西暦 | 月日 | 満年齢 | 記事 | 出典 |
1937 昭和12 |
7月 | 35 | 支那事変が起きたのは、昭和十二年七月七日であるが、その月の中頃に並川兵六は、故郷の原隊へ応召した。 | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1937 昭和12 |
7月 | 35 | 令状の赤紙を受取つた二日目には、応召地へ着いてゐなければならぬのである。彼は後に残して行く妻子に生活の方針を授ける暇もなく出発しなければならなかつた。 | 「里村欣三著「第二の人生」」 小堀甚二 『文学者』 昭和15年6月号 |
1937 昭和12 |
7月 | 35 | 父方と母方を合わせた親戚には伯父、叔母があるが殆んど勘当されたのと同様な間柄になつてゐた。妹もあるが、これも父の少しばかりの遺産を分配され、亭主を離別して伯母と病身な子供を抱へ、女世帯で細々と暮らしてゐるに過ぎない。継母はあるが、この方は父の死後分家してしまひ、八人の子女を抱へて、女手一つで別家を立てている。上の妹たちは三人まで嫁いだが、あとには、まだ中学五年の弟を頭に、五人の弟妹が残つている。(中略)兵六は彼の身辺がこのような事情であつたから、出征後の妻子の生活のことは頭にあつたが、ただ考えるだけでは解決のつかない問題だつた | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
8月 | 35 | 戦時編成岡山歩兵第十聯隊野戦隊 昭和十二年七月二十七日動員下命 同年八月七日動員完結 同年同月八日出征 |
『赤柴毛利部隊写真集』 昭和47年1月27日 山陽時事新聞社 |
1937 昭和12 |
8月 | 35 | 岡山で土方をしていて七月二十七日動員命令。姫路第十師団通信隊第二小隊第二分隊に配属。岡山真備高女で結団式。八月十日神戸港出発。(中略)(日生町萩原初治氏資料提供。同氏は里村と同小隊で行動を共にしていた)。 | 「里村欣三年譜」 加古浦歴史文化館資料 |
1937 昭和12 |
8月15日 | 35 | お手紙によれば、貴方が太沽に上陸した日です。ちやうど十五日の晝前に小母さんのお迎へを受け、(後略) | 『第二の人生』 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
8月15日頃 | 35 | 私たちが北支の太沽へ上陸したのは、事変突発の直後であつた。しかも北支は降雨期に入つていて、連日の雨だつた。(中略)私たちは上陸と同時に、馬の手綱をつかんで行軍に移つていつた。 | 「輜重隊挿話」 里村欣三 『我らは如何に闘つたか』 昭和16年5月10日 三省堂 |
1937 昭和12 |
8月中旬 | 35 | 大陸へ渡る航海に五昼夜を要した。(中略)太沽へ上陸するや否や、六十年来の豪雨を衝いて、馬腹をひたす泥濘の行軍であつた。(中略)天津へ集結した私たちの部隊は、憩ふ暇もなく津浦線の戦闘に参加してゐた。はげしい戦闘は雨と泥濘の運河の堤防に沿うて行はれ、毎日々々が、泥の海を泳ぐやうな行軍の連続であつた。 | 『支那の神鳴』 里村欣三 昭和17年1月20日 六藝社 |
1937 昭和12 |
35 | 彼は兵六と同じ分隊員で、通信隊第二小隊長の乗馬取扱兵であつた。 | 『兵の道』里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
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1937 昭和12 |
35 | 兵六と吉川は歩兵通信隊第三分隊の配属特務兵であつた。 | 『兵の道』 | |
1937 昭和12 |
8月下旬 | 35 | 天津へ着いた三日後には、兵六たちの属する通信隊第二小隊の二個分隊は、津浦線獨流鎮に配置されてゐた。 | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12年 |
8月下旬 | 35 | 戦線は静海縣の停車場近くまで拡がり、深い泥と既設陣地にぶつかり益々戦況はが激烈の度を加えてゐた。 | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
9月 | 35 | 通信隊旗隊(有線第二小隊)は、唐官屯の宿舎に入つた。まだ前線○○部の配属を解かれてゐなかつたので、引き続き前線の通信任務を続行することになつた。第一線部隊は市街の掃蕩を終るや否や、敗敵を急追して、すでに馬廠前面の陣地に肉薄し、そこで敵と相対峙していた。附近は一望千里の曠野であつた。耕地には一面に濁水が溢れ、(後略) | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
35 | 兵隊たちは、出征前後から兵六を「おつさん」と呼んでゐたが、この頃では、だんだん支那語を覚えて来て「老頭兒(ラオトル)」と呼ぶようになつてゐた。「(中略)何せ、赤いんだから。……うちの老頭兒は!」 (中略)これまでにも兵六は、他の兵隊たちから、兵役の関係や、現役年度の徴集が遅れていることなどに就いて、蒼蠅く質問されるやうなことがあつた。その度に兵六は、海外に出てゐて徴兵延期になつてゐたと辻褄を合はせてゐたのだが、 |
『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
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1937 昭和12 |
9月 | 35 | 馬廠と青縣の距離は十キロ以上ではなかつた。普通なら三時間の行程だが、通信隊はたつぷり二十時間を費して、青縣の郊外に辿り着いた。(中略)胸まで浸かるような水の中を、二十時間以上行軍したのである。この洪水の原因は後になつて分かつたことであるが、支那軍が退却の間際に、日本軍の急追を怖れて、運河の堤防を爆破して、青縣一帯を水浸しにしたためであつた。 | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
9月中旬 | 35 | 興済鎮は、運河に沿うた城壁のない小都市だつた。やはりここでも、(中略)四周は殆ど水に浸かつてゐた。──通信隊第二小隊旗隊は、滄州の総攻撃が開始されるまで、九日間この部落で待機した。 | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
9月 | 35 | 滄州を抜いた師団は、全力を挙げて敗敵の急追に移つた。通信隊は○○部隊に追随して、滄州陥落の翌々日には、早くも捷地鎮に進出してゐた。(中略) 彼等が行進する方向では、第一線の歩兵部隊が、敵に立ち直る隙も与えず、馮家口、泊頭鎮、東光鎮──と運河沿いの小都市を次々に攻略してゐた。 |
『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
9月 | 35 | 「うむ。……君は、十四年以上も現役徴集の年度が遅れてゐるが、あれはどうしてなんだ?」兵六は胸がどぎづき、不意には言葉が出なかつた。(中略)「えゝ、それは若い時分に支那、満州、南洋方面を放浪してゐたために、徴兵が遅れたんです」──こんな嘘を言つても駄目だ。何にもかにも准尉殿は承知なんだと思ひながら、躍起になつてかう言はずには居れない気持ちだつた。嘘だが、この嘘を真実であらしめたい気持が、一方では猛烈に反撥するのだつた。「昭和○年度の徴集と言へば、……さうだ。陸軍制定五十年記念祭だつたかね? この記念祭に際しては、既往の罪科は解消して不問に付すから、逃亡、脱営、忌避などの罪科で世間を狭くしている者は、この機会に自首するように呼びかけたことがあるが、その時自首したのかね。えゝ。」「いや、違ひます!」と、兵六は躍起になつて主張するのだが、(中略)准尉殿の皺はとけず、眼の光が刺すように兵六の眼を見つめてゐた。 | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
