西暦 月日 満年齢 記事 出典
1919
大正8
10月 17 朴烈が、東京に現れたのは一九一九年(大正八年)十月である。(中略)渡日後の朴烈の足跡は、茨の道であった。新聞配達人、製ビン工、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちん棒、それから中央郵便局の集配人をしばらくやった。集配人をやったころには、すでにアナキストになっていたようである。 『朴烈』
金一勉
1973年9月1日
合同出版
1921
大正10
  19 朴烈が、まず敏感に感じとったのは日本の社会風潮であった。(中略)米騒動いらい、社会主義思想が風靡していて、のちにこの風潮は“大正デモクラシー”または“大正革命時代”と呼ばれる。(中略)こうして朴烈は、おなじく反逆の炎に燃えた日本人の同志を多く知ることになった。有名なアナキスト大杉栄の影響を受けたのはいうまでもない。(中略)岩佐作太郎と中西伊之助とも懇意な同志となった。 『朴烈』
金一勉
1973年9月1日
合同出版
1922
大正11
2月 19 私はそれから、朴烈について色々のことを鄭に訊ねた。鄭の云ふところによると、彼は今まで人力車夫や立ちん坊や郵便配達や人夫なぞをして居たが、今は別にこれと云ふ職がなく、たゞ一晩々々と親しい友人の處を泊り歩いて過ごして居るらしかつた。 増補決定版
『何が私をかうさせたか』
金子ふみ子
1972年10月20日
黒色戦線社
1922
大正11
2月 19 大正十一年二月頃被告両名[朴烈、金子文子]相知ルヤ互ニ其思想ヲ語リテ意気投合スルモノアリ 『何が私をかうさせたか』
金子ふみ子
1972年10月20日
黒色戦線社
1922
大正11
3月 19 朴烈が「岩崎おでん屋」へ立ち寄ったのは三月上旬、(中略)こうして、朴烈と金子文子は出会ったのだが、当時の朴烈には、服装はみすぼらしくとも不屈の気魂があり、どことなく王者のような貫禄があったという。 『『朴烈』金一勉
1973年9月1日
合同出版
1922
大正11
  19 文子は古い“主義者”のおでん屋岩崎善右門のところにいた。有楽町かいわいで有名だったおでん屋“岩崎”は、ヤマカン横町にあった。ヤマカン横町は、かつてわたしの勤めていた正信堂新聞店のあったところであり、新興文学社もその正信堂にしばらく居候をしていた。そんなかんけいで、わたしは“岩崎”をしり、文子をしっていた。文子はそこで給仕女をしていたが、ちょっとでもヒマがあると、“ナショナル”のリーダー(英語)の勉強をしていた。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1922
大正11
4月 20 イギリス皇太子訪日のあおりで、淀橋警察署で十六日間の拘束を受けた朴烈は出所した四月末、文子と同棲生活に入った。文子が見つけた家は、府下荏原郡世田谷町(現在、世田谷区)池尻の相川新作という下駄屋の二階の六畳間で、間代は月十円である。 『『朴烈』金一勉
1973年9月1日
合同出版
1922
大正11
9月7日 20 信濃川に電力開発事業があって、朝鮮の労務者が何人も工事中に死亡しました。それで、朴烈などを先頭とする朝鮮人有志が、「人道上許せない。講演会を開くから応援してくれ」というのです。“種蒔き社”も、“朝鮮人問題特集”を出そうと思っていたのでしたから、会場費を集めてやりました。この時、私は、むりやり生れてはじめて、演壇に立たされました。朝鮮人たちの演説は、どれもこれもものすごく熱烈なものばかりでした。 『ある現代史』
小牧近江
昭和40年9月
法政大学出版局
1922(大正11)
10月末〜
1923(大正12)
5月頃
20

21
(推測=里村欣三、この間、第1回目の満州逃亡、放浪) 当サイト「考察」参照
1922
大正11
  20 ちよつと一列車遅らして、名高い鴨緑江の流を見るつもりで安東に下車した。が、いざ雨に洗はれた駅前の清々しい廣場に佇んで、楊柳の青葉越しに聞こへてくる櫓の音に耳を澄ましてゐると、(中略)私と李君とは、プロレタリア運動者が淫売を買うことの可否に就いて、悲しい論議をつゞけながら雨に洗はれた街を歩いた。(中略)女から與えられた接吻を最後の思ひ出に断食の儘私は、北満への汽車の旅をつゞけて行つた。無論、長い面を車窓に撫でる李炳君と一緒であつた。 里村欣三
「河畔の一夜」
(放浪挿話その一)
『文芸戦線』第二巻第七号
大正14年11月1日
1922
大正11
  20 ──無鉄砲な男よ──ふとこんな気がした。言葉も解らない、そして何の的のある訳でもないのに、何故かういふ土地に乱暴に飛び出して来たかと思つた。(中略)気の向くまゝに放浪さへしてゐれば、俺には希望があつた。光明があつた。放浪をやめて、一つ土地に一つ仕事にものゝ半年も辛抱することが出来ないのが、俺の性分であつた。人にコキ使はれて、自己の魂を売ることが俺には南京蟲のやうに厭だつた。(中略)悲しい不幸な病である。俺はいつかこの病気で放浪のはてに野倒れるに違ひない。(中略)
眼がさめると夕暮であつた。五月といふのに薄寒むかつた。俺は支那街の、薄汚い豚の骨や硝子のカケラの転がつた空地に寝込んでゐたのだ。(中略)考へてみると淫売宿で三日三晩ろくすつぽ飯も喰つてゐなかつた。
里村欣三
「苦力頭の表情」
『文芸戦線』第三巻第六号
大正15年6月1日
1923
大正12
  21 「神がかりと笑っちゃいかんぞ。オレ星占いをやるんだ。これでもな。満州を放浪して姑娘に習ったが、これがまた奇妙にあたるんだ。」 『大本営派遣の記者たち』
松本直治
1993年11月20日
桂書房
1923
大正12
3月 21 [金子文子第四回被告人訊問調書]
大正十二年三月頃私等ハ同府多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷千四百七十四番地ニ移転
「朴烈・文子事件主要調書」
『続・現代史資料3アナーキズム』
1988年7月30日
みすず書房
1923
大正12
5月 21 朴烈と文子が代々木富ヶ谷の一軒家を借りて移ってから不逞社の同人も急に増えた。(中略)そして『現社会』第二号(『不逞鮮人』からの通巻では第四号)の刊行にとりかかった。(中略)今度借りたのは二階家だったので何人でも泊ることができた。(中略)仲間がゴロ寝して議論しあい、食物があればともに食い、なければくわないという式であった。(中略)小川武は漫画家であった。それまでに壁に張った悲憤慷慨の文字のかわりに、小川が真赤な絵具で大きなハートを描き、その左右に墨で太く大きく《叛逆》と書いて張りつけた。しいていえば、このハートと《叛逆》という文字が不逞社仲間の意思であり、暗黙の綱領というべきものだったのかもしれない。二階の窓を開けると、道路から壁の文字が見え、いやおうなく道行く人の目に触れたという。 『朴烈』
金一勉
1973年9月1日
合同出版
1923
大正12
7月 21 [大正15年3月25日、朴烈・金子文子に死刑の宣告]
その帰り電車で、隣席の男が新聞をひろげてゐたのを何気なく覗くと、三段抜きの朴烈君の断罪記事が、ハーッと胸をかき裂いた。(中略)一面識をもつ朴烈夫妻の今日の断罪を聞いてぢッとしておれない。(中略)朴君はニヤニヤと笑ってゐる。その背のところには、富ヶ谷のあの二階の壁に書き投った赤い字の××歌と、血のたれる心臓を短刀で貫いた落書きがある。『おいめしでも喰へよ』朴君がさう親しげに言ひさうである。鱒の乾物とバサバサした麦飯をよく嗜はしてくれてゐたが……(中略)夏の始めであつた。(中略)朴君と金子文子さんと私と三人で、いつものやうに麦飯を食つた。そして三人で澁谷の終点に出た。金子さんは女学生のやうな袴を穿いて中西さんの『汝等の背後より』を手に抱えてゐた。よく笑つて歯切れのいゝ調子で快活に話す人であつた。(中略)いま考へると、それが最後であつた。
