◆文中の「並川」「兵六」は作中人物であるが、ここでは里村欣三と読み替えてください。
◆引用記事は、原文を引き写したが、旧漢字、拗促音、繰り返し記号、仮名遣いについては異なる場合もあります。
 また、原文の改行箇所は、引用の都合上、無視して追い込みにしました。
◆[ ]内、および(中略)(後略)は引用者の補足です。
◆著作等、作家活動については、この「人生の軌跡(年譜)」があまりに煩雑になるため、別に「著作リスト」「発表作品リスト」を作りました。参照してください。
◆記事の流れの関係で、一部、月日が前後して記載しているところがあります。
◆大正11年の徴兵忌避、満州逃亡前後の記述は、矛盾する記述(「逃亡兵」伝説)も取り上げています。従って総ての記述が里村欣三の実際の人生と合致すると見なしているわけではありません。ご了解ください。

         
西暦 月日 満年齢 記事 出典
1902
明治35
3月13日 0 里村欣三の本名は前川二亨ではなく、「二享」である。その名前からもわかるように、長男ではなく、父前川作太郎、母金の二男として明治三十五年三月十三日に生まれた。父の作太郎は、明治六年十二月四日生まれで、(中略)明治三十三年十一月二十八日に、谷金と婚姻を届出。(中略)母の金は、谷供美・志計の二女、明治七年十一月三日生まれで、士族の出身であった。明治四十年四月二十八日に広島市吉島村六七一番地の一で亡くなっている。里村欣三の満五歳の時であり、小説とはズレがある。父作太郎は、金の死後、(中略)再婚した。 「里村欣三の『第二の人生』」
『日本プロレタリア文学の研究』
浦西和彦
桜楓社
昭和60年5月15日
1902
明治35
3月13日 0 明治三十五年(一九〇二)三月十三日、岡山県和気郡福河村字寒河に父前川作太郎、母きんのニ男として生まれた。つづいて三男三省、長女華子が生まれたが、長男一顕、三男三省が夭折、つづいて母も亡くなった。里村欣三満五歳のときであった。父は間もなく再婚し、継母ひさとの間に次々に女五人、男三人が生まれた。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1902
明治35
3月13日 0 前川家は寒河の旧家で父作太郎は経木箱、寝具、鉄道の枕木等各種の卸業に携わり、中国鉄道の大株主でもあった。 加古浦歴史文化館
資料「里村欣三略歴」
1902
明治35
3月13日 0 陸軍少将(後に中将)の前川遜は里村の伯父であった。 『従軍作家里村欣三の謎』
高崎隆治
梨の木舎
1989年8月15日
1907
明治40
前後
  幼少の頃  母は幕末の老中板倉備中守に仕えた、備中松山藩の貧乏士族の出であった。母方の祖父は兄弟共に脱藩して新選組に加はり、時代の流れに抗して勤王党を斬って斬りまくった反動の壮士であった。(中略)世は明治維新になり、(中略)兵六が物心つく時分には母の実家は、その日の糧にも困るやうな有様であった。(中略)その頃祖母の家は備中の山の中の成羽町に逼塞の生活を送ってゐたが、兵六は毎年母に手をひかれ、古いガタ馬車に揺られて祖母を訪ねる習慣になってゐた。(中略)兵六は、毎年の夏、祖母をこの山国へ訪ねる度に、真っ裸で抜き身をさげて裏の川に飛び込み、石垣の奥に潜んでゐる鯰や鯉を見つけて突き刺すのを楽しみにしてゐた。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1907
明治40
前後
  幼少の頃 武士の血をひく母は、祖母と同じやうに厳格な躾けで兵六に臨んだ。(中略)母の前では温和しい、聞き分けのよい怜悧な子供であったが、一歩外へ出ると「手のつけられない」我儘な坊チャンだった。(中略)高い足場の上から、材木を挽いてゐる木挽の頭の上へ小便をひっかけたり、貯木場の筏の上で遊んでゐる子供を川の中へ突き落としたり、目も当てられない腕白振りだった。母は毎日のやうに菓子折を持って、兵六の尻拭ひに廻らされるのだった。そして家に帰ると、(中略)幼い兵六の肉體に仮借のない折檻を加へるのだった。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1907
明治40
4月 5 母の金は、谷供美・志計の二女、明治七年十一月三日生まれで、士族の出身であった。明治四十年四月二十八日に広島市吉島村六七一番地の一で亡くなっている。里村欣三の満五歳の時であり、小説とはズレがある。 「里村欣三の『第二の人生』」
『日本プロレタリア文学の研究』
浦西和彦
昭和60年5月15日
桜楓社
1907
明治40


