西暦 月日 満年齢 記事 出典
1930
昭和5
2月 27 長男欣之助(中略)が生まれた 「解説」堺誠一郎
『河の民』(中公文庫)
1978年2月10日
中央公論社
1930
昭和5
4月20日 28 十九日の夜、ある印刷工の集まりに行つてゐると、東京出版の高野實君が来て、「今、市電の争議命令が出た。あす朝、始発電車から一斉に罷業に入る。」 いよいよやるな!一座の人達はみんな緊張した顔になつた。翌朝まだ眠つてゐる僕を里村欣三が叩き起した。「起きろ! 至急本部に集まつて応援方法を講じるんだ。」里村は身軽に身ごしらえしてゐた。僕は彼の緊張した顔から、市電当局及び警視庁の××、陰険な挑戦、ブルジョア新聞(特に東京朝日)の従業員を窮地に陥らしむるための逆宣伝、罷業従業員をどうかして勝たせ度い願望。──そういふものを目ざとく見て取つた。(中略)「裏切者!ばか野郎!」癇癪持ちの青木[壮一郎]が第一番に怒鳴る。続いて里村も僕も、出来るだけの聲を張り挙げて怒鳴る。怒鳴られたスキヤツプも、道行く人達もびつくりして振り返る。 「争議の朝」
小堀甚二
『文芸戦線』
昭和5年5月号
1930
昭和5
8月 28 深夜の帰宅になるだろうと思っていた石井[安一]が、意外に早く帰って来て、「たい子さんと里村が捕まったよ」と、暗い表情でいった。国立中野療養所の看護婦たちが、労働条件改善のために組合をつくり、団体交渉を始める準備をしているので、激励と指導にきてほしいという要請が『文芸戦線』の読者である看護婦からもたらされ、平林たい子さん、小堀甚二さん、里村欣三さん、そして石井の四人で出かけたのだった。(中略)昭和五年夏の夜のことであった。(中略)里村さんが[杉並署に]捕まったことで、小堀さんや石井が、「逃げ足の早い里村がどうして?」としきりに首をかしげるのを、私はいささか奇異に感じたのだが、「逃げ足が早い」ということが、里村さんの場合には特別の意味があったことを私が知ったのは、数年たってからであった。 『木瓜の実 石井雪枝エッセイ集』
1990年6月29日
ドメス出版
1930
昭和5
11月 28 十一月十日、労農芸術家聯盟が分裂。(中略)二十四日、黒島伝治らが脱退の際に、文芸戦線読者名簿(中略)などの一部を持ち去ったことに憤慨して、黒島伝治を呼び出し、刃傷騒ぎを起こした。いわゆる、焼ゴテ乱闘事件である。『東京朝日新聞』(十一月二十六日)は、(中略)黒島伝治方へいはゆる幹部派の岩藤雪夫、井上賢次、長野謙一郎、里村欣三の四名が訪れ、里村が屋内に入つて黒島を呼びだし(中略)杉並町高円寺三二の岩藤方へ連行するや直に座敷へ引きずりあげその場に待合わせてゐた葉山嘉樹、前田河広一郎を中心に岩藤は三尺余りの日本刀を畳の上にヅブリと突き刺して貴様の脱退理由声明書は怪しからん、この場で直ぐ声明書の取消文を書けと脅しつけ、前田河、葉山等は焼ゴテなどをふり回して脅迫したので黒島はその場でペンを取つて取消文を書きあげた。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1931
昭和6
1月 28 埼玉県熊谷市で汽車を乗り捨てたのが、一月十三日午後一時過ぎである。(中略)熊谷から深谷へは三四里の道程だ。古い昔ながらの中仙道で、熊谷を離れると、とつぷり日が暮れた。(中略)飯が済むと、泊り客のルンペンは囲炉端と炬燵は集つた。私が東京から来たといふと、「あつちの景気はどうだい!」と言つて、私の話を聞き度がつた。私が東京の無惨な失業群の模様を話すと、彼等はみんな痛さうに頭を抱えて唸つた。「何処もおなじだなあ!」(中略)私は大利根流域の疲弊がひどいと聞いたので、深谷から大寄村を抜けて明戸へ出て、高島の渡船に乗つた。(中略)新田郡強戸村。この村には須永好氏が十年一日の如く、農民の組織のために不撓不屈の闘争をつゞけてゐる。光輝ある小作人自身の村だ。(中略)前橋と桐生の機業地の一端を覗いた私は、(中略)大胡町で下車した。それが一月の十七日の早朝である。(中略)北甘楽郡の山村を見るつもりで、上州富岡へ下車したのが十八日の夜九時過ぎである。(中略)富岡で一泊して、翌朝岩染村へ向ふ。こゝに高橋辰二君の実家がある。 「暗澹たる農村を歩く」
里村欣三
『文戦』
昭和6年3月号
1931
昭和6
