西暦 月日 満年齢 記事 出典
1941
昭和16
2月18日 38 里村から転居通知。 『葉山嘉樹日記』
昭和46年2月9日
筑摩書房
1941
昭和16
2月25日 38 細田源吉、里村欣三と「秋田」で浅酌、懐舊、心境、話つきず。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1941
昭和16
3月18日 39 有光社の會(幸楽)に出席。(中略)帰途、有光社の一二氏と、前田河、里村、中井らと「秋田」に立寄る。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1941
昭和16
4月16日 39 里村方[東京市杉並区阿佐ヶ谷一ノ八七七]へ一泊する。 『葉山嘉樹日記』
1941
昭和16
4月末
〜5月
39 [軍事保護院から依嘱され、静岡県の軍人遺家族を訪問]
昭和十五年一月十五日(中略)の静岡大火の記憶は、まだ私の胸にも生々しく灼きつけられてゐた。(中略)それから約一ケ年半歳を経て、私は静岡市の灰燼の跡を訪れてゐた。昭和16年4月末日であつた。(中略)生々しい焼跡には草さへ芽をふいてゐなかつた。時局柄、資材の不足、建築費の暴騰、労力の不足等の原因によつて、罹災地の復興が遅延させられてゐるのであらうが、しかし私は聞き捨てにならない事実を聞かされて吃驚した。それは大火災後、土地価格が数倍にも暴騰し、地主連が罹災者との間に土地貸借の再契約をしないため──つまり以前の借主と再契約したら高い地代が貪れないものだから、地主が再契約を忌避するために、このやうに罹災地の復興が遅々として捗らないのだ、と聞かされたことである。(中略)まつたく憤慨に堪へないものがある。私は腹を立てながら、静岡市八幡町八番地へ陰山七五郎氏を訪ねた。
[続けて、長野県を訪問]
和田大尉の実家は、伝説で名高い姥捨山の山麓である。(中略)和田家を辞して、山麓の坂道を下ると、眼下の善光寺平は、むせるやうな青一色の若葉で蔽はれ、文豪藤村のスケツチで名高い千曲川が、夢のやうに白く光つてゐた。私はこの美しき景色を見渡すたびに、純美な国土にこそ、けがれなき純情の精神が宿ることを、いよいよ切実に痛感せずにはゐられなかつた。
「傷痍の身から起つ」
「遺族指導の華」
里村欣三
『青草人 中卷』
昭和16年11月15日
軍事保護院
1941
昭和16
  39 花田[里村]は仲間から少し離れた所に住んで、落着くと時々こっそり日蓮宗の寺に行った。そこに一人坐って経をあげた。自分一身の大過なきをいのり、大陸の戦運が日本のために栄えることもいのった。それはてらいではなかった。 『鉄の嘆き』
平林たい子
昭和44年12月25日
中央公論社
1941
昭和16
39 「第二の人生」「支那の神鳴」につづいて発表された「兵の道」を氏はその発行所六芸社社長福田久道氏の紹介で、創価学会の前身である身延山大石寺の離れで書いたが、福田氏は熱心な日蓮信者であり(中略)、里村氏もいつか熱心な日蓮信者になっていた。仏壇を買い、その前で朝夕大きな声でお経を上げ、月に一回は必ず葛飾砂町のお寺に家族全部を引きつれてお詣に行った。夫人はお経をおぼえないといってたびたび叱られたという。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1941
昭和16
39 彼は「兵の道」に於て彼自身の求心力の基礎を法華経の真髄におかうとした。嘗ての人道主義者、左翼作家が、今は正真正銘の日蓮正宗の信者になりきつたのである。(中略)私達が逡巡してゐる間に里村欣三君は、自ら法華経の行者たることを、吾々の前に宣言したのである。日蓮の教義研究から一歩をすゝめて身を以つて法華経を行じ、佛の世界へ近づく道を選んだのだ。 「序」柴田賢次郎
『支那の神鳴』
(里村欣三)
昭和17年1月20日
六藝社
1941
昭和16
8月26日 39 里村君来訪。防空用水のセメントの水槽を僕の代りに運んでくれる。逞しい體。弱い精神。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1941
昭和16
10月16日 39 十月十六日には次女紘子が生まれた。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1941
昭和16
11月16日 39 里村欣三、青木壮一郎が来た。里村は国民徴用令が来たと云ってゐた。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1941
昭和16
11月21日 39 徴用され、明朝は集合場所になっている大阪城に行くことになっていた大阪の宿で、[里村]氏は「僕は作品の上で人間を追求するようなことをやってはいかん、そんなことをしたら承知せんぞ、と強くいわれているんだ。だから理想的な軍人を書いて反省をうながすほかないんだ」と何ともやり切れない調子で私に語った(後略) 「解説」堺誠一郎
『河の民』
(中公文庫)
1978年2月10日
中央公論社
1941
昭和16
11月22日 39 九時、大阪城内に集合、(中略)引率されて○○部隊営舎に入る。(中略)提出書類三枚に記入署名の後、医務室にて身体検査をしてもらう。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
11月22日 39 大阪城から二〇分ばかり離れた連隊まで歩かせられ(中略)広い営舎の中へ収容された。毛布三枚が渡される。下は板敷だ。勝手に席をとったから自然知っている者の隣りになる。園[寺崎浩]は軍隊経験のある軍曹か何かの堺[誠一郎]の隣りに座した。堺の隣りに里村欣三がいた。少し離れて海音寺(潮五郎)と井伏がいた。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
11月22日 39 私たち第一回徴員として南方に派遣される宣伝班員は、フィリピン組(百二十名)マレー組(百二十名)ビルマ組(八十名)ジャバ組(百二十名)の四組に分れてゐた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1941
昭和16
11月23日 39 丁班百二十名。南方、仏印に行くらしいとの噂である。(中略)宣誓式、日暮れて挙行された。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
11月25日 39 用のあるものは外出を許す、ということになったのはそれから二日ばかりしてからだ。まず里村が真っ先に申し出て許可をとる。(中略)その夜は里村がこっそり運び入れてくれた酒を回し飲みして話をし合う。酒がただ冴えて、うまい。園[寺崎]はいう。「僕らは兵隊じゃない。だから自由に見、自由に批判していいと思うよ」里村は強く主張する。「いや、そんなことはできはしないよ。自由なんてないと思う」(中略)里村は一兵卒だった経験がある。「文学は政治に従属していくものだ」(中略)「個人を潰して政治に従うのが本当の文学だと思うな」里村は左翼陣営にいたのでそういういい方をした。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
