歸還作家よりの復信
自己辯解の辯 葉山嘉樹兄へ
【ここが哀切】
 
一兵卒として、部隊に意識的に同化し、苦闘するしかなかった里村欣三の中国戦線。
 昭和12年7月の応召から14年12月の帰還まで、いっさい書かず、書けなかった里村の自己弁解の弁である。
【出典】 読売新聞 1940(昭和15)年1月17日
朝刊 第5面
 僕も大變に御無沙汰してしまつて、申譯のないことだと思ひます。戰地にゐる間、色んな機會に何か書くやうに慫慂されましたが、怠け者の僕は一度も、貴兄の期待に副ひませんでした。戰地にゐる間も、また歸還してからも、火野氏や上田氏の力作が矢つぎ早に發表されるのを見て、僕も尠からず心を動かされますが、今から慌てゝさういふ人たちの後を追随しようとは思ひません。たゞ僕には火野氏や上田氏が忙しい戰地にゐて、よくもあんなに澤山な力作が書けたものだと思ひ、その不屈な努力に頭が下がるだけです

◇      ◇

 僕は通信隊配属の一特務兵として出征し、昨年末の歸還まで約二ケ年半──僕は一日として馬から離れて生活したことはありませんでした。これは馬を持つた兵隊でないと分からないことかも知れませんが、馬の世話といふものは並大抵なものではなく、殆ど一日中特務兵がかゝりつきりです。しかも戰死者が出たり、入院患者が増えたりした時には、一人の特務兵が二三頭の馬の世話をしなければならないやうなことがありました。とても小説を書く時間さへないやうな場合がありました。

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 それに僕はもう五六年も前から小説らしいものをたゞの一篇も書いたことがないので、自分が「作家」であるなんてことは、すつかり忘れてゐました。僕はたゞの平凡な一特務兵として、若い兵隊たちの間で揉まれて暮らすことが、大變に面白かつたんです。戰争のない時には、相撲をしたり、將棋をしたり、馬の曲乗りを習つたりして、貴重な二年間を意味もなく茫々と暮らしてしまひました。時には僕に妻子があることすら、忘れているやうな、迂闊な場合もありました。だから、誰も僕が「作家」であるなんて夢にも思つてはくれないし、若し思はれたところで「何であんな奴に小説が書けるか!」と鼻先でせゝ笑はれたことでせう。若しも僕が僕のこの立場を自覺せずに、一つぱしの作家らしく振舞つたとしたら、どうでせう?とても部隊の平和が保てなかつたと思ひます。

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 一本の臘燭のまはりに集つて面白さうに腕相撲をしたり、將棋をしたりしてゐる戰友たちを、僕が肱で押しこくつて小説を書きだすとしたら。または深刻無比な顔をして「おい靜かにせんか」なんて、怒鳴りつけたりしたら、どうでせうか。…やつぱり僕は小説を書く野心を持たなくつて、好かつたと思ひます。戰友たちの中には、いゝ人間もゐるし、また意地の悪いのもゐるし、みんなをみんな作品の中で褒めちぎる譯にも行きませんしね。そして最も困ることは、作品の中で書いたモデル達と、また何年間も同じ生活の中で顔を突合はして暮さなければならないことです。僕には、とてもそんな強い「心臓」が持てなかつたんです。随分と長つたらしい自己辯解を弄しましたが、まあ大體こんな譯で戰地では何も書けなつたんです。若し書くとすれば、これからです。文學的に再出發する意氣込みで、僕も本腰になつて、これから二ケ年間の經驗を書きたいと思ひます。