中西伊之助と西部交通労働同盟…里村欣三が「神戸市電にいた」

 一冊の書物がある。『交通労働運動の過現』(長尾桃郎、桑田次郎(「桑」は「栞」または「来」に似た「くわ」ですが、以下「桑」で表現します)著、大正15年6月30日、クラルテ社刊、B6判、第一部桑田次郎85ページ+第二部長尾桃郎654ページ、序文、目次は別ノンブル)である。
 
大正11年から同14年にかけての大阪市電従業員の闘いを記録したこの本の序文で、中西伊之助は次のように述べている。
 「大阪を中心とする関西一帯の交通労働者の運動は、かなり久しい歴史を持つてゐる。そしてその黎明運動を起したものは、何と云つても大正十一年三月に、大阪市電従業員を以つて組織された西部交通労働同盟である。その創立は、関西一帯の交通労働者に大なる衝撃を與へた。そして到る處に交通労働者の運動が競ひ起つた。西部交通労働同盟の蹶起は、この點に於て最も重大なる先駆的運動であつた。西部交通労働同盟の指導精神は、純眞明白なる階級闘争主義の下に、あくまでも萬國労働者運動の歴史的使命を遂行するものであつた。これは曾つて東京に於て、大正八年、日本交通労働組合の創始された當時の指導精神と相通ずるものとして、交通労働者運動の新らしい傳統精神をなすものであると言はねばならない。」
 この中西伊之助の序文の日付は1925年10月16日、「大阪交通労働組合楼上にて」とある。時代の息吹を含んだ格調あるマニュフェストである。
 中西伊之助は、大正8年9月3日に設立された東京市電従業員の組合である日本交通労働組合を理事長として指導、同年11月、労働時間短縮や待遇改善等21カ条の改善要望を提出し市当局と交渉、大正9年2月24日から5日間、4月25日から5日間のストライキを行ったが、当局と官憲の大弾圧を受け、馘首328名、投獄83名、起訴34名の犠牲を出し、日本交通労働組合は事実上壊滅した。(『東京交通労働組合史』昭和33年2月、東京交通労働組合刊、ほか)
 この間、中西伊之助は2月27日から4月1日まで、同4月25日から9月29日まで投獄された。この年(大正9年)の5月2日、上野公園で行われたメーデーが、我が国最初のメーデーである。里村欣三は、その本名前川二享として、この東京市電ストライキ、メーデー、そして発起人の一人として大正9年12月10日の日本社会主義同盟結成を闘ったのであった。
 さて、中西伊之助が大阪市電の従業員組合である西部交通労働同盟に関係したのは、1922(大正11)
年1月、大阪市電従業員の中で「共扶倶楽部」を結成し、のち西部交通労働同盟の中心となって活動する中川知味らが、「四〇〇〇名の市電従業員をどうして一つに統一するか。思いあまった中川は、東京市電(日本交通労働組合)の中西伊之助に手紙を出して、意見をもとめた。ここから東京市電との交流がはじまる」(『大交史』(昭和43年10月24日、労働旬報社刊)。
 そして驚くべきことに、この文脈の中に、大正11年3月16日、
里村欣三(前川二享)が、その姿を見せるのである。
 それはこの『交通労働運動の過現』の桑田次郎
の担当する第一部、「日本陸上交通労働運動史」のP62からの「第八章 西部交通労働同盟」においてである。下に写真をあげ、少し長いが左P63の第6行目あたりから、書き写すことにします(ルビは省略、旧字は新字)。里村欣三(前川二享)の名は、P63の終わりから3行目の下部にある。

