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はじめに
「三等船客」等の作品で知られる前田河廣一郎が、昭和5年に刊行した小説『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社、B6版、本文255ページ)の序文には、意外なことが書かれている。著者名は「前田河廣一郎」だが、小説『支那から手を引け』は前田河と里村欣三との共同製作であることを明言しているのである。「假面」第1回が掲載された昭和4年7月16日の『福岡日日新聞』のタイトルと、 最終回の一部 |
左、木村栄文著『六鼓菊竹淳』(昭和53年3月10日、葦書房)の外箱。 右はその口絵に掲載されている菊竹淳で、キャプションに「編集局長 当時の菊竹」とある。 |
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櫻井増雄著『地上の糧 =前田河廣一郎伝=』(平成3年12月、 游心出版)とその口絵に掲載された前田河の肖像 |
前田河廣一郎『悪漢と風景』(昭和4年7月15日、改造社)左・表紙、 右は扉 |
前田河廣一郎『支那』(昭和5年5月21日、改造社) の表紙と背表紙。 |
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左の青天白日旗は1893年中国革命同盟会の旗としてデザイン され1919年国民党旗に制定、右は青天白日満地紅旗で1928 年10月8日、蒋介石が南京国民政府を成立させた際に正式に中 華民国国旗として採用されたもの |
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木之内誠編著『上海歴史ガイドマップ』(1999年6月20日、大修館書店刊、P20-21)の上海歴史地図「虹口区」。E-2に『假面』に出てくる義豊里の名が見える。義豊里周辺には 日本旅館も多い。「租界」は黄浦区南部に1845年イギリス租界が開設されたのを起点に拡張が繰り返され「虹口区」の大半も1893年には「共同租界」に組み込まれた。フランス租界 (1949年開設)は黄浦区イギリス租界の南部から西に向かって大きく拡張されて行く。(『上海歴史ガイドマップ』P62-63地図より)。前田河廣一郎も昭和3〜4年に上海を訪れた時、 E-2虹口マーケット付近で寄宿した。F-3に日本領事館警察、F-5に日本領事館(1911年開設)。五三〇事件の発端になった「内外綿」の工場は、閘北区のさらに西、普陀区の呉淞江に 面した共同租界にある。 |
ある時、黒田と出会った平田はアイリッシュお龍が領事館警察のスパイだと聞かされる。盛んに「伝単」が貼られる上海。苦力魯剛のところに出入りする青年を街で見かけた平田はその後をつける。隠れ家を発見した平田は、領事館警察に出向き、彼等を売ることで仕事を得ようとするが、相手にされない。
三月十二日の夜明け近く、上海に銃声が起り、街に出た平田は便衣隊の死骸を見る。彼が後をつけたことのある青年も負傷して義豊里の露地に逃げ帰っていた。「うむ、上海の占領から急に勢力の増大して来た便衣隊武力を恐れた結果、蒋介石の野郎、たうとうこのクーデターを実効したんだな、畜生!」とつぶやく若い苦力。「蒋介石が軍艦楚有で南京から上海に」入った日、見物の人並みの中で、平田は絆創膏を貼った娘、柳芳青を見かける。平田が「群衆の歓呼に会釈してゐる蒋介石の慈姑頭を認めた」瞬間、狙撃が起った。狙撃者は柳芳青だった。累犯にされる柳芳青の母を救おうと、平田は、前に青年の後をつけて見つけた共産党の隠れ家を訪ねるが、そこでは「組織的な闘争の全体制と密接に結びついてゐない、個人的なテロルは無産階級運動に非常な害悪を及ぼす」、むしろあなたは日本に帰り、この状況を正確に報告し、「果敢な国内闘争の展開によつて、在支派兵の中正、不等条約の撤廃、及び租界の還付」等、帝国主義の対支政策に反対する闘いをすべきではないか、と諭される。平田が義豊里の露地に帰ると、柳芳青の母は自殺していた。
翌日、植民地ゴロの太田が平田を訪ねてきた。頼まれた仕事は支那語の通訳である。ついて行った先は、日本資本の紡績会社の罷業団の本部で、左翼運動に関係して馘首された十三人の復職、賃金二割増等の要求交渉の信任状を取り付け、会社と交渉し解決金を騙し取ろうとするとするもので、五百円の分け前を握らされた平田は、カフェ・チュウリンでにがい酒を飲む。そこで平田はお龍から、過去のスパイ行為と、平田が公安のスパイと誤認した岡本が、実は逃亡中の主義者北川であり、やはりお龍に売られたことを知る。