9月 | 35 | 兵隊たちは埃と汗にまぶれ、くたくたに疲れてゐたが、桑園の町へ入ると、急に生々とした顔色をとり戻した。(中略)滄州を出て以来、もう一週間以上に亘る急追撃行軍であつた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
9月 | 35 | 近所に煩さい親戚先の人間がゐて、僕のゐない留守生活のことなどで、ひどく女房に干渉して、扶助をうけてはならん。そんなことをして不名誉な誹りを受けたりするより、味噌か醤油でも売つて歩いて、生活を立てろといふらしいんだ。(中略)[女房が]東京へ友達を頼つて出たいと言ふんだが、それにも親戚の小父が反対なんで、(後略) | 『第二の人生』 里村欣三 昭和15年4月16日 河出書房 |
1937 昭和12 |
10月 | 35 | 一望に見渡される平野の一角に聳えてゐる黒煉瓦で築かれた高い城壁は、真黒い砲煙に蔽はれてゐた。山東省の徳州城だつた……。(中略)──徳州の占領は、十月三日、午後二時五十三分であつた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
10月3日頃 | 35 | 通信隊の宿舎は、徳州城外の市民体育場に附属した公園の中だつた。(中略)だゝつ広い広場で、その半分は水に浸かつてゐた。(中略)天津が洪水になり、彼等が通過して来た濁流鎮青縣間の鉄道が流失して、列車の運転が中止されたことを聞いてゐた。そして洪水がひくまで、当分の間糧秣輸送が杜絶える予定で、最小限に物資弾薬の節用と、将来の物資は現地で調達される予定だといふ心細い通達がなされた(中略)兵隊たちは、済南へ無血入城すると、その足で直ぐ内地へ凱旋できるやうな夢を描いてゐた。(中略)上陸以来三ヶ月経つていた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
10月5日 | 35 | 里村の妻君から来信。上京して阿佐ヶ谷に居を決め軍事扶助をそこで受けると。故郷ハ軍事扶助を有力者が妨害したる由。憤慨す。 | 『葉山嘉樹日記』 |
1937 昭和12 |
10月11日 | 35 | 日暮れ前に、通信隊第二小隊は、旗小隊長を先頭に、一線部隊の大小行李でごつた返してゐる東七里舗の部落へはいつて行つた。家屋といふ家屋は、兵隊と馬と車輛で占領され、豚小屋や畑の見張り小屋にまで、兵隊が溢れてゐた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
10月 | 35 | その夜の宿営は、名もないやうな小さな部落だつた。陵縣までは、あと半日行程だつた。(中略)翌日になつてみると、予期したような烈しい戦闘もなしに、友軍は行軍をつゞけた。相変わらず秋晴れの暑い日で、陵縣街道は砥石のやうに平坦な路だつた。(中略)連隊本部は、陵縣に位置して、周辺の残敵を掃蕩するため、各要所々々へ兵力を配置して、一種の警備状態に入つた。(中略)特務兵は馬を飼ふのと、時たま炊事当番につくだけで、外に何の用事もなかつた。暢気な、退屈な日がつゞいた。(中略)通信隊の陵縣駐屯も、その頃では二十日間以上に亘つてゐた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
11月 | 35 | 前線部隊の配属を解かれて、徳州の通信隊本部へ復帰すると、直ちにその翌々日には平原へ向けて出発の命令だつた。徳州平原間は一日行程だつた(中略)通信隊は、東門外に設営した。(中略)兵隊たちには、その頃、防寒帽と防寒胴着などが支給されてゐたが、それでも大陸の最初の冬は、身體にこたへた。(中略)兵隊には、この平原へ到着した早々から、部隊長命令できびしい日課が課せられ、殆ど毎日午前中は演習が実施されていた。(中略)午後は舎内整備、兵器被服の手入及びその検査──特務兵には馬運動などがあつて、休養の時間は、日曜の以外には三日に一度位ゐの割合であつた。(中略)殆んど一ヶ月に亘る長い駐留であつた | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
11月 | 35 | 兵六の場合には(中略)年齢の相違が一つの障害となつて、若い兵隊を近づけなかつたし、また彼の得体の知れない過去の経歴が、若い兵隊たちと心易く打ち融けさせなかつた。(中略)特務兵の中では特別に憎むものもゐなかつたが、しかし生死を共にするに足る戦友として、兵六を愛する者は一人もゐなかつた。結局、赤い芯のある人間として、兵六を見てゐるのであつた。今度の事変に対して心の中では強く反対している人間、上官の命令を素直に諾いてはゐるが、心の中では強い反感を抱いてゐる人間──としてのみ、兵六は彼等の眼に映じてゐるやうであつた。(中略)兵六は、たつた一人であつた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
11月2日 | 35 | 里村へキャラメルやタバコを少し許り送つてやるやうに買ひ込ませる。 | 『葉山嘉樹日記』 |
1937 昭和12 |
11月17日 | 35 | 里村夫人より軍事扶助が受けられるやうになつた、『日額一円二十三銭ですからどうにか生活が安定しました』とハガキが来た。 | 『葉山嘉樹日記』 |
1937 昭和12 |
11月 | 35 | 妻はやはり、兵六の元の仲間の中へかへつて行つたのだ。友人の世話で借りて貰つた借家で、扶助は無産党の──これも兵六の昔の知り合ひの区会議員の手を通じて、区役所から受けてゐた。(中略)まだ友人たちが、この時局の重圧に抗して、その思想を堅く守つているかぎり、兵六には友人たちのその友情に素直には縋りつけないのである。(中略) | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
12月1日 | 35 | 昭和拾貳年十二月壱日輜特一 [一等兵に昇進] |
「或る左翼作家の生涯」堺誠一郎所載の「在郷軍人名簿」 『思想の科学』 1978年7月号 |
1937 昭和12 |
12月 | 35 | 通信隊は二泊三日の行軍の後に、黄河河畔の部落に到着した。曲堤と地図にも記載されてゐる泥土の圍壁をめぐらした大きな部落であつた。(中略)突然出発の命令だつた。(中略)平原への再び集結の命令だつた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
12月 | 35 | 部隊が平原近傍の部落に集結を終つて、一週間も経たないうちに、再び黄河河畔への進撃の命令が下つた。十二月の下旬に近かつた。(中略)曲堤附近から平原へ引つ返す途中で、彼等は中華民国臨時政府の成立を知つたのであつた。南京はとつくに陥落して、国民政府は漢口へ這入つてしまひ、もうこれ以上に敵の抗戦力が信じられなかつた。蒋介石は降伏を餘儀なくされるものと、兵隊たちは勝手に決めてしまつてゐた。(中略)「暴支膺懲」の目的を完遂して、われわれは芽出度く内地帰還!──と、兵隊たちは自分勝手に楽しい目論見をつくつて有頂天になつてゐたのだ。(中略)そこへ突然の進撃命令であつた。(中略)どうしても実力で黄河を押し渡らなければならないのだと知ると、猛然たる怒りに駆られた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1937 昭和12 |