11月26日 39 午前中、認識票を支給される。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
11月26日 39 園[寺崎]は里村に訊ねた。「君はどうしてうまく外出しているんだい?」「ああ僕は歯科治療だ。兵営には歯科がないんだ。どういうものかない。歯医者へ行くといえば外出させてくれるんだ」里村はそう教えてくれた。園[寺崎]は小栗[虫太郎]も誘つて歯医者へ行く許可を貰つた。(中略)一口、酒が入ると、里村は別人のように能弁になる。(中略)愛想よく、上機嫌に話しかける。世間話のうまい中に、彼らしい体験の泣き笑いをしたたり落とすのだ。(中略)里村は園[寺崎]より二つ年上だがプロ文学ではかなり早く文壇に出ていた。中華そばの屋台車をひいて流している時代、彼はチャルメラがうまく吹けず、代りに子供が吹いてくれたという。そばの方は見かねて客が作つてくれたという。兵隊の頃は彼が癇癪を起こして怒るので、馬も癇癪を起こして勝手に奔走してしまう。その馬を追つて走る兵隊当時のことを書いた有名な小説もある。そんな話を里村はまぜるのだ。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
11月27日 39 午後、引率外出、天王寺に詣でる。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
11月29日 39 午後、引率外出の形式にて、橿原神宮に参拝。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
11月30日 39 一同、湊川神社に参拝した 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月1日 39 午後、乙班と共に営庭に整列、司令官の訓辞を受ける。(中略)明朝、九時半出発、十一時乗船、十二時出航との命令あり。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月2日 39 市内電車にて引率乗車、築港にて汽船に乗込む。(中略)リュックサックをおろし、時計を見ると十一時である。(中略)夜、毛布一枚だけで寒気きびしく身にこたへて目がさめる。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月2日
39
天保山港より輸送船「アフリカ丸」で出港する。 井伏鱒二年譜(井伏鱒二全集別巻二)
2000年3月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月2日 39 アフリカ丸。元は南米航路の客船。しかし船の内部は改装され、板で棚が作られ、その上にむしろが敷かれ、中腰になって出入りする。(中略)画家の栗原信と塚本とが並び、堺と里村とは隣り合っていた。(中略)船には園[寺崎]たちマレーへ行く部隊と高見順、小田[嶽夫]らビルマへ行く部隊が乗っていた。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
12月2日
39
私たちの乗つていたアフリカ丸は一萬噸級の汽船であった。丙班といてビルマに連れて行かれる人たち百何十人と、乙班のマライに連れて行かれる人たち百何十人が乗っていた。丙班には倉島竹二郎や高見順がいた。私[井伏]は乙班で、この班には中村地平、海音寺潮五郎、北町一郎、寺崎浩がいた。 井伏鱒二全集第十巻「私の萬年筆」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月3日 39 朝、丸亀の沖合を通る。(中略)夜、下関に碇泊。 井伏鱒二全集第十巻
「南航大概記」
1941
昭和16
12月3日 39 謄写刷りの船内新聞「南航ニュース」が出たのは出帆の翌日だ。カットは塚本画伯、ガリ版書きは菱刈と長屋。第一号には東条内閣の突然の改造が話題になっている。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
12月4日 39 曇。朝、下関出帆。 井伏鱒二全集第十巻
「南航大概記」
1941
昭和16
12月6日 39 午前中、甲板で陸兵哨兵戦の模擬演習。午後、火災避難演習、救命具着用演習。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月7日 39 午前九時ころ右手に微かに陸が見えた。厦門であろうとのことである。(中略)三時種痘。(中略)夜、演芸大会。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月8日
39
朝六時、西太平洋で日・英米陸海軍、交戦状態に入つたと報ぜらる。無電が入つたのである。甲板で宮城遙拝の式が挙行された。(中略)午前十一時、空襲警報、間もなく解除。香港沖百数十浬。今日一日が危険の峠と○○少尉が各班に通告してまはつた。御詔勅が下つた。ラジオでニュースをききながら、みんな萬歳を叫んだ。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月10日 39 [海南島西海岸の三亜港に寄港] 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月11日 39 夕食前、鉄帽、軍靴、その他の支給あり。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月12日 39 甲板にて軍装検査あり。毒瓦斯マスクの取扱い方を○○少尉より教授さる。終日快晴。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月13日 39 午前十時ごろ、三亜港を出帆。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月14日 39 今晩から明日までの間、フィリッピンに最も近く航海するため警戒を要すと発表あり。点呼後、託送すべき余分の荷物をまとめて木の箱に入れる。里村君が木箱を縄でしばる技に長じ、見る見るうちに仕事を片づけて行つた。乃ち、里村君は小生の仕事ぶりを見かね、鮮やかに木箱の封をしてくれた。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月 39 太平洋戦争の初期、ぼくは徴用されて、報道班員となり、マレーにおくられた(中略)。なかまとして、井伏鱒二、里村欣三、小栗虫太郎、寺崎浩、中村地平、北町一郎の諸君がいたが、ぼく自身はいうまでもなく、大抵の人が、持荷物のこしらえさえ出来かねて、七転八倒した。小栗虫太郎、中村地平の両君の無器用さにいたっては、もう人間業ではなかった。例外があった。先ず里村欣三。後に比島に従軍して、レイテで戦死したこの人は、生えぬきの労働者出身の作家だけあって、荷造りなど、運送屋の人夫ほどあざやかであった。大抵の者が、彼の厄介になった。親切な彼は、こちらから頼むまでもなく、至って気軽に手を出して、巧みに箱につめ、トントンと釘を打ち、シュッシュと縄をしごいて、からげてくれた。今でも、その頃のナカマが会うと、きまって、この話が出て、彼の親切をしのぶのである。 「ハムチョイ」
