞社の同志の<複数>の訊問調書では不逞社の集まりがあったのは4月中旬として、朴烈の代々木の家で開かれたとしています。『現社会』二号<通巻四号>の裏表紙には三月十五日発行でまだ池尻の住所が記されているので引っ越した日付の範囲は三月の下旬から四月の始めと推測できます。』( 〈Kameda〉氏による)
 この〈Kameda〉氏のご教示通り、みすず書房『続・現代史資料3アナーキズム』(1988年7月30日刊)の「朴烈・文子事件主要調書」中、金子文子の第四回被告人訊問調書(P201)には「大正十二年三月頃私等ハ同府多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷千四百七十四番地ニ移転」の記述がある。
 したがって
上記里村の記述(「思い出す朴烈君の顔」『文芸戦線』大正15年5月号)の富ヶ谷のことは、大正12年3月下旬から中西と共に千葉に静養に行く8月初めまでの間のことである。「親日派の朝鮮人を殴り込みに行った話」というのは、みすず書房『続・現代史資料3アナーキズム』「朴烈・文子事件主要調書」によれば、「親日派と云ハレル東亜日報ノ記者金炳元ガ社会主義者ヲ罵倒シタト云フノデ、会員ノ有志ガ同人ヲ殴リニ行」(P203)ったことを指し、不逞社の第三回例会があった大正12年7月15日頃のこととされているから、里村は主としてこの頃のことを回想しているのであろう。また里村の記述には鄭泰成や栗原一夫ら不逞社同人との交友が書かれている。
 みすず書房『続・現代史資料3アナーキズム』中、栗原一夫の第二回調書(P377)で、栗原一夫は「私ガ不逞社ニ加入シタノガ本年ノ六月末ノ事デアリマス」と述べ、大正12年6月28日の中西伊之助出獄歓迎会を不逞社の例会として行ったこと、「問 朴烈ノ二階ノ壁ニ赤インキデハートノ絵ヲ書キ其上ニ墨デ太ク大キク叛逆ト云フ文字ガ書イテアツタ様ダネ。 答 ソウデス。」と述べていること等は、里村の回想と照応する。
 
上記、里村欣三の記述中の「夏の始めであつた。」というのは、朴烈が『黒濤』のあと『太い鮮人』第一号を発刊したのは大正11年10月のことであるから、大正11年の「夏の始め」ではなく、大正12年の「夏の始め」のことである。金子ふみ子が手に抱えていた中西伊之助の『汝等の背後より』(改造社)の初版発行は大正12年2月13日であることからも明らかである。むしろ上述の里村の記述(「思い出す朴烈君の顔」)の「夏の始めであつた」というのは、大正12年6月28日の中西伊之助出獄歓迎会そのものを指しているのではないだろうか。
 この里村の記述中の「よく」「例の口調」「いつものやうに」の表現は相当に親しい交遊を表現しており、朴烈と里村欣三、中西伊之助のごく親しい関係は、この大正12年初夏に突発したものではなく、大正11年6月ないし7月の里村の満州逃亡以前に、すでに相当深まっていたと見ることができる。むしろ大正9年12月の日本社会主義同盟の成立前後にそのきっかけがあった、とも推測しうるのではないだろうか。
 中西伊之助は、朴烈の『黒濤』第二号(大正11年8月10日)に「一本の蝋燭」という小品を発表し、また『「フテイ鮮人」改題 現社会』(第三号、大正12年3月15日)には自著の広告も掲載している。
 中西は、大正11年2月、日本統治下の朝鮮を舞台に農民金基鎬と自身の投影槇島の姿を書いた『赭土に芽ぐむもの』(大正11年2月10日、改造社)を出版し、『改造』9月号には「不逞鮮人」という逆説的なタイトルで、娘を殺された抗日朝鮮人の首魁に会うその心の動きを表した。『汝等の背後より』(改造社)は大正12年2月13日刊。
 中西は1911年(明治44年)朝鮮に渡り、平壌日々新聞記者、藤田組に対する攻撃で投獄、出獄後満州で満鉄社員の経験がある。「満州事変以前、すでに一年半を満州の旅に送」っていた(中西伊之助『満州』の序文、昭和9年2月10日、近代書房)のである。
 大正11年、このとき里村は20才、里村と同じ明治35年生まれの朴烈は20才、金子文子は18才、そして中西伊之助は35才であった。
 『赭土に芽ぐむもの』を皮切りにした中西の旺盛な著作活動は、しかし彼の経験から自然発生的に生み出されたものではなく、大正9年の東京市電のストライキにやぶれ、食い詰めてた結果生まれたものである。
 『『赭土』を書いた前後その他』(月報「新興文学」1928年3月、平凡社)で中西は次のように書いている。(『中西伊之助 その人と作品』中西伊之助追悼委員会、1991年9月15日、所載より引用)
 「東京市電従業員一萬人をもつて組織した日本交通労働組合が暮から争議を起した、翌九年二月と四月に總同盟罷業を敢行した。私はその『首謀者』だといふので、二月に一度東京監獄に叩きこまれ、三月に出て来て又四月にたたき込れた。そして九月の末まで未決監生活をしたが、やつと出て来てみると組合は打ち壊れ、解雇された失業者は街頭に溢れて飢を叫ぶといふ惨状だ。(中略)その年の暮を思ひ出してみるのも涙の種だ。失業した組合幹部と共に、少しばかりの金を工面して、今の新宿終點三越前で、カムチャッカの鮭賣りをした。(中略)だが、鮭賣りは一文も儲からなかつた。(中略)恵まれない大正十年が来た。(中略)眼の前に迫つて来る飢をどうしたらいいかと思ひわずらつた。」
 そして賀川豊彦の『死線を越えて』をみて、
 「「うむ、これくらゐなら俺にだつてかける」と呟いた。(中略)晝間は組合の復活運動でとび歩き夜は八九時頃から、明け方までかいた。そして三四時間眠つては、とび出した。」