12月22日 | 35 | [人民戦線事件=12月15日に]荒畑、山川、大森、向坂、猪股、岡田宗、黒田、加藤と云つた顔ぶれで数百名検挙。夕刊で分つた。労農派、日本無産党、全評が総検挙を食つたのである。三輪盛吉君の名もあつた。中西伊之介[助]もあつた。 | 『葉山嘉樹日記』 昭和46年2月9日 筑摩書房 |
1937 昭和12 |
12月31日 | 35 | 済南へ入城して、空家になつた日本家屋の畳の上へ横になつたのが、大晦日の夜であつた。在留邦人が引揚げた後で、支那軍が掠奪を恣にしたのであらう。目ぼし意家財道具は跡形もなく、古雑誌や書籍や古新聞紙が部屋一杯に取り散らかされてゐた。 | 「正月無期延期」 里村欣三 『婦人日本』 昭和17年1月1日 東京日日新聞社・大阪毎日新聞社 |
1937 昭和12 |
12月31日 | 35 | 済南へ到着したのは、日が暮れてしまつてからであつた。その日が恰度、昭和十二年の大晦日の夜であつた。翌日の──昭和十三年の元日には、もう済南を出発して行軍してゐた。(中略)箇[注:山冠に固]山の部落を過ぎるあたりから、沿道の部落は殆んど焼き払われていた。支那軍が退却しながら放火したものらしく、(中略)まだ燃え落ちた材木が燻つてゐた。(中略)元日から三日目の夕方に、撤収班の兵隊たちは泰安の町へ入つた。(中略)各小隊の宿舎は、清眞寺といふ回教の寺院と小学校を中心にして、附近の民家に設営していた。泰山の威容が直ぐ眼の上に見上げられる位置だつた。 | 『第二の人生』 第二部 里村欣三 昭和15年10月28日 河出書房 |
1938 昭和13 |
1月15日 | 35 | 今日が正月であつた。戦地で初めて迎える元日だが、実は黄河渡河戦と済南占領──ひきつづいて泰安の占領などと猛スピードの戦闘が暦の上の実際の正月に行はれたのと、輸送の関係等などで部隊の正月は十五日も暦の上からは遅れてしまつたのである。(中略)──暦の上では一月十五日。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
2月 | 35 | 乗切部隊が泰安から兌[注:六冠に兄]州(滋陽)へ移駐の命令を受けたのは、二月の中旬であつた。泰安から三日二泊の行程であつたが、ここは山東省南端の省境に近かく、泰安とは比較にならない程暖かかつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
3月 | 35 | 三月の声を聞くと、俄に大地が春めいて来た。この頃では不眠症の癖がつき、兵六は夜が明けるのを待ちかねて、寝台からそつと庭へ忍び出る習慣になつてゐた。(中略)そして木片を拾ひ集めて焚火を始めるのだ。誰もゐない、ひつそりした裏庭で(中略)夜明けのしめりを帯びた空気の中でパチパチとはぜる火を見つめながら、ニコニコした顔で熟睡から次第に目覚めてくる街の気配を聞いてゐると、何とも言へず愉しい、なごやいだ気持にさせられるのであつた。(中略)雀を飼う兵隊、犬を馴らす兵隊……兌[注:六冠に兄]州の春は愉しかつた。兵六は二月の中旬から約一ヶ月に亘るこの時の駐屯期間位楽しい日を送つたことが、この戦争中の前後にはなかつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
3月 | 36 | しかしその頃、徐州に於いて支那軍は連戦連敗の雪辱戦を行はんとして、李宋仁を総指揮に四十万の大軍を集結させていた。北上軍はすでに南京陥落の直後、江北の沃野に行動を起して、疾風の如く徐州を目指してゐた。三月の中旬には、徐州に集結した支那軍の大部隊が、済寧、鄒縣、蒙陰、紋上のわが守備隊に猛烈な反撃を加へるような形勢になつてゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
3月 | 36 | 彼[兵六]が支那人を愛する心持のうちには、もつと人間性に根ざした根本的な愛情があるように思へた。だが、今は何とも説明が出来なかつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
3月 | 36 | 二小隊は(中略)一月以上も馴染になつた城門を出て行つた。(中略)通信隊の二台のトラックは、灰のやうな砂塵を捲き立てて済寧の市街へ乗り込んだ。昨夜は敵の襲撃を迎へて烈しい戦闘があつたに拘らず、市街は普段と変らない落着きを見せてゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
3月 | 36 | 安居鎮東端の線では、歩哨の射撃で気を奪はれてゐるうちに、猛烈な銃声が起つてゐた。タ、タ、タ、タ……闇を底から地響させて揺すぶるやうな重機の唸り。ピカッ、ピカッと燦めく銃火が、遠いようにも、また近いやうな感じで網膜を刺す。(中略)何だか愉快な、心うれしい感じが起りかけた。ピカピカ燦めく銃火のあたりに敵兵が伏せてゐるんだとは思へなく、小さな豆狸のやうな動物が春の夜に浮かれて、火弄びでもしてゐるやうな幻覚──足音を忍ばせて行つて、不意に「わあつ」と豆狸共を吃驚させてやりたい衝動を感じる。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13年 |
4月 | 36 | 兵六たちの小隊は、済寧周辺の敵軍を粛清したのち、嘉祥縣城で一週間駐軍した。嘉祥を引き払つて再び兌[注:六冠に兄]州の本隊へ復帰すると、両三日の餘裕を与へられただけで、直ちにこの徐州戦の行動に転じたのであつた。(中略)鄒縣の町並へ入つた時、昼の大休止であつた。部隊は長い長い灰色の土塀に沿うて休止した。(中略)「へえッ、これが孟子廟かい!」 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
4月 | 36 | 滕縣は灰燼に帰してゐた。(中略)部隊の通過する街路は焼けた熱灰で膝まで埋まるような騒ぎだ。(中略)滕縣をはづれると、裸の山が見えだした。次第に高地になつて行くらしい。樹木のない禿山が連なり、中腹まで耕されて麦が青々と伸びてゐる。(中略)遊撃隊や敗残兵の神経戦術に悩まされながら、明けても暮れても兵団は棗荘を目指して行軍をつづけてゐるのだつた。(中略)炭鑛都らしい巨大なグレーンが家並の空に聳え煤煙を浴びた鉄のタワーが屹立する。(中略)日本軍は棗荘へ進駐し、この都市が徐州作戦の一方の拠点となつたのだ。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
4月 | 36 | 旗小隊は、曠野の彷徨を終ると、蘭陵鎮へ入城した。城壁のある大きな市街だが、無残な廃墟と化して、住民の姿は見えなかつた。(中略)ここで三日間の休養が与えられて、(中略)山東省最南部──江蘇省との省境であるから、すでにここでは自然の風物は初夏の粧ひである。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
