私は、今回、津留湊氏により『労働週報』大正11年7月19日号(通巻第17号)に里村欣三(前川二享)の入獄記事が存在することが明らかにされるまで、次のように考えていた。
いちばん初めは、里村欣三の『第二の人生』の後節、「十ヶ月の刑を受けた」という記述から、里村に労働運動上の傷害事件があったとすれば、徴兵検査の時期(大正11年6月〜7月)と刑期の長さを考えれば、それは満州逃亡の前年、大正10年の初夏あたり、神戸での出来事だろうと推測していた。
次に、大正11年3月16日、西部交通労働同盟(大阪市電)の発会式に、里村欣三(前川二享)が、神戸市電労働者として登場した記事を発見(当サイト考察「里村欣三が神戸市電にいた」を参照してください)した後は、次のように考えた。
すなわち、この「十ヶ月の刑を受けた」という記述は、里村自身による大きなカモフラージュなのではないか、何をカモフラージュしたのか、直截にいえば、満州逃亡そのものをカモフラージュした、言いかえると、労働運動上の傷害事件の後、十ヶ月間、満州に逃亡し放浪した、このことを言っているのではないか。傷害事件はあった、しかし、刑を受けることなく満州に逃亡した、逃亡期間は十ヶ月間であった、満州逃亡の真の原因はこの労働運動上の傷害事件であった、こう言っているのではないか、このように考えた。
今回、津留湊氏により、里村欣三(前川二享)の入獄記事の存在が明らかになった今では、この考えは誤りであったが、参考に、「十ヶ月の刑を受けた、というのは満州逃亡期間そのものの比喩である」と考えた根拠を以下に残しておきます。
…………………………………………………………………………
山田清三郎は『プロレタリア文学風土記』(1954年12月15日、青木書店)で、「里村は、青野季吉や中西伊之助のところに出入していた。大阪で市電争議のとき、つかまるところをずらかったというけいれきをもっていた。そんなことから、身の上をかくしていたのだった」(P83)と書いている。
中西伊之助は「Yに贈る手紙」(『文芸戦線』第3巻第8号、大正15年8月1日)で、「あの男は大阪で『控訴なんかめんど臭い!』と云つて、一審で六個月を頂戴した程だ」と書き、堺誠一郎は、「或る左翼作家の生涯」(『思想の科学』1978年7月号)で、もっと具体的に、「伯母志牙(しげ、父の姉)の息子が大阪にいてこのことを父に知らせ、弁護士をつけるように勧めたが、父はこらしめた方がいいのだと言って相手にしなかった。」と書いている。
里村に、労働運動に関係する傷害事件があった、ということが事実なら、それはどういう事件なのだろうか。
そして、大正11年3月16日の西部交通労働同盟の発会式に、里村欣三(前川二享)がたしかに居た、ということを一つのメルクマールとするなら、満州逃亡の時期との時間的な整合性はどうなるのだろうか。
青野季吉は戦後に刊行された『現代日本小説大系40』(昭和26年9月15日刊、河出書房)の解説で、「大阪の市電争議のテロ行為で投獄され、破獄して満州を放浪した」、と書いている。「破獄して」というのは、信じがたいけれど、それでもなお「大阪の市電争議のテロ行為」という可能性は残るのだろうか。
青野季吉はさらに、「里村欣三は震災直後に中西伊之助がどこからともなく連れてきたので、この青年が大阪の電車争議で人を傷つけた(中略)ことを知ったのはよほど経ってからであった。」(『文学五十年』昭和32年12月、筑摩書房)とも言っている。
振り返って、こうした青野季吉や山田清三郎、中西伊之助の一連の記事を考察してみると、それらが共通して指し示すものは、「大阪での市電争議」という方向である。「大阪での」という場合、「関西での」というニュアンスを含むこともあるから、「神戸市電」という可能性も否定できないけれど、やはりこれは大阪市電、すなわち西部交通労働同盟の闘いの渦中での出来事なのではないだろうか。