思い出す朴烈君の顔
里村欣三
『文芸戦線』第三巻第五号
大正15年5月号
1923
大正12
  21 前田河広一郎の家は、梁山泊といったおもむきがあった。(中略)梁山泊には毎日そのころのアナやボルの若い“豪傑”たちが、たむろするように集まった。(中略)そのころ、前田河がすんでいた雑司ガ谷には、平林初之輔、本間久雄、藤森成吉、小川未明、秋田雨雀らが、ちょうど適当なかんかくをおいてすんでいた。(中略)雑司ガ谷めぐりがたのしみであり、とくに前田河の家へいくのが、たのしみだった。吉田金重、内藤達雄、壺井繁治、川崎長太郎、岡本潤、工藤信、飯田徳太郎、岡下一郎、新島英治、川口敬介……こういう連中の顔を、わたしは、今もすぐ思いうかべることができる。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1923
大正12
  21 小石川の雑司ヶ谷町といえば、私が最初に家らしい家を持ったところである。大正十一年から翌十二年の震災後へかけての、二年半になる(中略)そこへ、中西伊之助の紹介で、里村欣三がやって来た(中略)妻が云うのである。『里村さんは、雑司ヶ谷町の方でしたよ。おろし立ての菜っぱ服を着て、まだ子供子供していましたわ。(後略)』 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』
1960年4月創刊号
全線
1923
大正12
8月 21 八月下旬の猛烈な残暑の日であった。(中略)その日は、朴烈は一人だった。近くに、中西伊之助が住んでいた。日本帝国主義の、朝鮮侵略の実体をえぐったその大作「赭土にめ[芽]ぐむもの」をかいた中西は、朝鮮人のあいだに友人をつくっていた。そのうち、鄭然圭や朴烈やは、わたしもしっていた。朴烈は、その日も中西の家に行ってきたらしかった。(中略) 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1923
大正12
8月 21 高田馬場駅の歩廊であつた。真赤にたゞれた盛夏の夕日を浴び乍ら、ルパシカ姿の朴君[朴烈]は、太い桜か何かのステツキをもつて突立つてゐた。(中略)僕[山田]が朴君と始めて知つたのは、僕が新島栄治と下落合に同居してゐた頃、新島か、或は飯田徳太郎かに紹介された時からであるやうに覚えてゐる。中西伊之助の出獄を[6月28日に]中野の刑務所に迎へに行つて、一緒になつたり、朴君から頼まれて鄭然圭君の本の會の世話をしたりなどして、段々と親しくなつて行つた。下落合にゐる頃は、今でもあるが、高田馬場駅前の牛飯屋で、十銭の牛飯を、よく一緒に食つたものだ。 「朴烈君のこと」
山田清三郎
『文芸市場』
大正15年1月号
1923
大正12
8月 21 [朴烈、金子文子と最後に会った]翌日、私は中西さんと一緒に九十九里の海岸に行つた。私たちは一ケ月中(中西さんは出獄の躰を休めるために)思ひ存分に真黒になつて遊んだ。後にも先にも、一ケ月思ひ存分に遊べたのはこれが最後であろう。そこへあの地震が来たのだ。 思い出す朴烈君の顔
里村欣三
『文芸戦線』
大正15年5月号
1923
大正12
8月 21 [朴烈君とは]震災前、僕の出獄を迎へてくれた時[大正12年6月28日]に会つて、それきりで、僕は千葉の海岸へ躯を養ひに行つてゐるうちに、震災だつたのだから。 「朴烈君のことなど」
中西伊之助
『文芸戦線』
大正15年1月号
1923
大正12
9月1日 21 関東大震災  
1923
大正12
9月 21 中西さんは、地震の報と共に、鮮人が片ツ端から××される報をきいて、朴君の身上を毎日毎日案じ暮らした。(中略)私たちは不安な地震に驚きつゝも、朴君や鄭君を待つ準備をしてゐたがつひに来なかつた。その筈だ皆んなフン捕かまつてゐたのだ。私と中西さんは入京の許可があった日、即ち地震後四五日目に味噌米を二人で背負つて東京に入つた。そして始めて朴君の動静を知つた。(中略)ある日鄭君がやって来た。もう秋風が身に沁む頃だった──と思ふ。鄭君と私と二人は、中野の救世軍の病院で毛布を貰ったり、増上寺へ行ってシャツや着物を貰ってそれを未決監に浴衣一枚で震えてゐる、朴君やその他の一同に差入れた。(中略)私は秋風とともに、まもなく流浪の旅に出た。 思い出す朴烈君の顔
里村欣三
『文芸戦線』
大正15年5月号
1923
大正12
  21 全く、里村君はいゝ素質をもつてゐる人だと僕も思ふ。僕は今まで、同君には「体験を作りたまへ」と云つたきりで、知らん顔をしてゐた。これまででも、若い人にたいして(いやに先輩ぶるやうだが)は、かなり冷淡だ。が、僕は、なるべく、その人が、自然な成育を遂げるやうにしたいと思つてゐる。 「朴烈君のことなど」
中西伊之助
『文芸戦線』
大正15年1月号
1923
大正12
  21 里村欣三は震災直後に中西伊之助がどこからともなく連れてきたので、この青年が大阪の電車争議で人を傷つけたり、兵隊にとられて脱営したりした前歴のあることを知ったのはよほど経ってからであった。その時は日雇労働をしていて、簡易宿泊所で作品をかいたり、時にはわたしの家の縁先に腹ばいになってかいて行ったりした。手アカのついた大学ノートにこまかく書き込んだその作品をよんで、わたしは里村の才能におどろくと同時に、誤字のおそろしく多いのにあきれた。 『文学五十年』
青野季吉
昭和32年12月20日
筑摩書房
1923
大正12
   21 里村君は中西君と一緒に大阪で、労働運動をやつてゐた人で、強い反面でおつとりとしたいい人間だ。中西君の家にゐる時に僕は、これは立派な人だと思つた。(中略)その後里村君は一人になつて、土工になつた。信州の工事へ行つたり、富川町へ帰つたり、その都度、三月目か半年目に、ぶらりとやつて来た。 「紹介・感想・質問 葉山君と里村君」青野季吉
『文芸戦線』
大正14年12月号
1923
大正12
  21 木賃宿の裏には不潔な川が流れてゐて、潮が満ちると、卒塔婆や下駄や板片や雑多な都会の塵芥を押し上げてくる水量に乗つて、糞船が上下した。私たちのコミ部屋の窓は、ぢかにその悪臭のこもつた川に向かつていた。私はその頃、川内と呼ぶ男と一緒に洲崎の埋立に働いて、夜はこゝへ帰つて来た。 里村欣三
「佐渡の唄」
『文芸戦線』
昭和3年5月1日号
1924
大正13
22 [推測=この頃、信州を放浪か
私はずつと前に放浪してゐたことがある。其の時分、私は三日も四日も飯を喰はないで、町から町に仕事を漁つたものだが、遂ひにどうとも就職口に有りつくことが出来なかつた。
里村欣三
「佐渡の唄」
『文芸戦線』
昭和3年5月1日号
1924
大正13
22 越後の國の空には、白鳥が群れてゐると聞いたが、私はつひぞ見たことがなかつた。(中略)まことに細々と生きることは、生爪をしやぶるよりも惨めなことである。それで私は影のやうに絲魚川の町に辿りついたのである。(中略)だが、この町にもまた私は、私の労働を必要とする活気を見なかつた。(中略)私達は幾日かまるで親子の乞食のやうに旅して、深い雪の信越の山々を線路伝ひに超えて、つひに信州に下りて行つたのだ。 息子
里村欣三
『新興文学』
昭和3年3月号
1924
大正13
22 私達は遂ひにやつとの思ひで信州に入ることが出来たのだ。こゝでは雪が消えて、桑の芽が青ばんでゐた。空は快よく晴れ切つて、豊かに開拓された善光寺平の眺望は、私に青麦のやうな若い希望を抱かせずにはゐなかつた。(中略)私と老人とはその日のうちに、犀川の護岸工事の平井組の部屋に割り込むことが出来た。(中略)久しぶりにする労働は楽しいもので、私は腹一杯に掻き込んで、終日トロを押した。夏とは違つて、早春の野に汗ばむことは愉快なものだ。 息子
里村欣三
『新興文学』
昭和3年3月号
1924
大正13