(1909
明治42)
   5

(7)
 
兵六が七歳、妹スミ子が三歳の夏、彼等は母親を喪った。父はその頃、事業に失敗して広島市の郊外に逼塞してゐる時であった。太田川の白い磧が見晴らせる、藪にかこまれた、古い大きな家だったことを憶えている。その頃の父は未だ若く、洋服に脚絆草鞋穿きで、腰にピストルのケースをぶらさげ、荒くれた木挽や人夫を引き連れて、夏から秋へかけて、毎年のように中国山脈の深い山の中で暮らしていた。事業は駅弁当の折箱を製造してゐたのだが、それ以外にも材木の売買に手を出し、雪が消えると山の材木を買占めるために中国山脈の山々を跋渉するのであった。(中略)だが、間もなく父の事業は、みじめな蹉跌を見た。父は折箱の一部分を監獄の囚人に作らせてゐた。土地の新聞が(中略)高貴な人々が召し上るかも知れない駅弁の折箱を囚人につくらせるのは不都合だと書き立てた。(中略)一方、当時山陽鉄道株式会社と称してゐた山陽本線が、国鉄に買収されて、会社へ一手に納入してゐた鉄道用材の販路が他の資本家に奪はれ、駅弁の折箱の納入はいつとはなしに会社側から解約されてしまった。資本のない父は、みじめな破産の宣告を受けた。そして太田川の堤防上の藪のある百姓家に逼塞してゐるうちに、母を失う悲運をもう一つ重ねなければならなかった。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1910
明治43
前後
   8 若い父は、(中略)足手纏ひになる兵六と妹のスミ子を、故郷の家で留守居をしている姉に預けて、再起をはかった。(中略)兵六とスミ子は、O[岡山]縣の瀬戸内海沿ひの小さな村へ引取られた。父の故郷であった。未だその頃、父方の祖母が生きてゐて、半身不随の中風で寝たきりであった。伯母は(中略)日本赤十字社が創設された時の最初の看護婦で、若い娘時代を白衣で過ごした職業婦人であった。(中略)変質的に気位の高い伯母は、不幸な結婚生活の破綻によって、(中略)病的なほど愛憎の観念が酷烈で、看護婦生活で鍛えられた気狂いじみた潔癖性と、男勝りな激しい気性(中略)幼い兵六にとって、この伯母の出現は恐怖そのものであった。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1910
明治43
前後
   8 生母を早く失い、異母兄弟が八人という里村さんであった。(中略)父君は、二亨[享]・華子兄妹のために相当の財産を分けて、実妹に二人の養育を託された由で、経済的には問題なかったが、年少のころから肉親愛には恵まれず、妹さんと二人きりという寄り添った気持ちで成長されたようである。 『木瓜の実 石井雪枝エッセイ集』
石井雪枝
1990年6月29日
ドメス出版
1910
明治43
前後
   8 兵六たちは、父方の祖母が死ぬと共に、故郷を引払って、再び父の手に引き取られてゐた。父はその頃、O市にある私鉄会社に奉職して、若い後妻を娶りすでに三人の子女が生まれてゐた。若い時代の事業欲は醒め果て、次々に生まれてくる子供たちのために(中略)堅実なサラリーマンの生活振りに変わってゐた。(中略)継母は自分の生んだ子供だけを盲愛することしか知らない、無智な百姓生れであった。しかも気が強くて、けっして人前では涙すら見せないやうな母であった。兵六は家庭の冷たさを知り、家の外に楽しみを探すような『街の子』になってしまった。教科書には手も触れず、読み耽るのは小説類だけであった。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1910
明治43
前後
   8 幼少の頃より非常に本が好きで、押入に隠れろうそくの灯で本を読み、叱られることが度々という、文学少年であった。家が熱心な浄土真宗の信者であり、彼も幼くして母を亡くしたこともあって熱い信者であった。 加古浦歴史文化館
資料「里村欣三略歴」
1910
明治43
前後
  8 「随分、お若いお母さんなんですのね?」
「母には違ひありませんが、あれは継母ですよ。僕と十一しか年が違はないんですからね。(後略)」
『第二の人生』
里村欣三
昭和15年4月16日
河出書房
1914
大正3
3月26日 12 明治四十五年四月一日に福河尋常高等小学校(現在、日生町立生東小学校[備前市立日生東小学校])に入学し、大正三年三月二十六日に同校を卒業した。同校に保存されている成績簿には「入学前ノ経歴」として「本校ニ於テ尋常科第三学年終了。岡山市立弘西尋常小学校ニ於テ第四学年終了」と記されている。 「里村欣三の『第二の人生』」