5月11日 29 五月十一日、細田源吉、藤川靖夫、間宮茂輔、細田民樹、小島勗、大山広光、米田曠らが労農芸術家聯盟を脱退。『時事新報』(五月十三日)には、(中略)左翼文芸雑誌『文戦』に立籠る労農芸術家聯盟の内部では、聯盟のスローガンである山川イズムを根拠とする「単一無産政党論」に慊らず三月下旬以来細田源吉、細田民樹氏等の有力幹部を始め間宮茂輔、小島勗、其他数氏によつて一つのフラクシヨン運動が続けられてゐたが、(中略)以来政治的意見の論争対立が愈々激化し、十一日午後七時聯盟本部に第三回政治研究委員会を開き、両者間の最終的態度を決することになつた。本部側では金子書記長を始め、青野、前田河、葉山、里村、岩藤、水木、檜諸氏その他聯盟員の大多数が九段下文戦本部に集合、反本部派の来場を待つたが、定刻七時を過ぐるも姿を見せざる為(中略)除名、(中略)反本部派の前記十一名は(中略)直ちに「前線作家同盟」を結成、文戦打倒を申合せ声明書を発表した。(中略)当夜は二十余名の警官が本部の周囲を包囲し一時は物凄い空気であつた。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1931
昭和6
  29 『土手のお金を知つてゐますか?』私達が『存じません』と答へると、草間八十雄氏は、世の中のどん底で舐めて来た人にのみ見る、いや味のない顔に、微笑を泛べた。(中略)洗ひざらしのオーバーオールを一着に及んで、失業マドロスそつくりに変装してゐる葉山(中略)印半纏に腹がけ半ズボンの里村は、土方面を地で行つて澄してゐた。草間氏と、私たち二人と、改造社の××君を加へた四人は、間もなく草間氏の自宅を出て、江戸川橋詰の飯屋へ立寄つた。こゝで暗黒街探険の祝杯を泡盛で挙げた。 「東京暗黒街探訪記」
葉山嘉樹、里村欣三(共同調査及制作)
『改造』
昭和6年11月号
1931
昭和6
11月 29 [昭和6年9月18日]
満州事変がおこり『改造』の特派員として従軍。
『従軍作家里村欣三の謎』高崎隆治
梨の木舎
1989年8月15日
1931
昭和6
11月24日 29 齊々哈爾へ着いたのが、夜の二時過ぎだつた。(中略)私が当地へ到着したのが二十四日であるから、ちようど昨日あたりから馬車や人力車がボツボツ街頭へ出始めたばかりだ。で、軍事関係と新聞記者以外の入城者では、私が一番乗りと云ふ訳だ。(中略)私は齊々哈爾へ着いた翌日、馬車を傭つて市内を見たが、市中は意外にも活気づいてゐた。(中略)十一月二十七日、兆[さんずいに兆]昂線を南下して○○方面に出動する軍用列車に同乗して龍江站を発車した。それが午前十時である。(中略)私は清掃隊の兵隊さん達と共に、大興駅で下車した。(中略)列車はその夜兆[さんずいに兆]南止りになつた 「北満の戦場を横切る」
里村欣三
『改造』
昭和7年1月号
1931
昭和6
12月10日 29 十二月十日午前十時、奉天発の軍用列車に便乗して、新民屯へむかつた。(中略)便乗者は十二、三人たらずだったが、重苦しい防寒服を着こんだ兵隊と、ピストルをガチャガチャ腰にぶらさげている軍用関係の商人や通訳ばかりだつた。(中略)新民駅へ降りて、駅前の石段のうえから眺めると、人口四、五万はあると思はれる市街が一望のうちに俯瞰される。(中略)炭都撫順の空は、まつ暗い煤煙におおはれてゐた。粉雪まじりの烈風が横なぐりに吹く日、私はある知人の紹介で朝鮮人民会に避難の鮮農群をおとずれた。 「戦乱の満州から」
里村欣三
『改造』
昭和7年2月号
1931
昭和6
  29 里村は、改造社にゐた水島氏に頼んで、満州へ改造特派員となつて行つた。これが、彼の戦争に対するある種の心理的変化のきつかけだつた。彼は帰つてくると、逃亡兵として自首することを考え始めた。(中略)子供が学齢に達してゐるのに無籍になつてゐるのは子煩悩の彼にとつて大きな苦痛であつたに違ひない。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1931
昭和6
  29 北支満州の鉄道沿線に駐屯している国軍訪問の旅のことから思いかえした。彼の気持は、このときから[転向への]鳴動をはじめたのだった。 『鉄の嘆き』
平林たい子
昭和44年12月25日
中央公論社
1931
昭和6
