西暦 月日 満年齢 記事 出典
1934
昭和9
9月 32 一と夏、私達が御宿ですごしたことがあった。そこへひょっくり訪ねて来た里村をみると、ひどくやつれて、服などもずいぶんとくたびれておった。どうしたんだ、と訊くと、一宮の近くの東浪見へ来ているんだという話であった。『平凡社の人の別荘が東浪見に空いていると聴いたんで、東京の借家が駄目になったんで、その方へ移って来ました。(中略)屋根に瓦がのっかっているだけのアバラ家で、窓も障子も雨戸もすっかり掠奪されて、何一つ残っていないんです。(後略)』(中略)ところもあろうに、外房の漁どころで、平板へ釘を打ちつけた漁具で魚をとって歩いている里村のうらぶれた姿を思いうかべて、ちょっと暗らい気持ちになった。 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』1960年4月創刊号
全線
1934
昭和9
10月24日 32 十月末、たしか二十四日頃だと思ふが、ある用件があつて東京へ出た。出たついでに帰る旅費がないので、中西氏のうちへ居候して原稿を書いて、朝日から金を貰つて帰村した。
(住所 千葉県長生郡東浪見村字大村小安地内 佐伯方)
里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和9年11月8日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1934
昭和9
11月 32 私は漁師の生活には興味があるが、漁師にならうとは思はない(中略)朝の三時と言へば、まだ真暗だ。隣家の漁師佐平が、(中略)鯨を拾つたんだが、ちよつと手を貸せといふ。(中略)夜が明け放たれる頃、やつと鯨を波打際から七八間上へ引き上げた。(中略)私は佐平から五圓貰つた。 「九十九里ヶ濱スケッチ」
里村欣三
『社会評論』
昭和10年8月号
ナウカ
1934
昭和9
11月9日 32 里村欣三より来信。鯨を拾って漁夫に五円貰つて、へゞれけに飲んで酒乱をしたと云ふんだから相不変だ。文学評論に一枚五十銭で原稿を書けと云つて来た。心尽し嬉しい。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1934
昭和9
11月 32 ──思想は捨てたが、詐欺師にはなりたくなかつた。兵六は、まだ一度も転向を声明したことはなかつた。また友人たちに、動揺している気持を訴へたこともない。だが、彼が千葉県の海岸で逃避の生活を送つている間に、兵役関係を清算して更生しようと考えた時から、彼の思想は変わつてゐたのだ。 『第二の人生』
第二部
里村欣三
昭和15年10月28日
河出書房
1935
昭和10
3月4日 32 全く遠くに離れ合ってみると、実際寂しいし、小説も書くのに気が乗らないこと夥しい。いつかいつか是非近いうちに、また近所に住み合つて、お互に力になり合つてこの困難期を突破して行き度いと考へます。(中略)僕はもうプロ文学のゴタゴタには嫌気が差してゐるし、没落に瀕している人間が他人の尻馬に乗つて騒いだつて、世間の物笑いだから当分「客観」してゐるつもりだ。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年3月4日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1935
昭和10
4月23日 33 里村が妻君の里に帰るとて行衛が不明だと、小堀から知らせて来た。ガン張り切れなかつたのだらう。 『葉山嘉樹日記』
1935
昭和10
4月25日 33 里村の妻君から来信、九州に帰つてゐるのだつた。里村と二三ヶ月分れて暮すと書いてあつた。どうしたのであらう。何か不吉なものを感じた。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1935
昭和10
5月 33 二人の子供と妻を妻の実家福岡に帰らせ、自分は岡山市伊福清心町三十に住んだ。 加子浦歴史文化館
資料「里村欣三年譜」
1935
昭和10