22 私は信州の信濃川の防堤工事に働いたことがあつた。その時、トロを連結して土砂を運ぶために二輌の機関車を使用してゐた。(中略)谷川といふ男は口癖のやうに自分自身の腕を誇つてゐた。彼はほんとうに機関車のコツをわきまえてゐたのだ。 職人魂──芸術
里村欣三
『戦車』
大正15年9月号
1924
大正13
5月 22 [推測=この後、北海道を放浪か]
もう七年になるだらう。私が懐疑的な思想にかぶれて、出鱈目に放浪して歩いたのは、その頃である。やつと二十歳を過ぎたばかりの私が、人生のあらゆる事柄に興味と希望を失つたつもりで、一つぱし憂鬱な哲学者を気取つてゐたのだから呆れる。(中略)北海道の春には、猛烈な濃霧がつきものだ。(中略)函館本線と長輪線の分岐点に、長万部といふ駅がある。(中略)その日は、春の五月だといふのに、吹雪になる時の前触れのやうに、恐ろしく底冷えのする日であつた。そして北海道に特有の濃霧が、乗客の尠いプラット・ホームに漂茫と煙のやうに吹きつけてゐた。(中略)「旅を歩かれるお若衆だと思ひますが、どちらへ行かれますかな……?」「函館へ。」「ほうッ、それは願つてもないよい道連れだ。(後略)」
「濃霧(ガス)」
里村欣三
『文学時代』
昭和5年4月号
1924
大正13
  22 私たちの部屋はやうやく鉄道工事の切り上げを済ませて、部屋が解散になつた。(中略)私は日高の國のヘトナイといふ移民町から、二十里にあまる路を徒歩で(中略)苫小牧に出た。そしてそこから長輪線で函館に舞ひ戻つて来た。そして或る木賃宿の追ひ込み部屋に落ち着いたのであつた。──私が不思議な老人に出喰はしたといふのは、この時の話である。 「痣」
里村欣三
『週刊朝日』
昭和4年9月20号
1924
大正13
6月 22 [『文芸戦線』創刊]
プロレタリア文学運動再建の中心になったのは、『種蒔く人』の後身『文芸戦線』である。一九二四(大正一三)年六月発刊されたもので、『種蒔く人』の終刊いご九カ月間、その城を失っていたプロレタリア文芸戦線は、これによって、ようやくその中心機関をとりもどすことができたのだった。(中略)一九二四年八月現在の『文芸戦線』の同人は、小牧近江・金子洋文・今野賢三・佐々木孝丸・村松正俊・松本弘二・平林初之輔・青野季吉・前田河広一郎・中西伊之助・佐野袈裟美・武藤直治・柳瀬正夢・山田清三郎の十四人だった。(中略)同人いがいの執筆者としては、当時まだ無名だった伊藤永之介・葉山嘉樹・里村欣三を用いたぐらいにすぎなかった(中略)伊藤は、金子洋文にとって、同県の若い文学上の友人であり、葉山は青野季吉のもとに出入していた労働運動者であり、自由労働者で文学青年だった里村は、中西伊之助や青野季吉に師事していた。
『プロレタリア文学史(下)』
山田清三郎
1968年3月
理論社
1924
大正13
22 一昨年[大正13年]の夏ごろだと思ふ。吉祥寺に鄭君を訪ねたら栗原君が出獄してゐた。皆んな共犯は出たのだと云ふが朴君、夫婦だけは保釈が許されず獄にゐた。恐ろしい予感が胸にこたへた。その秋、私はまた東京を去った。それから去年[大正14年]の秋かへつたが鄭君にも誰にもまだ会へない。 思い出す朴烈君の顔
里村欣三
『文芸戦線』
大正15年5月号
1924(大正13)秋〜
1925(大正14)初秋
22

23
(推測=里村欣三、この間、第2回目の満州放浪 当サイト「考察」参照
1925
大正14
4月 23 その前後には、日蓮に関する著書があつた。偶然に古本屋でそれを発見したことがある。
[『名僧の人生観』(人生哲学研究会編、大正14年4月12日、越山堂)所載の里村欣三「白隠」「一休」を指すと思われる]
『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1925
大正14
  23 労働者を低廉に酷使できる支那では、日本の労働提供者には見向きもしない。何故ならば日本の労働者は米を喰ひ、魚肉を啖はうとするからである。(中略)米を買ふだけの金を出して日本労働者を働かせる篤志家がないんだ。(中略)「働く道がなければ、盗む前に脅かして奪ふだけだ!」支那服の太田と靴屋と私との間には、遂ひに先輩の諸浪人達が歩んで行詰まつた道程を踏んで(中略)相談がなり立ったのである。(中略)満州の朔風は針の如く、凍地の砥の如き滑かさは支那靴の底皮をともするとすくひ上げるのであつた。 里村欣三
「モヒ中毒の日本女」(放浪挿話)
『文芸戦線』第三巻第二号
大正15年2月1日
1925
大正14
5月1日 23 約十年程前に、私はハルピンでメーデーを迎へたことがある。その頃は張作霖の全盛時代で、一切の民衆運動が苛烈な弾圧が下されてゐた時だつた。(中略)丁度、その頃、上海では全紡績のストライキが戦はれてゐた。その強い波動が、こんな北満の果てにまで、ビシビシと響いてゐたのだつた。 「ハルピンのメーデーの思ひ出」
里村欣三
『新文戦』
昭和9年5月1日号
1925
大正14
23 樹影や煉瓦塀に、熱い真夏の陽ざしを避けて、丹念に襦袢や靴下の綻びを繕つてゐる女をばハルピンの街頭でよく見受ける。(中略)私はある年の一夏、ハルピンで苦力をやってゐた。たった独り異国の人夫に混って働くことの苦痛は、実に言外なものである。が、私は南満での遊蕩乱舞の後なので、その苦痛を天罰ぐらいに諦め切つてゐた。 「放浪病者の手記」
里村欣三
『中央公論』
昭和3年5月号
1925
大正14
  23 里村君は中西君と一緒に大阪で、労働運動をやつてゐた人で、強い半面でおつとりしたいい人間だ。中西君の家にゐる時に僕は、これは立派な人だと思つた。君が文章を書くことを知つてゐたので、「戦線」へ何か書いてはとすゝめた。富川町の生活を書いたのがそれだつた。その後里村君は一人になつて、土工になつた。信州の工事へ行つたり、富川町へ帰つたり、その都度、三月目か半年目に、ぶらりとやつて来た。(中略)この間久しく音沙汰がなかつたので、中西君に聞いて見やうと思つてゐたら、何でも満州まで行つて来たらしい。 「紹介・感想・質問 葉山君と里村君」
青野季吉
『文芸戦線』
大正14年12月号
1925
大正14
  23 里村は東京本所に生まれたといっていたが、じっさいは岡山県の生れ。しかしこれは、前川二亨[享]の本名とともに、ずっとのちに彼があきらかにしたことで、日中事変がはじまるまでは、彼はおくびにもそんなことを、親友のあいだにもださなかった──彼は徴兵を忌避する“日陰者”だったのだ。わたしが里村欣三の名をしったのは、さいしょの『文芸戦線』に彼のかいた「富川町から」と題する報告文学をよんだときからで、「富川町から」は、本所の木賃宿を中心とするどん底生活者の群像が、おなじどん底生活者である作者の、愛情にみちた温かさで、えがかれていた。里村は、青野季吉や中西伊之助のところに出入していた。大阪で市電争議のとき、つかまるところをずらかったというけいれきをもっていた。そんなことから、身の上をかくしていたのだった(後略) 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1925
大正14
  23 彼は「苦力頭の表情」といふ小説を「文藝戦線」にかいた。それには、自分の経歴を、ある女が旅の途中で産気づいてうんで、土地の者に呉れて行つた父なし子だと書いてゐる。(中略)この小説を読んだ時、その部分のあまりな不自然さを私は夫[小堀甚二]に指摘した。すると夫が、その時、初めて「実はこれこれだ」と作者里村の一身上の秘密を私に話してきかせた。この秘つてゐるのは、葉山嘉樹氏と青野季吉氏と小堀と中西伊之助氏だけだから絶対に他言してはならないと夫はきびしく誓はせた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1925
大正14