  29 わたしはある雑誌社から派遣されて満洲事変に従軍しましたが、まだその時にはその思想を十分に清算しきつてはゐませんでしたが、満洲の凍野で戦はれた皇軍の勇戦ぶりや、当時の張学良政権が在留邦人に加へた圧迫や、不法にも日本の国家的権益を蹂躙した実例など、そんないろんな事実を見るにつけ、聞くにつけ、わたしの精神には非常な動揺と苦悶が生じました。満洲事変の前年の秋には、わたしは東北地方の凶作地帯を見て歩いたのですが、(中略)その翌年、満洲事変の勃発とともに、わたしの従軍したのが、この凶作地帯の壮丁をあつめた多門師団でありました。そしてわたしが吃驚したり、感心させられたりしたことは、この凶作地帯を郷土とする兵隊さんたちが、郷土を襲つてゐる冷害のことなど念頭になく、零下三十度の北満の雪原で戦つた壮烈な姿でありました。 「閣下」
里村欣三
『知性』
昭和18年3月号
1932
昭和7
1月1日 29 昨夜里村と飲んで早く寝た。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
1月10日 29 いよいよ一文無しだし、質草も無し、タバコも無し、仕方も無しに、里村方へ民坊を連れて遊びに行く。いい日和だ。(中略)暫くして、余りの天気の良さに自分は家を探しがてら、里村は田口君を訪問見舞う為に一緒に出て、妙法寺の方から堀之内の方を見て歩いた。ソバ屋でソバを頼んで里村と別れ家に帰る。ソバを食つている処に里村やつて来る。里村の満蒙談を聞いているうちに、粉煙草も無くなつたので、ゴーリキー全集を質に入れて一円借り刻みと塩せんべいを買ふ。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1932
昭和7
1月13日 29 里村が改造に行くんだと云つてやつて来た。家を探して見たが適当なのが無いと云ふ。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
1月30日
1月31日
29 夕方から里村を訪ね、酒をよばれ酔つ払つて泊つてしまつた。(中略)目が覚めると、里村欣三と同衾していた。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
2月1日 29 里村、中井、[労農藝術家聯盟の]文学部会に誘ひに来た。一緒に出かけた。前田河、青野、鶴田、岩藤、伊藤永、辰ちゃん、等集まる。反帝戦争作品に対する討論をやつた。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7年
2月11日 29 午後原つパに出て藁灰を作り、その後で木屑を燃やしてゐる処へ里村が青い顔をしてやつて来た。執行委員会で里村の満蒙の雑文をもつと反戦的に書くやうに、書いたら前田河の検閲を受けるやうに決定したと云ふのだ。何たる事だ。里村がいくら書いたつて、雑誌や新聞の方でいくらでも好戦的に直しちまふのじゃないか。慰さめて、幸ひ酒が一升あつたから、そいつを飲んだ。そして酔つ払つて又、里村の家へ行つた。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房 
1932
昭和7
2月17日 29 昼時分里村がひよつこりやつて来た。一緒にすゝめて麻生(久)の淀橋の事ム所に行く。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
2月18日 29 野方第四小学校に応援に行く。中止を食つた。それから荻窪へ行つた(中略)里村、中井、広野、井ノ健等と、会場の交渉、撒きビラ、何やかやと種々忙しく立ち働いた。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
2月27日 29 高橋辰ちやんに動員令が下つた。(中略)里村は一寸帰つて来るとて出て行つたが、宝焼酎の四合瓶を提げて来た。夜九時頃、辰ちやんたちが来た。焼酎をチビリチビリ舐めながら、犬死にをしないように慰め励まし、軍閥の横暴に憤慨した。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
3月1日 29 満州国成立。  
1932
昭和7
3月10日 29 里村の宅に引き帰すと居た。もうズツとお粥を啜つていると云ふ。哀れを催す。一緒に田口[運蔵]君の妻君のやつている喫茶トロイカに行きコーヒーを馳走になり、星君を訪ふ。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