5月 | 36 | 再び通信隊は、行軍序列の中にあつた。夜になると、あかあかと火の手をあげて静かに燃える部落に野営し、昼は煙を吐いてブスブス燻つてゐる部落を通過した。支那兵の死體、斃馬、遺棄された兵器弾薬……。(中略)囲壁のある大きな部落が見えて来た。それが四戸鎮であつた。(中略)翌日、旗小隊は現在地へ第一分隊を保線要員に残置して前進した。(中略)そこは台兒荘側面の小部落で、台兒荘殲滅戦の包囲圏が、最後の一線に圧縮されたことが、兵隊たちにも予想された。(中略)突然、新鋭の部隊と入り替はりに、兵六たちの通信隊は棗荘の本部への復帰の命令を受けたのだつた。(中略)隊伍を整へて、真夏の陽射しの色に変つて照り輝く五月の中旬の野を強行するのである。(中略)臨城を抜け、微山湖畔の夏鎮へ到着して露営した(中略)夜になると露営のテントの焚火の周囲では、微山湖渡渉が話題になつて賑はつてゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
5月19日 | 36 | 渡渉開始! 各小隊毎に歩兵と機材と車輛がジャンクに乗り込む。特務兵たちは鉄舟で馬と共に続行。(中略)夜は、また名もない小部落へ露営した。(中略)「本日──五月十九日○○時○○分徐州は陥落した。江南から北上した部隊の第一線が入城したのである。(中略)」部隊は隴海線を横断した。(中略)兵団の一枝隊の先鋒は、すでに黄河渡河部隊と合して、歸徳の攻略に臨んでいるといふ情報が伝へられてゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
5月19日 | 36 | 日本軍、徐州占領。(徐州作戦は北支方面軍から4個師団(第5(板垣征四郎中将)・第10(磯貝廉介中将)・第14(土肥原賢二中将)・第16(中島今朝吾中将)師団)が南下、中支派遣軍からは3個師団(第3・第9・第13師団)が北上、包囲網を布く雄大な構想であった。 | 『昭和史』第8巻 毎日新聞社 昭和59年4月30日 |
1938 昭和13 |
6月 | 36 | 兵団の迅速果敢な機動力に促されて、通信隊も連日の強行軍だつた。隴海線を横断して蕭縣を抜き、周辺の残敵を掃討しつつ永城へ入城した。(中略)翌くれば、毫縣の攻撃であつた。渦河の敵前渡河のために、工兵隊の鉄舟隊が蜿蜒たる車馬の列をつくつて動き出した。部隊は安徽省の一角へ突入してゐるのだ。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
6月 | 36 | 兵六は咽喉を鳴らしてゐた。徐州戦に参加して以来──三、四、五、六と足掛け四ヶ月、酒の気を断つてゐた。酒を見なかつたのである。酒と聞いては、我慢が出来なかつた。(中略)乱酒の後は胃腸をこはし、食欲がなくなつて殆んど断食の状態であつたが、赤痢症状の下痢がつづいた。兵六は弱つて亡者のやうな姿で河南省の柘城へ行軍をつづけた。彼等の部隊が柘城へ入城した時には、すでに兵団の一部は雎縣杞縣の線に進出して、開封の総攻撃に参加し、一隊は鹿邑縣城を確保してゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
6月 | 36 | 蒋介石は一切の防戦の無効を知つて自暴自棄となり、つひに中牟西方の黄河堤防三ヶ所の決潰を命じた。大陸は、やうやく雨期に入らんとしてゐた。奥地で降りつづいた雨が、黄河を増水させてゐた。濁流は、黄河の決潰個所を水勢で更に押し拡げて、河南の沃野を奔流し始めた。(中略)この思ひがけのない支那軍の暴挙のために、皇軍の進撃は阻まれ、兵六たちの兵団はつひに河南省の柘城で駐軍を餘儀なくされ、徐州戦の追撃作戦は、ここに幕を閉じる結果になつたのである。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
6月 | 36 | 敵は(中略)防戦の手段を失ひ、つひに自暴自棄となつて、中牟西方の堤防を爆破してしまつたのである。それが六月十一日の夜中である。この時、私たちの通信隊は、第一線部隊の配属となつて、朱仙鎮近傍の部落に設営してゐた。(中略)その日も快晴であつたが、ぎらぎらと燃える太陽の下で、乾き切つた畑地が、じわじわと自然に水に浸されて行く光景は、実に異様な感じであつた。 | 「憾みの新黄河」 里村欣三 『支那の神鳴』 昭和17年1月20日 六藝社 |
1938 昭和13 |
7月 | 36 | 兵六の下痢も癒つてゐなかつた。食欲を喪つて、益々痩せ、益々頻繁な下痢がつづいた。出すものがなくなると、血便が出た。誰も彼れも痩せて、眼を落ち窪ませてゐた。(中略)大陸へ出征してから、間もなく丸一年になるのだ。あらゆる困難に堪へた野戦の兵隊に、やうやく疲労の色が見えて来たのではないだろうか? それに、徐州攻略戦の四ヶ月に亙連日連夜の苦闘──ひきつづき機動作戦の強行! 毎朝、医務室へ整列する診断患者の数は、殆んど部隊の過半数を超えてゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
7月13日 | 36 | 里村は昨日手紙をよこしました。(中略)戦争は苦労なやうです。粥を啜つて戦つていると書いて来ました。凱旋したら、僕の方へ来て自分も百姓をして暮らし度いと云つてよこしました。 | 広野八郎宛葉山嘉樹の手紙 『葉山嘉樹全集第六巻』 昭和51年6月30日 筑摩書房 |
1938 昭和13 |
36 | 日華事変が起つて彼の隊に動員令が下つた。(中略)戦地からは割合によく私の所に手紙をよこした。どの手紙も憂鬱で厭戦的で、「日本は毒ガスを使ひ始めたらしい」等と書いてよこした。 | 『自伝的交友録・実感的作家論』 平林たい子 昭和35年12月10日 文芸春秋社 |
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1938 昭和13 |
7月 | 36 | 雨が上がると、七月中旬の燃える太陽が頭の上にある。泥濘と高粱畑の水気が蒸発して、むッとするやうな湿気がモヤモヤと地表一面に立ち罩めてゐる。(中略)永城を進発した大部隊は、蜿蜒たる長蛇の行進を起して、高粱の青海原の中をうねつてゐた。(中略)通信隊──乗切部隊もまた、その大部隊の一部を構成してゐた。その夜、部隊は煉瓦屑の堆積と化した一望の焼け野原へ到着した、それが宿縣であつた。徐州戦で、北上軍が激戦した市街である。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
7月 | 36 | 翌日は雨だつた。部隊は出発しなかつた。酒、ビール、サイダー、果物類の缶詰、甘味品……と次々に一ヶ月分にも相当する間食の給與があつた。(中略)酒も甘い物も、毎日、鱈腹飲んだり食つたり出来た。被服類の交換、弾薬の支給、靴下、手套、恤兵品の給與と……やたらに下給品があるのだつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
7月 | 36 | 「(中略)洪水のため隴海線に於て作戦が出来ないから、北支の兵力を中支へ転用して、武漢戦の行動を起すことになつたんだ。列車輸送で俺たちは蚌埠へ行くし、三小隊は××へ出て軍用船で安慶上陸ださうだぜ。」(中略)宿縣へ到着して、初めて、兵隊たちは武漢作戦の新任務を受領したのである。部隊名の肩書は「中支派遣軍××部隊」に変更された。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
7月 | 36 | 行軍から、列車輸送に変ると、再び兵隊たちは下痢に悩み始めた。(中略)輸送列車が安徽省固鎮を過ぎて間もなく、あたりは一面の渺茫たる大洪水であつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
