里村欣三のはがき

 「稀覯本の世界」http://kikoubon.com/)の管理人様から、
ご好意により、里村欣三の昭和16年のはがき2葉(細田源吉宛)をいただきました。
その書影をここに掲示し、広くみなさまの用に供したいと思います。
管理人様、ありがとうございました。

御叮嚀なおハガキで恐縮しました。またお仕事におでかけですか? どうかいゝ作品をお書き下さい。
御本を戴いたら、是非讀ませて頂きます。私のも近いうちに出る筈ですから、お送りいたします。
私も変りましたが、これからはもう功利的な交際をやめて、人間として丸裸でお交際を致しませう。いろいろ私も考へました。その考へを、これからの作品の上で示し合ひませう。御健康と御健筆を祈ります。隣組のことなども性急にしないで、いゝ人に接觸した場合に、自然な交際の間から生じるやうに心掛けてみたら、どんなものでせうか。
御力作を期待いたします。
    浦和市廉島台
    埼玉自彊會内
    細田源吉様

    杉並区阿佐ヶ谷一の八七七
    里村欣三
    二十八−
    [消印 杉並 昭和16年2月28日午后0−4]
お仕事は進んでゐますか?
昨日「沢庵和尚の一生」と「上人諫言」を頂戴いたしました。後記を拝見しますと、大変な苦しい中で、よくこんな大著がものされたものだと、その強い信念に敬服いたします。ぼつぼつ讀ませて頂いてゐます。
私のも近く出版になると思ひますから、是非讀んでみて下さい。
新しい仕事を始めたいと思ってゐますが、やはり東京の雑踏の中では困難な氣がします。
先づは取敢へずお礼申し上げます。
    浦和市廉島台
    埼玉自彊會内
    細田源吉様

    杉並区阿佐ヶ谷一の八七七
    里村欣三
    十一日
    [消印 杉並 昭和16年3月11日午后4−8]

2月28日付のはがき

 『青野季吉日記』(河出書房新社、昭和39年7月25日刊)P77に次のようにある。

 「二月二十五日(火)(中略)
  ○細田源吉、里村欣三と「秋田」で、淺酌、懐舊、心境、話つきず。」

 この昭和16年2月28日と3月11日の二枚のはがきは、この歓談を承けたものである。「秋田」は新宿の居酒屋。

 里村は昭和12年7月中旬、日中戦争の勃発により応召、姫路第10聯隊の輜重兵として中国の北支、中支を転戦、原隊は昭和14年10月召集解除により岡山に帰着したが、里村は病気のため解除が遅れ12月中旬帰国した。
 このときの体験を元に、昭和15年4月16日『第二の人生 第一部』を、続いて『第二の人生 第二部』を同10月28日に河出書房から出版、この昭和16年2〜3月は、次の『徐州戦』(「第二の人生」第三部、昭和16年5月15日)が出版されるまでの時期である。
 おなじ『青野季吉日記』の昭和16年2月15日の記事には「里村君来訪、式根嶋へは行かず、大島にて「第二の人生」の第三篇をかいたと云ってゐた。何かイキせき切ってゐるやうな調子であった。」とある。

 はがきの文面「
私も変りました」というのは、一つには、里村と細田源吉が出会ったのがプロレタリア文学運動の中であり、その過程での協力と対立の過去を指しており、二つには日中戦争従軍を経て、里村の考えも、境遇も変わってしまった、といっているのだろう。「功利的な交際をやめて、人間として丸裸で」というのも、運動団体としての利害対立の過去はあったが、これからは一人の人間として交際しよう、という意味だろう。

 「丸裸で」生きる、「丸裸」を徹底する、ということは里村が日中戦争従軍を経て選び取った一つの生き方であったし、里村の最も根本的な美徳、人を魅了する人間性であると思う。
 しかしながら、一方では(これは私にとって批判の埒外のことなのだが)、「丸裸で」生きる、ということは、時代に流されざるを得ない生き方であり、「転向」の一つの形態であることはまぬがれないことだろう。
 葉山嘉樹には「凱旋したら、僕の方へ来て自分も百姓をして暮らし度いと云ってよこしました。」(広野八郎宛葉山嘉樹の手紙『葉山嘉樹全集第六巻』昭和51年6月30日、筑摩書房)とあるし、向坂逸郎には「もし、それ[『第二の人生』]が売れたら、瀬戸内海には、小さな無人島がいくらもあるから、それを買って百姓をして暮らすつもりです、とそんなことをいった。」(『戦士の碑』昭和45年12月25日、労働大学刊)とある。
 たとえそれが現実には夢想に過ぎない、実現不可能なものであっても、方向性、選択肢のひとつであるとも思えるのだが。