『日本プロレタリア文学の研究』
浦西和彦
桜楓社
昭和60年5月15日
1916
大正5
4月 14 寒河小学校卒業時、家族の強い希望で幼年士官学校を受験するも、白紙答案を出し入学を拒否す。そして岡山関西中学校へ進学。 加古浦歴史文化館
資料「里村欣三略歴」
1916
大正5
  14 里村氏は父の家から私立関西中学に列車通学をしていたが、このころすでに文学に興味を持ち、近所の子供たちに作文を書かせてそれを綴じて回覧雑誌を作ったりした。父はこれを喜ばず、(中略)里村氏を軍人にしようと考え、三年つづけて陸軍幼年学校を受験させた。里村氏はいやいやながら試験だけは受けたが三度とも白紙答案を出し(中略)、このころから次第に父に対して反抗的になっていった。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1916
大正5
  14 里村君は(中略)田舎の中学校の一年生の時から新聞配達をして苦学してきた人で、『靴が買へんものだから、夏は跣足、冬は藁草履をはいて新聞を配ったものさ。朝の四時起きといふのは流石につらいね。靴も欲しかった。マントも欲しかった。──学校へ行くってことは学問をするよりも、欲望を刺戟するんで途中で止めてしまった』 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1918
大正7
8月 16 米騒動(中略)岡山県内では八月九日に美作方面で騒ぎが起こり、翌一〇日には備中方面へ波及、倉敷では一、〇〇〇余人の群衆が米穀商を襲撃し(中略)岡山市では八月十三日夕刻から暴動が起こり暴徒と化した群衆が米穀商や富豪の家などを襲い、一時は無警察状態に陥り、軍隊も出動して十五日朝までには鎮圧された。 『目でみる岡山の大正』
岡山文庫124
蓬郷巌監修
昭和61年10月10日
日本文教出版株式会社
1918
大正7
9月8日 16 「米騒動」論を述べる無駄を指弾してはならない。いわゆる関中ストライキも一面で通ずる点があるのだ。(中略)関中ストライキも、山内[佐太郎]校長擁護が主目的であったのだが、(中略)この当時は、社会のいたるところでストライキが流行であり、一種のお祭り的な要因が強く、(中略)ストライキを起こして、楽しんでいたかの如き風潮があった。 『関西学園百年史』
昭和62年10月25日
学校法人関西学園
1918
大正7
9月8日 16 山内退任反対運動については、思想・信条を超越して校長の恩愛に対する生徒の絆が太く、強く、撚り合わされる。(中略)大正七年九月八日、第二学期始業式の日。(中略)名物校長の姿が無いままに始業式を終る。解散を告げようとした瞬間、五年生の級長が山内校長不在の理由を大声で問う。教頭の答弁の歯切れが悪い。生徒は騒然となる。他の上級生が「講堂で集会を開こう」と叫ぶ(中略)構内の塀にそって、模擬銃を杖にした上級生運動部員が、一〇メートル間隔くらいで、脱走生徒を妨げる。(中略)講堂の全校生徒集会において、(中略)次の三か条を要求として採択し、最高学年の有志団に全権を委任した。
1 山内校長不在(退任?)の理由を質す
2 校長が明石に去られたとすれば、その経緯を質す
3 校長反対派の職員十一名を指名し退任させる
(中略)教頭らとの交渉の結果、「一〇月末までにはおおよそ吾々生徒側の要求どおりにする事になった」と、午後一時半頃講堂の生徒全員に報告があった。
『関西学園百年史』
昭和62年10月25日
学校法人関西学園
1918
大正7
11月30日 16 同年一〇月末になっても何らの変化の見られなかったことに対し、(中略)四年生が中心となって(中略)一一月三〇日に「問題は自らの実力で解決する以外に道なし」と、行動を起こしたと言う。この時に警官隊の出動による解散命令で、遁走した、と伝えられている(中略)この事件の重要な役割を果たした「上級生」の中に作家の里村欣三(本名・前川二享)がいた。 『関西学園百年史』
昭和62年10月25日
学校法人関西学園
1918
大正7
