徴兵忌避をめぐって

 大正11年、里村欣三(本名前川二享)は徴兵を忌避し、満州に逃亡した。
 明治35(1902)年3月15日生まれの里村欣三は、大正11(1922)年、20歳となり、6月ないし7月に(『神戸又新新聞』等)徴兵検査を受けた。「甲種合格」した(昭和10年7月10日付里村欣三の葉山嘉樹宛手紙、『葉山嘉樹』浦西和彦、昭和48年6月15日、桜楓社)が、そのまま郷里を飛び出し、入隊日である大正12年2 月にはすでに満州に渡っており、金もなく帰ってこれなかった(「或る左翼作家の生涯」堺誠一郎『思想の科学』1978年7月号)。
 ところが、この6月ないし7月の徴兵検査のとき、本サイト考察「
労働運動上の傷害事件はあった」(ご参照ください)で見たように、神戸市電労働運動をめぐって里村欣三(前川二享)が時の電車課長を刺し、大正11年4月25日から同10月25日まで獄中にいたのである(『労働週報』大正11年7月19日(通巻第17号)第3面)。
 『労働週報』には、「前川君が何故投獄されたかといふに、神戸の市電を馘首されたので運輸課長に抗議をし再入職を要求したが其ゴマカシ的謝絶を聞くや何だ此野郎と、其横ツ腹を刺し、殺人未遂で起訴されたが、結局脅迫罪と宣告されたのであるさうな」と記されている。
 この下獄前後をめぐる状況については、本サイト考察「労働運動上の傷害事件はあった」をご覧いただくとして、里村欣三が大正11年に徴兵検査を受けたのは、「以前の時は甲種合格だったが」という、里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(上記、浦西和彦『葉山嘉樹』収載)で、確かだと思われる。すなわち、
里村欣三は、徴兵検査は受けたが、徴兵には応じず、満州に逃亡した、ということである。
 ここでは、原点に戻って、「徴兵忌避」というのはどういう行為なのか、どういう罰則が適用されるのか、ということを大正11年の時点に引き寄せて
考えてみたい。ただし、「徴兵制」そのものを検討するのが目的ではないので、参考文献の引用はかなり端折ったものになるが、ご了解ください。
 はじめに、引用した文献のうち、主要なものの書影を以下に掲げておきます。右端の『徴兵・戦争と民衆』は、徴兵忌避の民俗学的研究としては基本文献らしいが、本文では引用しませんでした。
 (なお、引用文中の漢数字は可読性のため大部分、算用数字に置換して引用しました)。
 
 
 
『徴兵制』
大江志乃夫著
1981年1月20日
岩波新書
『徴兵制と近代日本』
加藤陽子著
平成8年10月20日
吉川弘文館
『徴兵忌避の研究』
菊池邦作著
1977年6月15日
立風書房 写真は扉
(表紙はあずき色の文字なし)
『徴兵・戦争と民衆』
喜多村理子
平成11年6月1日
吉川弘文館


徴兵制度の変遷(大正11年まで)

 「徴兵令は、1873年(明治6)1月10日、前年末の徴兵の詔書および太政官告諭にもとづいて制定された。」(『徴兵制』P50)

 「1873年(明治6)制定の徴兵令は、(中略)代人制をも採用した点に大きな特徴があった。
免役事項のうち肉体的条件を欠くものは、肉体力を要する戦闘に従事する兵士としての要件を欠くので、免役は当然といえよう。官吏、海陸軍生徒、官立専門学校以上の生徒、洋行修業中のもの、医術馬医術を学ぶものに対する免役は、(中略)身分的特権を認めたものであった。階級的特権は、代人料270円を納入したものを免役する代人制によって認められた。(中略)もうひとつの免役特権は、一家の主人とその一家の主人とその後継者に与えられた。一家の主人、嗣子ならびに承祖の孫、独子独孫、父兄が存在するが病気または事故のため父兄に代わって家を治めるもの、養子である。これらの免役条項は、天皇制国家の社会的基本単位である「家」を維持するのが目的であったと解されている。(中略)もうひとつの免役条項は、徒刑以上の刑に処せられたもの、である。兵役を国民の名誉ある義務とする国家の論理の表明である。(中略)犯罪者は名誉ある義務に服する資格がないという趣旨の条項」(『徴兵制』P59-60)である。