4月2日 30 [葉山嘉樹、中津川に都落ち]
今日夜の十時の夜行で行く事に決定。広野君に中野駅まで行李を運んで貰つた。里村と一緒に時事に行く。来訪者、辰ちやん。中井、里村、鶴田、石井、の諸兄であつた。
『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1932
昭和7
5月15日 30 労農芸術家聯盟が解体され、翌十六日、青野季吉、金子洋文らがコップ(日本プロレタリア文化聯盟)に対抗する組織として労農文化聯盟を結成した。なお、機関誌『文戦』は、七月号を以って廃刊され、『レフト』へ解消されることになった。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1932
昭和7
5月16日 30 『レフト』と云ふ名前は、皮肉な歴史をもつてゐる。『文戦』を建直すための全体会議が、下荻窪の福田新生のアトリエで催された。その席上、機関雑誌の改題が問題となつて例によつていろいろと発案されたが、結局、里村欣三の発案でこれに定つたのだつた。 「『新文戦』としての出発に際して」
青野季吉
『新文戦』
昭和9年1月号
1932
昭和7
5月 30 里村欣三も、あらゆる独身の苦悩時代を経て、抜きさしならぬ、子供連れの苦労に陥つている。これは里村の、人間を解剖するメスに磨きをかけるだらう。 高橋辰二宛書簡
(5月23日消印)
『葉山嘉樹全集』第6巻
昭和51年6月30日
筑摩書房
1932
昭和7
6月初め 30 療養所を出た[田口]運蔵はアサノの経営するトロイカの二階に迎えられた。(中略)病身の運蔵には心休まらぬ宿であった。(中略)運蔵は前田河に、そんなトロイカの事情をはなし、「さいわい、伊豆に同志のものがあって(中略)」と、転地を申し出たという。同席していた里村欣三も(中略)賛成し、自分が同伴して先方に頼んでくると言ったので、前田河は心ならずも一切を里村に任せた。かくして運蔵は高円寺には二ヵ月ちょっといただけで、一九三二年六月初め、終焉の地、伊豆伊東へ赴くのである。 『弔詞なき終焉』
荻野正博
1983年9月16日
お茶の水書房
1932
昭和7
6月10日 30 北海道、東北はますますひどいらし。里村欣三よ! ガン張つていいニュースを取つて来い。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
6月10日 30 土崎は、私には始めての港である。だが、この土地は(中略)「文戦」を育んだ懐しい北国の小都会である。(中略)秋田から大館行の列車に乗つた時、私はフンプンと魚臭のみなぎつた、よごれた紺絣の筒袖に雪袴を穿いた大勢の女行商人が乗り込んでゐるのを見た。(中略)あの女達は一日に三時間と睡る暇がないんださうだ。(中略)私達は、O氏と秋田K君夫婦と共に一日市へ下車した。日暮れ前だつた。(中略)夜、日がとつぷりと暮れてから、五六人の組合員が田植ゑ支度のまま、支部事務所へ集つて来た。(中略)他村の未組織農民に較べて、この土地の小作人には灰色の絶望がない。張り切るやうな闘争心に燃えてゐる。(中略)私は北秋田郡の矢立村、長木村、垈野村の凶作被害が相当に劇しいと聞いたので、その方面を調査した。(中略)七瀧村から十和田湖へ八里。私はこの荒涼たる裸の[小坂銅山]煙害地を横切ることに決心した。行ども行けども、荒涼たる萱の原である。 「凶作地帯レポート」
里村欣三
『改造』
昭和7年8月1日号
1932
昭和7
6月12日 30 日本新八景十和田!(中略)私が行つた時は、六月十二日だつたが、まだ桜がさいていゐた。(中略)瀧の澤の峠から黒石までは、浅瀬石川の渓谷に沿うて下るのである。葛川村、竹館村、山形村を通つて行く。(中略)二庄内で百姓宿へ一泊(中略)黒石町には全農会議派の支部がある。県下では唯一の地盤だ。だが、組織は全滅の状態になつてゐるさうだ。(中略)被害の最も深刻な津軽半島の凶作地帯を駈足で一巡しなければならない。(中略)車力村、田村、中里村、内潟村等は「全農」の強固な組織地帯である。(中略)この農村に較べて、更に悲惨なのは、十三村、小泊、下前、脇元といふやうな漁村である。全然田畑を持つてゐないこの地方の漁民は、文字通りの飢餓に陥つてゐる。 「凶作地帯レポート」
