ホタルと新選組 里村欣三の母方の系譜をめぐって


はじめに
『良い子の友』の戦場譚と里村欣三の母・金のふるさと

 『良い子の友』という児童向けの雑誌に里村欣三がいくつかの作品を書いているのを最近、見つけた。
 『良い子の友』は1942年、小学館の学年別雑誌が戦時統制により統合されて誕生した雑誌で、戦後も昭和24年頃まで発行されている。この『良い子の友』に里村欣三がいくつかの作品=戦場譚を書いているのである。

 まず、昭和18年8月号の「ハツシマ一トウヘイ」(P16-20)は中国戦線での戦場譚、同年10月号の「ケイリャク」(P60-64)は少年飛行兵の兄にあこがれる弟の家庭談、昭和19年正月号の「北の海の兵たいさん」(P24-28)は北千島訪問体験に基づくもの、昭和19年2月号の「カミノ クニノ サムラヒ」(P65-67)は日本軍のボルネオ侵攻を武士の来島英雄伝説に見立てたもの、最後の昭和19年6月号の「ミナミノ ヒカル ムシ」(P37-43)は幼年期の回想とマレーでの戦場譚を結びつけた作品である。
 いずれも里村欣三の「体験」に基づく数ページの短い児童向け作品であるが、作品の背景となった里村欣三の「体験」を列挙すれば、昭和12年7月から14年12月までの輜重兵としての中国戦線従軍、昭和16年末から17年にかけての報道班員としてのマレー戦線・ボルネオ従軍、昭和18年9月、これも報道班員として、柴田賢次郎らと北千島の幌筵島への派遣体験、である。いわば里村欣三の戦場体験を総花的に網羅している形であり、内容も今日の観点からみれば戦意高揚のための戦場譚で、ほとんど価値のないものかも知れない。

右・里村欣三の作品「ミナミノ ヒカル ムシ」(P37-43)のはじめ3ページと左・『良い子の友』昭和19年6月号の表紙
 しかしながら、昭和19年6月号の「ミナミノ ヒカル ムシ」だけは、里村欣三幼年期の回想を含んでおり、ヒカルムシ=「蛍」をキーワードにして、里村欣三の最後の従軍戦場であり死地であるフィリピンに結びつく重要な作品である、と思う。
 今日出海の『山中放浪 私は比島戦線の浮浪人だった』(昭和24年11月15日、日比谷出版)は里村欣三とのフィリピン戦線逃避行の記録であるが、その中の一章「螢の國」で今日出海が捉えた里村欣三のなにげないつぶやき、『螢の國だなァ』という一言に通じる作品である、と思う。

 この作品「ミナミノ ヒカル ムシ」はカタカナで書かれているが、勝手に漢字仮名混じり文に書き改めて出だしを紹介してみると、
 「私のお母さんが生まれたところは、岡山県の山奥の、ある小さな村です。那岐山から流れ出る吉井川の源にあたるところです。きれいな水が流れている谷川ですから、岩魚やウグイや鮎などがたくさんに採れます。
 お母さんは、麦のみのる頃や、田植え時分になると、毎年のように私を連れて、お祖父さんとお祖母さんのところへお手伝いに帰りました。
 麦の取り入れがすんで、田植え時分になると、きれいな水のいっぱいある田の上や川のそばで、たくさんの蛍が集まって、蛍合戦を始めるようになります。
 青白く光っている蛍が、何万となく入り乱れて、追いつ追われつしています。青白い光がもつれあって、ちょうど蛍の軍隊が、光る刀を抜いて切りあっているようです。また、何千という蛍が絡みあって、それが大きな光る手まりのようになって、水の上をふわりふわりと静かに流れていくこともあります。」
 作品はこの後、種類は違うがマレー戦線で見た蛍は……と、戦場譚へ繋がっていくのである。

 里村欣三は、この「ミナミノ ヒカル ムシ」の中で、母のふるさとを訪ねた思い出を懐かしんでいるが、里村欣三の『第二の人生 第二部』(昭和15年、河出書房)でも、「その頃祖母の家は備中の山の中の
成羽町に逼塞の生活を送っていたが、兵六は毎年母に手をひかれ、古いガタ馬車に揺られて祖母を訪ねる習慣になっていた。」(P59)と書かれている。
 関西大学の浦西和彦先生の『日本プロレタリア文学の研究』(昭和60年5月15日、桜楓社)によると、里村欣三の母、金は明治40年、里村が満五歳のとき、広島市で亡くなっているが、こうした母に連れられての「故郷行」への懐旧は、幼くして母を亡くした里村欣三の、「母への思慕」であるともいえる。ホタルを思い出す時、里村欣三は母との故郷行を思い出していたのである。

