「北満放浪雑話」(一)雲
【ここが哀切】
 
放浪への強烈なあこがれ。
 満州放浪の基底を貫いたロマンチシズム。
 孤独と自己矜持。
 しかし、この雲は、春の雲ではなく、どこかに寒気を含んだ秋の雲である。
【出典】 「北満放浪雑話」
『中央公論』昭和2年7月号(夏季特別号) P76-88
中央公論社 1927年7月l日刊
(一)雲

 雲は、放浪者にとりて、詩である。魂の躍動であり、情緒の顫律である。またあるひは、神秘な黙示である。
 雲、雲、雲、私達はいかにそれを仰いで、泣き、笑ひ、悲しみ、嘆いたことであらうか。放浪者は友を持たない。また語るべき隣人をもたない。更に愛すべきものすらもたない。そして常に孤獨である。無言である。──
 が、この悲しむべき、哀れむべき地上行者の上には、常に無限の青空がおおいかぶさつてゐるではないか。そこには雲がある。雲こそはわれわれの兄弟であり、同志であり、また愛すべき戀人である。
 われわれが、悲しみの餘りに泣き倒れてゐる時、情け深い雲は、どうしてもわれわれを見捨てては行かないのである。
『若者よ、悲しい時は酒が一番よい。町へ下つて行つて、鱈腹のんで、醉つて御覽よ!』
 彼は悲しげに眼をしばたゝいて、悶える者をかう慰めるのである。
 われわれが、小高い丘の上に彳んで、暮れて行く地平線を、涙をためた瞳で凝つと眺がめてゐると、雲の奴は何處からか流れて来て
『うん、さうだつた!お前の母親[おふくろ]はこんな姿をしてゐたツけな!見ろよ、かうか、いやもつと肩が張つてゐたツけ? 見ろよ。………』
 剽軽者[ひやうきんもの]の雲は、ふわふわした躯を色々にくねりまはして見せるのであつた。『泣くな、泣くなよ。もう日が暮れるではないか、さあ歸つて寝なよ!もうおツつけ俺れも歸つちまうからな。』
 しんみりとした眼付で凝視めた儘、雲はわれわれが丘を降りるまでは動かうとしないのである。
『腹が減つた!そりや不可[いけ]ねえ。が、若者よ!いつまでそこに寝轉んでゐたとて同じことだ。さあ元氣を出した、出した。村へ這入つて見ろ、握飯の一つも惠んで呉れる情け深いお婆さんがねえとも限らねえからなア』
 寝轉んだ若者の傍に、いつの間にか雲がそろりと忍びよつて、親しげにかう口を切るのである。『さあ、そんなに自暴を起すもんではねえ。起きて行きねえよ。なア、若者よ、神様がぢつとみてゐらあしやる、そんなに何時までもお前ばかりを苦しめては置きはなさるまいツて?』
 若者は不精々々に起き上つて、村へ這入つて行く。と、雲の言ふ通りである。人間はめつたに腹を減らして死ぬるもんではない。おまけに草取の仕事を見付けでもしやうものなら、早速、雲の野郎、朝早くから葡萄園の上に出張つてにこにこ待つてゐるのである。『お早やう!』
 汗をだくだく流して、根限り働いてゐると、『おい、おい、ちつと位憩んでもいゝよ。その葡萄棚は低いから腰が痛いだらう』と、かうおせつかいまで燒いて呉れる。そして自分も汗をだくだく流しながら、太陽に照らされた儘、ぢつと動かないでゐるのだ。實に愛すべき世話好きである。

『給金は少ないし、内儀はケチだし、仕事は樂でなし、親父はやかましいし、ちえ一層のこと逃げ出して終え』と、われわれはよく思案することがある。さう云う時には、いつでもわれわれはシヤベルの柄に肱をついて、先づ雲に相談を持ちかけるのである。
『兄弟!景気のいゝ町はないか?』
 すると決斷力の早い雲は、われわれが煙草を一本を喫ひ盡くさないうちに、何んとか決定して呉れるのである。『ぐずぐずしないで俺について来るがいゝ。』と言つて呉れることもあるし『見ろ!野面は木枯と雪だ、うかうか飛び出すと、野垂れるぜ!』と云つて思ひ止まらして呉れることもある。前のやうに言つて呉れれば、われわれは早速に、棒片を片手に振り廻して、得意の小唄を鼻唄まじりに口ずさみながら雲と共に流れて行くのである。町はどこにあるかも、どんな仕事が待つてゐるかも、われわれは一切を知らない。雲が萬事を心得てゐるのだ!が、たつたひとつわれわれは女が美しくて、酒は旨くあれ!と秘密に念じてゐるのだ。これだけは如何に心易い雲にも訊いてみることは出来ない。何故ツて、そんなことを訊かうものなら、忠告づきの雲のことだ『お前が貧乏して、流浪してゐるのはその女と酒のためだよ』ぐらゐの小言を聞かすであらうから、このことだけは秘密にして相談しないのだ。だからわれわれは一切のことを雲に任してゐても、ただ一つ任してゐないそのことに苦勞するのだ。『女よ!美しくあれ、酒よ、旨くあれ』と、──ねえ。
 然しながら放浪者は流浪する、そのことが全部でない。彼等には實に熾烈な理想主義が、流轉から流轉に穢れほころびた着物に包まれてゐるのだ。よりよき生活を求め、より意義ある職業を追つて、旅から旅に流轉するのだ。が、人世はつひに流浪者に安住の地を與へない!旅から旅へ、彼らは無限に雲を憧れて行くのである。涯しなき流浪!人の世が、人間に安住を與へないものである限り、流浪の若者は永[と]遠[は]に、ひとつの宿場の灯[ともしび]に心をとどめないであらう。
 人よ、人よ!放浪者の見窄らしき姿に、侮蔑を含む勿れ。またひとりの乙女を永遠を誓ふことの出来ない移氣を咎むること勿れ。
 放浪者こそは、實に美しき安住の地と永遠の戀人を、この實利主義の世界に描く、ただひとりの理想家であるから──。