里村欣三
『改造』
昭和7年9月1日号
1932
昭和7
6月27日 30 里村君が帰つたさうだが、東北北海道の農民の窮状は、此地方の農民から推しても大凡が分かる。 広野・中井宛書簡
『葉山嘉樹全集』第6巻
昭和51年6月30日
筑摩書房
1932
昭和7
6月30日 30 僕は三ヶ月も、木曽の山奥に蟄居してゐる人間だ。現在の文戦も、未来のレフトの動静も分りつこないのだ。里村の文句では、「僕と長野君と石井君とは、レフトに参加しない。」(中略)里村が、二三の者と、[レフトの]臨時総会に、急慌脱退しなければならなかつた程、情勢は切迫してゐるのか。(中略)里村たちが、脱退までして、階級性を守ると云ふ事になると、容易ならぬ問題である。(中略)里村欣三が気紛れの仲間では無くて、生死を共にする同志である事は、僕の最もよく知つてゐる処である。勿論、理屈を云はせれば、彼程、まづい男は無い。彼は舌で喋舌る。が、心臓の思ふ通りに喋舌れないのだ。その点、一、二、三、で畳みかけて、詭弁で人を言ひ負かすやうな、薄つぺらな人間とは違ふ。そして、集団は、大抵、精神よりも詭弁でリードされる欠点を持つてゐるのだ。(中略)殊に、石井安一君が、里村君と行動を共にすると云ふ処に、僕は事実の重大性を認める。安さんは、口下手だし、素朴極まる存在だが、僕はその行動性にいつも敬意を表してゐる。(中略)里村は、僕がまるで尻を押し出すやうに押し出した満州特派でも、内部からの酷い嫉妬を十二分に受けた。そして今度の東北視察である。それを嫉いてゐる者が無いとは言へないと思ふ。 未投函書簡
『葉山嘉樹全集』第6巻
昭和51年6月30日
筑摩書房
1932
昭和7
7月3日 30 『レフト』の伝単が出来るか出来ない中に当の[改題発案者である]里村が真先に『レフト』を去り(後略) 「『新文戦』としての出発に際して」
青野季吉
『新文戦』
昭和9年1月号
1932
昭和7
8月4日 30 昭和七年五月十五日に労農芸術家聯盟が解散し、翌十六日、青野季吉、金子洋文らが労農文化聯盟を結成、さらに七月三日、左翼芸術家聯盟(機関誌『レフト』)を結成したのに対して、七月十四日、労芸を脱退した葉山嘉樹、前田河広一郎らのグループは労農文学同盟を創立、これが八月四日にプロレタリア作家クラブとなり、昭和八年一月機関誌として『労農文学』を創刊した。創刊時の「同人」は葉山、前田河、里村欣三、岩藤雪夫、井上健次、中井正晃、石井安一、田口運蔵ら二十名 小田切進
『現代日本文芸総覧』上巻
昭和44年11月30日
明治文献
1932
昭和7
8月4日 30 八月四日、労農文学同盟が分裂し、[葉山嘉樹は]中沢幸成、中井正晃、広野八郎、高橋辰二、井上健次、田中蔀、白銀功、里村欣三、田口運蔵、石井安一、等々力徳重、岩藤雪夫、前田河広一郎、原木雄一郎らとプロレタリア作家クラブを創立。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1932
昭和7
8月10日 30 [里村欣三の失踪宣告手続き]
戸籍には、「昭和七年八月拾日失踪宣告昭和六年参月弐拾弐日死亡ト見做サル右本人母前川ひさ届出」とある。父前川作太郎が昭和二年八月三十日(中略)死亡した。里村が徴兵忌避で行方不明となっていたため、昭和七年八月二十六日になって、父作太郎の死後五年目に、四男の四海が家督相続を届出したのである。
「里村欣三の『第二の人生』」
浦西和彦
『日本プロレタリア文学の研究』
桜楓社
昭和60年5月15日
1932
昭和7
8月31日 30 [葉山、再上京]
日本国民へ行く。金百円前借りして、電報為替で五十円、菊枝に送る。里村の家へ来て、家を借りて貰ふ。和田堀町松ノ木一一二二へ、二階建長屋の一軒を借りる。二十円の家賃なり。(中略)夜、酒を買つて、里村たちと飲む。里村フンダンに酔ふ。俺も酔つ払つてヘドを吐いて、下の六畳に蚊帳も吊らないで寐た。
『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1932
昭和7
10月5日 30 [プロレタリア]作家クラブの会合があるので、里村の家へ行つた。岩藤も、衰へてやつて来た。前田河、中沢、中井、広野、等々力、井上君等出席。(中略)誰も貧乏と労苦で淋しげなり。 『葉山嘉樹日記』