23 里村君はいまは越山堂で働いてゐるが、里村君も葉山君も小説で喰へるやうになつたら喰ふがよい。喰へなくなつたらまた土工に立戻るとして。 「紹介・感想・質問 葉山君と里村君」青野季吉
『文芸戦線』
大正14年12月号
1925
大正14
23 里村欣三君が来た。吃り吃り話す。「労働者はね、あまり堅苦しい、重苦しいものは好みません、(中略)むづかしいものがためになると思ふのは知識階級の偏見ですよ、苦楽、講談なんてよけい読まれますからね」これもある一面の正しい観察かも知れない。 「泥酔痴語」
金子洋文
『文芸戦線』
大正14年12月号
1925
大正14
11月5日 23 毎号里村君の奮闘は愉快だ。俺も立ン坊二年、兵卒三年といふ塵箱と屑籠とを持つてゐるから、何かをモノにしたいと努めてる。祈同君之健闘。 「牢獄私信」
中濱鐵
『文芸戦線』
大正15年1月号
1925
大正14
12月6日 23 「日本プロレタリア文藝聯盟」の発起人會が、十月四日牛込神楽坂倶楽部に開かれた。(中略)創立大會は、十四年十二月六日、牛込の矢来倶楽部でひらかれた。(中略)出席者八十余名、当時名の知られたプロ文藝各派の作家、詩人、批評家の殆どすべてを網羅してゐた。 『文壇郷土誌』(プロ文学篇)笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1926
大正15
4月 24 林房雄、岡下一郎、葉山嘉樹、里村欣三の四君を、新に[文芸戦線の]同人になつてもらつた。 『文芸戦線』
第三巻第四号
大正15年4月1日
1926
大正15
24 それはたしか春ごろであった。この“マル芸”の主催で、東京帝大の学生集会所で、社会文芸講演会がひらかれ、葉山嘉樹、里村欣三、わたしの三人が講師に出かけた。(中略)里村とわたしも、小学校だけの学校教育で、大学生を前に講演するというのであるから、エライことになったと、二人でいいあったものだった。葉山は、労働運動でアジ演説をやりつけていたから、「なに、学生なんかは煙にまけばいいさ」と、すましていた。当日は集会所いっぱいの聴衆だった。長身痩躯、色の浅黒い、眼の光った葉山と、ずんぐりとしたみずからサンチョ──ドン・キホーテの従者──をもって任ずる、おどけた顔の里村、小男で猫背のわたし。顔見せだけでも人気をはくしたが、話も案外にうけた。(中略)葉山は、「おれたち労働者の胃の腑は……」と、ストライキの話などをもちだして、しきりにアジをとばしていた。里村は、大工や左官が、いかに仕事を愛するか──つまり生産の歓びと搾取の苦痛の矛盾といったようなことを話して、感動をよんだ──講演会は成功だった。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1926
大正15
24 大正十五年の春、「マル藝」の主催で、帝大の文学部の教室で、「社会文藝講演会」が催されたことがある。「文戦」から、山田清三郎、葉山嘉樹、里村欣三の三人が講師として派遣された。(中略)得意の反面、おどおどしながら話をしたのだが、四五十人の聴衆は、いづれも熱心に彼等の話をきゝ喝采を送つた。講演會がすんで、懇親會に移つた時、聴衆の中の眉目秀麗な一人が、昂奮してたちあがり、『けふのお話は、非常に感激してきゝました。自分の文学上のコースが、これでわかつたやうな氣がしました。』と、挨拶した。それが、武田麟太郎だつた。 『文壇郷土誌』
笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1926
大正15
24 臼井[吉見] (中略)大正十五年だと思いますがね、東大の社会文学研究会かな……。
平野[謙] マルクス主義芸術研究会の前ですね。
臼井[吉見] その主催で、いまで言えば工学部の方の小さな食堂で、葉山嘉樹と里村欣三の話があるという。ぼくはそういう話を聞いたことがないので聞きに行ったら、里村欣三という者にびっくりした。こういう人が大学生を相手に文学の話をするかと思ってね、非常な衝撃だったな。まあ、どぶ鼠がちょうど、どぶからはい上がって来たまんまという格好だったな、何から何まで。(笑)
高見[順] 面だましいがすごいからね。
臼井[吉見] 着物をゾロッと着てるんだけど、髪の格好からどうしたってどぶ鼠だと思ったな。
「座談会昭和作家の思い出」中の臼井吉見の発言
『現代日本文学全集月報67』
昭和32年5月
筑摩書房
1926
大正15
  24 里村欣三は、同人になつた前後、富川町から、よく大きな煎餅を土産に持つては、文藝戦線社に遊びに来たものだ。そして、山田清三郎から、小説をかくやうにすゝめられてゐたが、ある日、おそるおそる、『小説になつてゐるだらうか?』と云つて、持つて来たのが、「苦力頭の表情」といふ短篇で、労働者の国際連帯性を描いたものだつた。これは「文戦」六月號(大正十五年)に掲載されたが、里村欣三の出世作として、評判の高かつたものである。 『文壇郷土誌』
笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1926
大正15
6月 24 里村欣三の代表作は「苦力頭の表情」(一五、六『文芸戦線』)で、かれは(中略)葉山嘉樹をより労働者的に素朴にしたような感情の持主で、働くものの夢をもった放浪性があり、その夢が、ルンペンへの転落と虚無主義からかれをすくい、労働者階級の理想への眼を失わせなかった。どん底生活に生いたち、早くから人生の惨苦にさいなまれてきた里村欣三は、そういう作家としてあらわれた。 『プロレタリア文学史(下)』
山田清三郎
1968年3月
理論社
1926
大正15
6月 24 大正年代末ごろの「文藝戦線」に「富川町から」といふ題で、短い随筆を連載してゐる里村欣三といふ投書家があつた。髪を襟首まで房々と長くし、印半纏にズボンといふ異様ないでたちで、よく原稿をとゞけながら遊びに来ると山田清三郎夫人が言つてゐた。彼の文章はいつも深川富川町の貧民窟に住んでゐるやうな体裁になつてゐたが、実は、駒沢のゴルフクラブのコックをしてゐたらしい。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1926
大正15
6月 24 文芸戦線同人住所録
里村欣三………市外駒沢村東京ゴルフ倶楽部
『文芸戦線』
第三巻第六号
大正15年6月1日
1926
大正15
24 その頃、私達同志三人は『支那行』を計画してゐた。三人とは私と、相棒の渡部と、それから近くの村の建具職人の石田[石井安一]であつた。(中略)私が柄にもなく玉川畔に、野外喫茶店を目論んで、ゴルフ倶楽部を辞めて、S・M・Uといふ俸給者組合をやつていたS氏の宅に食客(中略)その後、私の野外喫茶店は吹聴ほどにもなく一ヶ月足らずで潰れてしまつた。そこでまた私は、差しあたり行くところがないので、ゴルフ倶楽部のコツク部屋へ逆戻りしなければならなかつた。 「疥癬」里村欣三
『文芸戦線』
第四巻第一号
大正16年(昭和2年)
1月1日
1926
大正15
10月 24 私と渡部の場合には、(中略)ブルジョアの歓楽場の地下室で働くことの苦痛が、良心を悶々と影らして来た(中略)石田の場合には(中略)世の中の社会運動の進展を見聞きしながら小さな職場の鉋屑に埋もれてゐることは苦痛に堪えられなかつた(中略)恰度、その頃の支那の風雲は急迫してゐた。(中略)私達は毎日毎日、新聞面を睨めては、この支那の革命軍に、若い情熱が呼びさまされて来るのをどうすることも出来なかつた。(中略)そして兎に角、私たち三人は×月×日香港行の天洋丸の甲板上にあつた。(中略)船は、濁流を横切つて上海に着いた。(中略)私たちは、一枚の蒲団を引張り合って、ある一隅の屋根裏に巣を設けた。そしてK君から紹介された知人の手を経てある計画への参加を待つてゐるのである。(後略)
   一九二六・十月二十三日 上海の仮宅にて
「疥癬」里村欣三
『文芸戦線』