 こうしたカオスの中から、里村欣三の満州逃亡は、中西の朝鮮、満州における経験、朴烈らの朝鮮人との交友の中で準備されていったものではないだろうか。
 里村の作品「河畔の一夜」(『文芸戦線』大正14年11月号)で、「李炳」という「プロレタリア運動者が淫売を買ふことの可否に就いて、悲しい論議をつゞけながら」同行する朝鮮人がいた、ということは、いろいろの可能性を検証しなければならないが、少なくともこのカオスを物語っているのではないだろうか。
 そして里村が、大正12年の「夏の始め」に日本にいた、ということは大正12年6月28日の中西伊之助出獄歓迎会にはすでに満州から帰国しており、実際には5月頃にはすでに満州逃亡から帰国していた、という可能性もあるのではないか。

実証の可能性のある課題

 いくつかの推論を交えながら、里村欣三の満州逃亡前後の状況を考察してきたが、これらの中に、実証が可能な課題がみえてくる。
 (1)この前後の里村の動向をもっともよく知っているのは中西伊之助だが、中西の著作に、なにか里村のことを書いたものがあるのではないか。(本サイト掲示板への津留湊氏のご教示『早稲田文学』大正12年4月号に里村欣三のペンネームの由来になった中西伊之助の小説「奪還」がある、等で一部立証された。)
 (2)大正9年4月の東京市電ストライキの敗北により、「馘首されたもの328名、投獄されたもの83名、起訴されたもの34名」(『都市交通20年史』昭和42年6月1日、日本都市交通労働組合刊)であるが、こうしたものの資料があれば、里村の本名である「前川二享」の名があるかもしれない。
 (3)神戸か、または大阪で、労働運動に関係する傷害事件があったとすれば、地方新聞その他で事件の記事があるかもしれない。中西は大正11年、大阪市電(西部交通労働連盟)を指導しており、大阪の可能性もある。(現段階では、大正11年7月末、阪神電鉄従業員の同盟罷業を中心とする西部交通労働同盟の闘いあたりに、そうした事件があったのではないか、と推測している。)
 (4)平林たい子は「創立と同時に解散させられた社会主義同盟の
記念写真には、創立者の一人として別名でうつっている。」(『自伝的交友録・実感的作家論』、昭和35年12月10日、文芸春秋社)と書いている。また平林は『現代文学代表作全集2』(昭和23年8月15日、萬里閣)の解説では、「解散された社会主義同盟の記録には、前川二享の名が載っている筈」と書いている。実際には後者の方が正しく、今回、法政大学大原社会問題研究所から取り寄せて上記に掲載した日本社会主義同盟の資料に、前川二享の名前が載っているものの、写真そのものは存在しないのではないだろうか。

  (2005.1.23改訂)

 
本考察は、当サイトの考察「里村欣三が神戸市電にいた」、および「労働運動上の傷害事件はあった!」と相関しているので、こちらもぜひお読みいただきますよう、お願いいたします。