 「廿六日夜盛会裡に第二回結束演説会が開催され、日本交通労働組合より中西伊之助氏来援するに及び大いに気勢を揚げ、遂に五百名の加盟申込を見るに至り、三月十六日午後六時より築港高野山で発会式を挙行するに決した。然るに当日に至って高野山より本堂貸与を断られ、遂に詮方なく土佐堀青年会館に於ける電業員組合主催の大電争議批判演説会と合併し発会式を挙げんとしたが、警察官憲の圧制のため僅に五名の弁士が登壇を許されたのみで意を果すことが出来なかった。藤原麻芳氏は組合をペストの様に怖れる市電には何か後暗い処があるだろうと皮肉り、田島吉藏氏は市電では我等の初任給を六十五円と発表しているが之を得んには一日に三十八時間も働かねばならぬ実情だと素ツ破抜き、天王寺の吉田監督が何か言ったと云うので満場総立ちとなり、吉田の茶瓶を殴れ叩き殺せなどと絶叫して殺気立ったが漸く無事なる得、次で神戸市電の前川二享氏神戸にも拵へるぞと声援し、最後に中西伊之助氏の激越な演説があった。此夜南海沿線の木津の一従業員宅に於て、数十名の従業員により密に発会式が挙行されたのであった。中川知味氏司会の下に藤原氏の開会の辞、植田幸次郎氏宣言及綱領を朗読し、次で各出張所代表者の祝辞演説あり、東京から来援の中西田中両氏の激励演説もあり、折柄細雨しとしとと降る中に、厳粛な産声を挙げて散会したのは、夜半の二時過ぎであった。」
 この記事の時間の流れ、中西伊之助との関係からみて、里村欣三(前川二享)は、西部交通労働同盟が発足する「夜半の二時過ぎ」の現場にも居たのではないだろうか。
 さて、この『交通労働運動の過現』の記述から、里村欣三(前川二享)は、自身が『第二の人生』第二部(昭和15年10月28日、筑摩書磨)で書くように、「翌年[大正九年]には[東京]市電第一次の争議に敗れ、大正十年には神戸市電に再び車掌となって潜入し、組合の組織運動に従事」していたことがほぼ明らかになったのである。
 このことがなぜ重要なのかというと、この大正11年3月16日は、里村が徴兵検査を受けた後、満州に逃亡するわずか3、4ヶ月前のことなのである。このような意識、このような活動家であった里村が、6月ないし7月の徴兵検査にぶつかり、入営を余儀なくされたのである。

里村が「神戸市電にいた」(補足)

 『交通労働運動の過現』第二部、長尾桃郎の「大阪に於ける交通労働運動の過現」は、654ページにわたり、大正期に於ける大阪市電労働者の闘いを描いたもので、「自序」に、「『あるがまゝの運動史』たらしめたいと希望し、終始その意識の下に書き綴ったつもりである。従って小事件の故をもって見逃さぬやうに努めた。」とあるように、大正13年7月の高野山籠城の大阪市電争議を中心に、どの支部の誰がどう行動したのか、市当局がどのように対応し、反動団体がどのように暗躍したのか、全く「自序」にある通り細かく、具体的に記録されている。
 中西伊之助の名はところどころにみられるが、里村欣三(前川二享)の記述はない。大正11年3月16日の西部交通労働同盟の発会式の記述は、「当夜土佐堀青年会館で開催していた大電問題演説会に懇談交渉の末、辛くも逃れて同演説会と合併して発会式を挙げようとした。けれども、三度官憲の為めに制せられ、僅かに五名を限りに演説が許されたに過ぎずして目的を果すことは遂に出来なかった。」(P11)とあり、前記桑田次郎の記述と符合するが、残念ながら、里村欣三(前川二享)の具体名はなかった。
 しかしながら、長尾桃郎の記述は詳細を極めており、以後の大阪市電(西部交通労働同盟)の闘いの中に里村欣三(前川二享)の名前がないことは、逆に里村は大阪市電の従業員ではなかった、つまり「神戸市電の前川二享」という桑田次郎の記述が正しいことを十分に裏付けているといえる。
 長尾桃郎は、大正から昭和にかけての関西の労働運動を丹念に記録・収集した大阪都新聞の記者で、その業績は、大阪府立大学に「長尾文庫」として保存されている。その「長尾文庫」に、大正11年3月16日里村欣三(前川二享)が姿を見せる西部交通労働同盟発会式のビラ(長尾文庫C0299)が保存されている(下の写真)。「自由演説」のところに神戸市電の名が見える。鉛筆で書き込まれた「中西」は中西伊之助、「田中」は中西と同じ日本交通労働組合(東京市電)の田中辰(金へんに辰)次郎、「島上」は島上勝次郎で、同じ東京市電である。