7月 | 36 | 普通には宿縣──蚌埠五六時間の距離をこの洪水の中で三日間を費して横断したことになるのであつた。蚌埠も大洪水の中の、一つの浮島であつた。列車は淮河の北岸で停車した。鉄橋は流失して跡方もなかつた。この蚌埠は二月上旬、徐州会戦の北上軍が占領した安徽省北部の大都会である。支那側の軍事政治上の要地で、(中略)わが軍の占領後は徐州攻略戦の市の重要後方兵站基地であつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
7月 | 36 | 約一週間、通信隊は蚌埠に待機した。この一週間の間に兵隊たちの間には、奇妙な病気が流行り出した。(中略)衛生准尉が軍病院へ引率して診断を乞ふと、その患者のことごとくがマラリヤであつた。(中略)班長も兵六も河南省の柘城から下痢を持ち越してゐた。(中略)ガスがたまつて、河豚のやうな腹になるのだつた。口からは、むかッと腐敗性の「ゲエップ」が出た。(中略)「これがアミーバ赤痢つて奴ぢやないのだろうか?」 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
8月上旬 | 36 | 思ひがけなく出発の命令であつた。廬州が武漢作戦のための大別山迂回部隊の前進基地となるのであつた。通信隊は、その廬州を目指して行軍するのである。(中略)行軍道路は、連日の降つたりやんだりの雨で猛烈にぬかつた。部隊の行進方向は洪水地帯を避けて、遠くに迂回して廬州へ出るのだつた。石ころの多い禿山の高地ばかりを選んで進んだ。(中略)八月上旬の太陽は遮るもののない低地帯を行軍する部隊の頭上へカンカン照りつけるのであつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
8月22日 | 36 | 大本営、武漢三鎮攻略の下命 | 『昭和史』第8巻 毎日新聞社 昭和59年4月30日 |
1938 昭和13 |
8月 | 36 | 三日目の行軍に、兵六は眼暈ひがして倒れ、車輛の下敷になつた。(中略)腰骨に鈍痛があるが、まつたく歩けないほどではなかつた。(中略)廬州の廃墟の街へ辿りつき、瓦礫の山になつて崩壊している宿舎へ入つた時には、もう馬を車輛から脱駕する精力もなかつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
8月 | 36 | 兵六たちは安東班長を迎へて間もなく、廬州を進発した。(中略)中支の秋は、内地より一ヶ月も早いやうに思はれた。だが、残暑は猛烈だつた。長蛇の列の部隊は蜿蜒として、焼けた六安街道を進むのだつた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
8月 | 36 | 里芋、里芋……とろりとした里芋の味噌汁を、兵六は子供の時から大好物なのである。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
8月12日 | 36 | 百姓の体験を書こうかと思つたが、方々に書いたのでダブルと困るので里村欣三に与える手紙の形式で書いてみようと思い立つた。 | 『葉山嘉樹日記』 昭和46年2月9日 筑摩書房 |
1938 昭和13 |
8月 | 36 | 兵団の先鋒部隊は、六安の攻撃を開始してゐた。(中略)六安では、(中略)たつた一夜を明かしただけで、部隊は引き続き、信陽街道を固始へ向けて進発した。固始は河南省であつた。兵団の主力は固始、光州、羅山の線を席捲して信陽を攻略する筈であつた。(中略)兵六は六安を出発すると共に、再び猛烈な下痢に悩みはじめた。(中略)第一線の歩兵部隊は、徐家集、洪家集、西縞店と敵を蹴散らして(中略)固始の城壁を目がけて一路前進をつづけてゐた。(中略)「マラリヤだ。下痢の上にマラリヤまで背負つちまつたよ。」 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
36 | 兵六は、藁を蹴散らして起きあがり、帯革を解いて、妊婦のやうに膨れた腹を撫でさすつた。黒い紙縒のやうな垢がぽろぽろ落ちた。兵六の下痢症状は、徐州戦の時から引きつづき、この武漢作戦に移つて、もう足かけ4ヶ月も続いているのであつた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
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1938 昭和13 |
8月28日 | 36 | 第10師団は[8月28日]六安を落とすと一路光州攻略に向かつた。そして9月15日総攻撃、17日に攻略した | 毎日新聞社『昭和史』第8巻昭和59年4月30日 |
1938 昭和13 |
8月29日 | 36 | 五十五枚「文芸」へ脱稿。「慰問文」と題す。 | 『葉山嘉樹日記』 |
1938 昭和13 |
9月 | 36 | 行軍に移つた。今日も快晴だつたが、もう百三十度といふやうな猛暑ではなかつた。九月に入つて太陽の暑熱は急に衰へを見せ、冷凉の気を孕んでゐた。(中略)兵六は突然に今日になつて肉体の異状を発見したのである。馬を曳いて歩いてゐると、両手がゴム毬のやうに腫れるのだ。しまひには指先を曲げるにも、手套を脱ぐにも、相当に苦労しなければならなかつた。肉の削げてゐた顔が丸々と張り切つて、笑つても顔が仮面のやうに重たくつて、表情が動かなかつた。絶えず尿を催して、真白に濁つた尿に血がまじつてゐた。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
9月初旬 | 36 | 検疫は、無事通過した。部隊は、間もなく緑陰の部落を出て、炎天下の街道を、河南省の固始をめざして前進していた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
1938 昭和13 |
36 | [マラリアと脚気のため]顔を見ると、まるで別人だ。眼が糸の結び目ほどしかなく、丸々と腫れた顔には、鼻毛の覗いた無精つたらしい鼻腔が、ちゃんと二つ揃つているが、鼻梁と呼ばるべき部分が、顔面の膨らみに紛れ込んで、どこにも見当たらなかつた。大きな特長的な唇は、紫蘇色になつて、ますます大きく特徴的に目立つていた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
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1938 昭和13 |
36 | 彼はほんのチョビチョビづつだが、十五分内外の小休止の間に二三度も小便をたれていた。最初のうちは米糠のやうに白く濁つた色だつたのが、しまひには真赤な血の尿に変つていた。 | 『兵の道』 | |
1938 昭和13 |
36 | 彼は(兵六よ、お前は馬を引いて歩く輜重兵である。馬と一緒に歩くのが、お前の最高の任務である。足が腫れてしまつて、たうとう落伍したといふことになつては、お前の任務は果たせないのである。(後略) | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
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1938 昭和13 |
8月 | 36 | 僅かな時間を割いて、兵六を患者収容所へ送り届けてくれるのである。(中略)壊れた土塀で取り巻かれた農家風の住宅が「患者臨時収容所」であつた。(中略)彼が寝入つて間もなく、固始攻撃の砲声が響きだした。兵団の先鋒が、払暁に乗じて史河の敵前渡河を行ひ、固始の城壁へ肉薄したのである。流弾や砲弾が、患者収容所の位置へも頻々と、掠めたり、落下したりしたが、兵六は何事も知らなかつた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