 この「徴兵令」は、翌明治7年にかけて、「血税一揆」を引き起こし、また「徴兵養子」(養子縁組によって徴兵を逃れる)という合法的な徴兵忌避を生み出した。

 「1978年(明治11)12月の参謀本部設置と1882年(明治15)1月の軍人勅諭下付が、統帥権独立の制度と論理を明確にした。軍人勅諭は、日本の軍隊を天皇の軍隊と規定し」「「上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」という、命令絶対服従の軍紀を明らかにした。」(『徴兵制』P77)

 「
1889年(明治22)に徴兵令の大改正がおこなわれた。(中略)新徴兵令は、その後、1927年(昭和2)の兵役法制定までは根本的改正なしに存続した。(中略)新徴兵令が旧令と根本的に異なっている点は、帝国憲法第20条に定められた兵役義務にもとづいて、はじめて一般兵役義務=必任義務としての徴兵制を確立したことである。新令は第1条で「日本帝国臣民にして満17歳より満40歳迄の男子は総て兵役に服するの義務あるものとす」と定めた。免役についても「兵役を免ずるは廃疾又は不具等にして徴兵検査基準に照し兵役に堪えざる者に限る」とした。(中略)兵役上の特権制度を除外すれば、例外を認めない「国民皆兵」の原則が確立されたものといえよう。兵役制度は、常備兵役、後備兵役、国民兵役の三種とし、常備兵役は満20歳から現役3年(海軍4年)、予備役4年(海軍3年)の合計7年、後備兵役は常備兵役終了後5年、その他は国民兵役であった。ほかに満17歳に達したものに現役志願を許した。(中略)徴兵検査の甲種合格者、乙種合格者の順に抽選をおこない、当せん者を現役に徴集した。落せん者は一年間予備徴員とし、現役の欠員補充とした。予備徴員を終ったものおよび丙種合格者は国民兵役に編入された。丁種は(中略)不合格免役であった。」(『徴兵制』P83-84)

 「新令は、「重罪の刑に処せられたる者は兵役に服することを許さず」と定めながら、兵役忌避者を「1日[1月の誤り]以上1年以下の重禁錮に処し、3円以上の罰金を附加」したうえ、「抽選の法に依らずして之を徴集す」と定めた。兵役忌避というもっとも不名誉な犯罪をおかしたものにかぎって優先的に徴集するという徴兵の罰則化は(中略)現役3年の徴兵よりも1年以下の重禁錮を選ぶという徴兵忌避の風潮が広がることを防ぐ」(『徴兵制』P84-85)ための矛盾であった。

 「「国民皆兵」の原則をうたった新令の最大の不公平は、丙種合格(中略)は実質的に免役にひとしいということであった。補充兵役(中略)も実質的には平時免役にひとしかった。この区分は、徴兵検査における甲種、乙種、丙種という身体上の区分から生じたもので、(中略)出身階層の相違が色こく反映していた。筋骨薄弱は甲種合格とされなかったが、肉体労働に従事しない階層の出身者に多かった。(中略)近視は丙種とされたが、近視は高学歴者層に固有のものであった。」(『徴兵制』P87)

徴兵検査の実際

 「徴兵検査は、男子一生中の最大の厄日といわれた程で、(中略)素裸にされた上、四つん這いにされ、最後には陰茎をしごかれるなど、全く人間扱いとは思われない一種の体罰が加えられるのである。これは個人に対する国家の強制行為であり、これを拒否することはできない。すべての壮丁がただ忍従し、この関門を通過していただけである。しかし徴兵検査に対する壮丁の恐怖は、(中略)検査の結果とその結果の先にある戦争と死(戦死)の恐怖である。」(『徴兵忌避の研究』P324)
 壮丁とは、「前年12月1日からその年の11月30日までに満20歳に達した、戸籍法の適用を受ける男子」(『徴兵制と近代日本』P12)をいう。

 菊池邦作氏の労作『徴兵忌避の研究』に昭和3年改正の「陸軍身体検査規則」があるので、編集して、写真版で以下に掲載する。(P324-326)


