里村の従軍作家時代を主にした伝記。フィリピンでの戦死の軌跡を明らかにした功績は大きい。
 高崎隆治著 1989年8月15日、梨の木舎 A5判 212ページ。
 「六人の報道小隊」の一人・松本直治のマレー従軍、シンガポール駐在の思い出。
 松本直治著 1993年11月20日、桂書房 A5判 228ページ。
 初出1977年9月〜1980年1月『海』(中央公論社)。里村と同じマレー班で行を共にした井伏の従軍記。独自の観察眼が光る。
 井伏鱒二著 1996年7月10日、講談社 変形A5判 416ページ。
 「徴員時代の堺誠一郎」「ブキテマ三叉路と柳重徳のこと」を収める。
 井伏鱒二著 昭和56年10月15日、新潮社 四六判 216ページ。
 「二人の里村欣三」収載。里村逃亡兵説の主要根拠出典。葉山や前田河等の文戦派作家との交遊も伝える。
 平林たい子著 昭和35年12月15日、文芸春秋社 四六判 236ページ。
 全編、花田(里村欣三)、生方(小堀甚二)を軸に転向の軌跡を追う。ここでも里村逃亡兵説が採られている。
 平林たい子著 昭和44年12月15日、中央公論社 四六判 184ページ。
 第一部、第二部の二冊に分かれる平林たい子の自伝である。文戦派の人々も活写されている。
 平林たい子著 昭和32年6月20日
光文社 四六判 268ページ(一部)234ページ(二部)。
 「里村氏と黒島氏」を収め、里村の結婚前後の消息を伝えるが、ほとんどが平林の戦後の随筆集である。
 平林たい子著 昭和32年1月20日、村山書店 B6判 224ページ。
 『小説妖怪を見た』は平林たい子の夫、小堀甚二が人生を振り返りつつ離婚のいきさつを語ったものだが、里村欣三は本名の前川二享で登場する。
 小堀甚二著 昭和34年7月10日、角川書店 B6判 251ページ。
 「六人の報道小隊」として、マレー戦の第一線に、里村、堺らとともに従軍した栗原信画伯の従軍記。里村の消息をよく伝える一級資料だが、入手は相当困難。
 栗原信著 昭和17年12月20日 陸軍美術協会出版部 B6判 308ページ。
 上は堺誠一郎著『キナバルの民』元版で、昭和18年12月21日、有光社刊、B6判、266ページ。左は中公文庫版で、昭和53年8月10日、中央公論社刊、A6判 148ページ。
 昭和17年9月、里村とともにボルネオ派遣軍に転属になった堺がキナバル山の麓を旅した紀行文。中公文庫版もすでに絶版になっている。
 個人誌「戦争文学通信」で、「脱走兵里村欣三(上)(中)(下)(完)」として4回にわたり里村を再評価した。1971年5〜8月のことである。里村再評価の先駆といえる。その個人誌「戦争文学通信」を集成したのが本書。高崎隆治氏は後年『里村欣三著作集』全13冊(大空社)の編著を行った。
 高崎隆治著 1975年、 風媒社、四六判 354ページ。
 報道班員として敗色濃いフィリピンに従軍、里村と死の3日前まで行を共にした今日出海。
 里村の死の真相を今日に伝える主要な著書である。
 今日出海著 昭和24年11月15日 日比谷出版社 B6判 292頁
 昭和19年12月から報道班員として里村欣三とともにフィリピン戦線に派遣された今日出海の随想集。昭和53年5月30日、中央公論社刊、B6判、262ページ。「里村欣三の戦死等々……」という章の他、「生きて法楽」「死に場所」で里村の思い出を語っている。
 「善意に満ち、日蔭にいてもその善意を人目につかずに実現していた稀に見る人物だと思っている。」と里村を悼んでいる。
 昭和7年から19年まで断続的に書き継がれた葉山嘉樹の日記で、プロレタリア文学運動の基礎的文献。
 葉山と里村の苦節、抵抗と転向、そして信頼を映して出している。
 葉山嘉樹著 昭和46年2月9日
筑摩書房 変形A5判 622ページ。
 社会主義運動に取り組んだ堺利彦や大森義太郎、山川均、猪俣都南雄らとともに、葉山嘉樹、里村欣三の思い出が語られている。日中戦争従軍後の里村欣三のさびしい心根がとらえられており、フィリピンでの戦死を「自殺であったかも知れない」と指摘している。