私はこれまで、里村欣三の『第二の人生』(第二部)の「十ヶ月の刑を受けた」という記述から、里村に労働運動上の傷害事件があったとすれば、それは満州逃亡の前年、大正10年の初夏あたり、神戸での出来事だろうと推測していた。しかし今、実はこの「十ヶ月の刑を受けた」という記述こそ、里村自身による大きなカモフラージュなのではないか、そう思えてならない。
何をカモフラージュしたのか。直截にいえば、満州逃亡そのものをカモフラージュした、言いかえると、労働運動上の傷害事件の後、十ヶ月間、満州に逃亡し放浪した、このことを言っているのではないか。傷害事件はあった、しかし、刑を受けることなく満州に逃亡した、逃亡期間は十ヶ月間であった、満州逃亡の真の原因はこの労働運動上の傷害事件であった、こう言っているのではないか。
このように推論する根拠は何か。
(1)、上述の青野季吉、山田清三郎、中西伊之助、堺誠一郎の記述から、労働運動上の傷害事件はあっただろうこと。
(2)、当サイトの考察「中西伊之助との関係」でみたように、里村欣三の満州逃亡の時期は、大正11年夏から大正12年5月前後までと推測される。一方、当サイト考察「里村欣三が神戸市電にいた」でみてきたように、大正11年3月16日、西部交通労働同盟の創立大会の場に里村欣三(前川二享)が本名のまま神戸市電従業員として姿を見せている。
大正9年は、11月時点での「日本社会主義同盟」ビラに設立発起人の一人として、前川二享(亨)の名がある(考察「中西伊之助との関係」の写真参照)から、この時点前後には東京にいたのだろう。また「大正十年には神戸市電に再び車掌となって潜入し、組合の組織運動に従事」という『第二の人生』第二部の記述は正しいだろう。
仮に大正10年のごく早い時期に「労働運動に関係する傷害事件」が発生したとしても、裁判を受け、十ヶ月の刑を終えて出所し、大正11年3月16日、西部交通労働同盟の創立大会の場に神戸市電従業員として姿をみせるということは、時間的にほとんど不可能、整合性がない、と言えるのではないだろうか。むしろ「労働運動に関係する傷害事件」は、大正11年3月16日以後にあったと考えるのが自然であろう。そうすると、満州逃亡以前に、実際に「十ヶ月の刑」を受ける期間がないことになる。
「十ヶ月の刑」というのは、満州逃亡期間そのものの比喩である、と言えるのではないだろうか。
(3)、里村欣三の『第二の人生』三部作は、日中戦争従軍の中で自己の人生を振り返り、突きつめていく転向の書であるが、相当に厳しい自己省察にもかかわらず、なぜか満州放浪に関する直接の記述がない。
わずかに「赤になって二十年も家を明けて、世界を放浪してゐた」(第一部P284)や、「海外に出てゐて徴兵延期になつてゐたと辻褄を合はせてゐた」(P287)、「若い時分に支那、満州、南洋方面を放浪してゐたために、徴兵が遅れたんです」(P373)という間接的な記述があるだけである。
家族関係に関する記述は比較的多くあるのに、なぜ満州放浪に関する直接の記述がないのだろうか。
「労働運動に関係する傷害事件」を直接の原因として満州に逃亡した、という赤裸々な告白は、昭和15年という軍国日本の状況下、一部は検閲削除さえあるこの書では言えなかった、とも言いうるが、むしろ言いたくなかった、のではないだろうか。
昭和16年から17年にかけてのマレー報道班員従軍で、井伏鱒二には「念入りな嘘」を混ぜて自己の経歴を語り、こころを許し合った堺誠一郎や栗原信にさえ、真実をうち明けてはいないのである。
作家生活の初期においては、徴兵忌避の追及から逃れるために真実をいえなかったのであり、徴兵忌避を自首して出た後は、「かつて僕を厚い友愛と同志愛で包んでゐてくれた人々に迷惑のかゝることを怖れる」(昭和10年5月1日、里村欣三の葉山嘉樹宛手紙)ため、また検閲のため言えなかったのである。