5月 33 彼は用意周到に文戦の仲間から離れて家族をつれて岡山県に引つこんだ。そこで、国民としての目覚めから、逃亡兵の呵責に耐へかねた、といふ名目で憲兵隊に自首して出た。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1935
昭和10
5月1日 33 僕はこゝ一ヶ年の熟慮の結果、徴兵忌避になつてゐる兵籍関係を清算する決心で、僕の故郷へ帰り、自首して出た。ところが、僕は十四五ヶ年行方不明、居所不明のまゝ、僕の親戚が、失踪宣言の手続を取り、僕は「死亡」となつて戸籍から廃除されてゐた。それで滑稽なことに、戸籍のない死人に、陸軍刑法が通用されないといふ矛盾が起つて、今、失踪宣告の取消しが、先決問題となつてゐる。(中略)千葉の田舎へ落ちこんだことが、僕にこの決心の拍車にもなつたし、警察のおせつかいも亦非常な手助けになつてゐる。(中略)あらゆる嘘と偽りでカモフラージした生活では、本当の文学は生まれないし、第一に子供たちに対する責任が済まない。あれやこれ、色々に考へた末に、敗北的だが、その筋へ自首して出ることにしたのだ。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年5月1日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1935
昭和10
5月4日 33 昨日、岡山に帰つた里村から深刻な手紙を貰つた。これにも僕の全集を見て「愛」を掘り出して決行したと書いてあつた。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1935
昭和10
5月6日 33 僕の失踪宣告の取消し判決が一昨日、区裁判所で行はれた。判決文が二三日のうちに下りるだろうが、(中略)戸籍の訂正、その他二三の手続を完了すれば、兵籍関係の方面に事件が移ることになつてゐる。大抵こいつの方も、五月か六月中には決定する見込みだ。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年5月6日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1935
昭和10
5月8日 33 前川二亨[享]より来信。里村欣三の感じが出ない。 『葉山嘉樹日記』
1935
昭和10
5月13日 33 五月十三日岡山区裁判所失踪取り消し、五月二十七日失踪取り消し登記 加護浦歴史文化館
資料「里村欣三年譜」
1935
昭和10
5月27日 33 こないだ判決が確定したので、一切の戸籍復活の手続を田舎へ帰って完了したから、もう近々のうちにその筋から何分の沙汰があるだらうと思って、心待ちにしている。(中略)もし再検査で済めば、僕の本籍地の徴兵検査が七月八日だから、八月中には上京できると思ふ。その時には何を措いても、中央線に乗つて、君の村へ先づ飛んでいくつもりである。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年5月27日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1935
昭和10
7月10日 33 僕は一昨日、徴兵の検査があって、第二乙種合格、第二補充兵に編入される予定。これで、すつかり年来の暗雲を払い落して青天白日の身になりました。時節が時節だけに、相当心配しましたが、案づる程のこともなく、連隊司令官、県兵事課、憲兵隊の取調べを受けまして再検査で事済みになりました。満二十才から満四十才までは兵役の義務があるので、再検査だけは仕方がなかつたのです。だが、以前の時は甲種合格だったが、こんどは蓄膿があつたので、第二乙種で済みました。まあ、これで兎に角、万歳です。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年7月10日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1935
昭和10
7月12日 33 里村から第二乙種合格で、徴兵の問題もやうやく片がついた、出京の途に欣坊を連れて寄ると書いてあつた。 『葉山嘉樹日記』
1935
昭和10
