満州小考(4) 
前田河廣一郎の「假面」と『支那から手を引け』から

はじめに

 「三等船客」等の作品で知られる前田河廣一郎が、昭和5年に刊行した小説『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社、B6版、本文255ページ)の序文には、意外なことが書かれている。著者名は「前田河廣一郎」だが、小説『支那から手を引け』は前田河と里村欣三との共同製作であることを明言しているのである。
 3ページにまたがる序文をひとつにまとめ、下に写真版で掲げるので、ご覧下さい。

『支那から手を引け』の成立経緯

「假面」第1回が掲載された昭和4年7月16日の『福岡日日新聞』のタイトルと、
最終回の一部
 上に掲載した『支那から手を引け』の序文に従いつつ補足すると、里村欣三には「スパイ」と題する百二三十枚の旧稿があり、そのうちの数十枚に前田河廣一郎が改稿を加え、福岡日日新聞に「假面」と題し、ネームバリューのある前田河の名前で掲載した。
 掲載日は、昭和4年7月16日から同8月16日までの全30回で、8月2日、7日はお休みで掲載がない。
 しかし、その「假面」の出来ばえに不満があったので、1930(昭和5)年3月から4月にかけて、前田河と里村欣三は数回の打ち合わせをし、6月までに里村欣三が百枚ほどの原稿を書いた。ところがその打ち合わせ過程の6月14日、岩藤雪夫の「代作問題」が暴露された。
 これは、岩藤雪夫の名前で発表された小説「工場労働者」(『工場労働者』現代暴露文学選集、天人社、昭5)及び「訓令工事」(『改造』昭和5年6月号)が他人の作で、これを岩藤名義で発表した、という労農芸術家聯盟内で発生した問題であるが、この処理を巡って、青野季吉、前田河廣一郎、葉山嘉樹らと小堀甚二らが対立、平林たい子、長谷川進、今村恒夫らが同聯盟を脱退した事件である。
 この岩藤雪夫の「代作問題」がかまびすしい中、里村欣三は7月上旬、前田河廣一郎との共同製作の断念した。前田河廣一郎は、里村欣三の「假面」改稿原稿百枚ほどのうち、最初五・六十枚の里村の書き出し、および里村の満州放浪時代の悲痛な経験を残して、その他は書き改めて上梓したのが、この『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社)である、そういう趣旨がこの『支那から手を引け』の序文(上の写真版)に書かれているのである。

 『支那から手を引け』の序文に書かれている里村欣三の「旧稿「スパイ」」と題する作品は、発表された里村の作品中には見当たらない。百二三十枚といえば相当のボリュームがあり、結局発表されなかった草稿に類するものと思われるが、『文芸戦線』昭和3年2月号に発表された里村欣三の「動乱」という作品には、福岡日日新聞に掲載された前田河廣一郎名義の「假面」、および『支那から手を引け』(日本評論社)と同一の設定があり、あるいは旧稿「スパイ」の一部分であるのかも知れない。
 これら三作品の背景には、当サイト考察「満州小考(3) 「ハルピンのメーデーの思ひ出」」で見たように、1926年(大正15年=昭和元年)10月下旬から11月初め、里村と石井安一、「渡部」の三人で行なった上海行、および1927年(昭和2)4月、小牧近江とともに上海で開催予定の汎太平洋反帝会議に参加するため、蒋介石の反共クーデターの渦中にある上海に渡った、その二度の、里村の上海体験が色濃く反映しているように思われる。
 今回の「考察」は、
「假面」および「支那から手を引け」に垣間見える里村欣三の満州体験を考えてみることを目的にしているのだが、まず初めに、「假面」が掲載された『福岡日日新聞』について、続いて前田河廣一郎の上海体験を見ていくことにする。

『福岡日日新聞』と菊竹淳

左、木村栄文著『六鼓菊竹淳』(昭和53年3月10日、葦書房)の外箱。
右はその口絵に掲載されている菊竹淳で、キャプションに「編集局長
当時の菊竹」とある。
 前田河廣一郎と里村欣三の共作「假面」が掲載された福岡日日新聞』は現在の『西日本新聞』の前身で、明治13(1880)年4月17日に創刊された。
 
前田河廣一郎名義で「假面」が掲載された昭和4年7月当時の編集局長は、菊竹淳(すなお、号・六鼓)であった。
 木村栄文著『六鼓菊竹淳』(昭和53年3月10日、葦書房刊、677ページ)をもとにその経歴を追ってみると、菊竹
明治13(1880)年1月25日、福岡県生葉郡福益村(現在の浮羽郡吉井町)の生まれ、生家は造り酒屋の資産家であったが、二十一も年の離れた兄博之は自由民権運動に資産を傾けた、といわれる。
 明治36(1903)年、23歳で『
福岡日日新聞』に入社した菊竹淳は、明治44(1911)年、編集長に抜擢され、前田河廣一郎名義の「假面」が掲載された昭和4年7月当時は49歳で、編集局長の地位にあった。
 