第四巻第一号
大正16年(昭和2年)
1月1日
1926
大正15
10月 24 蒋介石の北伐軍に加わろうと、近所に住んでいた建具屋徒弟の石井安一や、も一人の友人と語らつて、北伐に加はるつもりで鍋や釜を持つて上海に出かけたが、金がなくなつて、乞食のやうになつて這々の態でかへつて来た。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1926
大正15
  24 [現在文筆家住所録 P7]
里村欣三 東京市外下渋谷一二四
『出版年鑑1927』
國際思潮研究會版
昭和元年12月28日
1926
大正15
11月中旬 24 十一月中旬には、結成一周年記念の、「プロ聯」(日本プロレタリア文藝聯盟)第二回大会が、牛込の神楽坂倶楽部で開かれた。(中略)同聯盟内には、マルキシズムの勢力が、圧倒的に増大(中略)一年前の、第一回大会では、議長の佐々木孝丸が、アナ系のなぐりこみによつて負傷した事実もあり、マルキスト側では、(中略)葉山嘉樹を警備隊長に、小堀甚二、里村欣三以下の、腕ッ節の強い連中を、警備員に動員し、(中略)開会前に、すでに、アナ系の連中の気をのんでゐた。(中略)大会は、無事に終了した。その結果、秋田雨雀、小川未明、江口喚、新居格、加藤一夫、宮島資夫、中西伊之助、松本淳三、壺井繁治、飯田徳太郎等のアンチ・マルキシズムの要素が、聯盟からのぞかれて、その名も「日本プロレタリア藝術聯盟」(略称「プロ藝」)とあらためられた(後略) 『文壇郷土誌』
笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1926
大正15
12月 24 移居一束
小堀甚二……市外杉並町馬橋三二九文芸戦線社方
里村欣三……同上
『文芸戦線』
第三巻第十二号
大正15年12月号
1926
大正15
12月13日 24 [葉山嘉樹の]『淫売婦』『海に生くる人々』出版記念会が午後六時より新宿駅横本郷バー支店で開催された。その時の「出版記念芳名録」には、次の名前が記されている。山田清三郎、小堀甚二、岡下一郎、(中略)里村欣三、壺井繁治、飯田徳太郎、渡辺三郎、青野季吉、金子洋文、今野賢三、(中略)坪田譲治、前田河広一郎、(中略)黒島伝治、(中略)柳瀬正夢、米田眩、石井安一、佐々木孝丸、佐野碩、林房雄(後略) 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1927
昭和2
1月 24 大正15年頃、『文芸戦線』は雑司ヶ谷墓地の近くから、山田清三郎ご一家と一緒に高円寺の六一一番地に移った。(中略)高円寺の六一一番地の二階家は、うしろに同じ形の二階家があって、二階の部屋には里村欣三が部屋借りしていた。彼は中西伊之助氏と親しかった関係上、中西氏の紹介で『文芸戦線』に来た。(中略)里村は逃亡兵という秘密を背負っていたので、何か挙措に暗いところがあって、写真などは絶対に撮らせなかった。それに戸籍を関東大震災の時深川で消失した、と言っていたが、中国なまりはかくせなかった。 「『文芸戦線』の思い出」
平林たい子
「文芸戦線」復刻版別冊『解説』
1927
昭和2
1月 24 里村が、「苦力頭」の表情をかくころから、もうとうていわたしだけでやっていけなくなった『文芸戦線』を手伝ってくれるようになった。そのころ、わたしは例によって文芸戦線とともに、高円寺六一一にうつっていた。(中略)里村が、わたしの助手をやってくれるようになったころ、小堀甚二があらわれて、佐々木の家に居候したりしていた。小堀も里村やわたしとおなじく教育は小学校だけで、小さいときから、はたらいて苦労していたので、そういうことから話があった。(中略)「山田君、一つおれに女房を世話しないかな」あるとき、小堀が、だしぬけにいった。そばに里村欣三がいた。(中略)「小堀には、たい子さんがいいや」里村が、そういって、白い歯をみせてヒヒヒと笑った。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1927
昭和2
1月 24 彼[里村]は、小堀甚二と馬橋に住んでゐたが、私が小堀と結婚するため上京したので、その日に、山田清三郎氏の高円寺の家のすぐ前の二階をかりて移つた。(中略)私が、馬橋の家に初めて行つた頃彼はひどい介癬を病んでゐた。(中略)その介癬のことを「介癬」といふ小説に書いて、自分には人に言へない煩悶があると唐突にしるしてゐる。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2
  24 小堀にきいたところでは、近所の日本料理屋のおふじといふ女にひどく熱をあげてゐた。(中略)彼女はそれからまもなく店をかはつて、突然ゐなくなつた。山田清三郎家の前に間借りして山田家で食事をしてゐた里村は目の色を変へておふじの行方を探し廻つた。(中略)おふじの行方不明は相当な打撃を彼に與へた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2
  24 福壽堂の娘をお時さんと言つた。美しい、背の高い、細つそりした娘で、年は十九であつた。私は彼女に恋してゐた。(中略)美しい路傍の花!(中略)若しも私の恋が気まぐれによつて許されるならば、その場かぎりのキッスと抱擁――それ以上の要求も欲求も私にはもてない事情があつた。私は幾度か恋文を書いたが、私の悲しい運命を思つて破いて捨てた。 「疥癬」
里村欣三
新興文学全集7
昭和4年7月
平凡社
1927
昭和2
2月 24 若い時分、私の兄の東光が左翼の悪態をつき、里村君や葉山嘉樹、小堀甚二君と三人揃って、兄貴の家へ押しかけ、ことと次第によっては乱闘に及ぼうとしたことがあった。折よく私も居合わせて、話し合ってみれば、左翼の闘士もこの三人は特別製のお人善しで、忽ち仲良くなってしまい、その夜は楽しく歓談に終わってしまった。 『隻眼法楽帖』
今日出海
昭和53年5月30日
中央公論社
1927
昭和2
2月 24 有名な「文芸戦線テーゼ」問題が起つたのは、(中略)昭和二年の二月であつた。(中略)當時、福本派によつて固められつつあつた日本共産黨は山川均を主導とする「勞農派」を叩きつぶす必要にせまられてゐた。(中略)青野季吉、前田河廣一郎、葉山嘉樹、里村欣三、小堀甚二、平林たい子の諸君はたしかに山川派であつたらう。(中略)「無産者新聞」編集部は両派を集めて立会討論会を行ふことになつた。「文戦」側からは、山田清三郎、葉山嘉樹、小堀甚二、里村欣三、林房雄が出席し、「反文戦」派からは、中野重治、鹿地亘、谷一、久板栄二郎、佐野碩、「無新」編集部からは門屋博と是枝恭二が出て来た。今から思へば、奇妙な討論会であつた。 『文学的回想』
林房雄
昭和30年2
月28日
新潮社
1927
昭和2
2月 24 午後一時ごろからやった討論会が、物別れにおわったのは、夕方だった。両派は、帰りも、別々の道をえらんだ。「寒い──腹もへった、どこかでいっぱいやりたいな」葉山や里村がいいだしたが、林[房雄]がゆるさなかった──半年間未決に行ってきた林は、『文芸戦線』内に清風運動をおこし、同人会議からも、つきものの酒を追放していた。そこで、腹だけみたすことになり、里村、葉山、わたしの三人は、ヒソヒソ相談しあって、(中略)林を、大衆的な牛めし屋へひっぱっていくことにした。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1927
昭和2
3月 25 小牧近江はアンリ・バルビュスから、上海で汎太平洋反帝会議を開くから是非会いたいとの便りをもらった。(中略)小牧は『文芸戦線』編集会議で特派員派遣を提唱し、認められた。同行は中国通の里村欣三と決定した。 『弔詩なき終焉』
荻原雅博
1983年9月16日
御茶の水書房
1927
昭和2