7月21日 33 「上京するつもりで、親類廻りして帰つて見ると、聯隊区から輜重特務兵として入営通知が来てゐた。八月十二日入営の予定になつてゐるが、これで二ヶ月ばかり上京が延びることになつた。懲罰の意味が含まれてゐるのだらう」と里村から云つて来たので、十月に近くならないと、こちら[信州赤穂村]に来れない訳です。 広野八郎宛葉山嘉樹の手紙
『葉山嘉樹全集第六巻』
昭和51年6月30日
筑摩書房
1935
昭和10
7月26日 33 入営までには、まだ二週間あるしね。決まるものが決まっちまはないと、待ち遠しくて、気が落ち着かない。こんな状態だと、また逃げ出してしまひたくなるが、今度は自重して無分別も起せないから、殊にむし暑い。(中略)僕も突然の入営で、すつかり的が狂ってしまった。余り途中がトントン拍子に行くものだから、すつかり安心してゐたんで、今になると、少し嫌になつちまつた。またこれで「嫌になっちまへば」元も子もなくするので、なるたけ朗らかにしてゐる。だが、十月の末には、自由の身になつて、君に逢へる。そいつを楽しみにしてゐる。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和10年7月26日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1935
昭和10
8月 33 同十年七月十日、徴兵の再検査を受けて第二乙種合格、第二補充兵に編入され、岡山輜重兵第十七大隊に特務兵として入隊、五十五日の教育を受けた。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1935
昭和10
  33 里村君は郷里が岡山である。岡山の聯隊にゐたとき、意地の悪い下士官に苛められるのがつらくて脱走し、東京に出て上野の精養軒で皿洗いをしてゐたところ関東大震災に遭った。その後は戸籍簿の丸焼けになつた横浜市の出身といふことにして、前川二亨[享]といふ本名を里村欣三と変へ、筋肉労働をしながら左翼作家のところへ出入りして、試作の小説を青野季吉や平林たい子のところに持って行って読んでもらつてゐた。だから里村君は脱走兵である。私は誰からともなく聞いて、里村君はさういう経歴の人だらうと思つてゐたが、大阪の兵舎に入って三日目[1941年11月24日]に、里村君自身から本当の告白だといふ話を聞かされた。その身上話によると、岡山の兵営から脱走した前川二亨[享]は里村欣三と変名して左翼小説を書いてゐたが、満州事変が起ってから従来の自己に疑問を持つやうになつた。(中略)或とき新宿駅で、岡山聯隊にゐたときの小隊長にぱつたり遭つた。先方は背広を着てゐたが、確かにこちらを前川二亨[享]だと気がついた。今まで世を忍んで来た自分は、今こそ名乗り出るときだと意を決し、「自分は前川二亨[享]であります。小隊長殿、自分を憲兵隊へ突き出して下さい。」と云つた。ところが先方は、厄介な話は避けたいやうな風で、「僕はもう軍隊から足を洗つてゐるよ。(中略)」さう云つて、人混みのなかに行つてしまつた。(中略)元小隊長の後姿を見てゐると涙がこみあげて、すぐ岡山までの旅費を調達して元の聯隊司令部へ自首して出た。(中略)私はこの懺悔話をそのまま信じてゐたが、すこし調子がよすぎる話のやうにも思つてゐた。ところが最近になつて、堺誠一郎の書いた「或る左翼作家の生涯」といふ記録を見て、大阪の兵舎で語つた里村君の告白には念入りな嘘を織込んであるのが判つた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1935
昭和10
10月24日 33 里村が来て二泊して、三四日前に東上した。欣之介を連れて来た。小出君を諏訪に共に見舞つた。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1935
昭和10