 次に、『大交史』(大阪交通労働組合編、労働旬報社刊、昭和43年10月24日)の記述を見てみよう。同じ大正11年3月16日、西部交通労働同盟(大阪市電)発会式の記述である。(P110)

 「市電労働者は、やむをえず同じ頃土佐堀青年会館に開催中の大電糾弾演説会に合流した。演説会は「熱狂して」これを迎えた。官憲の資料によれば、当夜の参加人員は、電業員組合被解雇者一五〇、電業員組合員二二〇、大電会社系の労働者七〇、市電従業員二〇〇(制服一五〇、私服五〇)、
神戸市電従業員二〇、阪神、阪急電車従業員一〇、総同盟系その他七〇、合計およそ七八〇名であったという。九時半ごろに至って演説会を打ち切り、大阪市電の労働組合の発会式に移ろうとしたが、官憲の圧迫に妨害されてとうとうできず、中西伊之助(日本交通)、前川行雄(或は二享か、神戸市電)、藤原朝房、植田幸次郎(以上大阪市電)らの演説が、厳重な警戒のなかでおこなわれただけで散会しなければならなかった。」
 藤原氏の名前が先の『交通労働運動の過現』と異動があるが、それはさておき、この『大交史』の記述は「前川行雄(或は二享か、神戸市電)」、としており、その出典(原典)の記述はないが、さらに里村欣三(前川二享)の名が記された別の資料が存在することをうかがわせる。『大交史』の中に散見される『労働週報』というものなのだろうか。






 さて、「官憲の資料」というのが何なのかも不明だが、それにしても「神戸市電従業員二〇」というのは驚きだ。神戸市電の労働者の闘いについては、『神戸交通労働運動史(戦前編)』(1980年12月1日、神戸交通労働組合刊、A5判、365ページ)という本がある。そのP59の終わりからP60にかけて、次のように記述されている。
 「二二年[大正11年]六月二二日、西部交通の後援によって阪神電鉄の乗務員が「阪神談笑倶楽部」を結成(約七〇〇名)。七月二五日の天神祭を期してストライキに突入し、賃上げをかちとった。この模様はたちまち神戸市電従業員に伝えられ、「盛んに、その運動に関する喧伝入り込み」・「従業員ははなはだ気が立ち、一種不安の気分に満たされた」(岡得太郎論文〈協調会『社会政策時報』大正十三年十月号〉といわれる。
 交通労働運動の波がひたひたと神戸市電にも押し寄せ、それに共鳴する人々が出て来た。しかし、神戸市電では、それに呼応して組織し行動する動きは見られなかった。」
 この記述から、西部交通労働同盟の結成や、前年大正10年夏の神戸における川崎・三菱両造船所の大争議はあったものの、神戸市電従業員の組織化、闘いそのものは、ほとんどなかった、低調だった、と私は今まで思っていたからである。
 『大交史』の「神戸市電従業員二〇」という記述から、神戸市電従業員の組織化の動きがなかったのではなく、底辺では激しくうごめいたいた。そしてその渦中に里村欣三(前川二享)はいたのである。これが、里村欣三が徴兵を忌避し満州に逃亡する直前の状況である。




その他の交通労働運動関係資料など

 最後に、大正期交通労働者の闘いを記録した本を紹介しておく。

桑田次郎著
『電車ストライキ』
大正14年5月5日
クラルテ社刊
B6判638ページ
東交史編纂委員会編
東京労働組合史』
昭和33年2月
東京交通労働組合刊
A5判599ページ
都市交通20年史編纂委員会編
都市交通20年史
昭和42年6月1日
日本都市交通労働組合刊
B5判263ページ