 向坂逸郎著 昭和45年12月25日
労働大学刊 B6判 333ページ。
 プロレタリア文学運動の先駆である『種蒔く人』の創刊者、小牧近江氏の自伝である。「上海行き」の一章で、昭和2年4月ごろ、里村と共に、汎太平洋反帝会議に上海に出かけたいきさつが語られている。
 小牧近江著 昭和40年9月
法政大学出版局 B6判 245ページ。
 出久根達郎氏の小説や随筆にはときどき里村欣三が登場する。上は『二十歳のあとさき』(2001年1月15日、講談社刊)、下は『死にたもう母』(1999年9月20日、新潮社刊)
 詳細は本ホームページのトピックス、
「里村の古書値!?」をご覧ください。
 「里村欣三の場合」で里村を、「書かれざる終章」で葉山嘉樹を、それぞれに真摯に生きた二人の人生を悼んでいる。『信濃毎日新聞』のコラムを集成したもの。
 井出氏は文芸戦線の挿絵を描いた画家・柳瀬正夢の生涯を描いた『ねじ釘のごとく』でも知られる。
 井出孫六著 1999年4月23日、
みすず書房 B6判 250ページ。
 「里村欣三」(P150〜154)を含むが、日記そのものには里村の関連記事はない。「里村欣三」は萬里閣『現代文学代表作全集第2巻』(昭和23年8月15日)の解説と同一のもの。
 平林たい子著 1949年、
板垣書店 B6判
 大正8・9年の日本交通労働組合結成、東京市電ストライキ「桜花爛漫下の大ストライキ」「市電大争議を語る」を収載。「私生児小風景」に「里村が時々話に来るので、…」との記事がある。
 実践社は中西の個人出版社で戦時体制下に抵抗の孤塁を守る姿が垣間見える。
 中西伊之助著 昭和11年3月20日、実践社 B6判 283ページ。
 昭和23年12月25日、人民戦線社刊の仙花紙本で、装幀は赤松俊子(丸木俊)。里村欣三のペンネームの由来になった中西伊之助の小説「奪還」(『早稲田文学』大正12年4月号)が、この『採金船』に「或るニヒリストの戀 −奪還−」と改題されて収録されている。主人公も「里村欣造」が「眞里欣一」と変更されている。
 表題作「採金船」は、植民地下朝鮮で、機械化された採金設備により小作地が破壊されていく村人の苦悩をリアルに描く。「鯉」も味わいの或る好短編だ。
 中西伊之助著 B6判 276ページ。
 昭和16年〜17年、マレー戦線で里村欣三らと生死を共にしたカメラマン・石井幸之助の回想写真集。里村や堺誠一郎、栗原信のなつかしい人格、エピソードが語られる。扉に「六人の報道小隊」の写真が使われ、あとがきにも里村、堺らとの戦場体験は「私の人間に対する眼を開かせ」たと記す。
 里村の人間性に対する信頼にあふれる書である。
 石井幸之助著 昭和62年11月20日 文芸春秋刊 148×182変形判 286ページ。
 マレーで里村らと生死を共にしたカメラマン石井幸之助の回想録で、写真集ではない。二章に分れ、大部分を占める「第一章 イエスかノーか」は、マレー戦線の従軍記。いきいきとした姿で里村が立ち現れてくる。
 第二部の「古い手帖」は、昭和19年10月から20年4月の、海軍報道班員としての北千島占守島従軍日記。帰途には遭難もしている。
 石井幸之助著 1994年4月8日 光人社刊 四六判 243ページ。
 ニュース映画のカメラマン藤波健彰の回想録。昭和17年4月ボルネオに徴用され、9月、ボルネオ軍宣伝部に派遣されてきた里村欣三、堺誠一郎、カメラマン石井幸之助、中村長次郎と出会う。カメラマンの二人とは旧知の仲だった。
 藤波の所持していた1940年版ボルネオ地図を「縦真半分にナイフで切り割くと、堺さんと里村さんに半分ずつ渡した」と記し、里村と堺がボルネオ探検に出発する前後の状況が明かされている。
 昭和52年11月10日 中央公論社刊 四六判 344ページ。
 上は、勁草書房『高見順日記』の第一巻の外箱。この第一巻の半分を占める「徴用生活」は、昭和16年11月22日から昭和17年9月30日までの高見順のビルマ徴用の記録である。