帰国を決意した平田は、義豊里の露地の貸間を引き払い、旅館に移る。その夜、蒋介石派の第二回目のクーデターが起り、「共産党系の諸機関が全市十数ヶ所に亘つて、残らず弾圧された」ことを知つた。糺察隊の本部・商務印書館には近づけなかったが、その会館の前から寳山路一面に、無数の夥しい死体が転がっていた。禹平珍に出会い、義豊里の苦力・魯剛らもやられていることを聞く。貨物自動車に押し込めら、死を前にした共産主義者は革命歌を歌っている。恐怖を覚えると同時に、ある決意を持って共産党の隠れ家を訪ねた平田は、南京に落ち延びる彼等と出発する。
最後に『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社)の梗概。
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労農党を中心に結成された対支 非干渉全国同盟のポスター (法政大学大原社会問題研究所 大原デジタルミュージアム戦前 ポスターデータベース所蔵、PA 1402)蒋介石の反共クーデター が起きた1927年(昭和2)8月の もの。国民党旗がみえる。 |
冒頭に書いたように、本考察は、「假面」および「支那から手を引け」に垣間見える里村欣三の満州体験を考えてみることを目的にしていたのだが、「動乱」、「假面」、『支那から手を引け』三作品の紹介だけで随分長くなってしまった。
とりあえず、ここで「動乱」、「假面」、『支那から手を引け』三作品のまとめをして、「里村欣三の満州体験」考察は、次考察「満州小考(5)」に分離して行なうことにします。
「まとめ」として、まず初めに、「動乱」は当然里村欣三の作品であるが、「假面」もまたその大部分において里村欣三の作品である、ということを押さえておきたい。
『福岡日日新聞』に掲載された「假面」は、『支那から手を引け』の序文にその成立経緯が明らかにされているが、里村欣三が執筆した百二三十枚の原稿のうちの数十枚に前田河が改稿を薦めた、こうして出来上がった里村の作品に前田河が単独で仕上げを行なった、と書かれている。卑近に言えば、里村欣三の作品に前田河がお化粧を施したものである。
作品『支那から手を引け』は、里村と前田河が、テーマと構成について数度の打ち合わせをを行ない、里村が執筆した。再懇談の結果、大部分を書き改めることになったが、里村は岩藤雪夫の「代作問題」を契機に、前田河との共同製作を放棄した。そこで前田河は、「最初五六十枚の彼れ(里村)の書き出し」と「満州放浪時代の同君(里村)の悲痛な経験を取入れ」て、残りの部分は前田河が書き改めた、とされている。
だが、先に見た『支那から手を引け』の梗概からは、前田河がどの部分を新たに書き改めたのか、明確にはできない。冒頭に、主人公田中が日本国内の対支非干渉同盟の集会に参加する場面が新たに追加され、創意工夫の跡が見られるが、これも「最初五六十枚」の範囲にあたり、前田河ではなく里村欣三の創意とも言える。そして、作品成立の経緯から明らかなように、“満州放浪時代の悲痛な経験”は、前田河ではなく、里村欣三のものである。
さて、今回見てきた三作品に共通するテーマは、「北伐革命軍上海入城前後の支那革命の転換の動機にあつた」(『支那から手を引け』序文)。1927年(昭和2)4月の蒋介石の反共クーデター下の上海を動的に捉え直そう、という意欲的な創作モチーフなのである。
三作品の設定には、主人公がハルピン滞在の経験をもつ失業者であり、職を求めて、今は上海で新聞記者をしているハルピン時代の知人を訪ねる、その落ち着き先は「義豊里」であること、領事館警察のためスパイを働くキャバレーの盲目の女主人、等の共通点が見られる。
三作品は、「義豊里」の貧しい人々や苦力の動きを通して、国民党革命に対する下層民衆の感性が実感的によく表現されている。
『支那から手を引け』では「義豊里」と題して一章が設けられ、そこでは「義豊里」は盲腸のような袋小路の横丁で、箒草を生やした長屋の苦力、残飯を粥にして売っている飯屋、通りにおかずをみせつけながら食事する家具屋禹平珍と棺桶屋の大工の、貧困に負けない虚栄心。どこか気品のある声で、小説や軍談などを苦力に読んで聞かせる老人、会えば「オハヨウ」と声をかけてくる日本人慣れした一人の苦力、「リャング」と呼ばれる金聾とも思われる爺さん。「目前の現象にだけ非常な狼狽や恐怖を感ずるのであつたが、その騒ぎが済むと一切をけろりと忘れる風習」を持って、洪水のように雑談する人々。そんな「垢と太蒜と脂汗の臭ひが、尻尾を曳くやうに漂」う「義豊里」ではあるが、「假面」の主人公平田は「裸足で働く彼等の群にこそ、本当の生活があるんではないか」と思うし、『支那から手を引け』の主人公田中は「どうにかして彼等とへだてのない気持で交際してみたい」(P139)と思うのである。
『時空上海旅行ガイド大上海』
(広岡今日子・榎本雄二著、 情報センター出版局) |