11月 33 私は、約一年半ぶりに、また東京へ舞戻つて来た。(中略)また「文学」を志して、遥々と千葉の海岸を振出しに、西日本を一周りして舞戻つて来たのだから、自分ながら自分の無定見な図太さには驚く次第だ。(中略)私は「食へない文学」から飛び出して、また「食へない文学」へ堂々めぐりして来た。しかし私はこの一年半の間、決して薄ボンヤリして暮らしてゐた訳ではない。その間妻子三人を養ふために、千葉の九十九里浜へ落ちのび、そこから再び九州落、それから岡山──と言つた風に、地理的にも可なりな距離を歩いてゐる。その間に、私は自己身辺のある事情を清算するために、喪失してゐた戸籍面を復活して、兵役の義務まで完了したのである。かうまでしなければ、文学以外の社会では、絶対に飯を食ふ道が見付からないと悟つたからである。私は今立派な帝國臣民の一人であり、帝國在郷軍人の一員である。だが、世間では私のかやうな決心と努力に不拘ず、飯の食へる道を提供しては呉れない。(中略)文学では絶対に食つて行けさうな根拠がない。しかも私は文学を志して、遙々上京して来たのである。文学を捨てゝも食へる道を発見できないし、同じ食へないなら、先づ手近かな「文学」から、といふ絶対絶命の淵からである。(中略)私は文学で食はうと思ふ! 「文学で食ふか・食はれるか」
里村欣三
文芸首都
昭和10年12月1日号
黎明社
1935
昭和10
暮れ 33 兵役が終わると氏はすぐに上京し東京世田谷区太子堂に居を定め、高津正道氏が請け負って来た偉人伝の一枚四十銭にもならぬ下請け原稿を書いたり、日雇い人夫として働いたりしたが、生活は依然として苦しく(後略) 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1935
昭和10
暮れ 33 [中西伊之助著『愛の教師』に本名の前川二享として執筆]
尚この稿は「無知の犠牲」「櫓の音も悲し神龍湖」の二篇を本会同人、前川二亨[享]氏が執筆されたことをつけ加へて申して置きます。
「本著刊行について」
中西伊之助
『愛の教師』序文
昭和11年5月5日
章華社
1936
昭和11
1月13日 33 里村欣三の住所は、世田谷区太子堂町三〇六です。 広野八郎宛葉山嘉樹の手紙
『葉山嘉樹全集第六巻』
昭和51年6月30日
筑摩書房
1936
昭和11
1月21日 33 一昨日、独立作家クラブの会合に出かけて、久しぶりに文学的な空気にふれた。プロ文学も大いに動き出したらしい形勢もある。(中略)この反動期に、元気溌剌たる闘士に接することは、大いにたのもしい。 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙(昭和11年1月21日)
『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1936
昭和11
2月26日 33 [葉山が加藤勘十の選挙応援に赴いた東京で]
未曽有の叛乱事件当日。東京は雪が積んでゐた。今日も降つてる。(中略)坂本君の妻君が来て、「東京は大変ですつて、岡田さんや大臣が大抵殺されちやつたんですつて」と云ふ話である。(中略)里村が帰つて来て、これ又、「大変だぞ」つて云ふ。大変だらうが何だらうが、宿酔で気持が悪いから誘つて二人で銭湯に行く。
『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1936
昭和11
10月17日 34 里村からハガキ、岡山の寒河村にて煉瓦工をして日給一円をとつてゐると。草疲れ切つて、口を利くのも、いやだと書いてあつた。あゝ! 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1936
昭和11
  34 親戚である中日生の古松清数氏の離れに住み、三石索道会社、広瀬耐火煉瓦K・K等に勤める 加古浦歴史文化館
資料「里村欣三略歴」
1937
昭和12
  35 彼の思想はすでに、この五六年来の非常時局の重圧に堪えかねて、微塵に破砕し尽くされたものであつた。思想の破産は同時に、生活の破産であり、その頃彼の故郷への逃避がはじまったのである。しかし少年時代を慈しみ育んでくれた故郷の風物も人心も、彼には冷たかつた。その冷たさも、まだ故郷に馴染みのある彼には忍べた。だが、爪の垢ほども兵六の故郷に馴染みをもたない妻子には他人のやうによそよそしく、しかも敵意のある眼は、忍び難い痛さであつた。二人の子供たちは東京へかへることをせがむし、あらゆる機会にあらゆる手段を尽くして、故郷の人たちに接近し迎合につとめた妻も、そのあらゆる手段と計画に敗れてしまつてからは、薄暗い一間に閉じ篭つたきり、外へ出て陽を仰ぐことも、人々に顔を合はせるのも厭がつた。(中略)