犯罪と徴兵忌避

 犯罪と徴兵の関係は次のように変化した。

 「明治6年の最初の徴兵令では、単に「犯罪者ハ徴兵カラ免除スル」と規定しているだけであったが、明治12年(1879)の改正では、これを次のように明確化した。
 第27条 終身免除 第2項 1年以上ノ懲役及ヒ国事犯禁獄1年以上ノ者
 ところが、明治16年の改正では、これを「重罪ノ刑ニ処セラレタルモノハ、兵役ニ服スルコトヲ許サス」と改めた。(中略)
 この重罪時代は、明治16年から34年間続いたのであるが、大正7年(1918)の改正に至って、三転し(中略)刑期が明記されるに至った。
 第8条 6年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ形ニ処セラレタ者ハ兵役ニ服スルコトヲ許サス」(『徴兵忌避の研究』P320-321)

 「初期徴兵令の時代には、一般犯罪者に対する徴兵の制限はゆるやかであったが政府の意図に反し、徴兵を忌避せんがために、故意に犯罪を犯す者が続出したので、これを防止するために、政府は、漸次法律改正ごとに、だんだん制限規定を強化して、悪循環を繰り返し、遂に6年以上の犯罪でなければ徴兵忌避を禁止できないところまで追い込まれてしまったことが明らかである。」(『徴兵忌避の研究』P336)

 「
以前の時は甲種合格だったが」という、里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年7月10日付、上述、浦西和彦『葉山嘉樹』収載)で、里村欣三がこの大正11年に徴兵検査を受けたのは確かだと思われる。
 しかし、兵役法の第39条に、「徴兵検査ヲ受クベキ者左ノ各号ノ1ニ該当スルトキハ徴集ヲ延期スルコトヲ得」とあり、その第2項に、「犯罪ノ為拘禁中ナルトキ」とある。このあたりはどうなのだろうか。判決が確定して6ヶ月間(大正11年4月25日〜10月25日)服役中の里村欣三の場合、「犯罪ノ為拘禁中」には該当しないのだろうか。それとも「徴集ヲ延期スルコト」も可能であるが、「徴集ヲ延期」しないことの方が一般的だったのだろうか。

大正11年の徴兵忌避者数など

 『徴兵制と近代日本』(加藤陽子、吉川弘文館)の「徴集人員(陸軍)」(P66)によると、大正11年の壮丁数は、560,628人、徴兵検査の受検人員は558,096人である。『徴兵忌避の研究』(P350)も検査人員を558,096人としている。
 このうち、
大正11年の徴兵忌避者数は、『徴兵忌避の研究』(P347、第43表 徴兵忌避者)によると、次のとおりである。
 「身体ヲ毀損シ疾病ヲ作為シ又ハ傷痍疾病ヲ詐称シタル者」432人、「逃亡又ハ潜匿シタル者其ノ他詐欺ノ所為(傷痍疾病ヲ詐称シタル者ヲ除ク)アリタル者」497人で、
「当年初めて生じた逃亡者(全国)」が2,369人、「逃亡し所在不明のため徴集し得ざる者」が34,900人である。
 この数字は、大正11年次で、告発等により徴兵忌避が露見した者が432+497人=929人おり、徴兵検査を受けず、または受けてから徴集に応じずに逃亡した者が新たに2,369人、兵役義務の終わる40歳まででいえば34,900人がこの時点での徴兵忌避者である、ということなのだと思われる。「当年初めて生じた逃亡者」2,369人の一人が里村欣三なのだろう。
 『徴兵制と近代日本』によると、大正10年の現役兵の数は135,948人、11年は資料がないが、12年は109,216人である。現役兵の期間は3年であるから、この3分の1が新規現役兵であるとすると、受験人員の7〜8%弱が現役徴集されたことになる。

 「検査が終わるとすぐ郷里をとび出した氏は、年が明け入隊当日になっても姿を現さなかった。父作太郎は「たった二ヵ月ぐらいの辛抱だから(当時輜重兵特務兵の入隊期間は五十五日だった)きっと現れるにちがいない」と言ってまる一日営門のそばに立って氏を待っていたという。しかし氏は姿を見せず、その日以来、実家には毎日のように憲兵や警官がやって来ては氏の行方を追及しはじめたが、氏の行方は杳として知れなかった。父作太郎はこのことに責任を感じて岡山市警防団長の職を辞した。」(「或る左翼作家の生涯」堺誠一郎『思想の科学』1978年7月号)。