 さて、講談社の『机上版 日本近代文学大事典』(昭和59年10月24日)の細田源吉の項に、大正4年、早稲田大学文学部英文科卒、同期に、青野季吉、細田民樹、直木三十五らがおり、大正15年11月、青野季吉や前田河廣一郎の誘いで、細田民樹と一緒に労農芸術家連盟に参加した、とある。
 私は、今まで、細田源吉の作品は何も読んだことがない。細田民樹は『真理の春』を読みかけたことがある程度で、恥ずかしいことだが、プロレタリア文学史の上では、いつも細田民樹と細田源吉をセットにして「両細田」といわれるので、細田民樹が兄で、源吉が弟、の兄弟作家くらいに思っていた。
 ところで、細田源吉の住所にある「
埼玉自彊會」って、何なのでしょうか。ネットで検索してもよくわかりません。元の浦和市にある「私立昭和産婆看護婦学校」の記事に、昭和5年の学校設置の際、「設立に当たっては 学校の建物を自彊会から賃借している 」とある。ご存じの方、お手数ですが、ご教示お願いいたします。

3月11日付のはがき

 『葉山嘉樹日記』(筑摩書房、昭和46年2月9日刊)の昭和16年2月18日の項に、「里村から転居通知。」(P469)とある。このはがきの住所、阿佐ヶ谷への移転は、前年の『第二の人生』(昭和15年4月)が好評で、同年7月には新築地劇団によって上演されるなど、生活がすこしは安定に向かっていたからであろうか。
 細田源吉からもらったのは、『澤庵和尚の一生』(昭和15年10月25日、東京書房)と、『勤王史劇上人諫言』(昭和15年11月30日、東京書房)の二冊で、「私のも近く出版になる」というのは、「第二の人生」第三部である『徐州戦』のことである。
 細田源吉の「
大変お苦しい中」というのは、先にあげた講談社の『机上版 日本近代文学大事典』に、
 「昭和一〇年、突然の大患に襲われ全身不随となるが、闘病生活をよく克服、以後は時流に流され憂国的な心情を露骨にした歴史小説(戯曲)や宗教小説に傾斜していった。」
とあるから、細田からもらった上記の二冊の本が、この「歴史小説(戯曲)や宗教小説」であり、「苦しい中」というのは、細田の闘病生活をさすのだろう。
 「
東京の雑踏の中では困難」というのは、「「第二の人生」「支那の神鳴」につづいて発表された「兵の道」を氏はその発行所六芸社社長福田久道氏の紹介で、創価学会の前身である身延山大石寺の離れで書いたが、福田氏は熱心な日蓮信者であり(中略)、里村氏もいつか熱心な日蓮信者になっていた。」(堺誠一郎「或る左翼作家の生涯」『思想の科学』、1978年7月号)とあり、このあたりの事情が心の内にあったのだろうか。『兵の道』は昭和16年10月30日、六藝社刊である。

『文壇郷土史(プロ文学篇)』から

 最後に、蛇足になるかもしれないが、笹本寅『文壇郷土史(プロ文学篇)』(公人書房、昭和8年5月28日刊)より、プロレタリア文学時代の里村欣三と細田源吉のいきがかりを転記しておきます。[ ]は引用者の補足。旧字は新字。

 「「労藝」が分裂[昭和5年11月]すると、その直後東中野の細田[民樹]の家に、青野と前田河がたづねて来て、『戦線を拡大しなければならないから、源吉君を誘って、是非「労藝」にはいってくれないか。』 『源吉君ともよく、相談した上で……』 細田が、即答しないで、保留してゐる間に、今度は、青野たちは、直接、細田源吉にぶッつかって行った。 その結果、民樹の家で、青野、前田河、源吉の四人が会合して、青野と前田河との熱心なすゝめによって、二人は、「労藝」にはいることになったのである。」(P229)