11月30日 16 先輩たのむに足らず、問題は自らの実力で解決する以外に道なし。一気に全校ストライキに訴えて解決すべし」こうして梅島らは、その決行日を、市内の誓文払がはじまる十一月三十日ときめた。その前夜、梅島はうちに謄写版をもちこみ、煽動ビラを刷り、激越なスト宣言を書く。当日、(中略)待ちかまえていた同志の仲間(四年─犬飼寿吉・土生力吉・坪田治郎・(中略)前川二享・(中略)三年─真野律太・房延泰など)に、ビラや檄文を渡し、行動について指令する。(中略)教師たちは本館二階の教員室に追い上げられて、カン詰になり、生徒たちは全員講堂に集められていた。一方、闘争団の行動隊は、前川二享が、二、三日前、授業中にことをかまえ、上田教頭のポケットからくすねた鍵で銃器庫を開け、そこから持ち出した三八銃(中略)に着剣、武装して正門(中略)といわず、すべて隙間ある場所にはピケに立ち、パトロールを行なった。そして、その認めないものは出入を禁じ、完全に全校を封鎖してしまった。(中略)そして場合によっては、夜、校舎に放火も辞せずと、講堂外に腰掛をつみかさねさえした。まことに物騒千万な計画だった。 「垣間見た歴史の一瞬──総社の米騒動と関中ストライキ」
岡一太
『岡山の歴史地理教育』第5号
1972年7月
岡山県歴史教育者協議会
1918
大正7
11月30日 16 4年の時有名な関西ストライキが起こり、二享は校長擁護派の先頭に立ち武器倉を開放、学生を武装させ学校に立て篭もった。警官隊が出動し解散となったが、首謀者二享ら3名は退校処分に。 加古浦歴史文化館
資料「里村欣三略歴」
1918
大正7
晩秋 16 [数え]十七八の頃であつたと記憶する。落莫の秋を、私は備後路を放浪してゐた。手足が自由にならない程に、朝晩の寒さが身に沁みて、時には霜をみる朝さへあつた。(中略)その地方に多い栴檀の落葉が、たゞさへ無気力になりかゝつた流浪の私に、はらはらと雨のやうに脆く降り注いで、放浪の終末を告げ、限りない絶望に追ひ落さずにはゐなかつた。(中略)福山から小さな軽便鉄道が通じてゐる、坂道の多い街道を傳つて、藍汁が流れ放題の(中略)山間の町、そして戸毎々々に機織の音がする町─福山から五里か十里ばかり離れた町に踏み込んで、それから鞆の港に引き返したのであつた(中略)今でも鞆の港も海の色の美しさだけは、はつきりと思ひ出せる。町の裏に寺があつた。その寺の石崖は海のなかにそゝり立つて、ひたひたと深い波の色に洗はれてゐた。(中略)私はその深い紺碧の清澄な波の色に見入つてゐると、ふと出し抜けに自殺したくなつた。(中略)人生を生き抜ける自信はまるでなかつた。 「放浪病者の手記」
里村欣三
『中央公論』
昭和3年5月号
1918
大正7
晩秋 16 [妹の]華子さんが長い間持っていた里村氏のその頃のノートには、文学にかんすることや若い母に次々に子供を生ませる父と継母の不潔さだとか、死へのあこがれの文字が多かったという。事実そのころ海にとび込み自殺を試み、未遂に終わったこともあった。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1919
大正8
4月 17 私立関西中学校(現在関西高等学校)に入学したのは大正四年四月八日であり、同校の「大正七年退学者名簿」によると、(中略)大正七年十二月三十一日に「除名」となっている。(中略)関西中学校を退学処分された里村欣三は、翌年の大正八年四月十七日に私立金川中学校(現在岡山県立金川高校)に第四学年無試験で入学したが、同校の大正九年作成の『中途退学・除籍者名簿』によると、わずか二ヵ月後、大正八年六月十日に除名処分を受けたのである。その処分理由の記載はない。 「里村欣三の『第二の人生』」
『日本プロレタリア文学の研究』
浦西和彦
桜楓社
昭和60年5月15日
1919
大正8
4月 17 新任の中学校校長排斥ストライキを組織して退校させられ、県立金川中学に転校したが家から貰った月謝も納めず学校に行くふりをして図書館にこもって社会主義の本や文学書を乱読した。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1919
大正8
6月10日 17 金川中学に転校するも、日々図書館通いですぐ退校。 加古浦歴史文化館
資料「里村欣三略歴」
1919
大正8
6月10日 17 この間に二度中学を退校された。一度はどこにも起きる種類の学校騒動のために、二度目は学生の風紀を紊した不良行為のためであった。もうこの頃、兵六はすでに女を知り、遊里に足を踏み入れてすでに悪い病気に感染していた。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1919
大正8
6月10日 17 萬成山の麓が、彼を退校処分にしたK中学校の所在地だった。(中略)若い夢み勝ちな青年たちを、あのやうに熱狂させた理想は、今どこに在るのであらうか? 彼等は自由の戦士を自任し、個性の解放のために学業を放棄し、両親の反対を押し切り、あるものは新劇に、あるものは左翼運動に、あるものは文学に、理想の灯を掲げて道案内もなしに荊の道を選んだのであった。 『第二の人生』