 甲種合格だった里村欣三は、抽選により、現役兵として入営しなければならなかったのだろうか。
 昭和2年の兵役法をみると、第33条等から、徴兵検査の時点で「兵種」が確定することがわかる。現役期間は3年とされているのだが、輜重特務兵(輜重輸卒)の現役期間は55日だったのだろうか。それとも、甲種合格ではあるが、抽選はずれで予備役に編入され、その訓練期間が55日だった、というのだろうか。検証を要する課題である。

 大江氏の『徴兵制』によると、
輜重特務兵は軍隊においても相当差別されていたようである。「1939年(昭和14)、輜重特務兵の名称が廃止となった。かつて“輜重輸卒が兵隊ならば蝶もトンボも鳥の内”とさげすまれ、日露戦争時には中国人労働者からも「日本兵苦力」とよばれたのが、輜重輸卒改め輜重特務兵であった。それは兵役義務の名で徴集された事実上の強制労働者であり、昇進制度もなかった。日中戦争開始以後、特務兵も一等兵、上等兵に昇進できるようになったが、この名称廃止によってやっと一人前の兵士としての待遇をうけるようになった。」(P141-142)とある。

徴兵忌避と罰則

 さて、逃亡の時効は、『徴兵忌避の研究』(P294)によると、「陸軍統計年表」に「逃亡所在不明ノ為徴集延期ニ属スル者ニシテ当年12月1日満40歳ヲ過グル者」の項目があることから、満40歳が逃亡の時効と見ることができる、としている。
 これを1902年(明治35)3月13日生まれの里村欣三に適用すると、1942年(昭和17)3月が時効の成立といえる。
 先に挙げた里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年7月10日付)には「満二十才から満四十才までは兵役の義務があるので、再検査だけは仕方がなかったのです。」と書いている。
里村欣三は逃亡の時効を十分認識していたのである。
 里村が徴兵忌避を自首したのは、1935年(昭和10)4月下旬のことだから、逃亡期間は13年、時効まで7年を残しての決断だった。

 逃亡の罪(「故なく職務を離れ、又は職務に就かざる者」)は、陸軍刑法では、「敵前は死刑若は5年以上、戦時は3日を過ぎたる時は5年以下、其他は6日を過ぎたる時は2年以下」(昭和12年版『歩兵新須知』)であるが、「逃亡から6日以内に捕えられたものは軍法会議にかけられず、陸軍懲罰令による処分ですむ(中略)しかも逃亡者の圧倒的多数は6日以内に捕えられるのが普通であった。」(『徴兵制』P111)

 しかし、これは入営後の脱営逃亡の話であって、入営前の徴兵忌避の罰則は、兵役法(引用は昭和2年4月1日改正のもの)の「第6章 罰則」に3年以下の懲役が規定されている。
 「第74条 兵役ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ3年以下ノ懲役ニ処ス」

 また、徴兵検査を受けた後、抽選により入営が決まったが、入営しなかった者には、
 「第75条 現役兵トシテ入営スベキ者正当ノ事由ナク入営ノ期日ニ後レ10日ヲ過ギタルトキハ
6月以下ノ禁錮ニ処シ戦時ニ在リテ5日ヲ過ギタルトキハ1年以下ノ禁錮ニ処ス」
 徴兵を忌避した者は、第49条で「第33条第1項ノ規定ニ依リ抽籖ヲ為シタル者ノ上位トシ」とされ、
抽選によらず現役兵として優先的に徴集される
 こうした罰則規定による追及を満40歳の時効まで受けるのである。

 『徴兵忌避の研究』(P344-345)によると、「徴兵忌避の頻発に手を焼いた政府(警視庁や憲兵隊)が、(中略)徴兵忌避者にはいかにも極刑が課せられるようなデマ」、つまり「徴兵忌避が発覚し、「憲兵にピストルでブチ殺された」とか「憲兵隊につれてゆかれた」と言った類の噂話」を昭和7、8年頃から意図的に飛ばした、と書いている。
 今日、戦争の時代を知らない我々が、徴兵忌避に対する兵役法の罰則と、陸軍刑法による罰則を混同しがちなのは、こうした意図的なデマの影響を、我々もまた無意識に受けているからではないだろうか。