この妻子を雄々しく外敵から護らなければならない父の兵六は、外へ出て行つて村人の前で、恥も外聞もなく、意気地のない捕虜のように自ら進んで、己れの武装を解除しているのだつた。思想の鎧を脱ぎ、イデオロギーの太刀を手渡してしまい、最後には身につけた襦袢や肌着まで脱いでしまふのであつた。まだこれだけでは足りないと考えて、おまけのつもりで凡ゆる場合に妥協し、追従し、屈服し、恥辱は甘受して恥じないのであつた。(中略)兵六は村の人々に、生きながら捕捉された捕虜であつた。
『第二の人生』
里村欣三
昭和15年4月16日
河出書房
1937
昭和12
  35 兵六はまだ就職して三月にしかならない、この地方の特産である耐火煉瓦の工場を、いきなり罷めてしまつた。そして(中略)酔ひのまはつた頭で、やけくそな計画を立て始めた。また妻子を引きつれて、どこか見知らぬ土地へ放浪して行く考へであつた。 『第二の人生』
里村欣三
昭和15年4月16日
河出書房
1937
昭和12
4月26日 35 [九州]八幡に着く。それより四月二十九日まで三浦愛二応援の為演説又演説、声をからした。中西伊之助、三輪盛吉君も来てゐた。里村岡山より来る。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1937
昭和12
4月26日 35 二十六日より二十九日まで、伊藤永之介、里村欣三、中西伊之助、三輪盛吉、鶴田知也らと一緒に八幡市で三浦愛吉の選挙応援。五月一日、里村欣三、伊藤永之介、鶴田知也らと豊津村に行き、鶴田知也の生家で宿泊。 『葉山嘉樹』
浦西和彦
昭和48年6月15日
桜楓社
1937
昭和12
4月 35 昭和12年4月頃(中略)[葉山、鶴田、伊藤、里村らが]豊津を訪れたときのこと(中略)里村さんは長男が小学校に入学したが、近所の子供は皆んなランドセルを背負って通学しているのに、自分の子供だけが風呂敷包みであるので、感ずるところがあって郷里に帰った。塩田の人夫をしながらこれでも日当一円二十銭をもらっていると話され、自分も笑い皆んなを笑わせたりした。 「“ビール一ダースの出会い”」
渡辺凡平
『葉山嘉樹と中津川』
昭和55年4月1日
葉山嘉樹文学碑建立20周年記念集実行委員会
1937
昭和12
7月 35 思想的動揺が主因だつたか、生活難が主因だつたか、とにかく彼は有りし青年時代の烙印を消すべく妻子を帯同して帰郷し、自首した。そして恩典に浴して過去の犯罪は帳消しにして貰ひ、新たに特務兵として短期間の訓練を受ける。そして除隊後は因習に鎖された窖のやうな郷里で、希望もなく、理想もなく、煉瓦工場の労働者として妻子を養ふために身を削つてゐた。そこへ突然召集令状が来る。 「里村欣三著「第二の人生」」
小堀甚二
『文学者』
昭和15年6月号
1937
昭和12
7月 35 そこへ降つて湧いたやうに蘆溝橋の事件が突発し、やがて間もなく彼は、召集されることになつたのだ。最初、召集の赤紙を手にした時、兵六は何がなしほつとした。助かつたと思つた。思想を捨て主義から離れ、生活の信條を失って野良犬のやうな暗闇を彷徨している彼に、微かに光が射したやうに思へたのだつた。思想的な立場を完全に喪失した彼は、唯々として上官の命令に服し、厳しい軍紀の下に素直に服従できる身軽さを感じ、胸を叩いて喜ぶのであつた。だが、この感情は結局、詐りの誇張であつた。己の思想的な行き詰りを、自力によつて解決する能力がなく、召集という不可避的な事情の下に打開されることを当て込んだ、ひどく横着な自己欺瞞であつた。だからこそ、ちよつとした異常な事件や事実にぶつかつても忽ち、その仮面は剥がれるのだつた。若い応召兵たちや、その家族たちの一身を度外視した熱情や興奮にも、何か空々しく思慮の足りない単純さを感じたし、学園の自由な空気が紊される痛々しさにも、彼の心は疼くやうな戸惑いを覚えるのであつた。(中略)思想的なものを、すつかり払い捨てたつもりでゐても、まだ肉体の内部に何かひそんでゐて、こいつが時々に生き物のやうに頭をもたげて来るのだつた。 『第二の人生』
里村欣三
昭和15年4月16日
河出書房