しかしこの状況下、里村のこころの最も奥深いところでは「若い放埒な時代を振り返へることも、彼には苦痛だつた。」(『第二の人生』P372)のである。間接的にしか書かなかったところにこそ、満州逃亡の秘密が潜んでいるのではないだろうか。
…………………………………………………………………………
以上が、「十ヶ月の刑を受けた、というのは満州逃亡期間そのものの比喩である」と考えた根拠である。今回、津留湊氏により、里村欣三(前川二享)の入獄(大正11年4月25日から同10月25日)記事の存在が明らかになった今では、この考えは誤りであった。
しかし、なぜ間違えたのかを振り返ってみると、大正11年6月下旬〜7月初旬の徴兵検査の時期には入獄していない、また刑期は、『第二の人生』第二部の「十ヶ月の刑を受けた」という記述から、六ヶ月という期間よりも十ヶ月間を念頭においていたからである。
今回の津留湊氏の発見は、どこで、どのような状態で徴兵検査が行われたのかは別として、里村欣三の徴兵検査が「労働運動上の傷害事件」による入獄中に行われた、ということを示しており、私の想定の外であった。
里村の徴兵検査が行われたことは、「以前の時は甲種合格だったが」という里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年7月10日付、浦西和彦著『葉山嘉樹』収載、昭和48年6月15日、桜楓社刊)その他で明らかである。個別的な事情により、徴兵検査の時期が前後することはありえないだろう。
仮に、獄窓から引き立てられて徴兵検査を受けたとするならば、「アナーキズムに心酔してゐる」「英雄気取り」(『第二の人生』第二部)の里村欣三でなくても、入営は耐えられないことであり、家族の事情を別にすれば、徴兵忌避、逃亡は十分に志向されることである。
朝鮮、満州の事情を知る中西伊之助と、日本交通労働組合(東京市電)、西部交通労働同盟(大阪市電)を通じて行動を共にし、また大正9年の日本社会主義同盟の設立発起人の一人として在日朝鮮人活動家と交友があったと推測される(当サイト考察「中西伊之助との関係」を参照ください)里村欣三にとって、満州逃亡は現実的な選択肢であったのである。
中西伊之助は、大正11年9月に、朝鮮を旅行し、読売新聞大正11年9月26日朝刊「よみうり抄」によると、「中西伊之助氏 朝鮮から帰京した」とある。
この中西の朝鮮旅行は、『汝等の背後より』(大正12年2月13日、改造社刊)の取材旅行とみなされるが、大正12年3月26日の、東京市電争議の判決確定による中西の入獄までの間に、中西が再度朝鮮を旅行した事実がないなら、「里村欣三」というペンネームの由来になった小説「奪還」(『早稲田文学』大正12年4月1日号)を、里村が満州に逃亡して不在中に、中西伊之助はどうして書くことができたのだろうか。
本当は、小説「奪還」にあるように、この中西の大正11年9月の朝鮮取材旅行に同行して里村が満州に逃亡した、と思いたいのだが、里村欣三の出獄が大正11年10月25日であれば、里村が単独で逃亡したのかもしれない。しかし、「奪還」との関係を考えれば、中西伊之助の9月の朝鮮旅行が、里村の満州逃亡の水路を切り開く目的を兼ねていた、と推測することは十分に可能である。
里村欣三が、大正12年初夏の、朴烈の思い出の中で、なに気なく、「金子[文子]さんは女学生のやうな袴を穿いて中西さんの『汝等の背後より』を手に抱えてゐた。」(「思ひ出す朴烈君の顔」『文芸戦線』大正15年5月号)と書いているのが、私には印象的である。
考察《労働運動上の傷害事件はあった!》へ
考察《里村欣三が神戸市電にいた》へ TOPページへ