 さて、里村欣三の文中にある成羽(なりわ)町は現岡山県高梁市成羽町であるが、私には土地勘がないので、この成羽町が岡山県のどの辺にあるのか、インターネットで検索していたとき、思わぬ記事に出会ったのである。それが幕末、備中松山藩において元締役・吟昧役から後、「参政という、いまの総理大臣にあたる職」を勤めた山田方谷(ほうこく)という人をテーマにした「山田方谷マニアックス」(http://ftown.boo.jp/takahashi/houkoku/index.html)というページであった。この「山田方谷マニアックス」中に、「備中の新選組」という項があり、その中に「谷三兄弟」という記述があった。
 浦西先生の『日本プロレタリア文学の研究』により、里村欣三の母が、谷供美、志計の二女谷金であることを承知していた私は、「備中松山藩」と「谷」という二つの言葉をキーワードに、「谷三兄弟」というのは、何か里村欣三の母方の家系に関係するのかも知れない、と直感した。そして、検証の結果明らかになった結論は、
新選組の「谷三兄弟」が、里村欣三の母方の家系に「何か関係する」どころか、母方の家系そのものだったのである。

『第二の人生』(第二部)における新選組の記述

里村欣三『第二の人生 第二部』(昭和15年、河出書房)P57-61の記述をひとまとめに編輯

 里村欣三は『第二の人生 第二部』(昭和15年、河出書房)P57-61において、母方の系譜について、上の写真版のように書いている。写真版が小さくて読みづらいので、以下に要点を抽出すると、

 「母は幕末の老中板倉備中守に仕へた、備中松山藩の貧乏士族の出であつた。母方の祖父は兄弟共に脱藩して新選組に加はり、時代の流れに抗して勤王黨を斬つて斬りまくつた反動の壮士であつた。この二人の壮士も新しい時代の力に抗し切れず、つひに近藤勇たちと運命を等しくして、再びこの世に姿をみせることがなかつた。世は明治維新になり、母方の実家は廃絶の運命に迫られたが、ある役人の計らひによつて母方の祖母に養子を迎へて、やつと家名の廃絶を免かれることが出来たのであつた。(中略)その頃祖母の家は備中の山の中の成羽町に逼塞の生活を送っていたが、兵六は毎年母に手をひかれ、古いガタ馬車に揺られて祖母を訪ねる習慣になっていた。(中略)兵六は毎年の夏、祖母をこの山国へ訪ねる度に、真ッ裸で抜き身をさげて裏の川に飛び込み、石垣の奥に潜んでゐる鯰や鯉を見つけて突き刺すのを楽しみにしてゐた。」と書かれている。

 この文中の「母方の祖父は兄弟共に脱藩して新選組に加はり、時代の流れに抗して勤王黨を斬つて斬りまくつた反動の壮士であつた」と書かれた人こそ、新選組の「谷三兄弟」なのである。里村の文中では谷澤家の「二人の壮士」とされているが、
谷三十郎、谷万太郎、谷正武(昌武=近藤周平)の三兄弟なのである。

谷三兄弟

 もちろん、「谷三兄弟」といっても、私を含めて、新選組にあまり関心のない方にはわかりづらいので、以下、もっとも簡潔に要約してある『幕末歴史散歩 京阪神篇』(一坂太郎著、2005年8月25日、中公新書)から紹介させていただく。(p180-182)