海音寺潮五郎
『バナナは皮を食う』(檀ふみ選)
平成20年12月10日
暮らしの手帖社
1941
昭和16
12月15日 39 十時ごろメコン河の河口に着いて投錨。(中略)みんな、やつれている。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月18日 39 午前十時、サンジャック岬発、遡江。両岸にマングローブが生い茂り、川幅は広くはないが相当の水深らしい。一萬トンに近い船が悠々と進んで行く。サイゴンに着く。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月18日 39 夜、ビルマ班は別れの手を振って下船して行った。船の中は至る所で酒盛りが始まった。(中略)酔ってしまった所へ、以後命令に従わぬ者は憲兵隊へ引き渡すと老中佐の訓辞があった。「南航ニュース」に絡んでシェパやブルを擁護する訓辞だった。だからかっとして、みんないきり立った。(中略)殺気だってみんな食堂へ集合した。(中略)「みんながいっても分らん。一人がいえ!」老中佐はそういった。「よし、俺が話す。(中略)」と里村は(中略)中佐の前へ進み出るといった。「一部の者がこそこそ事をやるのはいかん。権力を持ったかのようなふるまいもいかん。戦友は戦友らしいいたわりがあるべきなのに、告発したりスパイするとは何事か! それを書いて悪いことはない。文学はそんな生易しいことで分るもんじゃない。それがいかんというなら憲兵隊へ引き渡せ!」と机を叩いて老中佐に詰め寄った。その瞬間、いつ出てきたのか[中村]地平が(中略)「あやまれ!」と叫んだ。「それじゃ取り消す。取り消せばええじゃろう」と老中佐はいった。それをしおに堺は里村の傍らへ行って、もういいというようになだめ、中佐には取り消して貰い(中略)解決をつけた。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
12月19日 39 夕方になつて、上陸命令が出たので(中略)柳君を先頭に、海音寺潮五郎、里村欣三、寺崎浩、堺誠一郎など数人で、驢馬の輓く馬車に分乗して総督官邸の近くの毎日新聞支局に行つた。宮沢君たちが手厚く迎へてくれ、先づ風呂に入れてくれた。(中略)すぐ夕食になつて、私たちは安南料理の御馳走になつた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1941
昭和16
12月22日 39 午後五時ごろ、岬から小舟で野菜を輸送して来た。調味料を忘れたので、里村欣三君が小舟に便乗して岬に行く。おかげで夕食は米飯である。午後七時ごろ、大汽船○○○丸(一〇二〇〇トン)が入港した。我々はこれに乗りうつる。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月22日 39 [堺誠一郎] サイゴンに寄港して、そこに暫くいて、それから浅香山丸に乗り換えてシンゴラに向かったわけです。 『人間の記録マレー戦後編』
御田重宝
1977年10月10日
現代史出版会
1941
昭和16
12月22日 39 夜になってマレー組は浅香山丸に移乗する。南支からの歴戦の兵隊群、航空基地建設隊などが一緒に詰め込まれていた。兵隊たちは酒を飲んでいたが荒くれた感じが凄惨だった。(中略)浅香山丸の出発したのはクリスマス・イブで、サンジャックを出ると駆逐艦と軽巡が船を回って警戒している。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
12月 39 輸送船のなかの里村君は口数が少くて、人に目立たないやうにしながら規律は適宜に守ってゐた。(中略)里村君や堺君は船中の争議には顔を反けていたゐたやうだ。後で判ったが、この二人は輸送船のなかで徴用画家の栗原信と語らつて、前線へ出る単独の小隊を結成した。戦地に着いたら最前線で記事を取る目的で結盟した一隊である。悲壮な気持ちであったらう。この小隊は三人のほかにカメラマンの石井幸之助、音楽家の長屋操、新聞記者の松本直治を加へて、「六人の報道小隊」と云つた。別名「栗原小隊」とも云つた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1941
昭和16
12月 39 栗原小隊は画家の栗原信、堺誠一郎、里村欣三、カメラマンの石井幸之助、音楽家の長屋操、新聞記者の松本直治の六人であった。この小隊の取材行動した顛末は、栗原信が『六人の報道小隊』という戦記に書いて昭和十七年十二月に出た。 「徴員時代の堺誠一郎」
『海揚り』
井伏鱒二
昭和56年10月20日
新潮社
1941
昭和16
12月 39 我々報道小隊結成の覚悟は船中から進められてゐたのだった。前途の判らない船中ではあつたが、いつの間にか里村と堺と私は、前線へ出ることを約束して了つてゐた。(中略)里村の健康は直接労働の中に彼を置く結果にして了つた。衝動に引ずり廻されて四十年の人生を殆ど労働者の中で送り、内地はもとより北満の果までも、膏薬を貼つたり跛を曳いたりして旅をしてゐる。彼はいつも、突発的に直情的に行って了まふのが癖だが、決して悔いたことも、効果を楽しんだこともない。或る宗教には関心を持つてゐるが、戒律には好きなところだけしか必要がない様である。寧ろ彼の尤もらしいものは酒を呑み乍ら、のべつ論じられる社会批評人生批評なのである。然もそれは、常に変らぬ一貫した論調と理想を持ってゐるのにも拘わらず誰もそれを諒解したと言ふものも賛成だと言ふものもゐない。それは、彼がラッパを吹き鳴らす様な宣言的な音響と、抑揚のない、力一杯に物を敲く様な不協和音だけで叫ぶ為に、聴き取りにくいせいであるからだと思ふ。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1941
昭和16
