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国民學校聖戦讀本巻外『センチノ オウマ』
昭和17年3月20日
學藝社刊
A5判 本文199ページ+母の欄4ページ
里村欣三著 挿絵=内海徹 装幀=野間仁根

このページの末尾に概説を付記しました。ご覧ください。なお、最先頭の画像はカバーです。
(画像数が多いため、詠み込みにやや時間がかかる場合があります。ご了解ください。)

上は、『センチノオウマ』の帯で、周囲の黒い枠は実際は朱赤で、中はスミ文字。
下は、『センチノオウマ』の巻末広告にある「國民學校聖戦讀本」の残り6冊。
    

    

 『センチノオウマ』概説
 『センチノオウマ』は、國民學校聖戦讀本巻外として學藝社から昭和17年3月20日に刊行された青少年向けの戦場譚で、里村欣三の中国戦線従軍体験(昭和12年7月〜14年12月)にもとづくもの。
 國民學校は昭和16年4月から始められた戦時体制に対応する学制で、初等科6年・高等科2年の計8年が義務教育となったが、高等科の義務制は、戦争の激化により無期延期され実施されなかった。
 『センチノオウマ』は、巻末の広告ページには「巻外」と書かれているが、カバーや扉ページには「初級巻外」と記されて
いる。なぜ、『センチノオウマ』が「巻外」なのだろうか。初級、中級、上級各2点の予定に後から追加されたものだろうか。
 『センチノオウマ』は、里村欣三が通信隊輜重兵として、軍馬による通信機器運搬に従事した体験に基づく戦意高揚のための戦場譚である。第一章「ドロミズヲ ノマナイ オウマ」は『第二の人生』第一部P163-165に、第二章「アナヘ オチコンダ オウマ」は同P341-342に、最終章の「オウマニ ケラレタ 小孩児」は『第二の人生』第三部(徐州戦)P31-32に原典がある。
 内容は、ファナティックではないが、逆に陰影も浅い。最終章の「オウマニ ケラレタ 小孩児」は、読み方によっては中国民衆の苦しみが感じられるが、記述からは、著者里村欣三が、そうした人々の苦しみに同感する様子が見られない。『第二の人生』にあった「貴様は支那人ばかりを妙に劬はるが、一体貴様は、支那人の味方か、それとも日本の兵隊かい!」(『第二の人生』第三部P31)と同郷の兵隊に揶揄された中国人に対する同情がこの『センチノオウマ』にはない。
 『センチノオウマ』の刊行は昭和17年3月で、里村がマレー戦線に従軍し、2月にシンガポール攻略が完了、ホッと一息ついているときであるが、これが実際に書かれたのは、マレー戦線に陸軍報道班員として徴集される昭和16年12月以前、おそらく昭和16年夏ごろと思われる。
 昭和15年4月から昭和16年5月にかけての『第二の人生』三部作(河出書房)の成功により、昭和16年夏は、生活的にもやや安定してきた時期で、そのためかどうか、『第二の人生』にある緊張感や自己省察は、この『センチノオウマ』には見られない。少年向けに平易な記述を要求されたのであろうが、ある種の“精神の弛緩”があることはまぬがれない、と思う。逆説的に言えば、後年の「戦争に対する一途な追従」も見られないのである。
 巻末の付録「母の欄」にある里村の「略歴」は、めずらしいもので、プロレタリア文学時代や、そこから後退して徴兵忌避を自首するまでの、千葉県東浪見村や郷里での苦闘時代が、あたりさわりのないように言い換えられている。
 従軍作家として時代の花形に転身しつつある里村だが、私(家主)などには、千葉の九十九里海岸で、「平板へ釘を打ちつけた漁具で魚をとって歩いている里村のうらぶれた姿」(前田河広一郎遺稿「里村欣三」『全線』1960年4月創刊号)にこそ、大切な“人生の真実”があるように思えるのだが…。