新選組の谷三兄弟
 新選組の七番隊組長は谷三十郎供国(たにさんじゅうろうともくに)という、もと備中松山藩士である。
 直心流の剣、種田流の槍を究めた三十郎は、一時は藩の御近習役を務めたが、安政三年(1856)十月、何らかの失策があって谷家は断絶し、永の暇を出された。こうして三十郎も、二人の弟万太郎・昌武も、大坂へと出てくる。
 万太郎は大納言中山忠敬(ただやす)の侍医岩田文規の書生となった。のち、岩田の次女スエを娶り、現在の大阪市西区南堀江にあった酒屋の納屋で道場を開く。
 谷三兄弟が新選組に入った時期については、確たる資料がない。文久三年(1863)八月十八日の政変後、大坂での隊士募集に応じたのではないかとの説がある。
 元治元年(1864)五月には、局長近藤勇が三十郎の末弟で十七歳の昌武を養子として迎え、「
近藤周平」と名乗らせた。武州多摩の農民から身を起こした近藤には、谷のようなれっきとした武士の血筋に対する憧れがあったのかもしれない。
 ともかく、新選組内では谷三兄弟は着実に地位を占めてゆく。翌六月の
池田屋事変でも活躍し、三十郎は十七両、万太郎は二十両、周平は十五両の褒賞を受けている。
 あるいは、新選組が大坂の豪商加賀屋四郎兵衛に献金を求めたさい、大坂の事情に明るい三十郎はその交渉役を務め、結果、三万千五百両もの大金を得ることができた。その後、三十郎は七番組長となり、また文武師範のなかの槍術師範に任じられている。
 ところが三十郎は、慶応二年(1866)四月一日、突如京都祇園の石段下で遺体になって発見される。何者かに斬られたという説のほか、卒中による病死説もある。享年未詳。あまりにも呆気ない最後であった。
 三十郎没後、万太郎は新選組から離れ、維新を迎えている。妻と別居し、たみという愛人と北桃谷町(大阪市中央区)で暮らし、明治七年(1874)には一子弁太郎をもうけた。しかし明治十八年、弁太郎を妻の実家である岩田家に託し、自分は翌十九年六月三十日、北桃谷町の自宅で五十一歳で没した。
 周平は慶応三年六月、ほかの隊士とともに直参に取り立てられたが、戊辰戦争前に新選組から脱走したという。近藤勇との養子関係を解消し、再び谷昌武を名乗った。晩年は神戸に住み、山陽電鉄の下級職員となり、明治三十四年十二月二日、現在の神戸市中央区元町通3でひっそりと五十三歳の生涯を閉じている。
 谷三兄弟の名を刻む墓碑が、大坂駅からさほど離れていない歓楽街の真ん中、日蓮宗本伝寺(大阪市北区兎我野町14-3)にある。同寺は万太郎の妻の実家岩田家の菩提寺だ。墓碑は岩田家の子となった弁太郎が大正十年(1921)十二月に建立した。
 正面に「谷累代之墓」、左側面に「谷三十郎」の名がある。右側には万太郎の法名「自證院本覚日遊居士」が見える。建立者弁太郎は、周平こと昌武の死を長い間知らず、後年になって左側面に「谷昌武」を加えたと伝えられる。

 以上が一坂太郎氏の『幕末歴史散歩 京阪神篇』の記述である。激動する維新の奔流に生き死にした三兄弟の生涯は、どこか里村欣三の波乱の生涯を想起させる。
 この新選組「谷三兄弟」(
谷三十郎、谷万太郎、谷正武(昌武=近藤周平))は、里村欣三の曾祖父谷三治郎の子で、里村欣三にとっていわば祖父の代にあたる人であるが、のちほど戸籍関係のところで述べるように、里村欣三と直接の血の繋がりはない。「谷三兄弟」が故郷を出奔した後、谷家(『第二の人生』中では「谷澤家」)を存続させるため、曾祖父谷三治郎の養子として谷家に入った谷供美(ともよし)とその妻志計が里村欣三の祖父母で、里村欣三の母・谷金はその次女である。

谷家の系譜

 「谷三兄弟」について、もっとも詳しい記述は、『新選組研究最前線[下]』(新人物往来社、1998年4月20日)における森愛子先生の「谷三兄弟」(P9-37)である。
 『幕末歴史散歩 京阪神篇』と重複しない範囲で、谷家の系譜を中心に重要な記述を拾い出していくと、

 谷三兄弟の「父は、谷三治郎供行という板倉主膳正勝職(かつのり)の家臣であった。旗奉行として一二〇石、役料二〇石を食む上士で、直心一派の師範をつとめる撃剣家としても知られていた。」(P9)
 「長男三十郎の生まれた年は判っていない。次男万太郎は天保六年生まれで、あとはずっと離れて十三年後の嘉永元年五月二十日に、末弟昌武が生まれた。」(P10)
 「谷家は遠祖小幡姓を名のっていた。古くは伊賀の出で、」「谷三治郎の屋敷跡」は「御根小屋(御殿)と谷川一つ向いの御前丁の一郭で、現在は御殿跡にある高梁高等学校の寮となり、鉄筋三階の宿舎を新築中である。御前丁は今は「町」を使うが、当時は庶民の住む街と区別し、家中の方は「丁」と書いた。御殿の西方本丁に、大小姓格一六〇石の蔵田徳左衛門の屋敷があるが、彼の次男義之進は、三兄弟出奔後の谷家に養子にはいり、供美(ともよし)を名のった人である。」(P10-12)

 この蔵田家から養子に入った谷供美が、里村欣三の母・谷金の父である。里村欣三にとっては、母方の祖父である。血筋ということでいえば、里村欣三は出奔した谷三兄弟と直接の関係はなく、蔵田家の血を引く、といえる。
 森先生の「谷三兄弟」の記述をさらに引用する。