第一部
里村欣三
昭和15年4月16日
河出書房
1919
大正8
  17 父は兵六に失望した。その失望した気持が、父と子を疎隔せしめ、家庭の不和を拡大した。この複雑な腐り切つた家庭の空気の中で、(中略)母方の祖母が刀を送って寄越して、兵六に自決を迫つた事件を最後にして、兵六は家を出てしまつた。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1919
大正8
  17 この日の衝突が父との交渉の最後であつた。彼は二三日の後に父が持株の払込金のために銀行から引き出していた金を、家族の油断を見澄まして持ち出し、そのまゝ家族の前に二十年間姿を見せなかつた。金は七百円以上あった。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1919
大正8
9月 17 大正8年9月3日、(中略)日本交通労働組合が創立された。(中略)発会式は理事長に中西伊之助を推し綱領、結成宣言、組合規約、運動方針、役員等を決定した。 『都市交通20年史』
昭和42年6月1日
日本都市交通労働組合
連合会刊
1919
大正8
  17 俺はかつてゴム靴の工場で働いたことがある。一日中、重い型を、ボイラーの中に抛り込んだりひきづり出したりして一分間の油も売らずに正直に働いた。そしてその上に、馘になるまいと思ってどれだけ監督に媚びへつらったのだったか! 「苦力頭の表情」
里村欣三
『文芸戦線』
大正15年6月号
1919
大正8
  17 姫路のある工場でのストライキに破れて、私は解雇された。即日工場の寄宿舎から警官立會の下に、まるで野良犬のやうに容赦なく雨のなかに叩き出された。賃金増額の要求を起こした程だから、一文の貯のあらう筈はないし、それに何處と云って寄辺のある譯はなし、仕方なく五十圓ばかりの解雇手当を懐にして神戸の同志を頼って、その夜のうちに姫路駅を発ったのだった。 「放浪病者の手記」
里村欣三
『中央公論』
昭和3年5月号
1919
大正8
  17 同志は私に神戸で仕事を求めて、自分たちの全力を尽くしてゐる組合組織の運動に参加してくれないかと、しきりに奨めた。(中略)毎日、子守がはりに同志の長男を連れて工場から工場に仕事を求めて歩いた。だが、どこでも成功しなかった。四日、五日、六日………しまひには遂ひに憂鬱になり切って、暇な毎日の大部分を公園にぶらついたり、活動を見て過ごした。(中略)私の解雇手当は、三圓五圓と無理矢理に同志の妻君の懐に捻じ込まずには済まされなかった。その結果、私はまた元の無一文に帰ってしまった。 「放浪病者の手記」
里村欣三
『中央公論』
昭和3年5月号
1920
大正9
晩冬
または
早春
17 まだ春には早かった。(中略)大阪の三宮で桂庵に飛び込んだら、一圓の手数料を捲き上げられて、一本の紹介状を奈良の旅館宛に書いて呉れた。(中略)私はもう懐に、その一圓を置いては幾らも残ってゐなかった。が、私は忽ち暗がり峠を奈良に越える決心をした。徒歩で、しかも下駄履きで──(中略)山をくだって、遠く奈良の街の灯を眺めた時には、飢えと疲労にぐったり弱り抜いてゐた。水藻の匂ひのする池の水を鱈腹のんで、そのまゝ空家に忍び込んで寝た。都跡のどこかの貸家であったと記憶する。翌くる朝、奈良の街に入って、桂庵から紹介状をつけられた驛前の旅館に行くと『(中略)そりゃ、あんたはん去年のことやな。今頃ひとはいりやへん。(中略)』 「放浪病者の手記」
里村欣三
『中央公論』
昭和3年5月号
1920
大正9
晩冬
または
早春
17 遊郭のある裏通りで羽織を売り飛ばして、朝飯を詰め込んだ。そして人間らしい気持になって、若草山の麓に寝轉んだ。(中略)ふと頭をあげると、お客にあぶれた法界屋が、その娘らしい踊り子と二人で私のすぐ近くに座り込んで、袂から焙豆を取り出して食ひ散らしてゐた。(中略)『一つ踊ってみないか。姐さん!』(中略)まだ芽をふかない若草山。照ったり雲ったりする、肌寒い空。それに憂鬱な流浪の男の散財。(中略)お蔭で私はその夜、公園内の建築中の空家に一夜を明かさなければならなかった。(中略)その日は、帽子と手袋を売って、焼芋を喰った。そしてそれきりだった。図書館が開くのを待って、半日ボーと眼が霞んでしまふまで小説を読み耽った。(中略)その夜も建築中の空家に寝た。飢餓が極端に進むと、思考力も判断力も痺れ切ってしまふものだ。(中略)『開けろ』誰かが怒鳴って、圍ひを蹴倒した。(中略)警官だ!(中略)遂ひに拘留二十九日!だが、私は救われたのだ。腹さへくちくなれば、人間にはいい分別が湧くものだ! 「放浪病者の手記」