12月27日 39 朝九時、シンゴラ港に着く。午後一時ごろ上陸命令。ポンポン船に乗り一時間十五分航海して、○○本部に着く。(中略)リュックサックを背負ひ、列をつくつてこの町の古刹カット・クランにはいつた。黄色い僧衣を着た僧侶数人〈タイ人)が出て来て本堂の戸をあけてくれ、本堂に泊まることになつた。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月27日 39 堺[誠一郎] 私たちがシンゴラに上陸したのは、昭和十六年十二月二十七日です。 「対談マレー戦をめぐって」『人間の記録マレー戦後編』御田重宝
1977年10月10日
現代史出版会
1941
昭和16
12月28日 39 未明起床、トラックに分乗するとき、通り雨が来た。(中略)アロルスターまで二百二十キロ走る。みちみち、橋梁、道路が爆破されていたが、橋梁はみんな仮修繕されていた。(中略)夕方、町はづれの当市青年の公会堂に該当する二階屋に宿営する。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月29日 39 夕方、移転の命令。もとのケダ州政庁の二階に移る。隣室に憲兵隊が泊まつている。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1941
昭和16
12月31日 39 早暁、トラックに分乗。二百五十キロを走り、タイピンに着く。司令部に行き訓辞を受け、宣伝部宿舎に到着。訓辞を受けてから部屋に入る。二階の大広間、舞台あり。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1941
昭和16
12月31日 39 タイピンに着いたのは十二月三十一日の午後、まだ陽差しの残っている頃だ。やっと司令部へ追い着いたのだ。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1941
昭和16
12月31日 39 [堺誠一郎] 山下軍司令官の指揮下に入ったのはタイピンで、ちょうど大晦日の日でした。 「対談マレー戦をめぐって」『人間の記録マレー戦後編』御田重宝
1977年10月10日
現代史出版会
1942
昭和17
1月4日 39 一月四日十五時三十分従軍記者らと共に我々は、(中略)六十キロ先のイボー、それより更に四十キロ先のカンパルへむけて出発したのであった。(中略)快晴の六日午前九時、トラックは再びイボーを離れカンパルへむけて進んだ。(中略)いつか涼しい風が出て来て、昨日の疲れかうとうとする。トラックの上で眠ってゐるのは井伏鱒二氏だ。『ゆうべは遅かったからな』 「タイピンからカンパルまで」
松本直治
『陸軍報道班員手記マレー電撃戦』
昭和17年6月15日
大日本雄弁会講談社
1942
昭和17
1月8日 39 間もなく一週間は過ぎた。自分たちはその間荒廃した街の中を歩き廻り、インド語、マレー語、英語の謄写版刷りのニュースを要所要所に貼つて歩き、住民たちに手渡したりした。(中略)その他の仕事と云へば、自分たちが到着する前から発行されてゐた前線向けの『建設戦』といふニュース新聞の印刷の紙めくりを手伝ふ位のことであつた。(中略)十九時十分スリム・リヴァー発、夥しいトラックの群に挟まれ、つかへつかへしてゐる中にスリムに着く。 「マレー西岸部隊」
堺誠一郎
『陸軍報道班員手記マレー電撃戦』
昭和17年6月15日
大日本雄弁会講談社
1942
昭和17
1月8日 39 私たちは、その生々しい戦跡を、まつしぐらに南下したのである。スリムの部隊本部に追ひついたのは、一月八日の午後二時すぎであつた。(中略)この縦陣突破戦に敵をふるへ上らせた立役者は、僅か○○臺の島田戦車隊であつた。私たちは、まだ油で真黒く汚れたまゝの島田隊長を探して、その生々しい体験をきくことが出来た。(中略)翌九日の午後二時、私たちは更にトラックを駆つてタンジョンマリムへ入つた。 「陸の上のダンケルク」
里村欣三
『キング』
昭和17年3月1日号
大日本雄弁会講談社
1942
昭和17
1月9-12日 39 [一月九日] 十時スリム出発。(中略)十四時、タンジョンマリム着。
[一月十日] 九時タンジョンマリム発。(中略)暮れ近くラサに着く。
[一月十一日] われわれのトラックがあまりに混雑してゐるので○○隊の方で一台割に空いた車に乗れと云つてくれる。里村君と一緒にその車に世話になりに行く。(中略)十七時三十分、ラワン着。
[一月十二日] 十一時コーラランプールに入る。
「マレー西岸部隊」
堺誠一郎
『陸軍報道班員手記マレー電撃戦』
昭和17年6月15日
大日本雄弁会講談社
1942
昭和17
1月12日 39 前進。タリンムラムといふ田舎[から](中略)約三十分ばかり行つたとき、路傍の草むらから一人の英人が這い出して来た。マライ人に化けるつもりかサロンを来て顔に墨を塗つていたがはげていた。トラックに乗せて連行したところ、里村君にビスケットを輿えてもらつたので里村君に話しかけ「お前はマライ人か」と里村君にたづね大いに里村君の不興を蒙つた。この捕虜は本隊を離れてから四日間も飲まず食わずにいたさうである。(中略)夜一時半、クアラ・ランプールの街にはひつた。死の街であつた。一方、まだ戦闘中の街であつた。川の手前に停止していると川向うで小銃の音がしていた。(中略)停車場とその近くの大きな倉庫が燃えていた。宿舎を捜しまはって停車場のそばを通るとき、二階からどろどろと火が流れ落ちているのを見た。二時半ごろ漸く宿舎を捜しあてた。支那人の住宅である。 井伏鱒二全集第十巻
「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1942
昭和17
1月14日 39 こゝまでかいてきて、直ちに出発の命令を受け、前線に出かけなければならない。(中略)皇紀二千六百二年一月十四日、クアラ・ルンプールの宿舎にて。 「陸の上のダンケルク」
里村欣三
『キング』
昭和17年3月1日号
大日本雄弁会講談社
1942
昭和17
1月16日 39 私たちがイボ市を出発する前日、栗原信は最前線従軍を志願して、里村欣三・堺誠一郎の三人で出発した。この三人は、私たちがコーランポオ市に着くと私たちの宿舎にやって来た。聞けば、彼らの従軍した歩兵部隊はみんな自転車に乗っているために、彼らも自転車を調達しなくてはとても追いついていけないというのであつた。栗原信は支那人部落の店からセコハンの自転車を買つて来て、その泥除けに黄色い油絵具で「宣伝班栗原信」と書いた。堺誠一郎も里村欣三もセコハンの古めかしいのを買つて来て、それぞれの泥除けに名前を書いた。しかし里村・堺の両君は二十何年間も自転車に乗ったことがない。それで自転車を街幅の広い道路に持って行き、出発を翌日にひかへて自転車乗りの練習にとりかかつた。その日、私は宿舎にいたので両君の自転車乗りの具合を見ることができなかつた。翌朝、私は食事をして残飯を路傍の溝に棄てに行つたとき、彼ら三名の前線従軍者が快速力で坂道を下つて行くのを見た。いづれも腰に剣を帯び鉄兜を背に吊し、サドルにリュックを結びつけていた。私たちは彼ら三人が出発してから三日目の朝コーランポオを出発した。一月十九日のことである。 井伏鱒二全集第十巻