1932
昭和7
10月9日 30 里村が、三日も女房子を連れたまゝ、家に錠をかけてどつかへ行つてしまったので、不安になり朝の間見に行く。未だ帰つてゐない。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
1月2日 30 里村方にて多数にて新年会をやる。 『葉山嘉樹全集』第6巻
雑纂
1933
昭和8
1月5日 30 里村と又、林芙美子を探しに出かけた。吉屋信子の家で聞いてやうやく分つた。晩くまで酒を馳走になつて雨に降られてぬれて帰つた。 『葉山嘉樹全集』第6巻
雑纂
1933
昭和8
1月10日 30 里村、中井等と、村松梢風氏を訪ふ。労農文学に援助を求め30,00を借りる。 『葉山嘉樹全集』第6巻
雑纂
1933
昭和8
1月20日 30 里村、茨城へ、婦人世界の探訪記事を取りに。 『葉山嘉樹全集』第6巻
雑纂
1933
昭和8
1月23日 30 里村が来たので、一緒に雑誌「労農文学」の金策に出かける。(中略)夕刊に、堺利彦氏死去とある。(中略)堺氏宅に行く。山川、荒畑氏等、先輩多数参集され居り。夕方になつて青野や鶴田等も来る。(中略)一時頃、荒畑、橋浦、小堀、里村、鈴木茂三郎君等と帰宅の途につく。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1933
昭和8
2月20日 30 一九三三年二月二十日は、小林多喜二が、築地署で、警視庁の中川、須田、山口らの特高に、虐殺された日である。(中略)多喜二は殺されたとき、三〇歳だった。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1933
昭和8
2月21日 30 夕刊に、小林多喜二が、築地署で死んだと出てゐた。大抵想像のつく死に方である。可哀想な事をした。コップ側では真面目な、大して思ひ上らない、いい作家であつたのに。昔、郷里基と署名して、僕の「海に生くる人々」を讃めて来たことがあつたが、今はもう亡いのか。(中略)小林なんか生きて、書いてゐれば、後から後から未組織労働者を引き入れる事の出来る才能を持つてゐたのに。なる程、自分で飛び込んぢまへば、花々しくはあるが、それでは効果的で無い。合法性の極点にゐて、自覚を労働者に促すべきではなかつたか。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1933
昭和8
4月18日 31 里村と中井、「労農文学」の金策に出かける為に出がけに寄る。(中略)夕方、里村、中井、東京中を歩き廻つて、ムダ足をして、ヘトヘトになって帰って来た。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
5月1日 31 里村は欣坊を連れ、自分は民坊を連れて、メーデーを列外から参加する。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
5月29日 31 里村、「労農文学」休刊の挨拶の原稿を書いて見せに来る。憮然たるものあり。暫く雑誌、芸術談に及び激励して分れる。夕方バットを買いに出て、里村の家へ寄つて見る。家内雑然として取り止めも無き様なり。これでは昼間の仕事は覚束なしと思ふ。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
7月7日 31 里村に女の子[長女夏子]が生まれた。母子共に健在。労農文学が出来た。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
7月 31 先月号で前田河が『里村のところに怪物が出現した』と紹介してくれた赤ん坊──。こいつは生れてから、もう五十日ほどになるがひどくガツチリ生長して、石井君が作つてくれた寝台の上で、いつでも小さい指を啣へてスヤスヤと眠むつてゐる。(中略)殊に夜など、蒸し暑い蚊帳の中で、上の男の子と小さい枕を並べて寝てゐる可愛いい寝姿を見ると、私もやはり平凡な父親となつて一生の希望をかけて、子供の成長に没頭できる世間一般の父親になつてしまひ度い気になることがある。勿論、プチ・ブル意識だが、誰にだつてこの感情のあることは否めない。 「病中のたはごと」
里村欣三