1938 昭和13 |
9月初旬 | 36 | 黎家集の患者収容所からの、原隊追及者は二十八名であつた。その患者を、マラリヤの騎兵軍曹が引率した。兵団の主力は固始へ入場していた。そこで野戦病院が開設される筈であつたから、いづれここの患者収容所も一両日中に撤収して、収容患者はすべて野戦病院へ引き継がれる筈であつた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
1938 昭和13 |
36 | 兵六は、岡野さへ傍らにいなかつたら、後がどうならうと、畑の中へ這ひ込んで、仰向けにひつくり返つて、思う存分に休みたいのであつた。敗残兵が飛び出さうが、夜になろうと、そのまま畑の中で死んでしまはうと、「何もかも一切合切??命までもうつちゃつてしまつて」休みたいのであつた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
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1938 昭和13 |
36 | 「あッ、おつさんだよ。また帰つてきたのかい!」どやどやと城門を入りかけた兵隊たちが、びつくりしたやうな声を放つて、兵六と歩哨を取巻いた。繰出線掛をかつぎ、電話線や被服線などを背負つているので、すぐ通信隊の連中であることが分る。安東班長以下の、兵六が配属になつている分隊の兵隊達であつた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
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1938 昭和13 |
9月 | 36 | 史河の水流を乗馬で渡渉した。(中略)まだ煙の燻つてゐる城外の焼跡の中の高い黒煉瓦の城壁を眺め上げながら、迂回して東門から[固始に]入城した。(中略)兵六は宿舎へ到着すると同時に、馬を戦友たちに委せて、(中略)前後不覚の状態で眠むつてしまつた。部隊は三日間休養した。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
36 | 兵六の病名は、マラリヤと大腸炎と脚気であつた。胸膜にも若干の故障があるらしかつた。 | 『兵の道』 | |
1938 昭和13 |
9月 | 36 | 旗小隊長が、ひょつこり兵六の部屋へ顔を出した。後ろには壽々木衛生准尉の顔が見えた。「おい、並川! おまえは入院だ。装具、被服、私物の類を一切纏めて入院の支度をせい。そして准尉殿について、病院へ行け」(中略)兵六の抗弁は、小隊長の「戦友の迷惑になる」の一語で挫けてしまつた。野戦病院で診断を受けた結果は、脚気とマラリヤと大腸炎であつた。(中略)やがて部隊は光州を目指して(中略)行進を開始した。兵六はつひに、部隊から取り残されたのである。 | 『徐州戦』 里村欣三 昭和16年5月15日 河出書房 |
1938 昭和13 |
9月 | 36 | ここの城内に、兵六たちの通信隊無線の一ヶ班が、無線通信所を開設して、前線との連絡に当たつていることを、兵六たちは知つていた。無線の兵隊が病院へ井澤たちを見舞ひに来て、光州陥落のニュースを知らせたのだつた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
1938 昭和13 |
36 | 「壽々木准尉殿に、(中略)並川は信仰に入りましたと伝へてくれ。(中略)これから一心になつて法華経を誦して、信仰三昧の生活に入るよ」 | 『兵の道』 | |
1938 昭和13 |
9月 | 36 | 翌る朝になると、後送患者たちは発着部前へ集合していた。ひえびえとした闇の中であつた。呼名点呼を受け、地面へしゃがんだままで粥を食べた。夜が白々と明け放たれる頃に、患者は自動車へ乗込んだ。(中略)ほんの十日ばかり前に、兵六がマラリヤと脚気に悩みながら、一歩一歩歯を喰いしばつて行軍した同じコースを、今はトラックに揺られて逆行しているのである。水田の稲は枯れてしまひ、彼等が露営したり設営した部落は、日一日と荒れはてて、土民の姿は一人も見出せなかつた。戦場跡の部落が荒廃していると同じに、戦線から後退してゆく患者の身も心も、痛ましいまでに窶れはてていた。 | 『兵の道』 里村欣三 昭和16年10月30日 六藝社 |
1938 昭和13 |
9月 | 36 | 後送患者は葉家集の野戦病院へ収容されていた。(中略)突然、四日目になつて、またもや六安の予備病院へ後送される命令を受けた。 | 『兵の道』 |
1938 昭和13 |
9月 | 36 | 並川はこの追撃行軍中に、脚気とマラリヤと下痢と、念入りに三つの病気を背負つて落伍し、固始の野戦病院へ収容されてしまつた。(中略)約十日間ほど固始の野戦病院で手当を受けてゐた。(中略)患者たちは葉家集へ着くまで、焼け爛れるやうな九月の炎天下を自動貨車の上で揺られながら、[敵襲におびえ]緊張して固くなつてゐた。葉家集で三四日休養させられると、更に六安の病院へ、それから蘆州の病院へと転々と後送された。蘆州では約半月入院してゐて、やがて開通したばかりの淮南鉄道で裕溪鎮へ運ばれ、発動機船で揚子江をわたつて対岸の蕪湖の病院へ送りこまれた。(中略)並川は蕪湖から更に鉄道で南京へ後送されて、やつと彼の旅路に終止符が打たれた。 | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1938 昭和13 |
10月 | 36 | 武漢攻略戦全期に亘る第二軍の総戦果は、《敵の遺棄屍体約五万二千、俘虜約二千三百、(中略)我が損害は戦死約二千三百、負傷約七千三百》(第二軍作戦経過概要)であったが、本次作戦初期は時恰も炎熱の候、加えて集中のため難行軍を実施、爾後に於ても長途急速なる前進、給養不十分、コレラの発生、マラリヤの多発等に因り多数の落伍及び平病患者を生じ、戦力就中第一線歩兵兵力の著しき減退を来たした。即ち野戦軍病院収容戦病患者総計二万五千余(総兵額十七万に対し罹病者は過半数に及ぶものと推定せらる)にして、うち病没九百(コレラによるもの三百を含む)に及んだ。 | 『歩兵第十聯隊史』 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年4月18日 |
1938 昭和13 |
11月末〜 12月11日 |
36 | 聯隊は再び北支京漢地区の戦闘に参加のため、十一月三十日黒姫丸ほかに乗船、漢口をあとにし、南京、浦口を経て十二月十一日京漢沿線石家荘に転進した。京漢沿線に転進の聯隊は、聯隊本部を●[密の下部の山が苒に似た字]晋に、第一大隊高邑、第二大隊隆平、第三大隊は南宮を本拠に、距鹿、新河、冀県、柏郷、贊皇、内邱の各地に分散して粛正作戦に従事すること半歳余、 | 『赤柴毛利部隊写真集』 昭和47年1月27日 山陽時事新聞社 |
1938 昭和13 |
12月 | 36 | 彼は約三ヶ月の入院の後に、南京の陸軍病院から退院を命ぜられた。武漢が陥落してから、すでに二ヶ月が経つてゐた。(中略)退院命令が出た時「原隊追及者は、機関へ出頭して連絡するように……」といはれて、退院通告書と一枚の旅行券が渡されただけであつた。蚌埠から徐州へ、徐州から済南へ、済南から北京、更に石家荘へと貨車や客車で運ばれて、並川は十四日ぶりに、やつと原隊へ復帰したのであつた。漢口攻略戦に参加した部隊が、また北支へ移動していることも意外であつた。 | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1938 昭和13 |