菊竹は、昭和7年、犬養首相が暗殺された五一五事件に際し、「あえて国民の覚悟を促す」(5月17日)他の論説を発表し、軍部を弾劾したことで知られる。「独裁政治が、今日以上の幸福を国民に与うべしと想像しうべき寸毫の根拠もない。ファッショ運動が、日本を救うべし、と信じうべきなんらの根拠もない。」と述べひとり軍部テロを糾弾、憲政擁護を敢然と主張した。
 前述木村栄文著『六鼓菊竹淳』には、菊竹淳が『福岡日日新聞』に掲載した主要論説が収載されているが、その菊竹の論説を読んでみると、菊竹は反戦平和のリベラリストというよりも、基本的には、独立不覊の新聞人、という印象が深い。
 昭和2年、蒋介石の北伐に対抗した日本軍の山東出兵に対しても「やむをえざる処置」としているし、満州における日本の権益についても「満蒙は、支那本部と絶対に相異なる一の特殊地方である」として日本の権益を擁護する立場である。必ずしも反戦平和論者ではないのである。しかしながら、その論説の大部分は、独立不覊であるが故にリベラルに通底するものがある

 
『六鼓菊竹淳』の著者木村栄文氏は、「「反戦・反軍のリベラリスト」という表現の語感は、悠々にふさわしくとも、淳にはややそぐわない。」「菊竹六鼓の政治思想には「体系化されざる国家主義の信奉者」としての傾向が濃厚であり、この点、五・一五事件の反軍論説だけで淳を持ち上げることは、地下の彼を苦笑させるに過ぎないように思われる。」(P566-567)とされている。悠々とは「信濃毎日」の桐生悠々(政次)のことである。
 
前田河廣一郎名義の里村欣三との合作小説「假面」が福岡日日新聞』に掲載された具体的な経緯は明らかでないが、福岡という地の利、たとえば長崎からの上海航路は東京に行くのよりも近い、というように、九州には上海や中国に地理的な親近感・関心が強いという風土があったのであろう、紙面の端々にもそういう雰囲気が感じられるのである。葉山嘉樹の作品「恋と無産者」、西尾菊枝(菊江)さんとの恋と駆け落ちを語ったこの作品も同じ昭和4年の1月8日〜2月28日まで福岡日日新聞』に掲載されており、こういうところに機縁があったのかも知れない。

前田河廣一郎の上海体験

櫻井増雄著『地上の糧 =前田河廣一郎伝=』(平成3年12月、
游心出版)とその口絵に掲載された前田河の肖像
 つぎに前田河廣一郎の上海体験を見ていくことにする。

 前田河廣一郎の生涯については、自身が『文藝戦線』大正15年3月号から昭和2年8月号まで18回に亘って掲載した幼少期の自伝が知られるが、それ以外には、櫻井増雄著『地上の糧 =前田河廣一郎伝=』(平成3年12月(日付なし)、游心出版、A5版、559ページ)が、今日のところまとまった前田河廣一郎伝としては唯一のものかも知れない。
 著者の櫻井増雄氏は1916年生まれの作家・詩人・日本画家で、昭和22年頃、前田河廣一郎の知遇を得て、昭和32年12月4日に前田河が亡くなるまで親交を続けた人で、元は愛知県東春日井郡(現在の東春日井市)出身。昭和22年、雑誌『新生日本文学』を発行し、昭和32年10月、東京目黒に出て、『社会主義文学』の事務局長になった。
 『社会主義文学』は昭和28年9月1日創刊、伊藤永之介、金子洋文、「葉山嘉樹回想ノート」で知られる中井正晃(これも『社会主義文学』に掲載された)、里村欣三と親交のあった高橋辰二、鶴田知也、貴志山司、今野賢三、分銅淳作らが拠った「社会主義文学クラブ」の季刊雑誌である。
 櫻井氏はこの『社会主義文学』の事務局長・編集長をされた方で、のち1960年4月に文芸雑誌『全線』を創刊、この『全線』創刊号にはくしくも前田河廣一郎の遺稿となった「里村欣三」と題する回想記(P34-42)が掲載されている。
 前田河廣一郎は、この回想記「里村欣三」で、里村に関するいくつかのエピソードを語っているが、いま検討している『福岡日日新聞』掲載の
「假面」や『支那から手を引け』については何も語っていない。「彼は支那の下層社会の事情によく通じていて、(中略)彼という人柄は、日本人というよりも、より多く支那人であるといいたいほど大陸的であった」と書いているだけである。
 櫻井氏の『前田河廣一郎伝』は、『社会主義文学』に掲載されたものをベースにまとめたもので、前田河廣一郎が徳富蘆花の導きによって明治40(1907)年5月に渡米し、13年間の在米後、大正9(1920)年2月に帰国する、そのあたりの経緯・経過については十分に詳しい。しかし、前田河廣一郎が米国から帰国後、雑誌『中外』の編集長となり、同誌に「三等船客」を発表、プロレタリア文学運動の文戦派の中心軸になって行く、そういうプロレタリア文学運動期、戦中期については、櫻井氏の著作には、今日一般に知られていること以上の記述がないようである。
 この『前田河廣一郎伝』は、伝記ではあるが年譜が作成されておらず、一部の記述には出典が明記されていないものもあり、詳細な伝記を期待して読むものにはやや不満の残るものである。そのかわり、戦後期のものではあるが、櫻井氏宛の前田河廣一郎の書信、ハガキ等の書影が多数収載されている。