徴兵忌避、満州逃亡は現実的な選択肢

 里村欣三の徴兵検査が、具体的にどこで、どのような状態下で行われたのかは別として、本サイト考察「労働運動上の傷害事件はあった」で見たように、大正11年6月末ないし7月初旬、労働運動上の傷害事件により里村が入獄しているその渦中で徴兵検査が行われた、ということである。資料の指し示すところは、「入獄中の徴兵検査」なのである。

 先に考察「労働運動上の傷害事件はあった」で見たように、大正10年、三菱・川崎造船所大争議渦中の「激動の神戸」を生きた里村欣三にとっては、三菱・川崎造船所大争議弾圧に加担して神戸に進駐した姫路歩兵第39連隊への
反軍意識も相当にあったのであろう。姫路39連隊は、里村欣三が徴兵され入隊すべき岡山歩兵第10連隊と同じ第10師団に属する部隊なのである。
 仮に、獄中で、または獄窓から引き立てられて里村が徴兵検査を受けたとするならば、「アナーキズムに心酔してゐる」「英雄気取り」(『第二の人生』第二部)の里村欣三でなくても、入営は耐えられないことである。
 家族の事情を別にすれば、徴兵忌避、逃亡は十分に志向されることであり、その家族の事情も、満5歳のとき母を亡くし、父とも疎隔して家を出ていた里村欣三にとっては希薄なものであった。

 徴兵忌避、満州逃亡の動機を形成する里村欣三の入獄は、神戸市電の闘いの中で発生したものである。日本交通労働組合(東京市電)、西部交通労働同盟(大阪市電)支援の活動を通じて中西伊之助と行動を共にし、また大正9年の日本社会主義同盟の設立発起人の一人として在日朝鮮人活動家と交友があったと推測される里村欣三。そして中西伊之助は朝鮮、満州の事情を熟知している。
 中西伊之助は、「里村欣三」というペンネームの由来になった小説「奪還」を『早稲田文学』大正12年4月1日号に発表している(作中では「里村欣造」)。小説「奪還」では、中西伊之助(作中では「田宮」)と里村欣三が同時に朝鮮に渡ったように設定されている。
 中西伊之助は、大正11年9月、『汝等の背後より』(大正12年2月13日、改造社刊)のために朝鮮に取材旅行しており、これに同行して里村が満州に逃亡した、と考えれば合理的である。
 しかし、中西伊之助は大正11年9月下旬に朝鮮から帰国しており、里村の労働運動上の傷害事件による出獄は、大正11年10月25日のことである。従って、この中西伊之助の朝鮮取材旅行に帯同して里村は満州に逃亡した、とはいえないが、そうすると、どうして中西伊之助は「里村欣三」というペンネームの由来になった小説「奪還」を書くことができたのだろうか。直接的にか、間接的にかは別にして、里村が出獄した大正11年10月25日から、中西が小説「奪還」を発表した大正12年4月1日までの間に、二人の接触があった、と考えるほかない。そしてこの接触は、徴兵忌避、逃亡という事柄の性質上、例えば、大正11年 10月25日の里村の出獄を中西伊之助が出迎えるいった形で、より直接的なものだったのではないだろうか。
 大正11年 10月25日以降の短時日のうちに、中西伊之助と里村欣三の直接的な接触があり、その手引きにより里村は満州に逃亡した、といえるのではないだろうか。
 里村欣三にとって、
満州逃亡は現実的な選択肢であったのである。