本伝寺の谷万太郎の墓(右面に戒名)
左面下段左端に谷昌武の名が見える
 明治五年頃、谷三兄弟の末弟正武(昌武)は、近藤周平から「本名谷昌武に還って、いったん郷里備中高梁に落着いた。すでに蔵田徳左衛門の次男が養子にはいって供美と改め、この頃には九〇石取りの士族黒野一郎太夫という柏原流槍術師範の次女志計(しげ)を妻に迎え、谷家を相続している。谷家の再興はなったものの」「昌武はこの家に安住することができなかったのか、明治五年四月には再び出奔して行方を晦ました。明治十年頃、兵庫県神戸区神戸元町六丁目九拾五番屋敷に住む裁縫師匠、播田ツル方に間借り」「同十三年三月十二日には正式に播田家に婿入りしてしまった。」
 「昌武の方は姉さん女房のツルとうまくいかなくなり、明治二十年十二月二十九日、離婚してしまった。その後は近くの元町三丁目にひっそりと住み、北長狭通四丁目にあった山陽鉄道神戸事務所(後兵庫停車場内に移った)に勤めるサラリーマンになった。」
 「山陽鉄道は現在、神戸−姫路間を走っているそれとは違い、民間富豪の出資で明治二十年に設立されたものである。」「将来は国が買収する事を条件に許可を与え」明治「三十九年には約束通り国鉄に買収される。昌武は、十年余りここの下級職員として働いたが」、明治三十四年十二月二日、五十三歳で病死した。「戸籍上では高梁市(当時は上房郡高梁町)でも神戸市でも「昌武」ではなく「正武」になっている。」(P30-32)
 「谷家の菩提寺は」「向町の安正寺である。」「三十郎は京都壬生の光縁寺に新選組の手によって葬られた。墓は建てられていない。」「万太郎の方は、大正十年岩田家菩提寺である大阪市北区西寺町二の十三本伝寺に」(P34-35)建立され、末尾に昌武の名が付け加えられている。

 以上、『新選組研究最前線[下]』から、森愛子先生の「谷三兄弟」をもとに谷家の系譜を見てきたが、森先生の「谷三兄弟」の記述そのものは、大坂での三十郎の活動や、池田屋騒動、ぜんざい屋事件等、丹念なフィールドワークによって新選組時代を中心とする「谷三兄弟」の足跡を追ったもので、私が抽出・引用したのはその一部、谷家の系譜を中心とする部分ですので、ご了解ください。
 さて、ここでのポイントは、
里村欣三の祖父谷供美も祖母志計も、それぞれ百六十石と九十石の、相当の格式を持つ上級武士の出であることである。
 そしてもう一つのポイントは、谷三兄弟の末弟、谷正武(昌武)が、後年、「山陽鉄道」に勤めていた、ということである。里村欣三の父、前川作太郎も駅弁用の経木を同じ時期に「山陽鉄道」に納めていたのであり、
里村欣三の父作太郎と母谷金の接点が、「山陽鉄道」に勤務する谷正武を通してのものである、という推測も成り立ちうるのである。

谷供美の除籍謄本

 『新選組写真全集』(釣洋一著、新人物往来社、1997年3月31日)のP142-143に、貴重な資料が掲載されている。一つは、里村欣三の母、谷金の父、谷供美氏の除籍謄本である(写真上右)。もう一つは、里村欣三の曾祖父にあたる谷三治郎の旧居図面である(上左下)。黄色でマーカーしたところがそれで、「旗奉行 谷三治郎 百二十石 役料二十石」と書かれている。藩主板倉勝職の御殿から小川を挟んだすぐ前で、役職の重要さがわかる。「旗奉行」は、平時は閑職でも、戦さのときは大将の旗を守り軍の進退の責任を負う重要な役職で、「谷三兄弟」が武術をもとに新選組で重用されたのも、この出自に負っている。また、『新選組写真全集』の同じページには「谷三兄弟」の次男谷万太郎の写真が掲載されている。

 上に掲げた谷供美氏の除籍謄本の写真を参照しながら、前述した森愛子先生の「谷三兄弟」(『新選組研究最前線[下]』新人物往来社)から、さらにいくつかのポイントを拾い出し追記してみる。