前田河廣一郎『悪漢と風景』(昭和4年7月15日、改造社)左・表紙、
右は扉
 さて、前田河廣一郎が上海に渡り、また南京等へも足を伸ばした中国体験をしたのは、昭和3年10月から翌年3月まで(講談社『机上版近代文学大事典』昭和59年10月24日)で、その結実が、随筆集『悪漢と風景』(昭和4年7月15日刊、改造社、四六版、325ページ)と作品集『支那』(昭和5年5月21日刊、改造社、四六版、649ページ)である。『支那』には別に文庫版(昭和7年8月15日、春陽堂「日本小説文庫163」)がある。

 前述櫻井氏の『地上の糧 =前田河廣一郎伝=』には、「昭和三年の十月から翌三月まで中央公論社の委嘱で南方支那へわたった、廣一郎は、『大きく動く支那』『上海の宿』、『敗軍』などという作物をものしたのであった。その時なかなか原稿に着手せず、長く宿に泊まっていて、宿泊料が溜るばかりであったので、宿の主人が心配して尋ねると、『いや、おれの頭には、李白がいったように、金のかたまりがあるから……』と、豪快に笑った。そして、魯迅や郁達夫、田漢などと、相かわらずゆうゆうと交友しているのであった。が、果して原稿が出来あがってくると、巨額の金がとどけられて来た。驚嘆した宿の主人は、その風骨ぶりがあまりにも印象的であったから、戦前日本の作家(福田清人)たちが南支に渡った折りに、たまたま、その主人は、そのはなしをもち出して、すこぶる、なつかしがったものである。」(P125)という記述がある。

 前田河廣一郎の『悪漢と風景』は、味わいのある装幀で、随筆集だけに読みやすい。P203-325の第八章「大きく動く支那」がこの上海行に関する見聞録で、その目的は、「動いて
るままの形で、今の支那を見よう。流転の支那、大過程を過程しつつある支那、」「その変革の動揺をみることだけでもが、すでに、この私の小さな日本の知識分子としての煩悶の大部分が拭い去られるに違ひない。」という、プロレタリア文学者としての自己確認の旅であった。

前田河廣一郎『支那』(昭和5年5月21日、改造社)
の表紙と背表紙。
 前田河は、虹口市場に近い袋町に間借りし、街に出ては苦力を、市場を、人々の生活を、貧乏を、喧噪を、芝居と活動写真を、国民党の内部対立、蒋介石の人となりを、組織化される工人を、白熱する上海を観察した。「例の五三事件の発祥地だと云はれてるゐる、某綿会社の工場」を訪れ、「平気で綿屑を吸い込みながら働いてゐる光景」を眼にする。
 「支那へ来て一と月目」、「北四川路の中有天といふ料理屋」に魯迅の招待で出かけた。
 「垂れ下がるほど蓬髪を伸ばして一見どこの田舎爺かしらと思はれるやうな風貌をした彼[魯迅]は、憂鬱な蒼黄ろい額に小皺を寄せて、私の言葉に耳を傾けた。」「彼れの中年期の魂は、あまりに支那の矛盾を知り過ぎて、その諸矛盾の迷宮に途惑ひしてゐるやうだつた。」(
『悪漢と風景』P245-246)と、その印象を記している。郁達夫、田漢、張若谷、鄭伯奇らとも交遊し、内山書店内山完造にも会っている。
 また南京に足を伸ばし、村松梢風と雨花台に登ったりしている。『魯迅の友内山完造の肖像』(吉田曠二、1994年9月30日、新教出版社)には、村松梢風について「一九二〇〜三〇年代の上海で放蕩三昧の生活にふけったいわゆる「上海趣味人」で、(中略)村松もまた内山書店のお客の一人だった」(P128)とある。
 