 桑田次郎著『電車ストライキ』は、この考察の冒頭に掲げた『交通労働運動の過現』の姉妹本というか、兄貴本である。上の写真は扉で、表紙はグレーのハードカバー、背表紙にだけ文字がある。大正13年7月の大阪市電大争議(高野山籠城)を主にあつかったもので、残念ながら里村欣三(前川二享)に関する記述はない。
 右端の『
都市交通20年史』は戦前の都市交通労働者の運動をまんべんなく俯瞰しており、東京市電、大阪市電の労働者の闘いを一覧するには分かりやすい資料である。

 さて、次に真ん中の『東京交通労働組合史』を見ていこう。簡単な前史に続き、大正8年9月の日本交通労働組合(東京市電)誕生のいきさつを詳細に記述しており、大正9年4月現在の東京市電各支部役員の氏名も記されているが、これも残念ながら里村欣三(前川二享)の名前はない。
 しかしこの『東京交通労働組合史』の口絵写真に興味深い1枚の写真が掲載されている(左)。
 キャプションにあるように、前列左、傘に手を置いている眼鏡の人物が中西伊之助、その右、帽子を手にしたコート姿の堺利彦は、日本社会主義の先駆者で、葉山嘉樹と同じ福岡県京都郡豊津町の出身、里村欣三(前川二享)とは大正9年の日本社会主義同盟の発起人として面識があった、と思われる。一人おいて中央、和服姿で傘に手を置くのは、小堀甚二。小堀は元建築労働者で、小堀が平林たい子と結婚する前、大正15年秋には里村欣三と同居している。
 この写真の「安全デー」は、今日で云う「遵法闘争」で、大正13年11月2日(〜4日)のことである(『東京交通労働組合史』P79-81)。
 さて、何が興味深いのか。それは、この
中西伊之助の左、顔と身体が半分しか写っていない男こそ、大正13年11月の里村欣三の可能性があるのではないか、ということである。それとも、穿ちすぎた岡目八目、赤の他人なのであろうか。
 里村欣三の一番はじめの作品は、この年の6月に創刊された『文芸戦線』の、大正13年8月号(第1巻第3号)に発表された「真夏の昼と夜」、同「輿論と電車罷業」である。この「輿論と電車罷業」の中で、里村は「大阪市電罷業も東京市電罷業も、交通労働者が屈服せしめられた妖怪は「公共機関」といふ言葉であり、その理由は「市民の迷惑」であつた。」と書いている。
 中西伊之助は同じ号に「階級戦のどん底より」を書き、次のように悲憤している。
 「「ケツレツス」──決裂す! 僕は、七月三日の午後九時半、この電報を受取った。ああ、決裂す! 何等、悲壮の電文ぞや! この電報は、大阪市電従業員を中心とする、西部交通労働同盟から、僕に発せられたものである。」
 大正13年7月、西部交通労働同盟(大阪市電)が待遇改善に決起し、高野山に籠城、そして敗れ去る状況が、中西伊之助に報告され、それを中西は悲憤しているのである。
 里村の「輿論と電車罷業」も、7月初旬の西部交通労働同盟(大阪市電)の闘いを受けて書かれたものであろう。
 この『文芸戦線』大正13年8月号の編集人は中西伊之助その人である(創刊号から第1巻第7号まで、7号分)。この8月号の裏表紙(表4)は、他の号と趣きを異にし、「大阪市電従業員争議犠牲者同情募金」を呼びかけている。
 「林房雄、岡下一郎、葉山嘉樹、里村欣三の四君を、新に同人になつてもらった」(『文芸戦線』大正15年4月1日号編輯後記)、すなわち里村が『文芸戦線』同人になったのは、大正15年3月のことだから、そのはるか以前、大正13年8月に、全くの新人、一編の作品も発表していない里村に、同時に二編も掲載させるようなことがあるだろうか。「真夏の昼と夜」は予定原稿であったとしても、「輿論と電車罷業」は極度に緊迫する西部交通労働同盟(大阪市電)の情勢の中で、『文芸戦線』編集人である中西伊之助が「里村君、君も書きたまえ」と云って、書かせたものなのではないだろうか。
 振り返ってみると、里村は初めての書物『近代人の人生観』(共著、人生哲学研究会編)を大正14年2月15日、越山堂から出している。里村の内容は、「夏目漱石」と「樋口一葉」で、一週間や二週間の付け刃で書けるものではない。そして、この初めての書物の共著者の一人が中西伊之助である。里村は続けて『名僧の人生観』(大坪草次郎らとの共著、大正14年4月12日)を越山堂から出している。中西伊之助は、同じ越山堂から大正13年11月15日、『死刑囚の人生観』を刊行、『聖哲の懺悔』(里村らとの共著、大正14年3月15日)、『我が宗教観』(単独、大正14年4月15日)も、越山堂である。
 このように見るとき、里村欣三の文学的出発の水路は、みな中西伊之助に導かれながら、自ら切り開いていったものと言える。