姫路第10連隊

 本考察と直接の関係はないが、兵役について見てきた続きで、姫路第10連隊に関係する次の記述を記録しておきます。
 まず、『近代日本の徴兵制と社会』(一ノ瀬俊也著、2004年6月1日、吉川弘文館刊、P61-62)の記述(漢数字は算用数字に置換)。
 「黒島は1898年生れのプロレタリア作家(中略)で、早稲田大学の選科生だった1919年歩兵第10連隊(姫路)に現役入営、シベリア出兵従軍の後、病のため22年除隊となっている。」
 『壺井は同じ村出身の友人で、早大を中退後の1920年、黒島と同じ第10連隊に入営した。(中略)入営の3、4週間後、中隊長が彼らに入営しての感想を書けといった。(中略)まもなく中隊長からの呼び出しがあり、行ってみると、「(中略)お前は社会主義者か、とたずねた。いいえ、社会主義者ではありませんが、社会主義には共鳴するところがたくさんあります、と率直に答え」たところ、病気を理由に除隊されてしまった。」
 ここで引用されている壺井繁治の記述は、黒島伝治遺稿・壺井繁治編『軍隊日記 星の下を』(理論社、1955年)の「解説」から、とされている。
 また、『黒島伝治の軌跡』(浜賀知彦著、1990年11月1日、青磁社刊、P28-29)には、
 「[1919年]4月の徴兵検査で甲種合格になった。(中略)[11月]29日の夜、父親と一緒に坂手港から汽船にのり神戸へ行き、神戸から汽車で姫路に向った。雨の町を歩いてみた、その夜は姫路の宿屋に父親ととまり、12月1日、姫路歩兵第10連隊第10中隊第4班に入営した。伝治の兵科は看護卒(衛生兵)だった。一般的な教育を受けた後、翌1920年4月1日、中隊をはなれて衛戍病院勤務にうつった。」
 大正8年(1919)の黒島伝治の場合と、大正11年の里村欣三の場合では、徴兵検査の日にち(4月と6月末ないし7月初め)、入営の日にち(12月と翌年2月)の違いが見られる。
 黒島伝治、壺井繁治は香川県小豆島の出身、里村欣三は岡山県和気郡日生町(旧寒河村)の出身で、日生港からは小豆島への観光フェリーも発着しており、地理的な一体感はあるが、「郷土部隊」と言い習わされている中で、香川県は通常第11師団第12連隊(『日本陸軍連隊総覧』新人物往来社)と理解されるのだが、この大正の10年前後の時期、小豆島(香川県)は姫路第10師団第10連隊に属していたということなのだろうか。黒島伝治と里村欣三が、仮にそれぞれ3年の兵役を勤めたとしても、時期が重なることはなかったのかもしれないが、それにしても近い位置に居たのである。
 黒島伝治の入営に父親だ同行したという記述は、里村欣三の父親が大正11年2月、「まる一日営門のそばに立って氏を待っていた」(「或る左翼作家の生涯」堺誠一郎『思想の科学』1978年7月号)という記述と符合し、父兄が同伴して入営を見送るというのは一般的な慣習だったようである。

里村欣三の在郷軍人名簿

 このように、徴兵制と徴兵忌避についてみてくると、堺誠一郎が「或る左翼作家の生涯」(『思想の科学』1978年7月号)中に掲示した里村欣三の「在郷軍人名簿」(下の写真)が、新たな意味を持って見えてくるのである。

 

 まず、中央に大きく「一七、三、一二満了」と書かれた日付こそ、明治35年3月13日生まれの里村欣三が満40歳になる前日であり、この日をもって、里村の人生を運命づけた「徴兵」義務から解放される日なのである。右端の「配當部隊」欄に、昭和18年から斜線が引かれているのも同じ意味で、兵役の義務がないことを示している。
 同じ中央縦書きの左端、「(大正十二年適齢者処不昭七年失踪ノ宣告、昭一〇所在発見)」は、堺誠一郎氏が「処不というのは処在不明ということで、当日[里村欣三]氏が入隊すべき日に入隊しなかったことを示している」と書いている通りである。
 同じ中央縦書きの住所「東京市世田谷区太子堂町三〇六」は、昭和11年1月24日現在の里村欣三の住所で、同年1月13日付け広野八郎宛葉山嘉樹の手紙(『葉山嘉樹全集第六巻』筑摩書房)と一致している。
 その右、「昭和十二年ノ点呼同年七月二十八日陸文普電第一五號ニ依リ點呼参會ト看做ス」は、召集されて、昭和12年7月28日に応召したことを示している。
 中央縦書き「昭和拾貳年十二月壱日輜特一 一四、一一、三、上」は里村欣三の軍歴を表しているが、この
昭和14年11月3日という日付は、里村が病気のため、所属した第10師団第10連隊の召集解除(昭和14年10月20日)に遅れて、召集を解除された日付なのである。右の「配當部隊」の昭和14年の欄に「通信 11月3日 病解」とあるのと符合する。またこの記述から、里村は、昭和12年12月1日に一等兵に昇進してからずっとそのままで中国戦線を転戦し、昭和14年11月3日、召集が解除されたその日、営門を出る時に上等兵に昇進したことが分かるのである。
 同じ「配當部隊」欄の昭和12年の項には、「通信 第五ノ一歩十丙 
七月二七日下命應」と書かれている。
 この時の召集令状(「赤紙」)の復刻が、下に示した
『赤柴毛利部隊写真集』の中央の写真であり、里村もこの「赤紙」により召集された。「赤柴毛利部隊」は、里村欣三が中国戦線を転戦した時に属した姫路歩兵第10連隊のことで、連隊長ははじめ赤柴八重蔵大佐、途中交代して毛利末廣大佐である。
 右下の写真は、この召集令状(「赤紙」)に対する「受領証」で、伊賀信太郎さんという方のものだが、その表題「第五ノ一歩十」は、里村の「在郷軍人名簿」の記述と一致する。詳細は不詳だが、動員令等の条文に依拠するのだろう。
 この他に、里村欣三の「在郷軍人名簿」で見ておかなければならないのは、「現役中ノ服役部隊」欄に「(十師通)輜十」と書かれていること、「特業」欄に「特馬」とあること、氏名欄に正しく本名の「前川二享」と書き込まれていることである。