作品集『支那』は、長編「支那」をベースに、戯曲「蒋介石」や、「セムガ」を含む厚冊の著作である。この『支那』収載の「上海の宿」(P327-367)も小説仕立てではあるが、随筆集『悪漢と風景』と同様に前田河廣一郎の上海滞在記である。
 しかしながら、この作品集『支那』には、いま検討を加えようとしている『福岡日日新聞』掲載の前田河廣一郎名義「假面」、および『支那から手を引け』(日本評論社)の中に見られる「満州体験」はひとつも見当たらない。前田河廣一郎には「満州体験」はないのである。

 したがって、
「假面」および『支那から手を引け』の中に見られる「満州体験」は、それが事実であるのか、小説的仮構であるのかは別にして、その源は、すべて里村欣三の満州体験から発している、と言えるのではないだろうか。冒頭に写真版で掲げた『支那から手を引け』の序文にあるように、「假面」および『支那から手を引け』中における「満州体験」の記述は、里村欣三の「満州放浪時代」の「悲痛な経験」に基づく結果なのである。

「動乱」・「假面」・『支那から手を引け』の梗概

 今回の「考察」の目的は、初めに述べたように、「動乱」(『文芸戦線』昭和3年2月号)、「假面」(『福岡日日新聞』昭和4年7月16日から同8月16日、30回)、『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社)の三作品を比較考察することにあるのではなく、「假面」および「支那から手を引け」中の満州関連記述から、里村欣三の満州体験を考えてみることを目的にしているが、とりあえず三作品の梗概を押さえておくことにする。

 まず三作品の中で一番早い時期の作品、
「動乱」(『文芸戦線』昭和3年2月号)の梗概

 上海閘北W・P路に朱敬鎮という船大工が住んでいた。女房は仕立物を内職にしていたが、上海に迫る国民党革命軍の党旗を内密に作るように依頼される。その夜、W・P路に銃声が起った。便衣隊の蜂起だ。朱敬鎮は戦争の近づいたことを意識しないではいられなかった。
 放浪者の「私」は、市中の形勢を観察するため、じつ懇にしている「上海××新聞記者」黒田と連れ立ってW・P路を歩いていた。「萬歳!」「××成功萬歳!」群衆の叫びの中心に、朱敬鎮の六つになる一人っ子洪張が、母の秘密の内職の国民党
「青天白日満地紅」旗を持ち出し、それを翻しながら人々に抱き上げられていた。
 警邏の山東兵が突然群衆の中に切り込んで来た。銃声が聞こえた。「私」は群衆の逃げさった路上に、可憐な洪張が血だまりのなかに白い顔を投げ出しているのを見た。次の日、市中は家財道具を積み込んだ馬車やトラックで、どの道路も道幅一杯に群衆が溢れていた。総工会の罷業が開始され、砲声が間近に聞こえていた。革命軍の先鋒が上海に着いた日、全市がゼネストの中で上海市特別市政府が宣言され、警察権は糾察隊の手中に帰した。放浪者の「私」は置き去られて行く憂鬱を感じずにはいられなかった。
左の青天白日旗は1893年中国革命同盟会の旗としてデザイン
され1919年国民党旗に制定、右は
青天白日満地紅旗で1928
年10月8日、蒋介石が南京国民政府を成立させた際に正式に中
華民国国旗として採用されたもの
 「私」は新聞記者の黒田をさがしてP・U路のレストランに入った。そこには、尿毒症にかかって失明した美しく澄み透った眼の「お君」がいた。酔っぱらって通りに出た「私」は群衆の流れに吸い寄せられて広場に出た。群衆が次々に起ち上がって演説している。そこに息子洪張を殺された船大工の朱敬鎮がいた。『皆さん、聞いて下さい! この血みどろな赤旗にこそ、私のたったひとりの……」こう朱敬鎮が叫ぶと同時に、出し抜けに短銃が発射され、朱敬鎮の声が止んだ。群衆はその発砲者の白煙に向かって殺到した。「逃がすな」