里村欣三
『中央公論』
昭和3年5月号
1920
大正9
2月または3月頃 17 金のある間中、彼は大阪、京都、奈良と遊び歩き、持金を使い果たして東京に出ると、自活のため市電の車掌になった。大正八年、兵六が十八歳[数え年]の時だつた。彼が市電の車掌を選んだのも、ロシア文学の影響からナロードニキ運動に興味を持ってゐたことも原因してゐた。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1920
大正9
4月 18 東京市電の大ストライキは、言語に絶する大弾圧の結果争議団の敗北に終り、4月30日から運転は平常に復した。(中略)馘首されたもの328名、投獄されたもの83名、起訴されたもの34名に達し、(中略)組合の活動は一時的に麻痺してしまった。なお、争議直後の5月2日、わが国最初のメーデー(東京上野公園)には、友愛会、信友会などの組合と共に、日本交通労働組合も堂々と参加している。(中略)同年12月には、日本社会主義同盟が結成され、(中略)日本交通労働組合も、これに参加した。 『都市交通20年史』
昭和42年6月1日
日本都市交通労働組合
連合会刊
1920
大正9
9月 18 同盟[日本社会主義同盟]の成立は、山川均氏の発意と努力に成れるもので、その正式の発起人としては、荒畑勝三、麻生久、赤松克麿、布留川桂、橋浦時雄、服部濱次、岩佐作太郎、加藤一夫、加藤勘十、京谷周一、近藤憲二、水沼辰夫、前川二享、延島英一、大庭柯公、小川未明、岡千代彦、大杉榮、堺利彦、島中雄三、高畠素之、高津正道、田村太秀、植田好太郎、和田巌、渡邊満三、山川均、山崎今朝彌、吉田只二、吉川守邦等の名が連ねられた。 「労働運動の復興期」
荒畑寒村
『社会科学』(日本社会主義運動史)
昭和3年2月1日
改造社
1920
大正9
 12月  18 [日本社会主義同盟・地区別名簿ノート「麻布区及び市外」の「渋谷付近」に記載あり
 「武井」は日本交通労働組合(東京市電)本部研究部長・武井栄]
前川二享  下渋谷六一四 武井方
「日本社会主義同盟名簿」原本
大原社会問題研究所所蔵
1920
大正9
 12月  18 創立と同時に解散させられた社会主義同盟の記念写真には、創立者の一人として別名でうつっている。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1920
大正9
12月 18 大正九年五月(中略)社会主義運動と労働組合運動との関係いよいよ密接となり、一方幾多の社会主義団体が各所に組織されるに及んで、これ等を大同団結する運動が起り、『社会主義同盟』組織する。[十二月]八日に発起人会が開かれ、十二日[十日]創立大会を神田に開いたが、直ちに解散を命ぜらる。(中略)大正十年五月 (中略)日本社会主義同盟第二回大会神田に開かる。これ又解散を命ぜられ、続いて政府は其の結社を禁じた。 『文芸戦線』
昭和3年5月1日
1921
大正10
2月 18 第一次「種蒔く人」(大10.2刊)は[小牧近江が]同じ秋田県土崎町出身の金子洋文とはかって、主として近江谷一族を中心として、それに同郷の今野賢三、金子の友人の山川亮を加えて、小規模にはじめた(後略) 森山重雄
『序説転換期の文学』
1974年1月31日
三一書房
1921
大正10
2月25日 18 [リーフレット『暁鐘』を発行]
北豊島郡西巣鴨町池袋九五五 石澤方
発行編輯兼印刷人 前川二享
石巻文化センター所蔵“「布施辰治関係資料収蔵品目録II」東京市電争議関係”
資料No.845
『暁鐘』
1921
大正10
3月 19 [片岡重助、山口竹三郎らとガリ版刷リーフレット『交通労働者団結之革命』を発行、全国交通運輸労働者同盟を設立]
 宣 言
 中西伊之助氏を始め『日本交通労働組合』の名を悪用し組合運動を堕落せしめつつある徒輩を排斥除外す
  大正十年三月
    日本交通労働組合本部実行委員
             武井 栄    山口竹三郎
             前川二享    片岡重助
             平野寅二    佐野左江
                (実行委員八名中六名)
石巻文化センター所蔵“「布施辰治関係資料収蔵品目録II」東京市電争議関係”
資料No.846
『交通労働者団結之革命』
1921
大正10
5月頃 19 [東京]市電第一次の争議に敗れ、大正十年には神戸市電に再び車掌となつて潜入し、組合の組織運動に従事 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1921