4月 25 四月二日、雨は未明のうちに霽れてゐた。私たちは午前八時五十五分の列車に乗り込んだ。同勢は山田、小堀、葉山、千田と私の五人である。(中略)千田は顔も洗ってゐなかつた。(中略)葉山の格好はマドロスだった。小堀はどう踏んでも工事場の現場員以上ではなかつた。山田は、さうズックの鞄から風船玉を出し兼ねなかつた。私の春服は一行の群を抜いて瀟洒たるものだったが、しかし肩身が狭くて、襟が鯣(するめ)の顎のように廣く折れてゐる(中略)浜松の駅に降りると、私たちはそのまゝ市の公会堂にむかつた。(中略)翌三日は、板屋町から軽便鉄道に揺られて金指町へ向かつた。(中略)その日の夜、(中略)迎えの自動車で天龍川畔の二俣町に向かつた。(中略)明くる五日の夜は名古屋だつた。(中略)今度の講演は次のやうなものだつた。(中略)上海随想……里村欣三 「東海地方公演旅行記」
里村欣三
『文芸戦線』
昭和2年5月号
1927
昭和2
4月 25 ぼくが名古屋の高等學校にいたころ、里村欣三、千田是也、山田清三郎という連中の講演会がありまして、聞きに行ったことがありましたが、里村欣三にはぼくも驚いたですね。壇上をあっちこっち歩くんですよ。じっとしていない。背がわりに小さいでしょう。上海がどうした、こうしたって、行ったり来たり歩いているんで驚いたな。 「座談会昭和作家の思い出」中の平野謙の発言
『現代日本文学全集月報67』
昭和32年5月
筑摩書房
1927
昭和2
4月 25 彼は、その頃また、小牧近江氏について上海に渡つた。千葉県市川市にゐた郭沫若氏と文戦とは、いつも交渉があつたが、里村の上海行で田漢、郁達夫、成彷吾などとも交渉を持つことになつた。彼はやはり何とかして、日本内地でないところで生きたいといふあがきをくりかへしていたのだつた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2
4月 25 そのころ上海は、帝国主義列国の軍隊によって、国民革命が武力干渉をうけていた。(中略)そういう上海に、『文芸戦線』は特派員をおくったのだ。中国の革命的文学者と、日本のプロレタリア文学者の友誼をかため、相互の運動を協力しあうために。(中略)上海への期待が、ゆくものの胸も、送るものの胸をも、大きくふくらませていた。同人たちは、二人を東京駅に、送って行った。革命の上海へ。ホームで小牧と里村の手をにぎったとき、意気地もなくわたしは泣いた──一度は“ココラキョウ”気分にまでおちた『文芸戦線』は、ここまでくることができたのである。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1927
昭和2
4月下旬
(24〜28日頃)
25 “文芸戦線”について、ただ一つ、記憶に残っているのは、“汎太平洋反帝会議”に出席のためのいきさつです。バルビュスから呼び出しがありました。(中略)“文線”の編集会議では、山田清三郎君がてきぱきしていたので、私の中国行きを認めるとともに、かれは中国事情につうじる里村欣三君を同行させることを提議し、決定しました。(中略)同じ頃漢口に労働会議がありましたので、警戒は厳重でした。(中略)長崎につき、それから上海丸に乗り込んだのですが、もう、デッキには、顔見知りの刑事が立っていました。(中略)季節は新学期の四月で、(中略)“東亜同文書院”の新入生を、先生が引率して上海へ渡るという一団を、船内で見つけたのです。私たちは、その一団にまぎれ込みました。(中略)上海に着くと、またもや、顔見知りの特高が岸壁に立っています。それで、私たちは、別々に、“同文書院”の学生たちのグループにまじって、学生たちと歌を歌いながら、タラップを“先生然”として下りました。(中略)私たちは、フランス租界に身をかくしました。そのうち、政情不安のため、“反戦会議”が流れたことを知りました。このまま帰るのは情けない。里村の知っている内山書店のおやじさんの紹介で、郁達夫、田漢、周作人(中略)その他二十人ばかりの中国文士たちと交流することにしました。(中略)あの人たちを左翼文学の“創造社”と結びつけたのは、“内山書店”のおやじでした。 『ある現代史』
小牧近江
昭和40年9月
法政大学出版局
1927
昭和2
4月下旬
(24〜28日頃)
25 上海はもう初夏だ。(中略)薄暮のせまつた窓に卓を囲んだ。小牧と私と支那の同志の三人である。うす甘い茶に話は自然と国民党の共産党弾圧、糾察隊撲滅に落ちて行つた。(中略)毎日、蒸し暑い日盛りのなかを脚を棒にして、帽子の下ににじむ汗を拭き拭き、(中略)支那の文学者に逢ひ度いと努力したが、総て徒労に終つた。(中略)私と小牧は(中略)北四川路の涯てに、内山書店を訪れた。(中略)主人はイガ栗頭の、小肥りのした人だつた。谷崎も芥川も知つている。郁も田漢もみんな自分の家にやつて来る。(中略)日が暮れて私たちは、宿に帰つた。と、思ひがけなくもテーブルの上に郁達夫の名刺がのつかつてゐるではなかつたか! 「青天白日の國へ」
里村欣三、小牧近江
『文芸戦線』
昭和2年6月号
1927
昭和2
5月1日 25 一九二七年のメーデーに、(中略)同行の小堀甚二、里村欣三君達は行列に加わるべく急いだが、田口[運蔵]と私[前田河]とだけは、大手町まで行列に添ふて歩行した。 『赤い廣場を横ぎる』(田口運蔵) の序文
前田河廣一郎
昭和5年6月9日
大衆公論社
1927
昭和2
5月8日 25 五月八日の千葉市での吾々文芸戦線同人の講演会(中略)一行は林、小堀、里村、中野(正)、蔵原、平林、と私の七人だつた。先づ私が大聲に怒鳴つて(中略)次が平林たい子君、現代の女流作家を辛辣に批判した。次が里村君で例の拙辯で、しかし非常に熱意のある、殊に話す時の顔の表情がよかつた。この里村君の話した上海の状況は、非常に有益なものだつた。 「千葉市講演会記」
岡下一郎
『文芸戦線』
昭和2年6月号
1927
昭和2
6月9日 25 「プロ藝」内の、幹部派(福本イスト)と、反幹部派(「文戦」同人派)との対立が激化(中略)青野季吉、葉山嘉樹、前田河廣一郎、金子洋文、小堀甚二、里村欣三、黒島傳治、今野賢三、佐野袈裟美、田口憲一、赤木健介、藤森成吉、藏原惟人、村山知義、林房雄、佐々木孝丸、山田清三郎、岡下一郎等の「文戦」同人派が、連袂脱退(中略)直ちに、「プロ藝」に対して、「労農藝術家聯盟」(略称「労藝」)を結成、「文戦」を、その機関誌にした。 『文壇郷土誌』(プロ文学篇)笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1927
昭和2
6月11日 25 前衛座に対する猛烈な争奪戦が、展開された。大分裂の日から一日おいた六月十一日、千駄ヶ谷の前衛座本部でその最後の同人会議が招集され、同人全部出席。(中略)夕方までつゞいた同人会議は、今度は反対に、「プロ藝」派の久板、佐野、小野の前衛座脱退、「労藝」派の勝利によつてケリがついた。(中略)前衛座分裂の日の夜、「労藝」派の同人たちは、佐野のところに、新潟だけは共同でやらうぢやないか、と申込むと、「プロ藝」の方からは、イヤだといふ返事。それなら単独でやらうと、緊急相談の結果、その晩のうちに、葉山と小川を、新潟にたゝしてしまつた。翌日になつて、さらに、小堀と里村を──。 『文壇郷土誌』(プロ文学篇)
笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1927
昭和2
6月 25 [6月13日]十時頃前衛座の一行が[新潟に]着いた。佐々木孝丸、佐藤誠也、田口勲、村山知義、(中略)小堀甚二、里村欣三、の顔振れだつた。(中略)その夜[6月14日]は、千六百名の入場者で、入り切れないで帰つた人が大分あつた。出しものは、シンクレアの二階の男。ル・メルテンの炭坑夫。これには、小堀、里村、葉山が、炭坑夫を地でやつた。 労農芸術家聯盟情報(葉山嘉樹)