 次に
「假面」(『福岡日日新聞』昭和4年7月16日から同8月16日)の梗概

 平田修は、前島と称する社会主義者の容貌と類似しているのか、放浪中のハルピンで、誤認され拷問を受けたことがある。職を求めて上海に渡る平田は、船中で岡本と呼ばれる公安のスパイらしい男につけられる。
 上海に上陸した平田は、旧友黒田の案内でカフェ・チュウリンを訪ね、尿毒症で失明した、澄んだ瞳をもつアイリッシュお龍を知る。支那街の裏町
義豊里の禹平珍の二階に貸間を見つけ、落ち着いた平田。喧噪の露地、平田は首筋に黒い絆創膏を貼った娘を知る。真向かいの破家には十四五人の苦力が住んでいる。
 黒田の紹介で求職の面接に出かけた平田は、無料宿泊所「一樹庵」に住むアナーキスト崩れのゴロ太田を知る。再びチュウリンのお龍を訪ねた平田は、帰途、義豊里の苦力とすれ違い、「裸足で働く彼等の群にこそ、本当の生活があるんではないか」と思う。翌日の夜、老酒をもって苦力を訪ねた平田は、魯剛という名の苦力から悲惨な生活を聞く。間借先の禹平珍からは「あの連中は共匪なんだ。過激な共産主義者だからね。」と忠告を受ける。禹平珍の細工場に来ていた黒い絆創膏を貼った娘から、母が日本資本の紡績会社で働いていた時、片腕を「喰はれ」、抗議して解雇された父は便衣隊にいる。「ひどいのは資本家だけだ。」という平田に娘は「嘘、嘘! 日本人の資本家だから支那人にひどい。会社は日本人の職工なら、そんなひどいことはしない!」と抗議する娘、柳芳青。魯鈍に見えながら、どこかにきつい、犯しがたい気品を示す娘にも惹き付けられ、「彼は一日も早く職業をみつけて、この露地に落着いてゐたい」と思う。
木之内誠編著『上海歴史ガイドマップ』(1999年6月20日、大修館書店刊、P20-21)の上海歴史地図「虹口区」。E-2に『假面』に出てくる義豊里の名が見える。義豊里周辺には
日本旅館も多い。「租界」は黄浦区南部に1845年イギリス租界が開設されたのを起点に拡張が繰り返され「虹口区」の大半も1893年には「共同租界」に組み込まれた。フランス租界
(1949年開設)は黄浦区イギリス租界の南部から西に向かって大きく拡張されて行く。(『上海歴史ガイドマップ』P62-63地図より)。前田河廣一郎も昭和3〜4年に上海を訪れた時、
E-2虹口マーケット付近で寄宿した。F-3に日本領事館警察、F-5に日本領事館(1911年開設)。五三〇事件の発端になった「内外綿」の工場は、閘北区のさらに西、普陀区の呉淞江に
面した共同租界にある。

 ある時、黒田と出会った平田はアイリッシュお龍が領事館警察のスパイだと聞かされる。盛んに「伝単」が貼られる上海。苦力魯剛のところに出入りする青年を街で見かけた平田はその後をつける。隠れ家を発見した平田は、領事館警察に出向き、彼等を売ることで仕事を得ようとするが、相手にされない。
 三月十二日の夜明け近く、上海に銃声が起り、街に出た平田は便衣隊の死骸を見る。彼が後をつけたことのある青年も負傷して義豊里の露地に逃げ帰っていた。「うむ、上海の占領から急に勢力の増大して来た便衣隊武力を恐れた結果、蒋介石の野郎、たうとうこのクーデターを実効したんだな、畜生!」とつぶやく若い苦力。「蒋介石が軍艦楚有で南京から上海に」入った日、見物の人並みの中で、平田は絆創膏を貼った娘、柳芳青を見かける。平田が「群衆の歓呼に会釈してゐる蒋介石の慈姑頭を認めた」瞬間、狙撃が起った。狙撃者は柳芳青だった。累犯にされる柳芳青の母を救おうと、平田は、前に青年の後をつけて見つけた共産党の隠れ家を訪ねるが、そこでは「組織的な闘争の全体制と密接に結びついてゐない、個人的なテロルは無産階級運動に非常な害悪を及ぼす」、むしろあなたは日本に帰り、この状況を正確に報告し、「果敢な国内闘争の展開によつて、在支派兵の中正、不等条約の撤廃、及び租界の還付」等、帝国主義の対支政策に反対する闘いをすべきではないか、と諭される。平田が義豊里の露地に帰ると、柳芳青の母は自殺していた。
 翌日、植民地ゴロの太田が平田を訪ねてきた。頼まれた仕事は支那語の通訳である。ついて行った先は、日本資本の紡績会社の罷業団の本部で、左翼運動に関係して馘首された十三人の復職、賃金二割増等の要求交渉の信任状を取り付け、会社と交渉し解決金を騙し取ろうとするとするもので、五百円の分け前を握らされた平田は、カフェ・チュウリンでにがい酒を飲む。そこで平田はお龍から、過去のスパイ行為と、平田が公安のスパイと誤認した岡本が、実は逃亡中の主義者北川であり、やはりお龍に売られたことを知る。
 帰国を決意した平田は、義豊里の露地の貸間を引き払い、旅館に移る。その夜、蒋介石派の第二回目のクーデターが起り、「共産党系の諸機関が全市十数ヶ所に亘つて、残らず弾圧された」ことを知つた。糺察隊の本部・商務印書館には近づけなかったが、その会館の前から寳山路一面に、無数の夥しい死体が転がっていた。禹平珍に出会い、義豊里の苦力・魯剛らもやられていることを聞く。貨物自動車に押し込めら、死を前にした共産主義者は革命歌を歌っている。恐怖を覚えると同時に、ある決意を持って共産党の隠れ家を訪ねた平田は、南京に落ち延びる彼等と出発する。