谷数さんを戸主とする除籍謄本の一部。里村欣三の母金
さんの欄に里村の父前川作太郎との婚姻の記述が見える。
この謄本でも、金さんの左に「谷三兄弟」の末弟谷正武
(昌武=近藤周平)が叔父として記載されている。
 谷三兄弟の父、里村欣三にとって曾祖父にあたる谷三治郎供行は嘉永六年(1853)に亡くなっている。三兄弟の長男谷三十郎は安政三年(1856)十月十三日、「永ノ暇トナリ家断絶」(『杉本家譜草按』)となって大坂に出奔した。お家断絶になった原因は不明である。次男万太郎も安政三、四年頃、大坂久左衛門町の医家岩田文碩の食客になっている。三兄弟の母の俗名は不明だが、万延元年(1860)七月三日に亡くなっている。墓所は現高梁市向町安正寺。
 谷家が1856年、「永ノ暇トナリ家断絶」となってしばらく後、里村欣三の母・金の父、谷供美(ともよし=蔵田義之進)が養子として谷家に入った。森先生の「谷三兄弟」には「蔵田徳左衛門の次男が養子にはいって供美と改め」「九〇石取りの士族黒野一郎太夫という柏原流槍術師範の次女志計(しげ)を妻に迎え、谷家を相続している。」(P30)とある。

 はじめに掲げた谷供美氏の除籍謄本(『新選組写真全集』)をもとに森先生の記述を検討してみると、冒頭に「氏神御前社 寺當區向丁禅宗安正寺」と氏神から書き始められていることから、この谷供美氏の除籍謄本は1872(明治5)年に作成されたいわゆる「壬申戸籍」であると思われる。そこには谷供美氏について、「天保十四(1843)癸卯年正月十七日生」「實父当縣士族藏田徳左衛門亡次男 養父三治郎亡」、妻志計は「茂」と書かれ、「嘉永五(1852)壬子年四月八日生」「当縣士族黒野一郎太夫亡次女」と記されている。
 子供は三人で、変体仮名で書かれているので判りにくいが、長女は「はる」で明治3(1870)年生まれ、次女「きん」は里村欣三の母で、明治7年11月3日生まれ、三女「かす」(数)は明治13年生まれ、その間に「弟(義弟)」として谷正武(昌武=近藤周平)の名が見える。
 谷供美がいつ養子として谷家を継いだのか不明であるが、里村
欣三の『第二の人生 第二部』(昭和15年、河出書房)には、「世は明治維新になり、母方の実家は廃絶の運命に迫られたが、ある役人の取計ひによつて母方の祖母に養子を迎へて、やつと家名の廃絶を免かれることが出来たのであつた」(P58)と記されている。
 
「壬申戸籍」である『新選組写真全集』の谷供美氏除籍謄本とは別に、明治22年〜25年頃に作成されたと思われる谷供美を戸主とする別の除籍謄本を閲覧させていただく機会があったので、付言しておくと、その除籍謄本には、「本郡高梁内山下士族蔵田徳左衛門二男戸籍編製以前ニ付入籍相続年月不詳」とあって、谷供美が養子として谷家を継いだ時期は戸籍上も「不詳」とされている。入籍時期は、「谷三兄弟」が故郷を出奔した幕末期とも考えられるが、長女が生まれる少し前の明治元年か、2年頃に谷家の養子となった、と考えるほうがより妥当ではないだろうか。
 谷供美氏の住所は「岡山県上房郡高梁町大字寺町壱番地」となっており、「成羽町に逼塞」する以前はここに住んでいたのであろう。谷供美氏は明治三十三年一月二十七日に亡くなっている。
 この推定明治22年〜25年頃作成の除籍謄本では、里村欣三の母である谷金の欄に、二女として漢字で「金」と書いて、「カ子」と振り仮名が振られ、壬申戸籍である『新選組写真全集』の「きん」とは違う読みになっている。里村欣三の母「金」は、本名は「きん」でも、通称は「かね」さんと呼ばれていたのではないだろうか。
 供美氏の妻の欄も「茂」とは違って、「志計」と書かれ振り仮名は振られていない。この志計さんが、里村欣三が、関西中学、金川中学をストライキと不登校で退学させられたとき、里村に自決を迫った祖母として書かれている人である。
 さらに別の、明治30年代頃の三女数さんを谷家の戸主とする除籍謄本(写真参照)によると、里村欣三の祖父谷供美氏が明治33年に亡くなった後、戸主は次女の金(里村欣三の母)へ、さらに金さんが結婚のため除籍して三女の数さんに引き継がれている。
 この谷数さんを戸主とする除籍謄本には、里村欣三の母・金の欄に、「明治参拾参年拾壱月貳拾八日和気郡福河村大字寒河百参拾参番地
前川忠四郎二男作太郎ト婚姻届出」とある。前川作太郎は里村欣三の父である。
 またこの谷数さんを戸主とする除籍謄本では、金さんのすぐ左欄に「谷三兄弟」の末弟谷正武が、数さんの「叔父」として記載されている。里村の祖母にあたる志計さんの欄には「昭和四年拾壱月貳拾七日」に「川上郡成羽町大字成羽貳千五百五拾六番地」で亡くなった、とある。この「成羽町成羽2556番地」が、里村欣三が母金に連れられて幼少の頃何度も訪ねた母の故郷なのである。
 冒頭に掲げた
「ミナミノ ヒカル ムシ」(『良い子の友』昭和19年6月号)の記述を振り返ってみると、
 「私のお母さんが生まれたところは、岡山県の山奥の、ある小さな村です。那岐山から流れ出る吉井川の源にあたるところです。きれいな水が流れている谷川ですから、岩魚やウグイや鮎などがたくさんに採れます。
 お母さんは、麦のみのる頃や、田植え時分になると、毎年のように私を連れて、お祖父さんとお祖母さんのところへお手伝いに帰りました。」
とあるが、旧成羽町(現高梁市成羽町)は「那岐山から流れ出る吉井川の源にあたるところ」ではないにしても、不動滝、観音大滝、丸滝、布晒の滝があり、町には成羽川が流れる源流の町であり、「お祖父さん」にあたる谷供美は里村欣三が誕生する明治35年3月13日以前の
明治33年10月16日に亡くなっているが、それでも「お祖母さん」の谷志計が暮らす「お祖父さんとお祖母さんのところ」、故郷なのである。