12月 | 36 | 通信隊は、昭和13年の暮から約三ヶ月ほど石家荘郊外に待機を命ぜられてゐた | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1939 昭和14 |
3月 | 37 | 私たちは昭和14年の春の終り頃から、この[北支の]城壁のある小さな都会の守備についていた | 里村欣三「墓参の人」(著作集第十二巻) |
1939 昭和14 |
3月 | 37 | その後まもなくして、並川達の部隊は、順徳へ移駐した。長期駐軍が発表されると、駐軍部隊はそれぞれ銃後の負担を軽減する意味で、食糧の自給自足策を樹てるべし、といふやうな示達があつた。(中略)兵隊たちは支那の奥地で、ひしひしと戦争の緊迫感を肉体に観じ出してゐた。 | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1939 昭和14 |
7・8月 | 37 | それからしばらくして、並川たちの部隊は大行山脈中に蟠居する共産八路軍の掃蕩戦に参加してゐた。七月であつた。(中略)兵力が分散すると、たちまち共産匪賊が山嶽の尾根を伝ひ、また谷底の洪水をわたつて、山蝿のやうに忍び寄るのであつた。大行山脈の洪水のなかで、いひやうのない苦労をして山中の路[さんずいに路]安へ突入したが、すでに朱徳麾下の八路軍は風を喰つて逃亡していた。(中略)共産軍を追ひまくつて、馬も兵隊も奔命に疲れた感が深かつた。洪水中の四十日間にわたる山嶽戦を終へて、並川たちの部隊は再び順徳へ帰還した。 | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1939 昭和14 |
37 | 彼女は私の留守中の生活を二年半に亘つて、国家の扶助を受けながら、夏はプールの脱衣場の世話係をして働き、プールのない時期は編物と縫物の内職をして、かつかつな状態で二人の子供を養つて来たのだ。 | 里村欣三「戦争と影」 『新潮』昭和15年7月号 |
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1939 昭和14 |
10月 | 37 | 九月三〇日 石家荘乗車 一九時五〇分発車、京漢線南下(中略) 十月四日 十時二十分青島駅着、宿舎鉄道中学校に入る。 五〜六日 青島市内見学、乗船準備 七日 十四時全員乗船完了、同三十分出航(中略) 一三日 七時宇品上陸、乗車、(中略)二〇時十七分岡山駅着 二二時原隊屯営帰着(中略) 一七日 歩十合同慰霊祭 岡山市公会堂にて執行 二〇日 第一次召集解除者除隊(中略) 二四日 第二次召集解除者除隊(中略) 二五日 復員完結 |
「『歩兵第十聯隊第一中隊 支那事変行動概要』 一中隊 白山会 昭和41年8月21日 (孔版) |
1939 昭和14 |
10月5日 | 37 | 私は思はぬ失態を演じて、帰還部隊から一人だけ、危ぶなく取り残されるところであつた。それは私たちが検査終了後、整列して宿舎へ引き上げる途中の出来事であつた。苦力と車馬の群れが雑沓してゐる[青島の]埠頭区へさしかゝつた時、突然後ろから追ひかけて来る騎兵部隊の行進を避けようとして、私は足元がよろけたハズミに、石炭を満載した支那車輌に──に編上靴の上から左足背を乗り切られてしまつたのである。(中略)あまりの激痛に聲が出なかつた。(中略)歩けなかつた。靴を脱ぐと、血の気を失つて紙のやうに白く、平つぺたくなつてゐた足の甲が、みるみるうちに暗紫色に腫れ上がつて、脱いだ靴が二度と穿けなかつた。(中略)隊長殿からも、小隊長殿からも、現在地の病院へ手続きをするから入院するやうに懇々と諭されたのであるが、私は泣かぬばかりに悃願した。「(中略)四ツん匍ひになつて、匍つてゞも輸送船へ乗りますから、どうか戦友と一緒に帰らせて下さい。」 | 「悔恨」 里村欣三 『知性』 昭和16年6月号 |
1939 昭和14 |
11月3日 | 37 | [左足甲骨折により陸軍姫路病院に入院していた里村欣三は、第10師団第10連隊の召集解除(昭和14年10月20日)に遅れて、昭和14年11月3日召集を解除され、上等兵に昇進] 11月3日 病解 一四、一一、三、上 |
「或る左翼作家の生涯」 堺誠一郎 上記所載の里村欣三の「在郷軍人名簿」 『思想の科学』 1978年7月号 |
1939 昭和14 |
11月末 | 37 | 私が陸軍××[姫路]病院から退院になつたのは、その翌々日の十一月の末であつた。出征以来二ケ年半に亘つて戦場を馳駆し、あらゆる苦労をわかちあつた戦友たちは、もう四十日も前に召集解除になつてゐた。しかし私は「左足背第四蹠骨骨折」のために、内地の原隊へ帰還すると同時に入院を命ぜられたので、戦友たちに較べて四十日以上も除隊が遅れてしまつたのだ。 | 「悔恨」 里村欣三 『知性』 昭和16年6月号 |
1939 昭和14 |
12月初め | 37 | 昭和十四年十二月、帰還す |
『河の民』奥付 里村欣三 昭和18年11月25日、有光社 |
1939 昭和14 |
12月18日 | 37 | 文学界の座談会(霞ヶ関茶寮)へ出席、終って、里村君の[帰還]歓迎会(秋田)へ廻る。 | 『青野季吉日記』 青野季吉 昭和39年7月25日 河出書房 |
1940 昭和15 |
2月 | 37 | [時局座談会(高見順、中島健蔵、里村欣三)に出席、於松本楼] 僕等は文学の生活の中に帰らうと思ふし、帰つて是からどうして行くか、(中略)是は随分考へなければならんと思ひますね。けれどもまだ第一自分としてはまア戦地に居た生活をもう一度振り帰つて見て、是は整理しなければならぬと思ひますよ、(中略)今僕等一番不満に思ふのは、戦争の非常に緊張した場面、第一線のなにばかりを、民衆、読者からも要求されるし、又雑誌の編輯者もさう云ふものを要求して居ると思ふけれど、僕はもつとさう云ふものから離れて、戦争を支えて居る一角から、もつと戦争を大きなものとして描いて呉れるやうな人が出て来て、今の戦争を文学として一歩進めるのではないかと思ふのですがね。 |
「「非常性と日常性を語る」座談会」 『知性』 昭和15年3月号 |
1940 昭和15 |
3月5日 | 37 | 一昨夜、六百枚ほどのものを書き上げて、ほつとしました。(中略)続編を書くやうに言はれてゐるので、またこの方に取りかゝり、今年一杯は自分の戦歴を書くことに終始したいと思つてゐます。(中略)石井君も極めて元気で、毎日工場通ひです。(中略)本が出たら、荒畑さんの家へも、久しぶりで顔を出したいと思ひます。 | 里村欣三の葉山嘉樹宛手紙 昭和15年3月5日 『葉山嘉樹』 浦西和彦 昭和48年6月15日 桜楓社 |
1940 昭和15 |
3月14日 | 38 | 私は戦地から帰還して間もなく、二ヶ年半に亙る自分の戦歴を纏めたいと思つて、長編を執筆している。 | 「殷賑産業地帯」里村欣三 『文藝春秋現地報告時局増刊31』昭和15年4月10日 |
1940 昭和15 |
3月15日 | 38 | 里村欣三君来訪。戦場に「黒馬」を見たる話、心に銘ず。 | 『青野季吉日記』 青野季吉 昭和39年7月25日 河出書房 |
1940 昭和15 |