 陸軍報道班員として徴用された作家や画家らは大阪に終結。乙班(ビルマ班)と丁班(マレー班)に分けられ、12月2日、あふりか丸にて出航、サイゴンまで行を共にした。井伏鱒二や里村欣三らはマレー班、高見順はビルマ班であるが、12月18日、サイゴンで別れるまでの船中の様子のなかに、里村ら徴用報道班員の動きが分る。
 『高見順日記第一巻』 1965年9月20日 勁草書房刊 四六判 466ページ。
 柴田賢次郎の『霧の基地』は、里村欣三、日比野士朗、報道カメラマン小柳次一らとともに、奇跡と云われたキスカ撤収後の部隊を幌筵島に訪ねた記録。昭和18年9月のことである。
 里村欣三は、この訪問をもとに「北千島にて」や「キスカ撤収作戦」「北千島に定住する人々」等の作品を書いているが、この柴田賢次郎の記録により、幌筵島における里村欣三の足どりが分る。キスカ撤収直後の訪問のためか、里村は話を聞いては泣き、建てられた金刀比羅神社を見ては感激している。
 柴田賢次郎著 昭和19年6月20日 晴南社刊 B6判 199ページ。
 大正15年、里村欣三が駒沢のゴルフ場のコックをしていた時に知り合った建具職人の石井安一は、文戦派の詩人、『文芸戦線』編集者として活躍した。その奥さんの雪枝さんの回想エッセイ。里村回想のタイトルは「きゅうりのサンドイッチ」。里村欣三の墓が昭和49年(おそらく東京都内に)建立されたとの記述がある。また薄田つま子さんの章では、新築地劇団による里村の『第二の人生』上演のいきさつが披露されている。他に前田河廣一郎、田口運蔵、堤寒三、小堀甚二、平林たい子、高橋辰二ら25人の回想。
 石井雪枝著 1990年6月29日、ドメス出版 四六判 194ページ。
 竹森一男の従軍・滞在記である『マライ物語』(昭和18年11月20日、六藝社刊、B6判)の序文を里村欣三が書いている。
 「竹森君もいづれ大東亜戦争に参加しているだろうが、(中略)ビルマかジャワか、どこかの戦線で「こんどこそは!」の意気で大いに活躍していることだろう、などと、竹森君を知っている友人たちと話し合った。寺崎浩、堺誠一郎、田中英の諸君たちであった。」と書いている。
 竹森一男氏には大杉栄、管野スガ、古田大次郎らを書いた『大正デモクラシーの死の中で』(昭和51年10月10日、時事通信社)等の著作がある。
 「わがウォーレクイエム」と副題された『キナバル三十年』は、昭和19年ボルネオに派遣され、戦友の半数を失って生き残った著者の、三十年振りのボルネオ再訪記、「戦争鎮魂記」である。堺誠一郎や里村、『三人は帰った』のアグネス・キースがところどころに顔をだす。
 どこで見られたのか、藤波健彰氏(この書では藤波次郎となっている)所持の地図に里村の書き込みがあることが記されている(P121)。
 松本國雄著 昭和50年8月15日 金剛出版刊 148×202変形判 296ページ。上の写真は外箱。
 郁達夫は、里村が昭和2年に小牧近江と共に上海を訪れたとき、内山書店店主内山完造の紹介で会談した中国の革命的作家である。里村らが昭和17年2月、シンガポールに占領入場したとき、『晨星』の編集者をしていた郁達夫はシンガポールを脱出、のち日本軍に虐殺されたと伝えられている。著者の小田嶽夫は、里村らと同じ徴用報道班員で、昭和16年12月、同じアフリカ丸で、ビルマに送られた。
 昭和50年3月25日、中央公論社刊、B6判、220ページ。
 なお郁達夫の死の真相に迫る著に『スマトラの郁達夫』(鈴木正夫著、1995年5月31日、東方書店)がある。シンガポールを逃れた郁達夫が、趙廉と名を変え潜伏したスマトラ島のパンヤクンプーで、日本軍スマトラ憲兵隊ブキチンギ分隊の某により終戦後の混乱に乗じて殺害された事実を明らかにしている。
 『文芸戦線』は、プロレタリア文学運動の中心となった雑誌で、大正13年6月に創刊され、昭和7年7月号まで続いた。葉山嘉樹の「淫売婦」は大正14年11月号、里村欣三の「苦力頭の表情」は大正15年6月号(上記写真)に掲載された。
 