大正10
6月・7月 19 [神戸で三菱、川崎造船所大争議]
これは、三菱、川崎両造船所の労働者を中心に、神戸地方におこった一大共同闘争であり、相つぐ示威運動は、同地方を戦場のごとき事態と化したものであった。すなわち、10年6月25日、三菱内燃機神戸工場の一部労働者は、(中略)賃金値上げほか九項の嘆願書を提出した。(中略)29日、機械工場でははやくも怠業に入った。(中略)川崎造船所電気工作部の労働者は(中略)労働組合加入の自由、解雇退職手当に関する要求その他を提出(中略)[7月]8日になると、川崎全工場(分工場も)はストライキの状態に入り、三菱全工場は閉鎖された。(中略)10日、三菱、川崎の争議団3万に加うるに、神戸印刷工組合、東神鉄工組合、関西労働同盟会、その他友愛会所属の各組合あわせ3万7,000(5万ともいわれた)のわが国未曽有の大示威運動が、神戸労働組合連合団主催のもとに敢行された。(中略)川崎造船の労働者は工場管理を宣言した。こうなると、神戸市は階級線の戦場である。警察はついに、爾後の示威運動を禁止すると通達してきた。歩兵39聯隊から派兵された特設部隊が、神戸に駐屯しはじめた。
『日本労働運動史』
細川松太
1981年7月30日
鼎出版会
1921
大正10
10月 19 第一次「種蒔く人」は三号で廃刊になり、大正十年十月に村松正俊・佐々木孝丸・柳瀬正夢・松本弘二を加えて発刊された第二次「種蒔く人」が、(中略)平林初之輔・津田光造・松本淳三・青野季吉・前田河広一郎・中西伊之助などを加えて、日本のプロレタリア文学運動の最初の組織的機関誌となった。 森山重雄
『序説転換期の文学』
三一書房
1922
大正11
3月16日 20 [西部交通労働同盟(大阪市電)発会式に前川二享(里村欣三)が応援演説]
[2月]廿六日夜盛会裡に第二回結束演説会が開催され、日本交通労働組合より中西伊之助氏来援するに及び大いに気勢を揚げ、遂に五百名の加盟申込を見るに至り、三月十六日午後六時より築港高野山で発会式を挙行するに決した。然るに当日に至って高野山より本堂貸与を断られ、遂に詮方なく土佐堀青年会館に於ける電業員組合主催の大電争議批判演説会と合併し発会式を挙げんとしたが、警察官憲の圧制のため僅に五名の弁士が登壇を許されたのみで意を果すことが出来なかった。藤原麻芳氏は組合をペストの様に怖れる市電には何か後暗い処があるだろうと皮肉り、田島吉藏氏は市電では我等の初任給を六十五円と発表しているが之を得んには一日に三十八時間も働かねばならぬ実情だと素ツ破抜き、天王寺の吉田監督が何か言ったと云うので満場総立ちとなり、吉田の茶瓶を殴れ叩き殺せなどと絶叫して殺気立ったが漸く無事なる得、次で神戸市電の前川二享氏神戸にも拵へるぞと声援し、最後に中西伊之助氏の激越な演説があった。此夜南海沿線の木津の一従業員宅に於て、数十名の従業員により密に発会式が挙行されたのであった。
『交通労働運動の過現』
長尾桃郎ほか著
大正15年6月30日
クラルテ社
1922
大正11
4月25日 20 懲役六ヶ月 神戸前川二亨[享]君
  四月廿五日下獄  十月廿五日出獄
前川君が何故投獄されたかといふに、神戸の市電を馘首されたので運輸課長に抗議をし再入職を要求したが其ゴマカシ的謝絶を聞くや何だ此野郎と、其横ツ腹を刺し、殺人未遂で起訴されたが、結局脅迫罪と宣告されたのであるさうな
『労働週報』
大正11年7月19日(通巻第17号・第3面)
復刻・1998年10月9日 不二出版
1922
大正11
  20 神戸市電に再び車掌となつて潜入し、組合の組織運動に従事しているうちに、当局の弾圧に腹を立てゝ、時の電車課長を襲って短刀で斬りつけた。直ぐ現場で取押さへられて警察へ突き出され十ヶ月の刑を受けた。西欧文学の影響からスチルネルの個性主義と、クロパトキンのアナーキズムに心酔してゐる頃であつた。十ケ月の刑が、その後の彼の生涯にどのような障害になるかも考へず、若いアナーキストは英雄気取りで十ケ月の刑を終へた。その頃──母方の祖母はまだ兵六の改悛を信じて日頃信仰する不動尊に日参してゐた。その祖母の耳へ、いつとはなしに兵六の入獄が傳へられた。祖母の希望は寸断された。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1922
大正11
  20 伯母志牙(父の姉)の息子が大阪にいてこのことを父に知らせ、弁護士をつけるように勧めたが、父はこらしめた方がいいのだと言って相手にしなかった。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1922