谷正武と山陽鉄道

 先に紹介した森愛子先生の「谷三兄弟」(『新選組研究最前線[下]』)には、もうひとつ大きな指摘がある。それは新選組「谷三兄弟」の末弟、谷正武(昌武=近藤周平)が山陽鉄道に勤めていた、という記述である。

明治30年頃、須磨付近を走る山陽鉄道。アメリカから輸入の
2Bテンダー5900型。『むかしの兵庫』昭和51年10月10日
神戸新聞出版センター刊より
 「昌武の方は姉さん女房のツルとうまくいかなくなり、明治二十年十二月二十九日、離婚してしまった。その後は近くの元町三丁目にひっそりと住み、北長狭通四丁目にあった山陽鉄道神戸事務所(後兵庫停車場内に移った)に勤めるサラリーマンになった。」
 「昌武は、十年余りここ[山陽鉄道]の下級職員として働いたが、明治三十四年十二月二日午前十時、元町三丁目八十三番地において病死した。五十三歳であった。」(P32)

 里村欣三の父、前川作太郎も同じ時期に「山陽鉄道」に駅弁用の経木を納めていたので、父作太郎と母谷金の出会いの接点が、「山陽鉄道」に勤務する谷正武を通してのものである、と私は推測するのであるが、そのことを追究するために、森先生が、“谷正武が山陽鉄道に勤めていた”と記述された「典拠」を先生にお尋ねしたことがある。森先生は、「谷三兄弟」のことを調べたのは随分以前のことで、「典拠」については今は覚えていない。神戸あたりを相当歩き回った、とのことで、フィールドワークの結果導き出された記述であるが、残念ながら「典拠」は不明である。
 森愛子先生の『新選組研究最前線[下](新人物往来社、1998年4月20日)における「谷三兄弟」論考に先立つ書物に、釣洋一氏の『新選組再掘記』(新人物往来社、1972年11月25日)がある。釣洋一氏のこの著は、同様に「谷三兄弟」という一節(P34-45)を設け、ある意味、森論考の先駆けをなす考察を行なっているが、ここでは、明治二十年十二月、谷正武(近藤周平)と離婚した播田ツルが「鉄道事務所のあった近くの北長狭通七丁目四十九に移住している」ことを“谷正武が山陽鉄道に勤めていた”ことの推論の根拠にしているようである。
 “谷正武が山陽鉄道に勤めていた”ことの出所は、『歴史研究』1971年10月号(新人物往来社)に掲載された青柳武明氏の「周平一代」あたりにあるようだが、こちらは未見である。
インターネット上のこの種の記述も、すべてこれらの論考をもとにしたもののようで、具体的な「典拠」を示した記述は見当たらない。

左「山陽鐵道会社創立史」の表紙(『明治期鐵道史資料第2集(3)−II』
(昭和55年8月20日、日本経済評論社刊)と、右復刻版『山陽鐵道案内』
の表紙(昭和53年4月1日、山陽鉄道案内保存会)
 「山陽鉄道」は今日のJR山陽本線そのもので、明治20(1887)年1月、「山陽鉄道会社」が兵庫県で設立され、明治21年11月、まず兵庫−明石間が開通、12月には明石−姫路間が開通した。その後路線を伸ばし、明治34(1901)年5月、山口県の下関(赤間関)まで開通、明治39(1906)年12月、約定によって買収され国有化された。