『労農文学』
昭和8年8月号
1933
昭和8
7月14日 31 里村を訪ふ。「労農文学」の事で、警視庁検閲課から出頭しろと云つて来たので出かけると云ふ。発禁を心配していたので、「注意位で済むのだな」と稍安堵する。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
9月2日 31 夕方から、江口渙の家へ里村と行く。布施辰治、高津正通〈道〉、加藤勘十、江口渙、佐々木高丸、里村と自分と、も一人若い何とか云ふ青年と、平和の友の会の事で雑談中、田無署の刑事がやつて来て、駐在所まで来てくれと云ふ。そこまで行くと、署まで行つてくれと云ふ。署まで行くと、直ちに留置場へ。(中略)四人づゝに分けられて、先客四人の中に割り込む。暑くて狭くて足のやり場が無くて困る。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1933
昭和8
9月2日 31 二日、極東平和の友の会の会合が江口渙宅で開かれ、雑談中、[葉山嘉樹は]布施辰治、高津正道、加藤勘十、江口渙、佐々木高丸、里村欣三らとともに田無署に召喚された。三日、田無署と本庁の特高から取り調べを受けた後、二時ごろ釈放された。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1933
昭和8
9月3日 31 二度、一度は、田無署の、一度は本庁の特高から調べられたが云ふ事も無いし、やつた事も無いので、二時頃釈放される。布施、高津、里村、僕。江口を洗ふんだと、本庁のが云つていた。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
9月7日 31 里村を訪ひ金の出来ない旨を告げる。今日から支那そば屋の準備だとて、半ズボンにシャツの扮装で一緒に馬橋の停留場まで出る。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
9月8日 31 里村を訪ねる。支那そば屋の資本を借りに橋浦方に行つて不在。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
9月30日 31 夕方、里村が屋台を曳いて出るのを見送つて一緒に山口屋まで行く。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
9月 31 『どうせ、これからは、書いた物で食っていけないから、私はワンタン屋をはじめようと思うんです。』(中略)うすくらがりに当り矢の行灯がともり蒸籠と鍋からは湯気が立ちのぼり、焼豚に葱に、隅の一升瓶にまで生気があがっているという商売振りだった。七輪をあおぐ団扇も新しく、景気ずけに出す一杯の冷酒もまんざらではなかった。 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』1960年4月創刊号
全線
1933
昭和8
10月8日 31 八時半頃、里村の支那ソバのチャルメラ下の街道に聞える。こんな雨の夜に同志が支那ソバの屋台を引つ張つて歩くのを聞き感慨に堪へず。まづい笛が遠ざかつて行く。売れないのならん。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
10月22日 31 午後一時から、「労農文学」休刊の会を催す。田中蔀、前田河、里村、石井、立脇、広野、中井君等集る。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
12月12日 31 里村、支那ソバ屋を止したりと。何もかも、良くないなり。 『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
12月 31 労農文学が出ているうちは、里村にとっても励みになり、どうやら夜間の稼ぎも苦にはならなかったらしいが、雑誌が出なくなり、諸方面が詰らしくなると、意地も張りも利かなくなって、すっかり投げてしまった。 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』1960年4月創刊号
全線
1933
昭和8
12月18日 31 身辺の同志、友人の動静を書いたら面白い小説が出来上がる。