大正11
  20 里村と云ふ男は、妙にいんぎんなところもあるが、またがむしやらな男だ(中略)里村て男は、やつぱり野放しの労働運動でもやらせて置く方がいゝと思つた。あの男は大阪で『控訴なんかめんど臭い!』と云つて、一審で六個月を頂戴した程だが、近頃はだいぶ野性が抜けて来た。 中西伊之助
「Yに贈る手紙」
『文芸戦線』第三巻第八号
大正15年8月1日
1922
大正11
  20 彼が、前川二享という本名を捨てるに至ったのは、関西学院退学後らしい。彼が「文芸戦線」に書きかけてやめた「デマゴーグ」といふ小説には一番先に、電車が人をひくことが書いてあつて、(中略)彼はのちに、神戸で市街電車の車掌をやったとちらりとはなしたことがある。とすれば、関西学院を中退して車掌になった時社会主義同盟の結成があり、それに加わつたものだらう。徴兵検査に合格して姫路の連隊に入営したのはその車掌時代であるらしい。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1922
大正11
  20 徴兵検査に合格して姫路の連隊に入営したが、脱営し、上海に逃亡。何年か経って、入水自殺したことになって、戸籍は抹消された。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1922
大正11
  20 もともと彼は、逃亡兵で、自殺したやうに見せるため、海岸に軍服や靴を置いてうまく追跡をのがれてゐる人間だつた。その後戸籍は抹消されていた。 『女は誰のために生きる』平林たい子
昭和32年1月25日
村山書店
1922
大正11
6月か7月 20 里村君は徴兵検査も受けずに反戦思想を遵奉してゐたらしいが、 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1922
大正11
6月か7月 20 以前の時は甲種合格だったが、こんど[昭和10年自首=徴兵再検査]は蓄膿があったので、第二乙種で済みました。(後略) 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙
昭和10年7月10日
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1922
大正11
6月か7月 20 大正十一年満二十歳を迎えた氏はひょっこり郷里に帰ってきて徴兵検査を受けたが、甲種合格、翌年二月には岡山輜重兵第十七大隊に特務兵として入隊せねばならぬことになった。しかし検査が終わるとすぐ郷里をとび出した氏は、年が明け入隊当日になっても姿を現さなかった。父作太郎は「たった二ヵ月ぐらいの辛抱だから(当時輜重兵特務兵の入隊期間は五十五日だった)きっと現れるにちがいない」と言ってまる一日営門のそばに立って氏を待っていたという。しかし氏は姿を見せず、その日以来、実家には毎日のように憲兵や警官がやって来ては氏の行方を追及しはじめたが、氏の行方は杳として知れなかった。父作太郎はこのことに責任を感じて岡山市警防団長の職を辞した。華子さんの話では、このときすでに氏は満州に渡っていて、金もなく帰って来られなかったのではないかというのである。(中略)翌日念のため岡山市に行って県庁の中の民政労働部援護課を訪ねた結果、「在郷軍人名簿(和気郡福河村)」という古い綴じ込みの中に(前川二享、大正十二年適齢者所不、昭七年失踪の宣告、昭一〇所在発見)という字を読んだ。所不というのは所在不明ということで、当日氏が入隊すべき日に入隊しなかったことを示している。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1922
大正11年
  20 堺誠一郎氏(元日本文芸家協会書記長)の研究によると、大正十一年に甲種合格になったが入営日にも姿を見せず、満州奥地に逃げた。 「ある左翼作家と戦争 里村欣三のこと」「毎日新聞」
昭和58年4月11日夕刊
(徳)の署名あり
1922
大正11
  20 「三重苦、つまり何だなあ、特高、憲兵、オレの昔を知る奴らとの三つだ。オレを左翼作家だと見ているのが特高。徴兵忌避者というのが憲兵、軍ということになる。脱走兵説も郷里では流れている。忌避であれ、脱走であれ、天皇の軍隊を拒否したことに変わりないからなあ。」(中略)徴兵忌避か脱走か、(中略)里村はそのいずれかの結果をついにしゃべらなかった 『大本営派遣の記者たち』
松本直治
1993年11月20日
桂書房