 「山陽鉄道」に関する基本文献は、『明治期鐵道史資料第2集(3)−II』(昭和55年8月20日、日本経済評論社刊)所収の「山陽鐵道会社創立史」である。この手書きの文献は緒言、山陽鉄道会社ノ起原、有限責任山陽鐵道会社創立約定書及定款、の三項からなるが、職員録等の記載はない。
 『山陽鐵道案内 復刻版』(昭和53年4月1日、山陽鉄道案内保存会)の原本は、『山陽鐵道案内』(明治34年7月3日、山陽鐵道株式会社運輸課)で、所在地は神戸市兵庫濱崎通り四丁目となっている。当時の「山陽鉄道株式会社」の本社である。この本は沿線の観光案内書で、巻末に旅館や関連会社の分厚い広告があるが、里村欣三の父前川作太郎が経営する折箱の経木等の広告はない。
 「山陽鉄道」の成立、沿革についての研究としては、『歴史と神戸47』(昭和37年8月15日、第10巻2号、神戸史学会)の「私鉄山陽鉄道の成立」(木村孝)、「赤穂の私鉄」(松岡秀夫)、『兵庫地理』(第11号、昭和42年3月、兵庫地理学協会)の「私鉄山陽鉄道の成立」(木村孝)等がある。
 『歴史と神戸47』の「私鉄山陽鉄道の成立」は、タイトル通り山陽鉄道の成立史であるが、明治21年4月の会社設立時、会社事務所を「北長狭通四丁目」に置き、同年12月に本社落成とともに兵庫駅構内に移転したことが書かれている。
 森先生の、谷正武(昌武)が「北長狭通四丁目にあった山陽鉄道神戸事務所(後兵庫停車場内に移った)に勤めるサラリーマンになった」という記述からいえば、谷正武(昌武)は明治21年11月に運転を開始した山陽鉄道のごく初期からの社員であった、ということになるが、この辺りはどうなのであろうか。

 以上、山陽鉄道関係の幾つかの文献の中には職員録に類するものはなく、従って谷正武(昌武)が山陽鉄道に勤務した「典拠」を特定することはできなかったが、思わぬ余禄があった。
 それは前述した『山陽鐵道案内』(復刻版も同じ)に明治34年当時の山陽本線の主要都市の地図が折り込みで付いていて、そのうち、広島市の地図に思わぬ発見をした。

 里村欣三の母、金は、里村欣三満5歳のとき、「明治四十年四月二十八日に広島市吉島村六七一番地で亡くなっている」(浦西和彦『日本プロレタリア文学の研究』、昭和60年5月15日、桜楓社)。
 「吉島村」は現在の広島市中区吉島あたり、貯木場などもあるごく河口のところだが、明治34年当時の広島市の地図に「
吉島村」があり、そこに「監獄署」があるのである。おそらく現在の広島刑務所のところだろうが、この「監獄署」が、里村欣三が『第二の人生 第二部』『第二の人生』(昭和15年10月28日、筑摩書房、P67)で「父は折箱の一部分を監獄の囚人に作らせてゐた。土地の新聞が(中略)高貴な人々が召し上るかも知れない駅弁の折箱を囚人につくらせるのは不都合だと書き立てた。(中略)一方、当時山陽鉄道株式会社と称してゐた山陽本線が、国鉄に買収されて、会社へ一手に納入してゐた鉄道用材の販路が他の資本家に奪はれ、駅弁の折箱の納入はいつとはなしに会社側から解約されてしまった。資本のない父は、みじめな破産の宣告を受けた。」と書いた、その「監獄」なのではないだろうか。
 母・金が明治40年、わずか32歳半で死去した後、父前川作太郎は再婚し、再起を期すため、故郷の旧岡山県和気郡福河村寒河1073番地で留守居をしている作太郎の姉に里村欣三(前川二享)と妹の華子さんを預けることになるが、それまでの間、里村欣三が5歳までを過ごした幼少の地が、この吉島村なのであろう。

まとめ

 今みてきたように、里村欣三の曾祖父は「旗奉行」百二十石の谷三治郎であり、その谷三治郎の子、谷三十郎、万太郎、正武(昌武=近藤周平)の「谷三兄弟」は、何らかの理由によりお家断絶(永ノ暇)後、備中松山藩を出奔して新選組に入り波乱の人生を送った。その後、曾祖父三治郎の養子として谷家に入ったのが、里村欣三の祖父にあたる谷供美(蔵田義之進、蔵田家百六十石の次男)とその妻、祖母にあたる志計(黒野家九十石の次女)である。
 