 最後に
『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社)の梗概

労農党を中心に結成された対支
非干渉全国同盟のポスター
法政大学大原社会問題研究所
大原デジタルミュージアム戦前
ポスターデータベース所蔵、
PA
1402)蒋介石の反共クーデター
が起きた1927年(昭和2)8月の
もの。国民党旗がみえる。
 芝浦の安宿に住んでいる失業者の田中功は、時折銀座に出て来て、ただぼんやり歩くことを楽しんでいた。ある時、電柱に貼られた「対支非干渉示威演説会」のポスターを見て、本郷、仏教青年会館に出かけたが、解散させられた後、自然発生的な抗議デモで警官に殴られた経験がある。
 職探しに、ハルピン時代の知人、「上海新報」の記者をしている大友という男を頼って上海に向かう船中で、田中は、岡部という男から、主義者の林幸作に間違えられて声を掛けられる。下船後、岡部をまくために人力車に乗った田中は、車夫とトラブルになるが、朝鮮人と誤解されて難をのがれる。田中は「運よく朝鮮人に間違へられて助かつたのは命拾ひだつたが、何故支那人がかうも日本人にむかつて敵意を抱いてゐるのか、それが不思議でならなかつた。」
 田中は金中功という朝鮮人名で湖北路の支那宿に落ち着く。
 大友の案内で、ホテル地下のカフェに行き、「ユーカリのとみ子」を紹介される。とみ子の青白い透き徹る眼は、尿毒症で失明していたが、領事館警察のスパイでもあった。大友は新聞記者であるが、日本の資本家を擁護して紡績工場の支那人労働者ストの調停で金を得ていた。
 街に出た田中は、「自分だけがこの大都会の中で独りでおちぶれて、不安で、浅間しい、仕事を持たぬ人間のやうに思はれた」。そして、「支那から手を引け」というのは「支那人の中から出てゐる本当の気持らしく田中には思はれたのである」。
 田中は大友から、ストライキのブローカーをしている松山という上海ゴロを紹介され、通訳を頼まれるが、田中は断って、大友と喧嘩別れする。
 義豊里の支那人の貸二階に移った田中は、満州放浪時代の回想にふける。
 街に出た田中は、岡部と出会う。後日、霞飛路の中央旅社に岡部を訪ねた田中は、そこで社会主義者の林幸作に出会った。岡部は田中に林の壁武者になることを求めた。岡部は公安の刑事ではなく、林と同窓の同志で本名は崎山といった。壁武者を引き受けた田中は黄包車で愛多路から競馬場のわきを抜け、南京路、福建路、北京路、蘇州路、自来水橋から呉淞路へと尾行をひきまわした。尾行をまいて料理屋にあがった田中は新聞を見つつ上海状勢の理解に努める。街々には巡警の数が著しく増えている。義豊里にもどった田中は、めし屋で、居合わせた巡警が赤い腕章をまいた苦力に撃たれるのをみた。
 街はさらに騒然としている。「一軒の家からは、子供が小さな青天白日旗を持つて飛び出すと、その母親らしい女が、吃驚したやうに追ひかけて、小旗を奪ひ取ると、掌の中にまるめ込んで、何気なく手鼻をかみながら前後をふりかへつて見てゐ」る光景にも出くわす。小名木や上原という領事館の刑事につけ回された田中は、岡部を訪ねるが留守で、俄徳という老人と面会する。岡部からの伝言を聞いた田中は、林になりすましてロシア人のコレヴィッチに会うため、カフェユーカリに出かける。尿毒症で失明しているとみ子が出て来たが、田中には蟷螂のようにも思え、岡部の伝言の忠告を思い出して、とみ子を拒否する。声を掛けてきたコレヴィッチの知人の支那人チェーンらと車で街に出た田中らは、巡警に取り囲まれる。巡警は岡部らの共産主義者の仲間の変装で、おびき寄せられたチェーンは、博崇震探偵長というスパイだった。
 義豊里では、「見たこと見ないことの限りを」独特の空想にまかせた流言飛語が飛び回っていた。そんなある日、「何も持つてゐないと傲語してゐる」この義豊里に「幾日も顔や手を洗はない、野鼠のやうにうす汚い窮民の群れが押し寄せてきた。義豊里の人々はその対策に大わらわである。この混乱の中で、岡部から再び伝言が来た。田中は義豊里を出て岡部に会う。本物の林が、影武者である田中に嫉妬し、日本に帰ることを勧めるのだった。田中は「高等政治とやらは、あんた方にお任せしますよ。もともと、わしは労働者なんだ!」と拒否し、たもとを分かった。その後、上海の日本人間にしばしばテロがみられた。上海が、再び蒋介石の手に掠奪された時、勇敢に闘って死亡した一人にどうしても支那人でないと思われる党員がいた。介紹校友報告表には「中華民国人 田功中」とだけ記されていた。