日本近代文学館から1968年に昭和3年5月号まで45冊が復刻された。帙入りのセットで古書価10万〜20万円と幅がある。原本の出物があれば、1冊5000円前後で手にはいる。
 雑誌『改造』は、大正8年4月に創刊された進歩的総合雑誌で、山本實彦社長は大正15年円本ブームを引き起こしたことでも知られる。廃刊は昭和30年2月号である。
 上記の写真は葉山と里村の共同制作の「東京暗黒街探訪記」が載った昭和6年11月号のもので、貧民研究で有名な草間八十雄氏と共に東京各所を訪ねてている。里村も「戦乱の満州から」「凶作地帯レポート」「支那ソバ屋廃業記」など、いくつかの作品をこの雑誌に発表している。
雑誌『中央公論』は、明治32年1月に反省社(後の中央公論社)から創刊された進歩的総合誌で、現在も中央公論新社から発行されている。
 上の写真は、里村の訪問記「北千島にて」が載った昭和18年11月号のもので、このころになると総ページも128ページと随分薄くなっている。里村と『中央公論』の縁は比較的うすく、昭和18年8月号に「青年将校」が掲載されているだけである。
 ナウカ社から刊行された『社会評論』は自ら「進歩的総合雑誌」となのり、昭和10年3月創刊(と思われる)、戦後の昭和21年には再建号が出されている。
 上は、里村の随筆「九十九里ヶ濱スケッチ」が掲載された昭和10年8月号のもので、葉山嘉樹の「山間の峡流地帯」も掲載されている。二人の作品の同時掲載はこれが最後だろう。
 前田河広一郎の「里村欣三(遺稿)」を収載。
 『三等船客』『蘆花伝』で知られ、葉山、里村と苦難のプロレタリア文学時代を闘った前田河。その因縁の深さから、必ずどこかで里村のことを書いていると思ったが、ここにあった。
『全線』1960年4月創刊号
全線社 昭和35年4月1日

この他にも重要なお楽しみ関連図書があります。順次掲載していきます。
『弔詩なき終焉 インターナショナリスト田口運蔵
』 荻野正博著、1983年9月16日、お茶の水書房刊……田口運蔵との交友の中に里村欣三が登場する
『燃えて生きよ 平林たい子の生涯』 戸田房子著、昭和57年2月20日、新潮社刊……平林の作家以前のアナキストとの交友、夫・小堀甚二との愛と確執。里村欣三については平林の説を踏襲。飛車角こと石黒彦市(石黒政一と書かれている)が昭和16年頃盛んに病床の平林を援助したことが注目される
『南方徴用作家』 神谷忠孝、木村一信編、1996年3月20日、世界思想社刊……東南アジアの戦線に投入された従軍作家の体験を追う編著。井伏鱒二、高見順、火野葦平等13名が採り上げられている
『萬歳(チャイヨウ)』 岩崎榮著、昭和19年5月20日、泉書房刊……マレーに向かう輸送船内の情況を描写
『戦争 死の意味』 竹森一男著、昭和52年12月8日、時事通信社刊……マレーのアロールスターで、従軍中の竹森と報道班員星村(里村欣三)が再会する場面がある
『遥拝隊長』 井伏鱒二著、昭和26年、改造社刊……マレー輸送船の輸送責任者栗田中佐がモデルの一部になっている
『言文』第53号 福島大学国語教育文化学会、2006年3月31日……澤正宏先生の作家・作品論「里村欣三の文学」(P36-51)を収載
『信州白樺』第57・58合併号 宮坂栄一編、1984年4月21日……高崎隆治先生の「里村欣三 その国境を超える思想」(P272-279)を収載
『岡山の歴史地理教育』第5号 岡山県歴史教育者協議会、1972年7月……関中ストライキの様子を伝える岡一太さんの「垣間見た歴史の一瞬」(P11-22)を収載
『藝術の運命』 亀井勝一郎著、昭和16年2月23日、實業之日本社刊……里村欣三の『第二の人生』第一部を評価した文芸時評(『文学界』昭和15年7月号)を収載
『文学の力』 音谷健郎著、2004年10月30日、人文書院刊
『日生を歩く』(岡山文庫218) 前川満著、平静14年7月21日、日本文教出版刊……「作家里村欣三の故郷」収載