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関西高校所蔵の『會報』第41号。 「會」の字を別資料により画像補正した |
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備前市加子浦歴史文化館に掲示されている里村欣三(本名前川二享)の家系図。 ピンク色の囲みが里村欣三。「二享」が「二亨」と誤植されている。 |
大正初期の弘西尋常小学校 『目でみる岡山の大正』(昭和61年10月10日、日本文教出版) |
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里村欣三の父前川作太郎の 実兄(長兄)前川遜氏 |
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山内佐太郎校長が建てた 「天壌無窮」の碑。 『関西学園百年史』より |
岡山の米騒動 岡山市内山下の精米所焼打ち跡 『目でみる岡山の大正』(日本文教出版) |
山内佐太郎校長
『関西学園百年史』より |
ここから岡一太さんの「垣間見た歴史の一瞬──総社の米騒動と関中ストライキ」(『岡山の歴史地理教育』第5号、P11-22、1972年7月、岡山県歴史教育者協議会)を引用して、里村欣三(前川二享)の“活躍ぶり(?)”を見ていくことにする。のちエスペラント、児童文学者として知られる岡一太は、この時、関西中学の二年生だった。本当は全文を引用するほうがよりニュアンスが伝わるのだが、B5版12ページにわたる長文なので、要所を引用する。(一部、漢数字は可読性のため算用数字に直した。)
「兵式体操」『関西学園百年史』より。正面が講堂、右教員室。 写真には写っていないが、講堂の後ろから山手に階段状に教室 が続き、また、グランドの西(画面左手)には武器庫があった。 ここがストライキの舞台となった場所。 |
当時岡山市西中山下にあった山陽新報(現在の山陽新聞)は、「関中ストライキ」の翌日、大正7年12月1日から同13日に亘って、その経過を伝えている。
その記事のタイトルをいくつか紹介すると、12月1日(7面)…「関中八百の生徒 学校を占領す 或る条件を提げて校長に肉薄し 一教師を傷けて 凄惨の気校の内外に漲る」、2日(7面)…「暴動後の関中は 遂に無期休校 飽く迄禍根を絶滅すべく 首謀者其他の処分方法凝議」、3日(7面)…「関中騒擾事件 暴行生徒の処分決す 退学廿九名無期停学十七名 遂に警察権の行使」、4日(7面)…「関中漸く平静 処分発表後の 流言蜚語と復校哀願の悲劇」、7日(7面)…「関中事件 処分軽減」、13日(7面)…「関中授業開始 十二日より」等で、この間継続して7回にわたり「白河校長の方針」が掲載されている。
そのいくつかを写真版で紹介する。
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梅島喬正さんが銃器庫の白壁に墨書したとされる文字(山陽新報12月1日7面)。 「諸子は無神経なる乎」「前校長の恩を知らざる乎」「革命を叫べ」 |
関中ストライキの発生を伝える山陽新報の記事(12月1日7面)。 | |
のち博文館の『譚海』や『講談雑誌』の編集長を勤めた真野律太(赤線)も、 当初諭旨退学処分となっている(12月3日7面)。 |
退学処分の決定を報じる山陽新報の記事(12月3日7面)。里村欣三(前川二享…赤線)は 梅島喬正ら他の首謀者とともに退学処分(7日、処分軽減で諭旨退学)となる。 |
ストライキの首謀者として処分を受けた者は、退学18名、諭旨退学11名、無期停学17名の計46名で、四年生、三年生を中心とする闘いであった。里村欣三(前川二享)は退学、あとで触れるが真野律太は諭旨退学である。当初は器物損壊や暴行傷害罪の適用が検討されていたようだが、父兄や地元代議士の嘆願が功を奏し、刑事処分になった者はおらず、12月7日、処分の軽減が決定、退学は諭旨退学に、諭旨退学は退学または転校処分、無期停学はその期間の短縮が図られた。
当時の校舎 金川高校創立百周年記念誌『玉松』から |
岡山県立図書館の前身、県立戦捷記念図書館 『目でみる岡山の大正』より |
大正8年、17歳の夏、岡山の家を飛び出して東京に出るまでの半年を、里村欣三は「大阪、京都、奈良と遊び歩」いた、と書いている。
東京に出たのは、半年後の、おそらく大正9年2月か3月頃、ちょうど満18歳になるかならないかの時であった、と私は推測している。
その足どりを示す資料が「放浪病者の手記」(里村欣三、『中央公論』、昭和3年5月号)の第三章「若草山の麓にて」(P70-74)である。
「姫路のある工場でのストライキに破れて、私は解雇された。即日工場の寄宿舎から警官立會の下に、まるで野良犬のやうに容赦なく雨のなかに叩き出された。賃金増額の要求を起こした程だから、一文の貯のあらう筈はないし、それに何處と云って寄辺のある譯はなし、仕方なく五十圓ばかりの解雇手当を懐にして神戸の同志を頼って、その夜のうちに姫路駅を発ったのだった。」
この一節は、里村欣三を有名にした「苦力頭の表情」(『文藝戦線』大正15年6月号)中の、「俺はかつてゴム靴の工場で働いたことがある。一日中、重い型を、ボイラーの中に抛り込んだりひきづり出したりして一分間の油も売らずに正直に働いた。」という箇所に対応しており、父親の元を飛び出した里村欣三(前川二享)は、姫路のゴム工場で数ヶ月働いたのではないか、と思う。
以下、ふたたび「放浪病者の手記」から引用する。
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若草山の下にあった旧奈良県公会堂。後方が若草山。 ここが里村欣三の書く「図書館」だと思われる。 |
奈良猿沢池外周のすぐ西側に 遊郭のあった元林院町がある。 |
『日本の文化岡山の文化』 |
岡一太さん 『岡山のエスペラント』から。 |
講談社文芸文庫版の 小林信彦『袋小路の休日』 |