38 | 里村のあの素朴で正直そうな姿が、時どき思いだされる。(中略)はじめはあまり話がなかったが、いかにもなつかしげにやってくる里村欣三に、好感をもたないではいられなかった。(中略)彼は、戦争の話しをすると、いかにもゆううつそうな顔をした。そしてよく、私にきいた。「戦争はゆくゆくはどうなるのでしょうか」という。そんなことが、私にわかるはずもなかった。(中略)彼は、ただ、自分は『第二の人生』という作品を書きたいと思っている、ということを述べて、もし、それが売れたら、瀬戸内海には、小さな無人島がいくらもあるから、それを買って百姓をして暮らすつもりです、とそんなことをいった。(中略)正直な里村欣三は、器用に、転向する理屈を見つけることはできなかった。彼は、まっ正直に、身をさいなむようにして、苦しんだらしい。 | 『戦士の碑』 向坂逸郎 昭和45年12月25日 労働大学刊 |
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1940 昭和15 |
5月25日 | 38 | 本当の戦争文学を書くんなら、現在自分が戦争小説を書きながら、始終気にして怯えたり、悩んだりしてゐる、この戦争の大きな影を捉へなければならないと思ふのだつた。しかしそんな野心は、私の手にあまる大きな仕事なので、そのへんのところは「そうッ」として置いて、私の戦場の体験だけを纏めたのが、私の「第二の人生」だ。 | 「戦争と影」 里村欣三 『新潮』昭和15年7月号 |
1940 昭和15 |
6月23日 | 38 | 夜、里村欣三君の「第二の人生」の出版記念会に出席。(レインボー・グリル)里村君の特異な人物についてテーブルスピーチす。 | 『青野季吉日記』 青野季吉 昭和39年7月25日 河出書房 |
1940 昭和15 |
6月 | 38 | なるほど多くの戦争文学は、戦闘(戦争ではない)についてたくさんの生きた知識を輿へてはくれた。しかしこの戦争に立ち向つた作家の魂の芸術的形成としての戦争文学には今まで僕らは接してゐない。それを最初に成し遂げたのが里村欣三であり、小説「第二の人生」である。この小説では戦場の描写を透して、里村の豊かな人間味が満潮のやうに盛り上つて独特の精神像を作つてゐる。 | 「里村欣三著「第二の人生」」 小堀甚二 『文学者』 昭和15年6月号 |
1940 昭和15 |
6月 | 38 | 『第二の人生』は、彼がはじめて赤裸になって行った告白である。しかし、この告白書にはなんらの告白書としての妙味も、ミステリイもない平板なものだった。(中略)校閲が内務省から軍に移されて、彼の正直に書こうとした文字のひとつびとつが、その時の検閲官の手で削り去られて、満足な文章といえば一行書いて一字残るかどうかが怪しまれたほどだった(中略)その結果、世にも従順な老兵が、何のためだとも知らず、(中略)中支の大平原を、よぼよぼと馬と一緒にどこかへむかってよろめく姿だけが読者の胸に訴えるものとなってしまった。 | 「里村欣三」(遺稿) 前田河広一郎 『全線』1960年4月創刊号 全線社 |
1940 昭和15 |
7月 | 38 | はじめての書きおろし長編は、二つの結果をもたらした。一つは築地小劇場が『第二の人生』の部分的上演を試みたことであり、二つには彼は郊外の鎌田というところに、四間ばかりの借家を求めることが出来た。 | 「里村欣三」(遺稿) 前田河広一郎 『全線』1960年4月創刊号、 全線社 |
1940 昭和15 |
7月 | 38 | 最初「兵馬」と題されていたこの書下し長編小説「第二の人生」は昭和十五年四月河出書房から出版され好評であった。脚色されて同年七月新築地劇団によって上演された。 | 「或る左翼作家の生涯」 堺誠一郎 『思想の科学』 1978年7月号 |
1940 昭和15 |
7月 | 38 | 子役がないと聞いて、一子欣之助を提供した。毎日彼等夫妻は、『第二の人生』の上演される限り、子供ら二人を同伴して小劇へかよった。 | 「里村欣三」(遺稿) 前田河広一郎 『全線』 1960年4月創刊号 全線社 |
1940 昭和15 |
7月 | 38 | つまちゃん──すなわち薄田つま子さん──は、新劇俳優薄田研二氏の長女で、自身も「新築地劇団」の女優であつた。「新築地劇団」は、薄田研二、丸山定夫、本庄克二(現在の東野栄治郎)、石黒達也、本間教子らで結成していた新劇の劇団で、昭和一五年の七月に里村欣三作の『第二の人生』を上演することになった。劇団では初め子役として「劇団東童」の子どもたちを予定していたが、「東童」の子どもたちの都合がつかないということになり、作者の子ども──長男の欣ちゃんと夏子ちゃん──に出演を依頼してきた。(中略)里村家の兄妹は中国人の子ども役で、つまちゃん(中略)も姑娘(クーニャン)の役で出演しておられた(後略) | 『木瓜の実 石井雪枝エッセイ集』 石井雪枝 1990年6月29日 ドメス出版 |
1940 昭和15 |
9月 | 38 | 今度の「芥川賞候補作品一覧表」には四十七八人の作家の名の作品の題名が出てゐた。その中で私が讀んだのは、野口富士男の『風の系譜』、田宮虎彦の『須佐代と佐江子』、木山捷平の『河骨』、(中略)里村欣三の『第二の人生』、(中略)その他(順不同)である。(中略)[山田多賀市の]『耕土』と[里村の]『第二の人生』は共に取り柄はあるけれど、前者はまだ荒削りであり、後者は少しぞんざいである。 | 『文藝春秋』 昭和15年9月特別号 第11回芥川賞の宇野浩二選評 昭和15年9月1日 文藝春秋社 |
1940 昭和15 |
9月6日 | 38 | 里村君来訪、「第二の人生」の続篇に悩むとの事なり。 | 『青野季吉日記』 青野季吉 昭和39年7月25日 河出書房 |
1940 昭和15 |
10月15日 | 38 | 朝、里村欣三君来訪、新しい文学について意見を求めらる。 | 『青野季吉日記』 青野季吉 昭和39年7月25日 河出書房 |
1940 昭和15 |
11月4日 | 38 | 里村より「第二の人生」続篇送り来る。 | 『葉山嘉樹日記』 |
1941 昭和16 |
2月 | 38 | 並川もその年[昭和14]の暮から、昭和十六年の十二月に、マライ戦線へ従軍するまで、ひきつづき長編小説の第二部・第三部と書きつづけてゐた | 「補給」里村欣三 『文藝春秋』 昭和19年6月号 |
1941 昭和16 |
2月15日 | 38 | 里村君来訪、式根嶋へは行かず、大島にて「第二の人生」の第三篇をかいたと云ってゐた。何かイキせき切ってゐるやうな調子であった。杉並で、羊かんを見つけたと云って、土産に持つて来てくれた。 | 『青野季吉日記』 青野季吉 昭和39年7月25日 河出書房 |
1941 昭和16 |
2月 | 38 | こなひだ、やつと「第二の人生」三部作が完結した。一昨年の暮に帰還してから、始めてこれに手を染めたのだが、三部作を完結するまでには、まる一ケ年かゝつてゐる。枚数にして、約千七百枚。(中略)今の私には、この作品のよしあしすらも、さつぱり念頭にはないのだ。世評の如何など、どうでもいゝつもりである。たゞ自分としては、全力を盡して書いたのだ。一つの小説に全力を打ち込んで、それを完結させたのだといふ自己満足だけで、当分酔つてゐられる。そんな気持である。そして、今の私は、ほんたうに「憑き物」がとれたやうな、サバサバした気持になつてゐる。(中略)私は「第二の人生」を書きながら、実際の戦場にある時よりも、もつと苦しい、のしかゝるやうな重い気持を支へつゝ書きつゞけた。実際の戦争よりも、小説の中で再経験する戦争の方が苦しかつたからだ。現実の戦争の場合では殆ど無関心に、無意識に経験したり、接触したりしてゐた事柄が、いざ小説にしようとする場合には、すつかり意識化されてしまふからだ。 | 「戦争文学に関するメモ」 里村欣三 『支那の神鳴』 昭和17年1月20日 六藝社 |