「ゲマスからクルーアンへ」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1942
昭和17
1月16日 39 堺[誠一郎] 私どもがゲマスに入ったのは十六日でした。 「対談マレー戦をめぐって」『人間の記録マレー戦後編』御田重宝
1977年10月10日
現代史出版会
1942
昭和17
1月16日 39 ゲマス前方の戦闘の跡には草は踏みにじられ車輌はゴム林に転覆散乱し、衣類銃器弾薬箱、薬莢などが一面に転がってゐた。(中略)コゲ臭い戦場には腐肉の臭も交つて、我々は戦場意識で身が緊まる思ひがした。(中略)気が急いてゐるので私と里村と石井は戦車隊本部へ連絡に出発した。(中略)遠く五六発の大砲の音を聞いた。石井と里村はそのまゝ兵隊と一緒に自転車で街の方へ走り出した。(中略)「フュー、フュー、フュー」「ダダダダダン」私は口を開け耳を塞いでゐた。最後の来るべきものが現はれた様に思った。(中略)丘の上にまつて家屋の蔭に腹這ひ乍ら三人は、顔を見合わせた。誰の顔も蒼白になつて鼻や口の圍りはドス黒く隈が出来てゐた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
1月20日頃 39 ゲマス以来、敵砲弾は夜となくひる晝となく、頭上を掠め飛んだ。幾日かを道路の上や民家の軒下に夜営して過した。アイエルヒタムを集合地点として我々はそれぞれの好む部隊に蹤いて前線に出ることになつた。自転車の下手な里村は○○部隊の歩兵に、堺は工兵隊に、長屋松本は砲兵に、私と石井は○○部隊の戦車隊に配属して資料蒐集にかゝつた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
1月25日頃 39 石井と私は(中略)一週間の厚遇に別れをつげ、アイエルヒタムの集合地点に去つた。里村も堺も、長屋も松本も、皆ニコニコして現はれた。(中略)「……更ニ○○部隊ヲ追及シテ任務ヲ続行スベシ」○○部隊は西海岸部隊である。(中略)丘の蔭に、ペンキ塗のマレー人住宅があった。我々六人はそこにいつたん落着いて西海岸への機会を待つことになつた。(中略)「停ったらすぐ飯を炊く寝床を作る」これは里村が支那の戦線で学んだものらしく、鶏をぶりぶりと小刀も使はないで引むし[てへんに劣]つて了つた。(中略)こういふ時になると、誰も彼が半生のうちに苦労して掴んだ労働者の体験や軍隊生活の訓練に及ぶものはなかつた。然し里村の炊く飯盒飯は殆ど黒焦げ飯が多かつた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
1月25日頃 39 彼ら[六人の報道小隊]はアイエルヒタムの戦闘までは松井兵団に配属になつてゐたが、この一週間ほど前から西村兵団の方へまはされて来てゐたのである。 『静かなる敵前』
里村欣三
昭和18年12月20日
成徳書院
1942
昭和17年
1月29日 39 バトバハトまで廿一哩を午前中に突破する予定で走つた。(中略)バトバハトの町に着いたのは十二時過ぎてゐた。(中略)椰子林の間に見え隠れするマラッカ海峡の海を右手に見乍ら海岸道路を、続けさまに走つた。南国の陽にタイヤは溶ける様に熱く張り切つてゐるので、屡々パンクした。(中略)里村のペダルは彼の強力にとうとう踏み潰されて了ひ、附けても附けてもコロリと落ちて、悲観したことのない彼も遂に情けなさうに、片足でペダルを踏んでゐた。センガラン附近で○○部隊本部を訪ね、迂回戦に依るその犠牲と、その戦果を聞き、(後略) 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月1日 39 道標卅二哩の地点で、われわれはジョホール陥落の速報を耳にしたのである。(中略)里村は英兵の乗り捨てた自転車からペダルをむし[てへんに劣]りとって来て、自分のへ叩き込んだ。誰も少しづゝ気が立つてゐた。(中略)里村の自転車は、総体四十五六貫の重さになつてゐるから、自転車の堪えへ得る最大の重さではないかと思ふ。(中略)二三十分経つてから彼は現はれたが、上半身血だらけになつて右手を繃帯してゐた。肩先からは血が流れてゐる。『坂道で兵隊が後ろから突当たつたので、僕あ十間位自転車と一緒に吹飛んだ。(中略)』『今夜我々は行けるところまでぶつ飛ばそう。』 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月1日 39 スクダイはやゝ高地になつてゐて、ジョホールを去る七八哩の小さな部落で、交通の要点と言ふ以外に何にもない。(中略)里村と私が炊事をしてゐる間に石井と堺が四つの部屋を片付け、表の戸にインクで報道小隊と大きな字を書き、食卓に皿やコップやコーヒーの用意までしてゐた。夜は灯火管制だから、久振りに外を眺め乍ら晩餐と言ふ感じの整つた食事をした。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月2日 39 御田 ジョホールではジョホール市内へ入られたのですか。
堺[誠一郎] 入りました。シンポールの攻撃前に入りまして、ジョホールで五、六日くらい待機していたんじゃないかと思います。(中略)ジョホールから私ども報道班員は、牟田口中将の司令部についたわけです。
御田 十八師団につかれたんですね。
「対談マレー戦をめぐって」
『人間の記録マレー戦後編』御田重宝
1977年10月10日
現代史出版会
1942
昭和17
2月2日 39 『原稿を書く前にジョホールの偵察をして置く必要は無いか、更にジョホールから対岸シンガポール偵察の必要もあるよ』(中略)対岸のシンガポールは密林に包まれて、棒の様に横たはつてゐる。ジョホールバルーの街の入口に来た。対岸七八百!橋の一角が爆破されてゐる。鴎が飛んでゐた。里村と一緒に街に入つた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月3-4日 39 晝間、報道記事を書き、夜はベランダに出てシンガポール要塞に関する知識を語つたり、日本軍の作戦について空想して見たり、陥落の日を賭け合つたりして二三日を暮した。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月5日 39 報道任務の上から、何うしても包囲軍の全局面に触れて置く必要があるので、この報道小隊の宿舎を後に最左翼○○[西村]部隊を指して我々はスクダイの部落を出発した。(中略)暮方マサエの部落に着いた。(中略)我々の今度の宿舎は、運動場の様に広い二階建の独立家屋であつた。シンガポール、セレタ軍港の煙が真ん前に見えてゐる。