 里村欣三の「在郷軍人名簿」には、いくつかの疑問、不詳な点がある。まず。左上、「徴集年」に「昭九」とあるのはなぜなのだろうか。里村は昭和10年4月に徴兵忌避を自首、失踪宣告の取り消し等を経て、同10年7月10日、徴兵の再検査を受けて第二乙種合格、昭和10年8月12日から55日間入営して輜重特務兵としての訓練を受けた(堺誠一郎が「或る左翼作家の生涯」、昭和10年7月10日付里村欣三の葉山嘉樹宛手紙ほか)。従って、まだ自首していない「昭九」が、なぜ「徴集年」欄に記載されているのかは不明。また、昭和10年の入営、訓練が記載されていないのも不明。さらに「配當部隊」欄昭和11年の項の「第五の一ノ上砲十甲」の記述も不明。「配當部隊」左側の「平時召集及簡検本點呼」欄に押印がないし、里村の「年譜」上からも、今のところ関連記述がみあたらない。
 要するに、この里村欣三の「在郷軍人名簿」が、何年何月の時点で作成されたのかやや不明なところがある、とも思われる。

 
『赤柴毛利部隊写真集』
岡崎 速編

昭和47年1月27日
山陽時事新聞社
210×257mm 138ページ
 
 左の『赤柴毛利部隊写真集』に挟みこまれている「赤紙」の複製。この召集令状により里村は中国戦線に動員された。
 この複製の「赤紙」のサイズは横151mm×縦192mm
 昭和12年7月27日、歩兵第10連隊に対し「第五の一」動員が下令された。
 上の受領証の日付は不鮮明だが7月28日となっている。
 
『赤柴毛利部隊写真集』収載

 このように里村欣三の「在郷軍人名簿」を見てくると、昭和18年1月4日『讀賣報知』に発表された里村の「新年の感想」は、また別の色合いをもって立ち現れてくる。そこには次のように書かれている。
 「二度も三度も、出直せるものではない。私は昭和十二年七月に、支那事変に応召して以来、私は祖国日本と共に出発してしまつたのである。[昭和16年12月8日]香港沖の船中で宣戦布告の大詔を拝した時、涙を流しながら武者振ひ立つたが、その時の悲壮な感激を思ひ出すたびに、(中略)傍若無人にのしかゝつてくる米英の抗戦力には、切歯扼腕、無念の怒りを禁ずることが出来ない。(中略)私に可能なことは兵隊に召されることである。私は年頭と共に、身辺を整理してその日を静かに待つ決心である。」
 あれほど嫌悪し、忌避した「徴兵義務」。その故にこそ満州に逃亡し、苦闘した人生。その「徴兵義務」から完全に解放された昭和18年の正月に、里村欣三は「二度も三度も、出直せるものではない。」という思いの中で、「兵隊に召されること」を真摯に希求したのである。

  (2006.1.1「労働運動上の傷害事件はあった」から分離して改訂。[ ]は引用者の補足)