 以上が、「動乱」(『文芸戦線』昭和3年2月号)、「假面」(『福岡日日新聞』昭和4年7月16日から同8月16日、30回)、『支那から手を引け』(昭和5年11月15日、日本評論社)三作品の概要である。

まとめ

 冒頭に書いたように、本考察は、「假面」および「支那から手を引け」に垣間見える里村欣三の満州体験を考えてみることを目的にしていたのだが、「動乱」、「假面」、『支那から手を引け』三作品の紹介だけで随分長くなってしまった。
 とりあえず、ここで「動乱」、「假面」、『支那から手を引け』三作品のまとめをして、
「里村欣三の満州体験」考察は、次考察「満州小考(5)」に分離して行なうことにします。

 「まとめ」として、まず初めに、「動乱」は当然里村欣三の作品であるが、「假面」もまたその大部分において里村欣三の作品である、ということを押さえておきたい。
 『福岡日日新聞』に掲載された「假面」は、『支那から手を引け』の序文にその成立経緯が明らかにされているが、里村欣三が執筆した百二三十枚の原稿のうちの数十枚に前田河が改稿を薦めた、こうして出来上がった里村の作品に前田河が単独で仕上げを行なった、と書かれている。卑近に言えば、里村欣三の作品に前田河がお化粧を施したものである。
 作品『支那から手を引け』は、里村と前田河が、テーマと構成について数度の打ち合わせをを行ない、里村が執筆した。再懇談の結果、大部分を書き改めることになったが、里村は岩藤雪夫の「代作問題」を契機に、前田河との共同製作を放棄した。そこで前田河は、「最初五六十枚の彼れ(里村)の書き出し」と「満州放浪時代の同君(里村)の悲痛な経験を取入れ」て、残りの部分は前田河が書き改めた、とされている。
 だが、先に見た『支那から手を引け』の梗概からは、前田河がどの部分を新たに書き改めたのか、明確にはできない。冒頭に、主人公田中が日本国内の対支非干渉同盟の集会に参加する場面が新たに追加され、創意工夫の跡が見られるが、これも「最初五六十枚」の範囲にあたり、前田河ではなく里村欣三の創意とも言える。そして、作品成立の経緯から明らかなように、“満州放浪時代の悲痛な経験”は、前田河ではなく、里村欣三のものである。

 さて、今回見てきた三作品に共通するテーマは、「北伐革命軍上海入城前後の支那革命の転換の動機にあつた」(『支那から手を引け』序文)。1927年(昭和2)4月の蒋介石の反共クーデター下の上海を動的に捉え直そう、という意欲的な創作モチーフなのである。
 三作品の設定には、主人公がハルピン滞在の経験をもつ失業者であり、職を求めて、今は上海で新聞記者をしているハルピン時代の知人を訪ねる、その落ち着き先は「義豊里」であること、領事館警察のためスパイを働くキャバレーの盲目の女主人、等の共通点が見られる。
 三作品は、「義豊里」の貧しい人々や苦力の動きを通して、国民党革命に対する下層民衆の感性が実感的によく表現されている。
 『支那から手を引け』では「義豊里」と題して一章が設けられ、そこでは「義豊里」は盲腸のような袋小路の横丁で、箒草を生やした長屋の苦力、残飯を粥にして売っている飯屋、通りにおかずをみせつけながら食事する家具屋禹平珍と棺桶屋の大工の、貧困に負けない虚栄心。どこか気品のある声で、小説や軍談などを苦力に読んで聞かせる老人、会えば「オハヨウ」と声をかけてくる日本人慣れした一人の苦力、「リャング」と呼ばれる金聾とも思われる爺さん。「目前の現象にだけ非常な狼狽や恐怖を感ずるのであつたが、その騒ぎが済むと一切をけろりと忘れる風習」を持って、洪水のように雑談する人々。そんな「垢と太蒜と脂汗の臭ひが、尻尾を曳くやうに漂」う「義豊里」ではあるが、「假面」の主人公平田は「裸足で働く彼等の群にこそ、本当の生活があるんではないか」と思うし、『支那から手を引け』の主人公田中は「どうにかして彼等とへだてのない気持で交際してみたい」(P139)と思うのである。