(中略)夕食を楽しみながら甥を訪ねた。(中略)「自由主義日本の文化は、四十年間に何を僕に教へたか……」と里村は宿舎へ帰る道で演説を打ち始めた。『今日は、その辺のところで』と私が水を差した。堺も石井も助かつたと言ふ様に大声で笑つた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月6-7日 39 翌日は一日マサエの宿舎で原稿の整理にかゝった。『もうこの記録が最後かもしれないぞ』と里村が云つた。(中略)里村と堺は木切れを積んだりして寄りかゝつて仕事をしてゐた。(中略)夜中に○○版の櫻井少尉が来て、『近々総攻撃が開始される、最前線は右翼○○部隊らしい』(中略)夜明けに敵の砲撃が聞えた。(中略)また再びスクダイの宿舎を訪ねる。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月8日 39 早朝スクダイの部落を出る(中略)既に今朝から十キロ廿キロの道程ではない(中略)空は半分黒雲に閉されて行手にはひどい電光が閃き、スコールが迫って来てゐる。(中略)里村と私は一つの雨合羽の中に跼がんだ。(中略)四方の林の中からビンビンと言ふ発射音が鳴り出した。六時である。(中略)高地を一廻りすると、びしょ濡れの部隊がゐた。(中略)今当に移動しようとしてゐるところだ。(中略)ジャングルの道は、道とは言へなかつた。たゞ密生した灌木林を鉈や鉞で切り払つたゞけのでこぼこ道で、(中略)右往左往、さ迷ふ様に(中略)一時間程歩いた。(中略)「揚つた揚つた上陸成功、」「青だ、」と言ふ声が聞きとれた。(中略)夜光時計は〇時廿分になつてゐた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月9日 39 [堺誠一郎] 九日の午前零時になると砲弾を遠くへ撃ち始めました。それと同時にジョホール水道を越えて上陸していったわけです。(中略)私どもが渡河したのは、すでに多くの部隊が上陸したあとで夜明け近くになりました。四時か五時だったと思います。私たちが向こう岸へ着いてしばらくたったら世が明けてきましたから。 「対談マレー戦をめぐって」『人間の記録マレー戦後編』御田重宝
1977年10月10日
現代史出版会
1942
昭和17
2月9日 39 シンガポール島の空はほのかに明るくなつた。(中略)我々は自転車をやつと積み込み、飛び乗つた。(中略)どんどん舟艇を出た兵隊もリュックサックの新聞記者も、赭土の崖を攀登つた。(中略)我々は一台の自転車を四人で協力して、順々に引揚げた。(中略)この附近の戦闘は昨夜の激戦地で、地面には踏み荒した靴痕が残ってゐる。斜面には敵屍が列をなして倒れてゐる。すぐ前の谷には、両軍の機銃が盛に起つて掃討戦が行はれてゐる。(中略)少数の特科部隊と我々とは、ゴム林を抜けて舗装道路に出た。正面はテンガーの飛行場である。(中略)我々の○○軍本部はテンガー飛行場西南端のゴム林中に上陸の第一夜を過すことになったのであつた。(中略)誰もが刀を抱いて寝た。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月10日 39 いつも早く眼を覚す里村が、頓狂な声を出した。夜は明けてゐた。(中略)真黒だ。何もかも真黒だ。(中略)里村は逸早く気がついて、顔を擦り廻したと見えて、死体の様にどす黒い。被服は勿論、草も木も、空を蔽ふてゐる油煙が降りかゝつて一晩のうちに総てのものを黒く塗り変へて了つたのだ。(中略)朝日を受けて墨絵の様な道路上や、ゴム林に、黒い兵隊が並んで訓示を受けてゐる。(中略)本部の護衛小隊と我々しかゐないらしい。(中略)暗くなつた。部隊は動き出した。(中略)私は「第一線の作戦区域の中に入り込んでゐるのだな、」と思つた。(中略)「今夜は敵中であるから誰も戦闘の準備をして現在地にあつて警戒せよ、」(中略)報道小隊の一行は鉄兜を被ったまゝ刀を抱いて寝た。殆ど四人は枕を一ヶ所に集めて、放射形になって寝るのであつた。里村は鼾をかいて眠つて了つた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月11日 39 「敵襲!」と堺が飛び起きた。石井も里村も跳ね起きた。左手の丘を下りて来る敵兵のシルエットが空に映つた。(中略)丘の中段から草の垣根を飛び下りる音が聞える、数間先である。(中略)衝動的に我我一行も刀を持った儘立ち上つて、後方へ退つた。(中略)機銃弾がバリバリと後を追つた。(中略)丘は次第に明るくなつて、處々に赭土の露出した斜面が見える。(中略)兵隊は民家の前に集合した。(中略)里村と石井が小川の堀の方から出て来た。堺は民家の方から、昨夜の様に刀を左手に下げて現れた。三人共泥にまみれた黒い姿だ。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月12日 39 東の空が明るくなつてゐる。(中略)バリバリと敵の機銃弾が我々の附近に飛び込んで来た。(中略)我々は再び混乱して、銘々の位置に伏せてお互に掩蔽物のある処や、凹みの場所を捜して匍匐した。(中略)谷の道を銃を擔いだまゝ友軍の歩兵が二列縦隊になつて進軍して来た。(中略)一箇中隊位の兵隊ではあるが、まるで周囲の重い空気が一掃される様なものを発散させてゐる。(中略)右手丘の向側の斜面では昨夜の敵を包囲して、盛に戦闘が行はれてゐる。(中略)今日は一日水を飲んで暮した。(中略)部隊はブキテマの大道路に出て三叉路に下りた。(中略)今夜も行軍だと言ふので、谷の川辺で自転車から荷物を下して、(中略)毒消売りの様に大荷物を背中に背負つた。(中略)吃驚して、飛び起きた時は、砲弾が破裂した後であった。(中略)夜光時計は十一時近かつた。(中略)弾は私の周囲に落下して、土砂を背中に吹き掛けて吼えた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月13日 39 次第に明るくなって来た。砲弾も機銃の音も間遠になつて来た。(中略)昨夕我々の寝た附近に皆集つてゐた。(中略)だが家の蔭では昨夜同盟と朝日の記者が二人やられて皆集つてゐる。(中略)砲弾の中で二人の記者を会葬した。(中略)『私は自分の部下を連れて後退します』と○○の将校に言つた。(中略)司令官を捜して挨拶に行かうとすると、自分の身辺に唸りを打つて敵砲弾が飛掛かって来た。我々一行と記者の一団とは、後方へ少しづゝ弾の間を見て移動した。途中砲弾に追はれて里村が見えなくなつた。(中略)私達はブキトパンジョンの部落へ着いた。○○本部の下のトンネルの中へ入つて寝ようと言ひ出した。(中略)ブキテマ三叉路は、ここから一キロ余りの前方である。(中略)『里村君が居つたら、僕も絶対安心なんだが一體彼は何うしたと思ふ』と堺が心配気であつた。(中略)四日のうち、三日は眠らず、三日は喰はずに、戦闘の中で暮した我々は、「絶対安全」の場所で、ほんとうに眠りたかつたのだ。