里村の古書値!?

 古書店芳雅堂主人・直木賞作家の出久根達郎氏の著書には、里村欣三がときどき登場する。

 まず『死にたもう母』(1999年9月20日、新潮社刊)の「祝辞」という章で、

 「私が集めた昭和十九年度の書籍で、最も高価なのは、大東亜こども風土記叢書の『ボルネオ物語』であった。百五十四ページの本で、古書価六万五千円である。」
 「里村の処女作『苦力頭の表情』は、昭和二年に春陽堂から「文壇新人叢書」の一冊として出版されたが、文庫判で百六十三ページの、至って簡素な本である。この初版本は現在、古書価で十五万円以上する。この値段が高いか安いかは、里村欣三への関心の度合いだろう。私にはこれでも安いと思える。国家に反逆した男の、精魂込めた文章が、当時の形のままに読めるなら、何と安いものだろう。」

と書いている。


 またこれに先立つ『書棚の隅っこ』(平成11年1月20日、リブリオ出版)では、「丸太」「ある所信」「世が移る」の章で、川柳の岸本水府、鶴彬をとりあげている。鶴彬は「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「万歳とあげていった手を大陸へおいてきた」で知られる反戦川柳人である。一叩人編集・全一巻の『鶴彬全集』(1977年9月14日、たいまつ社)がある。出久根達郎氏は、平林たい子を介しての里村と鶴彬の境涯を次のように記している。

 「警察署では鶴は作家の平林たい子と会う。たい子も左翼思想によって検挙されていたのである。
 平林たい子の友人に、作家の里村欣三がいる。里村は軍隊を脱走した男だった。徴兵忌避者として満州に逃げた。しかしある女性と一緒になり、子供が生まれた。子供の将来を考え、戸籍取得のため、自首して出た。そういう里村の面倒を、亭主とともに見ていたのが、たい子だった。里村と同じような気質の鶴に、だから大いに興味を抱き、かつ共鳴したらしい。鶴の拘引理由となった川柳に大笑いし、彼の大胆さに瞠目した。たい子は、自分よりも貧しい鶴の身の上に同情した。十五銭の弁当を買ってやったりした。差入れもこない鶴は栄養失調で、やせていた。」





 出久根達郎氏の著書で、里村欣三について最も詳しく、興味深く書かれているのは次の『二十歳のあとさき』(2001年1月15日、講談社刊)である。以下、少し長めの引用をさせていただく。
 
「三ちゃんが仕入れてくる品は、どれも特殊なのである。
 文学書が多かったが、私たちが聞いたことのない作家の本ばかり。今でも覚えているのは、世田谷区内の古本屋を数軒まわった時、三ちゃんは、
里村欣三という人の戦争小説を三冊「セドリ」してきた。誰も知らない作家である。三冊一括で皆の前に出された。
 入札をしてみると、私の二百円という金額が、荷主以外では最高で、他の者は、七、八十円しか入れない。私にしても当てずっぽうの額で、三ちゃんがわざわざ買ってくるくらいだから、それなりの理由はあるのだろう、と考えただけであった。三ちゃんが買い入れた額も、全部で百円にならないことも知っていた。二百円という私の額は、何の根拠もないが、元値から判断して、まあ妥当だろう。
 ところが三ちゃんの入札金額は、なんと三千円なのである。公務員の初任給が、一万四千円の時代だから、この突拍子もない額には、一同目をむいた。
「でたらめだ」声を荒らげたのは佐藤新吉郎だった。
「おれたちが何も知らないと思って。三ちゃん、からかうのはよせ」
「からかっていないよ」三ちゃんが冷静に答えた。
「里村欣三のこれらの本は、うちの店では五十円均一の台に投げ入れているよ。この作家は戦争に加担した、いわゆる御用作家だろう?」倉戸君が言った。
「この三冊も均一台から見つけたのさ」三ちゃんが、ニヤリと笑った。
「皆、知らないんだ」
「情表の頭力苦? 何の意味だ、これ?」
 無口の福田君が一冊を手に取って、ボソボソとつぶやいた。
「ばかだな。戦前の本の題は、右から左に読むんだ。苦力頭(クーリーがしら)の表情だよ。その本は珍本の一冊だ」
 三ちゃんが失笑した。
 私は福田君から受け取って、つらつらとながめた。文庫本の大きさである。「文壇新人叢書第十篇」とあり、昭和二年、春陽堂の発行であった。叢書には、坪田譲治「正太の馬」、村山知義「人間機械」、林房雄「絵のない絵本」、小島勗(つとむ)「遙かなる眺望」、葉山嘉樹「浚渫(しゅんせつ)船」、山田清三郎「小さい田舎者」などがある、と巻末の広告に出ている。小島や山田は里村同様、私が初めて聞く名前であった。
 三ちゃんが里村について講釈した。
 プロレタリア作家だが、里村のユニークなのは、兵営を脱走し、満州に逃げたことである。偽名を用いて逃げまわった。しかしのち結婚し子供が生まれた時、戸籍がないことに苦悩、自首した。徴兵忌避者の里村は、逆に軍国主義者となる。それは偽装とも言われるが、はっきりしない。昭和二十年、戦死した。
「そういう経歴の作家だが、作品としては、これという目ぼしいものはない。だから現在では評価が低いけど、徴兵忌避をした唯一の作家ということで、将来、必ず見直されるはずだ」三ちゃんが熱っぽく語った。
「言う意味はわかる。だけど現在の古書界の評価は三千円というものじゃない。せいぜい三冊で百二、三十円の売価だ。三ちゃんは商売ということを考えていないよ」佐藤が食い下がった。
「百二、三十円は不当評価だよ」三ちゃんがやり返した。「その値段では、いずれ里村の著書はこの世から消えてしまう。古本屋が高く評価しないと、保存はおぼつかないよ」
「売れなくては、しょうがないだろう。おれたちは霞を食って生きている仙人じゃない」
 佐藤が反論し、二人の間で理想と現実の議論がえんえんと続けられた。」

 この話はまだまだ続くのだが、こういう話を織り込めた『二十歳のあとさき』は、味わいのある筆致で出久根氏の青春を生き生きと描き、出久根ファン&古書ファンには二重におもしろい。一読をおすすめします。