 「[昭和6年]五月の十一日には、またもや、「文戦」(労藝)に大分裂が起った。 黒島傳治などが脱退してから、約半年、この年の三月下旬頃になると、「文戦」には、細田源吉、細田民樹、小島昂、間宮茂輔などによって、一つのブロックが結成されてゐた。──それは、山川イズムを中心とした「労藝」のスローガンである単一無産政党主義に対して、あきたりなく思ふ連中のあつまりだった。 そして、幹部たちにひそかに対立してゐたが、四月上旬になって、一旦そのブロックを解消して、あらたに、聯盟内部に、「政治研究会」をつくった。 一回、二回と、その研究会をひらいて行くうちに、幹部と細田たちの、政治的な意見の対立は、ますます激化して来た。(中略)これらの連中は、研究会以外に、主として細田源吉のうちにあつまって、会合を重ねてゐたが、もう、かうなっては、脱退する以外に道はないといふ結論に到達してゐた。 五月十一日、午後七時から、九段下九段ビルの聯盟本部で、第三回の政治研究会が、ひらかれることになった。 もう、この時は、幹部派と反幹部派の対立は、すっかり表面化してしまって、細田たちの反幹部派は、研究会に、武装して乗込むといふやうな、デマさへ飛んでゐた。」(P277)
 
 「その日夕方になると、幹部派の聯盟員は、昂奮した顔をして、ぞくぞくと九段ビルの本部にあつまって来た。(中略)険悪な空気だった。 定刻の七時がすぎても、反幹部派は、なかなか姿を見せなかった。七時半になっても、まだ、来なかった。(中略)八時になると、幹部派では、政治研究会を、拡大執行委員会に変更して、開会した。(中略)かういふ重大な時、遅刻をするのは、統制をみだすものであるといふ理由のもとに、反幹部派の除名を、[書記長の
]金子[洋文]が提案すると、一同、『異議ナシ!』で、除名を可決してしまった。──細田源吉、小島昂、間宮茂輔、安藤英夫、米田曠、藤川靖夫、宮田保郎の七人を除名。細田民樹、大山廣光、榊山晃、菅野好馬の四人を除名保留者として。」(P278-279)

 「八時十五分、除名された反幹部派は、細田源吉を先頭に、神保町の方から、悲壮な表情をして歩いて来た。(中略)反幹部派が、事務所の入口までくると、幹部派は、ドアのところに総立ちになった。 細田源吉が、中にはいろうとすると、中の連中は、口々に、『もう、君は、除名したから、はいるな!』『いまごろ、何しに来たんだ!』といって、反幹部派の入場を、拒絶した。 上気して赤くなった細田源吉が、『そんな筈はないぢゃないか!』 と同時に、緊張して蒼白になった細田民樹が、一緒になって抗議した。『乱暴ぢゃないか。』 すると、葉山嘉樹が、『君は、いゝんだ。こっちにはいれ。』と、細田民樹に云った。 細田民樹がはいらうとすると、『駄目だ、駄目だ! はいっちゃ駄目だ!』細田源吉が、小声で囁いて、ぎゅっと民樹の腰のところを掴んだ。 二三言、応酬したあと、反幹部派は、みんな揃って、ぞろぞろ下へ引かへして行った。 岩藤雪夫が、ステッキを握りしめて、あとを追った。 九段ビルを出た反幹部派十一名は、(中略)「第二文戦打倒同盟」を、結成して、声明書を発表した。その後、機関誌「前線」を二号出したあと、作家同盟に加入した。 「文戦」は、さきに黒島たちを失った上に、今度、また、細田たち十一名に去られて、いよいよ痩せ細って行くばかりだった。」(P279-280)

 以上が笹本寅『文壇郷土史(プロ文学篇)』の記述である。

 もちろん里村欣三は、幹部派として行動した。浦西和彦氏の『近代文学資料6 葉山嘉樹』(桜楓社、昭和48年6月15日)には、『時事新報』(五月十三日)の記事として、「本部側では金子書記長を始め、青野、前田河、葉山、里村、岩藤、水木、檜諸氏その他聯盟員の大多数が(以下略)」と記述されている。