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月14日 39 トンネルの前の小屋に入つた。小屋の中で一二日報道事務の整理をすることにして腰を据ゑた。そこへ里村が帰って来た。(中略)里村は松毛虫の様に汚れた體で刀を左手で掴んでいた。『僕が壕の中から匐ひ出た時は誰も居なくなつてゐたんだ。(中略)途中で酷い砲撃に逢ってね、(中略)鶏小屋で、兵隊と一緒に寝たんだ。(中略)柳君が死んだつてね、三叉路の溝の傍で?(中略)あの溝のところで、夕暮れまで撃ち込められて動けなかつたんだ、(中略)弾間を縫つて、走つては伏せ走っては伏せ昨夜晩くフォード会社のところへ来て寝たんだ。』(中略)私達の小屋の中にはダイナマイトが積んであった。皆で原稿を書いた。(中略)里村や堺の原稿に挿絵も描いた。これがシンガポール島上陸後最初の報道記録であつた。里村は敵前上陸を書き、堺はブキテマを書いた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月 39 マレー半島に上陸して以来、[里村]氏は常に第一線を希望し、砲火に身を曝し、一時は行方不明を伝えられたこともあった。氏は常にツカに数珠をまきつけた刀を持っていた。 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1942
昭和17
2月15日 39 ○○本部○○参謀から私に話しがあった。「今ブキテマロードへ敵の降伏使節が来る、ついて来い」と言ふのであった。私は駆けて行って仲間に話した。誰も唸り声を揚げた。(中略)『会場はフォード会社』(中略)七時である。「見えた」誰かゞ叫んだ。(中略)待つてゐた自動車に分乗してフォード会社へ来た。我が報道小隊を初め記者も、放送もカメラも、夕暮れに陽の翳つた会社の庭に待ち構えてゐた。(中略)四人の使節は会社の一室に案内された。(中略)記者は白い小さな紙を出して足を開いて踏張つてゐる。里村も堺も長屋も松本もゐる。(中略)十時に間近かである。砲声は全く渇んだ。素晴しい沈黙だ。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月15日 39 宣伝班員のうちで見学を許されたのは、前線に出てゐた報道小隊の六人と映画の撮影隊員だけであつた。撮影隊員は山下・パーシバル会見の場をカラーで写して実際の砲声も録音した。山下将軍が「イエスかノーか」と声を励ます状景も取り入れて、マレー実写映画の主要場面をそれに組込んだ。(中略)後で、私は里村君や堺君たちから聞いたが、両軍司令官の会談中も、日本軍の砲兵は大砲を撃ちつづけてゐたといふ。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1942
昭和17
2月15日 39 やがて日が暮れてから里村君は堺君などといっしょに帰って来た。彼等はブキテマのフォード会社の一室で山下将軍とパーシバルの会見の始終を見てから引き上げて来たさうである。「部屋の外まはりを金網が張ってある。その金網の外から見ることを許されたが、特別許可されたんだ。」里村君は会見の模様を説明した 「里村君の絵」
『井伏鱒二全集第10巻』
1997年8月20日
筑摩書房
1942
昭和17
2月15日 39 記念すべき吉日である。シンガポール陥落。午後七時十五分、敵は無条件降伏。(中略)里村君も元気であつた。前線でいつの間にか他の部隊にまぎれ込んでいるのに気がついて、びつくりして自分の部隊を捜したさうである。みんな祝杯をあげる。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1942
昭和17
2月15日 39 堺の命令で、またコーヒーを飲まされた。『一杯祝盃を用意して置くんだつたなあ、(中略)』と里村は悲鳴を揚げ乍ら飲んだ。話は盡きなかつた。(中略)里村の親父が監獄の囚人に汽車辨の箱を製造させて批難され、事業に失敗した話や、堺の北満警備中、足跡に溜つた水を飲む話(中略)誰も毛布にくるまつては見たものゝ、眠れる筈はなかつた。里村も猪の様な鼻息を鳴らして起き上つた。 『六人の報道小隊』
栗原信
昭和17年12月25日
陸軍美術協会出版部
1942
昭和17
2月16日 39 私たちは十六日にシンガポールへ入城したが、英軍が無条件に降伏した直後であつたから、まだ市街には生々しい破壊の跡が目立ち住民たちもホツとした顔色はしてゐたが、まだ笑ひを取り戻すほどの餘裕はなかつた。 「昭南の蛇使ひ」
里村欣三
『新青年』
昭和18年3月号
1942
昭和17
2月16日 39 シンガポールに来る。宿舎は町はづれのナッシム・ロード。植物園の裏口に近い。爆風で屋根が痛んでいる。 井伏鱒二全集第十巻「南航大概記」
1942
昭和17
2月17日 39 二月十七日 夜、中村君と共に堺君の宿舎に行き、ウイスキイを飲む。長屋君が『サクラサクラ、ヤヨヒノソラニ』を歌ひ、感極まって泣く。里村君が『よしよし、泣くな泣くな』と云つて、長屋君の背中を撫でた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1942
昭和17
2月17日 39 栗原小隊は洋画家の栗原信が隊長で、隊員は作家の里村欣三、中央公論社の堺誠一郎、声楽家の長屋操、国民新聞の松本直治、都新聞カメラマンの石井幸之助である。(中略)六人は自発的に最前線に出て、各自の分野で一箇月間あまりにわたつて記録を取った。命懸けの活躍だから軍人や兵隊たちを感心させた。宣伝班の尾高少佐は「栗原小隊は宣伝班の花だ」と云つた。同じ班の少尉中尉たちからも尊敬されて、特別扱ひの待遇を受けてゐた。(中略)私たちの宿舎から栗原小隊の宿舎まで約半キロの距離があつた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1942
昭和17
3月 39 第二回徴用の若干名が来て、オーチャード・ロードという市内の住宅街にあるカンボン・ハウス(田舎風の棟割長屋)に引越させられた。(中略)向って最右翼の家が私[井伏]と中島健蔵と神保光太郎に割当てられ、最左翼の家が堺誠一郎と里村欣三と洋画家の栗原信に割当てられた。 「『キナバルの民』の作者のこと」
井伏鱒二(中公文庫・堺誠一郎『キナバルの民』の解説)
1942
昭和17
3月 40 現地に着くまでは(中略)軍夫なみの扱いで。一応身分らしいものが決まったのはシンガポールにはいって、大分たってからで、それでも里村欣三さんなんか、下士官待遇という状態なんです。 「文士従軍」中の堺誠一郎の発言
『証言私の昭和史3』
昭和44年8月31日
学藝書林
1942
昭和17