谷三治郎の子、谷三十郎のとき、どういう理由でお家断絶(永ノ暇)となったかについては、森愛子先生の「谷三兄弟」(『新選組研究最前線[下]』)では、大阪『東区史』をもとに、長男谷三十郎が「藩主の娘との間に事あり」、あるいはまた次男万太郎の後裔岩田家の言い伝えとして、長男三十郎が「家老の奥方と不義があった」との話を紹介されているが、不詳である。
 なお
「谷三兄弟」のほか、備中松山から新選組に走った人には、中公新書の『新選組』(大石学、2004年11月25日)によると、竹内元太郎、商家三男の谷川辰藏、他に岡田藩士の大槻銀藏がいる、とされている(P253-254)。竹内元太郎は新選組平隊士で「谷三兄弟」とともに池田屋事変にも加わった人、として知られる。

 里村欣三の母・金の系譜は、このように相当の石高を有する上級武士の出で、里村欣三が出生した時には、「谷三兄弟」も祖父谷供美もすでに死去していたが、祖母志計(黒野家九十石の次女)は健在で、里村欣三の母金もこうした武家の格式の中で厳格にしつけられて成長した。

 こうした
母方の武士の家系が、里村欣三の人生や行動にどう影響したのであろうか。このことを評価するのはなかなかに難しい。

 後年、里村欣三が関西中学をストライキ首謀で、続いて転校した金川中学を不登校で除名され、放埒三昧な生活をしていた十七歳の頃、刀を送りつけて自決を迫った祖母志計『第二の人生 第二部』昭和15年、河出書房、P60-63)。
 「この昔気質の祖母の長女が、兵六[里村欣三]の実母であつた。武士の血をひく母は、祖母と同じやうに厳格な躾けで兵六に臨んだ。
兵六がこの世の中で、最初の嘘を発見したのは、母の厳格な躾けのためであつた。母の前では温和しい、聞き分けのよい怜悧な子供であつたが、一歩外へ出ると「手のつけられない」我儘な坊チャンだつた。(中略)母は毎日のやうに菓子折を持つて、兵六の尻拭ひに廻らされるのだつた。そして家に帰ると、祖母と同じ一徹な血につながる母は、幼ない兵六の肉体に仮借のない折檻を加へるのだつた。」(『第二の人生 第二部』、P66-67)。
 作中では「この昔気質の祖母の長女」とあるが、里村欣三の母金は、実際は二女で、長女の「はる」さんがおそらく早くに亡くなったので、金は「長女」として育ったのだろう。
 没落していても武家のプライドに生きようとする祖母と母。一方、大正7年8月の米騒動を眼前に見、その後、関西中学で校長排斥のストライキを首謀した里村欣三は、「腹の中では、頑として自分の非行を信じない己惚れがあつた。自分の「不埒な所業」のすべては、父と子の趣味と時代と個性の相違だ。彼のその頃の物の考へ方には、学業を放棄して濫読した外国文学の影響が強かつた。十九世紀末期の個性の解放とその思想的な影響を受けて、既成のあらゆる観念と習慣に叛逆しなければ、気の済まない、若い、生意気盛りな、しかも生一本な中学生であつた。」
『第二の人生 第二部』、P62)。

 武家のプライドと価値観は、里村欣三が叛逆し超克しようとした「既成のあらゆる観念と習慣」のひとつであった、といえよう。
 新選組「谷三兄弟」が故郷備中松山藩を捨てて出奔し、波乱の人生を生きたように、里村欣三も父の家を捨てて出奔し、波乱の人生を生きた。徴兵を忌避し、満州に逃亡した。こうした無鉄砲ともいうべき思い切りの良さは、土着する農民の家系のものではない。農民も困窮すれば流浪するが、あらゆるものを捨てて出奔する思い切りの良さは、やはり「時」に至れば瞬時に命を投げ出す武士という
出身階層の特性が反映している、といい得るかも知れない。

 
里村欣三は、母方の祖母志計が送りつけた刀による自決騒動のあと、父の金を持ち出して出奔、持ち金を使い果たして東京に出て市電の車掌になった。中西伊之助が理事長(委員長)を勤める日本交通労働組合(東京市電)との出会いである。その時の気持を里村欣三は、次のように書いている。
 「彼は新しい希望と誇りを抱いて、学業を放棄したまゝ、人民の中へ投じた。すくなくとも人民の友たらんとする若い矜恃があつた。」
『第二の人生 第二部』、P65)
 激しい労働運動、徴兵忌避、満州逃亡、プロレタリア文学運動、転向、日中戦争従軍、従軍作家、フィリピン戦線での死。里村欣三は武家の出自を超克して、「すくなくとも人民の友たらんとする矜恃」と行動をもってその後の人生を生きたのである。


 (2007.12.3作成、2008.5.1一部追加訂正)