里村、支那ソバ開業──へべれける。屋台と一緒に引つくりかへる──女房の牽制家出──ソバ屋廃業。
『葉山嘉樹日記』
1933
昭和8
12月25日 31 『タグチキトクスグコイ』夜間の配達であったが、居合わせた里村が、さっそく買って出て翌朝一番で伊東へ駆けつけると云って帰った。それから翌々日、田口[運蔵]が骨になって小さな筺に納まって帰ってから(後略) 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』1960年4月創刊号
全線
1934
昭和9
1月6日 31 [葉山嘉樹、家族を残し、天竜河畔・長野県下伊那郡泰阜村明島の三信鉄道工事へ]
里村方にアイロンを返しに行き、共に家に帰り、親子四人、尾頭つきの鯛の塩焼きにて昼食をし、心許りなる出発祝ひをなす。
『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1934
昭和9
1月14日 31 高円寺のトロイカの二階で、前田河広一郎が中心になって旧文戦派の人々が集まり、ささやかな[田口運蔵の]葬儀が行われた。(中略)郷里からは親戚が一人来ただけであった。血の気の多い石井安一や里村欣三などはひどい扱いだと言って、興奮していたという。 『弔詞なき終焉』
荻野正博
1983年9月16日
お茶の水書房
1934
昭和9
2月6日 31 [葉山嘉樹、家族を迎えに一時帰京]
里村来る。本日引つ越しなりと。世田ヶ谷の方に安兵衛[石井安一]と共同生活をやると云ふ。大分行き詰まつてゐるらしい。
『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1934
昭和9
2月 31 昭和九年二月から、里村さん一家と私たち[石井安一一家]は、世田谷の太子堂の崖の上の二階家で共同生活を始めた。私たちが二階の二間を使い、里村家が階下の二間を使うというものだった。(中略)その家での共同生活は九月ごろまでで、どういうてづるがあったのか、里村さんたちは千葉県の長生郡に移っていかれた。 『木瓜の実 石井雪枝エッセイ集』
石井雪枝
1990年6月29日
ドメス出版
1934
昭和9
2月9日 31 [葉山嘉樹、家族を連れ、本格的に天竜河畔・下伊那郡泰阜村明島へ都落ち]
荒畑氏に暇乞をして午後十時四十五分新宿発門島に向ふ。
『葉山嘉樹日記』
1934
昭和9
31 最も仲が良く、日夜往き来して兄のように思っていた葉山嘉樹氏も東京での生活が成り立たなくなり、長野県天竜の飯場に行ってしまった。このことは里村氏にとって絶望的な出来事であったに違いない。さらに長男の学齢期が近づくにつれて戸籍のないことに対する焦りが氏を捉えはじめていた。それより先、兄はどこかに生きているに違いないという確信を持ちつづけていた妹華子さんが、若いときから兄によく名前を聞いて覚えていた中西伊之助氏に手紙を出し問い合せたことがきっかけで、里村氏と華子さんの間にはひそかに文通がはじまっていた。そして昭和九年春、里村氏は妻と子供二人を連れて、両国の旅館で十数年ぶりに継母と伯父(陸軍少将)夫婦に会い、七年前五十四歳で父が亡くなる最後の息を引きとるまで氏のことを気にかけていたという話を知らされた。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1934
昭和9
3月 31 打ちつづく暴圧のために、コップを中心とするプロレタリア文化・芸術運動が崩壊をよぎなくされて行ったのは、一九三四年に入ってからで、作家同盟はこの年の三月、二月二二日付の解体声明をだすにいたった。(中略)集会の事実上の禁止や、刊行物活動の自由の剥奪──連続の発禁と差押え──や、数えきれない検束、拘留にとどまらず、(中略)暴圧によって殺されたのは、小林多喜二だけではなかったということである。つかまると即日、多喜二は殺されたが、この時期の暴圧がもとで、やがて命を失ったものに、今埜大力、今村恒夫、本庄陸男らがあった。 『プロレタリア文学風土記』
山田清三郎
1954年12月15日
青木書店
1934
昭和9
9月27日 32 [葉山嘉樹、天竜河畔から長野県上伊那郡赤穂村へ移住]
今日、いよいよ引つ越しだ。(中略)漂泊の旅! 日暮れて、赤穂に着く。
『葉山嘉樹日記』