『文芸戦線』
昭和2年7月号
1927
昭和2
6月19日 25 ◇[労農芸術家聯盟]創立大会 昭和二年六月十九日午後一時より東京市外千駄ヶ谷三五〇番地聯盟仮事務所に於て開會。(中略)出席並に決議権委任者 青野季吉、田口憲一、山田清三郎、佐々木孝丸、林房雄、前田河廣一郎、小牧近江、小堀甚二、葉山嘉樹、蔵原惟人、村山知義、里村欣三、黒島傳治、岡下一郎、金子洋文、藤森成吉、平林初之輔、今野賢三、中野正人、武藤直治、佐藤誠也、佐野袈裟美、上野壮夫、小川信一、辻恒彦、仲島淇三、山内房吉、金煕明、平林たい子、井坂次男。 労農芸術家聯盟情報
『文芸戦線』
昭和2年8月号
1927
昭和2
7月15日 25 [雑誌『創作評論』創刊号(7月15日発行)]
本會評議員 石濱金作、片岡鐵兵、宇野千代、里村欣三、稲垣足穂、田口憲一、黒島傳治、(中略)高群逸枝、蔵原惟人、(中略)山田清三郎、白井喬二、葉山嘉樹、中野正人、藤森成吉、平林たい子、尾崎士郎、村山知義、小堀甚二、若杉鳥子、上野壮夫、青野季吉、(後略)
東京市外長崎町 日本文學同人會。
巻頭広告
『文芸戦線』
昭和2年8月号
1927
昭和2
  25 あるとき林芙美子を里村に媒酌して見合いさせた。小堀は「里村の方から断つた」と言つてゐるが、私の記憶では、林芙美子の方が断つたと思ふ。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2
  25 葉山嘉樹の仲人で同じ文戦の仲間の一人の妹と縁談が調つて、熱海に新婚旅行したが、花嫁は拒みつづけて翌朝一人で東京に帰つてしまつた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2年
  25 彼[狭間祐行]に一人妹があり、葉山氏と狭間氏が相談して、里村とその娘を結婚させることにした。が無理矢理おしつけたやうな形だつたので、新婚旅行の熱海の宿から娘が逃げて帰つてこの結婚は終になつた。(中略)新婚旅行の翌日娘に逃げられた里村氏が一升瓶をもつてやつて来た。「これからブラジルに行く」といふので私たち夫婦は大いに驚いてとめた。彼はぽろぽろ涙を流してゐた。 『女は誰のために生きる』
平林たい子
昭和32年1月25日
村山書店
1927
昭和2
  25 彼は、その頃、作家としては短編集[『苦力頭の表情』]も出てやゝ得意だつた。絶対に写真を撮らせなかつた。写真を借りにくると堤寒三氏の書いた漫画を貸すことにしてゐたから、今もつて彼の写真はいかなる出版物にも載つてゐない。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2
9月4日 25 「ソヴィエット飛行家歓迎会(主催・労農党)に、[葉山嘉樹は]石井安一、小堀甚二、里村欣三らと出席。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1927
昭和2
10月24日 25 山川均からの寄稿が、『文芸戦線』の編輯部にとどけられた。それは、「ある同志への書翰」と題し、内容は『無産者新聞』の極左的宗派主義──つまり福本主義的傾向をはげしいことばで非難したものだった。(中略)この一文を『文芸戦線』にけいさいすることによって「労芸」の政治的立場を、山川主義の影響下にたたせる結果になることをおそれた編集委員会は、山田清三郎・蔵原惟人・林房雄らの反対で、その掲載拒否を決定したのであったが、これにたいし、前記残留組の青野季吉・葉山嘉樹・小堀甚二らにより猛烈な抗議が出され、問題はついに、同聯盟の臨時総会にまでもちこまれたが、解決をみるにいたらないで、ついに多数派の脱退というかたちでの分裂にたちいたった。これは、臨時総会が、残留派の小堀・葉山・里村らの暴力によって、正常な議事の進行が不可能におちいったからだった。 『プロレタリア文学史(下)』
山田清三郎
1968年3月(第4刷)
理論社
1927
昭和2
10月24日 25 里村の性格は、非常に人なつこく、自分を可愛がる人を二人三には必ず持ってゐた。(中略)又、純情で信義に厚い所もなひ混じつてゐた。文戦が対立から共産党派と分裂する晩、私達労芸派は、もし共産党派が「政治的意見の統一の件」といふ議題を出したら、多数に少数で議案は通ることになるから、暴れて会議をこはしてしまふことに手筈を予め決めてゐた。本当はその晩私達の危惧してゐた議題は出た。その時真先に書記の使ってゐた小机をふり上げて忠実に予定通りの行動をしたのは里村欣三だつた。私はその晩彼を見直したと思つた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1927
昭和2
10月24日 25 私が里村欣三の存在をはっきり認めたのは、こういう何度目かの分裂ごっこの繰り返えしの席だった。(中略)議案を彼等が強引に通過せしめようとはかったとき、異議あり、と叫んで跳り出たのは裸一貫の筋骨隆々とした里村であった。どうして彼が脱衣したかは誰も知る由がなかったが、ともかく裸で衆人のまん中へ飛び出したということで、一座に殺気が流れた。つづいて飛び出したのは小堀甚二であり、岩藤雪夫であった。(中略)里村は、理論上の暴力は、肉体の暴力をもってしても防がねばならぬ、と思考したかのような彼の行動の一端を閃かしたと思われるが、その最大の原因は、彼が生来口下手であったことによるのである。 「里村欣三」(遺稿)
前田河廣一郎
『全線』
1960年4月創刊号
全線
1927
昭和2
10月24日 25 労芸になって又々これが二つに分裂した時には、かなり感情的なものが先に入ったということも言えますね。とにかく総会で喧嘩になったんですから。そこから分れて前芸というのを結成した僕らの仲間は(中略)大体がいわゆる青白きインテリの方が多くってね、労芸残留組の方は若干の人を除くと労働者出のたくましい連中で、葉山にしても小堀にしても里村にしても喧嘩ならこいというふうなんですから、どうしても感情的にそぐわないものはかなりありましたね。 『対談日本新劇史』(戸板康二著)中での佐々木孝丸の発言
昭和36年2月20日
青蛙房
1927
昭和2
11月11日 25 [こうして、労農芸術家連盟が再分裂し、脱退者は前衛芸術家連盟を結成。]
「労芸」の残留組は少数ではあったが、葉山嘉樹・前田河広一郎・金子洋文・里村欣三・平林たい子・黒島伝治・岩藤雪夫・鶴田知也らの作家を擁し、『文芸戦線』また『種蒔く人』いらいの伝統的な大衆の支持を、なおうしなわなかった
『プロレタリア文学史(下)』
山田清三郎
1968年3月(第4刷)
理論社
1927
昭和2
11月11日 25 『山田、おきろ!』前田河の聲。『おきろ!』今度は、葉山の聲だ。(中略)荒々しく階段を上つて来たのは、ステツキを握りしめた葉山を先頭に、前田河、小堀、青野、平林(たい子)、岩藤、鶴田、里村、黒島の順序に、他二三人。みんな、ヘベレケに酔つてゐる。上つてくるなり、前田河が、『貴様は、共産黨の手先か!』葉山は、ステツキを振つた。瞬間、山田は、すばやく、みんなの間をくゞりぬけて、階段を飛ぶやうにかけ降りた。(中略)山田は、襲撃隊が引きあげたあと、(中略)寝衣一枚で寒さにふるえながら自分のうちにかへつてみると、家の中で里村欣三が待つゐいた。(中略)里村は、山田に、『自分たちが、乱暴を働いたのは、よくない。──いま、君に去られるのは、大問題だ。(中略)是非、考へ直してくれないか。』懇々として、脱退しないやうにと説いたが、山田が、頑としてうけ入れないので、里村は、失望してかへつて行つた。 『文壇郷土誌』(プロ文学篇)
笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1927
昭和2