傷害事件はあったのか?…満州逃亡の原因をさぐる 

 以上の考察から、里村欣三がみずから『第二の人生』第二部(昭和15年10月28日、筑摩書房)に書くように、
「翌年[大正九年]には市電第一次の争議に敗れ、大正十年には神戸市電に再び車掌となって潜入し、組合の組織運動に従事」したということが、事実であることがほぼ明らかになった。
 それではその『第二の人生』の後節、
「組合の組織運動に従事しているうちに、当局の弾圧に腹を立てゝ、時の電車課長を襲って短刀で斬りつけた。直ぐ現場で取押さへられて警察へ突き出され十ヶ月の刑を受けた。」という記述は事実なのだろうか

 私は、2004年12月の時点で、この「十ヶ月の刑を受けた」ということをめぐって、次のように推論したことがあった。すなわち、

 「私はこれまで、里村欣三の『第二の人生』の後節、「十ヶ月の刑を受けた」という記述から、里村に労働運動上の傷害事件があったとすれば、それは満州逃亡の前年、大正10年の初夏あたり、神戸での出来事だろうと推測していた。しかし今、
実はこの「十ヶ月の刑を受けた」という記述こそ、里村自身による大きなカモフラージュなのではないか、そう思えてならない。
 
何をカモフラージュしたのか。真に驚くべきことだが、直截にいえば、満州逃亡そのものをカモフラージュした、言いかえると、労働運動上の傷害事件の後、十ヶ月間、満州に逃亡し放浪した、このことを言っているのではないか。傷害事件はあった、しかし、刑を受けることなく満州に逃亡した、逃亡期間は十ヶ月間であった、満州逃亡の真の原因はこの労働運動上の傷害事件であった、こう言っているのではないか。」

 しかし、2005年3月19日付、本サイト掲示板への津留湊氏の「里村入獄記事発見」(『労働週報』大正11年7月19日号(第17号)第3面)の投稿により、「十ヶ月の刑は満州逃亡期間の比喩」という推論は誤りであることが明らかとなった。

 「十ヶ月の刑を受けた、というのは満州逃亡期間そのものの比喩である」と考えたその結論は誤っていたが、推測を重ね、考察を重ねていく以外、里村欣三の徴兵忌避、満州逃亡の真実に迫る方法はない、と思う。その意味で、結果として間違っていた推論の根拠を、参考のため別ページにして、以下に残しておきます。
 関心のある方はここ→ 
*「十ヶ月の刑は満州逃亡期間の比喩…」は間違っていた* をクリックしてお読み下さい。

  (2005.1.10改訂)
 
 なお、津留湊氏の発見された「里村入獄記事」をもとに、
新考察《労働運動上の傷害事件はあった!》をまとめております。こちらの方もぜひお読みください。