『時空上海旅行ガイド大上海』
(広岡今日子・榎本雄二著、
情報センター出版局)
 作品の主人公が住んだ義豊里は、虹口地区の虹口市場のすぐ北側に位置している。
 『時空上海旅行ガイド大上海』(広岡今日子・榎本雄二著、2006年10月24日、情報センター出版局)によると、虹口地区は、1873年日本領事館がこの地区の黄浦江沿いに移転したのをきっかけに日本人が「じりじりと増え続け、1937年の第二次上海事変」以降その数はさらに急増、「「長崎県上海市」といわれるほどの日本人街へと変貌し」(P85-86)、「日本人による商店、日本人学校、日本人墓地、日本人医師による病院などが建ち並び、陸戦隊本部や憲兵隊本部といった日本軍の拠点もあった。」(P96)
 虹口地区の東部にはユダヤ難民が数多く住み、また、虹口の西側に隣接する閘北地区は、共同租界の外側で、「外国資本が入ることも少なく、一貫してスラム街」であり、上海北站(北駅)を中心とする「鉄道沿いにバラック」が建つ「下層エリア」(P86)であった。
 
義豊里は、日本人が多く住む下町の外れにあり、そこに隣接して上海のスラムが広がっていた、といえるだろう。
 
作品の主人公はこの義豊里に住み、その主人公に仮託した作家・里村欣三は、そこに生きる苦力に心ひかれ、「彼等とへだてのない気持で交際してみたい」と思うのである。
 一方、同じ虹口市場に近い袋町に間借りした前田河廣一郎は、『悪漢と風景』などから見ると、スラムに住む苦力を観察しているけれど、のめり込んではいない。
 
こういう根底のところに差別感のない心根は、前田河のものではなく里村欣三のものであり、後年、『北ボルネオ紀行 河の民』(昭和18年11月25日、有光社)において里村が書いた、「私は武力の背景を持たず、また征服者の誇りを捨ててしまって、一放浪者として人間的に交際し、友達になってみたいと考へて、今度の旅行に出て来たのである。私のそんな考へが通用するかどうかを試して見るのも、この旅行の目的の一つであった。彼等がつけ上がってもいいし、時と場合によっては、私たちが彼等の苦力になってもいい、私はそんな風に考へてゐる。」(P174)という記述にまっすぐに通じる里村欣三の変わることのない本心である。

 最後の作品『支那から手を引け』は、冒頭に日本国内での「対支非干渉示威演説会」とその参加者への弾圧場面を冒頭にもってきて、前作「假面」ではできなかった国民党革命と日本の労働者、階級闘争の関係を描くことを構想の一部に企図したものであることがわかる。しかし作品は、“尻切れとんぼ”に終っており、その構想は意図に反し十分には成功していない。
 その原因は、テーマそのものがいわば「他国」の動乱という大きなものであり、主人公も里村欣三の当時の姿を反映して、職を求めて上海を訪れる失業者=「外在者」として設定されている。「外在者」であるということは、蒋介石の反共クーデターに対し、日本の文学者として、また社会主義者として、どう関わり対応すべきかということが見通せていない、ということでもある。
 日本国内における「対支非干渉」運動そのものも、1927年4月12日の蒋介石による反共クーデターに対し、国民党革命軍の北伐に対する支援と列強の干渉反対という基本線はあるものの、蒋介石を支持するのか、それとも共産党を支持するのか、ということを巡って相当に対立や動揺があったようである。もちろん里村欣三や前田河は、蒋介石に反対し、共産党を支持する労農党と同一の立場であったが、こういう日本国内における「対支非干渉」運動の動揺も、作品が“尻切れとんぼ”に終った要因のひとつであった、といえよう。
 こうした欠点を持ちながら、しかし、里村欣三と
前田河廣一郎が繰り返し作品化を試みたように、動乱の中国・上海を総体として捉えたいという意欲は随所にあらわれている。そのことを積極的に評価したい、と思う。テーマが大きすぎたのであり、彼等は十分に努力したのである。

 今回の「考察」は、前田河廣一郎と里村欣三の共同製作「假面」および『支那から手を引け』に垣間見える里村欣三の満州体験を考えてみることを目的にしてスタートしたのだが、前段階の考察だけで終ってしまった。
 続けて、次回、満州小考(5)では、「假面」および『支那から手を引け』の記述から、里村欣三の満州体験をズバリ、考察したいと考えていますので、ご期待ください。

 (2007.7.11)