11月11日 25 私[林房雄]の高圓寺の自宅には、葉山、小堀、里村、黒島傳治などの諸君がやつてきた。(中略)みんな一杯ひつかけてをり、山田[清三郎]と小川[信一]をやつつけて来た後ださうで、いくらか血相も變つてゐた。葉山、小堀、里村は喧嘩の名人である。こいつはやられるなと思つたが、仕方がない。(中略)いつも愉快な里村欣三は金時のやうな顔をして、「は、林、お、お前は正直な奴だと思つてゐたのに、さうぢやなかつたのか」とどもりながら口説く。たうとう私は負けてしまつた。脱退を取消すわけにはゆかぬが、新團體にも参加せず、騒ぎのをさまるまで中立を守ると約束した。 『文学的回想』
林房雄
昭和30年2
月28日
新潮社
1928
昭和3
1月〜2月 25 総選挙応援日誌  一九二八、一、三〇
労農芸術家聯盟、普通選挙対策委員会の相談会をA君の宅にて開く。出席者、青野、小堀、金子、里村、葉山、守屋の六名。恐ろしく底冷えのする日、火鉢を囲んで左の対策を練る。(中略)東京地方第五区では、(中略)加藤勘十君を積極的に応援する(中略)
二月一日 加藤勘十君の政見発表演説会に応援に行く。里村欣三、金子洋文、葉山嘉樹、小堀甚二の四名。渋谷公会堂も、大崎小学校も満員の盛況だった。澁谷の方の中止振りはひどかった。(中略)里村は編輯で忙しい間をチョイチョイ演壇に、その米友的風貌を表す。
『文芸戦線』
昭和3年3月号
1928
昭和3
3月15日 26 一九二八年二月[二十日]の普通選挙には(中略)無産政党の総得票数は五二万一〇三七票にたっし、当選者は計八名をかぞえた。このことは支配階級をふるえあがらせた。その前年(一九二七年)日本では金融恐慌が勃発し、弱小銀行はつぶれ、(中略)労働争議は二七年には、一二〇二件一〇万三〇〇人、内ストライキ三八三件四万六六〇〇人におよび、その中には野田醤油、浜松楽器などの長期ストをふくんでいた。農村の小作争議も二〇五三件にたっしていた。いっぽう、この年、田中義一内閣は、中国革命の圧殺と、中国侵略をめぐる新たな帝国主義戦争にそなえる第一次山東出兵をおこなっていた。そういう情勢のもとで、(中略)三月十五日の未明を期して、ときの政府(田中内閣)が、全国にわたって共産党員および革命的労働者など一六〇〇人を検挙(うち四百数十人を治安維持法で起訴)するにいたった 『プロレタリア文学史(下)』
山田清三郎
1968年3月
理論社
1928
昭和3
3月25日 26 まだ清算しきれなかった感情上の対立も手伝つてぐづついていた「プロ芸」と「前芸」の合同は、この三・一五の嵐に刺戟されて、急速にはこんで行つた。嵐の日から十日たつた三月二十五日には「プロ藝」側、中野重治、「前芸」側川口浩、これらの起草委員の筆になるところの、両団体の合同声明書が、正式に発表された。(中略)新組織の名は、全日本無産者芸術聯盟。略称「ナップ」。「ナップ」といふのは、全日本無産者芸術聯盟といふのを、エスペラント語になほして、その頭文字をつゞりあはせたものである。 『文壇郷土誌』(プロ文学篇)
笹本寅
昭和8年5
月28日
公人書房
1928
昭和3
  26 結局私の家に居た女中のますえさん[藤村ます枝]との縁談が調つて、つひに彼は新家庭をもつことになつた。ますえさんは口数の少い地味な女だつた。(中略)ますえさんはいかなる貧苦にも適応してなりふり構はず働いた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1928
昭和3
  26 里村の結婚は、祝福されたものだった。葉山や小堀がわいわいとはやし立てたもので、(中略)二人で高円寺で世帯をもつことになった。(中略)将棋というものが、ことのほか下手で、(中略)小堀や石井と手合わせをしては、いつも散々な目にあわされながら、里村の云うことは、頭をかきながら、『いや──ははァ。』という苦笑だけであった。(中略)なにかほかの連中にひやかされると、彼は右手を頭へやっては『いや──ははァ。』と云って、にやにや苦笑した。それが、ときには原稿の出来がわるい場合にも、検束をされて私達が貰い下げに云った署の廊下でも行われた。 「里村欣三」(遺稿)
前田河廣一郎
『全線』
1960年4月創刊号
全線
1929
昭和4
1月2日 26 途方もなく寒い。風が強い。(中略)文芸戦線社に出かける。四ケ月の間に三度発禁を食つたので、正月も糞もあつたものぢやない。出鱈目な検閲制度は帝政末期のロシアより甚しい。文戦の玄関に一人の自由労働者が立つてゐた。(中略)「兎に角此処は寒いから、僕の家で聞きませう」と言つて里村の家へ行く。(中略)文戦の同人でも岡下は矢つ張りアブれてゐる。山本[勝治]もノーチャブでアブれてゐる。(中略)「うちの小遣はどうする」と渋る女房を叱り飛ばして、二円持ち出す。里村が一円出して、「これで食ひつないで下さい」と言つて渡す。労働者の帰つた後で里村の言ひ草が振つてゐる。「あれで俺よりか金持になつた」不景気深刻である。 「私の一日」
葉山嘉樹
『葉山嘉樹全集』第6巻
昭和51年6月30日
筑摩書房
1929
昭和4
2月11日 26 「文芸戦線講演会」が帝大仏教青年会館で開催され、[葉山嘉樹は]青野季吉、前田河広一郎、細田民樹、平林たい子、里村欣三らと講演。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1929
昭和4
3月17日 27 山本勝治君は、突然とあらはれて、突然と我々の前から去つた作家である。(中略)蒼白な、整つたインテリゲンツィア風な顔の、よく泣いて昂奮することのあつた彼が、今日悲しい思ひ出となつてゐる。(中略)同志山本は、一九二九年三月十七日の朝、配達しに出た新聞の束を抱いたなり、東中野と中野駅間の省線軌道へ、投身轢死した。この我々にとつての不慮の死の、最も首肯し得べき原因は新聞配達従業員の岩月監理所(東京朝日新聞直売所)との争議である。同志山本も、その渦中にあつた。 「同志山本勝治!」
前田河廣一郎
『員章を打つ』
(山本勝治)
昭和4年12月30日
文藝戦線出版部
1929
昭和4
4月10日 27 東京モスリン吾嬬工場の争議には、寄宿舎内に監禁されてる女工二千二百余名と、それに通勤の男女工八百名が、一糸乱れない、結束と団結の下に参加してる。(中略)この日(十日)工場の正門前に行つてみた。(中略)寄宿舎の窓にザクロのやうに群れた女工の群れが、手拭や赤い布を見えない外部の群衆に打ち振つて、その無数の口唇が労働歌を叫んでるのを見た。 「東京モスリンの争議を観る」
里村欣三
『文芸戦線』
昭和4年5月号
1929
昭和4
  27 [高橋辰二]
文芸戦線の編集にもタッチしはじめ、多くの文学的知勇を得る。特に石井安一、里村欣三らと親交を深める。
「高橋辰二年譜」
『高橋辰二遺作品集』
1989年10月29日
青磁社
1929
昭和4
  27 彼[葉山]の愛すべき弟分里村欣三は、山谷か、釜ケ崎をほっつき歩いて、満州くんだりまで行って苦力のドヤ街にもぐりこんだり、満人といっしょに平康里(遊郭街)をひやかしたりするもっさりした男で、対照的であった。しかしこの二人が奇妙に『文芸戦線』の雰囲気をつくり出していた。 『改造社の時代』
水島治男
昭和51年5月25日
図書出版社
1929
昭和4
  27 紺ガスリの葉山と合服のわたしとが、代々木上原の青野宅についたのは午後であった。そこでわたしは主人公の青野季吉はもとより、ちょうど来合わせていた里村欣三など「文戦派」の人たちといっぺんに知り合った。通称「欣チャン」こと里村欣三はことにわたしの来訪をよろこんでくれ、「あんた、おもい切って『文戦』に入んなさい」と、手を取らんばかりにして、「ねえ、青野さん、一つ『文戦』に入ってもらおうじゃないか」「そ、それは、僕も賛成だ」と、青野もいった。 「無想庵と葉山嘉樹」
間宮茂輔
『三百人の作家』
昭和34年5月15日
五月書房