3月 39 「(中略)陣中慰問だ。その血盟の小隊の宿舎へ、案内をばしてくれんかね。」山本さんがさう云ったので、私は社の帰りに栗原小隊へ寄つて、堺君や里村君に山本社長を連れてくるから歓迎してもらへないかと頼んだ。(中略)宿舎は植物園の近くの小高いところにあつた。大木の茂った森に取囲まれ、曲がりくねった道が大通りから通じてゐた。軍が接収した大きな邸宅である。隊員は、隊長の洋画家栗原信、隊員が作家の里村欣三、中央公論編輯員の堺誠一郎、音楽家の長屋操、都新聞カメラマンの石井幸之助、東京日日新聞カメラマンの中村長次郎であった。ほかに同居人として、朝日新聞記者で同じ班員の佐山忠雄ゐた。里村君は戦前には、評論家の青野さんを介して改造社長のところへ原稿を持込んだことがある。戦地へ来る直前には、第一回徴用令を受けた作家たち全員を山本さんが赤坂の星ヶ丘茶寮に招いて盛大な壮行会をしてくれたので、里村君は山本さんの顔をよく知ってゐた。(中略)酒の肴は、里村君が調理した。里村君は以前苦学してゐた当時、上野の精養軒のコックになって、コック長になりかけてゐたといふ噂があつた。フランス風の割烹は手に入つてゐた。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1942
昭和17
3月 39 僕らの仕事として「建設戦」といふ兵隊向けの陣中新聞、その他マライ語、インド語、支那語、英語の新聞を発行してゐるが、いづれもこの間から活字で印刷するやうになつた。作戦中、謄写版で刷つて自動車の上から撒いて歩いてゐた頃を思ふと全く隔世の感がある。 「友への便り」
堺誠一郎
『マライの土』
1943年3月5日
新紀元社
1942
昭和17
4月 40 シンガポールの陥落は、昭和十七年二月二十五日であつたが、(中略)それから間もなくして、私はマライ半島一周の旅行に出て、アロルスターの警備隊本部へ、そのとき陸軍上等兵の軍服をつけてゐた竹森[一男]君を訪ねた。東京で小説を書いてゐるときよりは少し肥つてゐると思つた。 「序に代へて」
里村欣三
『マライ物語』
(竹森一男著)
昭和18年11月10日
六藝社
1942
昭和17
4月 40 里村氏はマレー半島南下中、戦車部隊にもつき、シンガポール陥落後、同じ部隊を訪れ取材して、『朝日新聞』にを「熱風」を連載(昭和十七年四月二十九日〜同年六月三十日。六十三回)した。シンガポールに入った直後、私たちが泊っていた植物園裏の屋根に砲弾穴のあいた家のロビーで氏が毎朝早く起きて小さなテーブルに向かい、ときどき頭の毛をかきむしったり、口の中で日蓮宗のお題目を低く唱えたりしながらこの小説を書いていた姿が目に浮かぶ。 「解説」堺誠一郎
『河の民』
(中公文庫)
1978年2月10日
中央公論社
1942
昭和17
4月16日 40 軍司令官であった元の山下大将が、私たちの事務所へ巡察にやって来た。ところが山下司令官は、来るといきなり班長の部屋へはひって行き、いきなり大きな聲で怒鳴りだした。その聲は私たちにも手にとるやうに聞こえて来た。「こんな女々しい文章が、詩といへるか。こんなものを新聞に出すとは、言語道断だ。(中略)不埒なやつだ。」さういふ工合に山下司令官は怒鳴りつけていた。その現場を見るまでもなく、私はその場面を想像することができた。司令官が班長に陣中新聞を突きつけ、北川冬彦の詩を指差して地団駄を踏んでいるところが想像された。(中略)その日、山下司令官は十人近くの高級軍人を引きつれて巡察に来た。参謀肩章をつけている軍人も何人かいた。私は高位高官の人を迎へる作法など知らなかったので、いつものやうに事務机について現地の古新聞を切抜いて帳面に貼りつけていた。むろん司令官が私の部屋にはひつてくるとは豫想もしていなかつたので、敬礼の気構へなしに事務机に向つていた。(中略)目の前に軍司令官が大きく立つていた。参謀肩章をつけた将校達がその両翼にずらりと並んだ。司令官は満面に朱をそそいで大きな鋭い目で私を睨みつけ、開口一番、「無礼者」と叱咤した。(中略)「徴用員も軍人だ。宣誓式をすませた上は軍人だ。軍人は礼儀が大事だ。無礼者。のそのそして、その態度は何だ。(中略)」と怒鳴つた。私は一度に途方にくれ、ただ許してもらひたい一心で「はい」と答へた。山下氏は私を擲ることだけはしなかったが、ちやうど上等兵が新兵を叱りとばすときのやうに、癇癪だまをまる出しにした形相と弁舌で、ながながと私を叱りつけた。 井伏鱒二全集第十巻
「悪夢」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1942
昭和17
4月16日 40 私が山下氏に叱咤されている間(中略)どの部屋にも窓や入口に扉がなかつたので、筋向うの部屋がまともに見えていた。その部屋には、同じく徴用されて来た私の同僚が二人いた。小説家の里村欣三と、中央公論記者の堺誠一郎である。この二人は、そのころ事務の割当を受けていなかったので、書類をしたためる必要はなかったにもかかはらず、二人とも一心不乱の恰好をして帳面へ字を書いていた。あそこは無風帯だなと私はその二人を羨ましく思った。(里村君は後日レイテ島で亡くなつたが、私はマレーまで輸送されて行く道中にも、この二人には何かとずいぶん厄介になったものである。堺君にもいろいろと厄介になった。自然、私はこの二人を力と頼むやうな成りゆきになつていたが、この二人にしても叱咤する山下氏をなだめてくれるわけには行かないのである。しかし山下氏がぷりぷりしながら立ち去った後、私は里村君のところに行って「君は苦労人だが、怒れる将軍をなだめることはできないですね。将軍、まあそんなに短気を起さないで、といふ工合にね。」さう云つたところ「とんでもない。僕は兵隊だったときには、上等兵でした。口をきくことさへ出来ないのに、なだめるなんて無茶を云ふですなあ」と里村君が云つた。) 井伏鱒二全集第十巻
「悪夢」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1942
昭和17
4月16日 40 堺 たまたまね、私はね、廊下を隔てて前の部屋に、里村欣三さんと二人でいたんですがね、山下奉文がともかく、ほんとに地団駄ふんでおこっているのが見えましたよね。廊下を地団駄ふんで、でかい声でおこりましたよ。 「文士従軍」中の堺誠一郎の発言
『証言私の昭和史3』
昭和44年8月31日
学藝書林
1942
昭和17
5月 40 [昭和17年5月17日、 創価教育学会第四回総会「午後一時再會。福田理事より別項の通り○○部隊陸軍報道班員里村欣三氏(中略)の来信を朗読」]
昭南島より 里村欣三
その後は大変御無沙汰しました。これも軍務の都合上ですから御寛恕下さい。出発の際には盛大な壮行会を催して頂き、大変有難う存じました。しかも例の調子で大変無禮の振舞に及び大いに御迷惑をかけたと思ひますが、どうかお許し下さい。まだどうも人間が練れてゐなかつたのです。戦地へ来てからは一層信心堅固に信仰してゐますから、他事乍ら御安心下さい。一夜に三千以上の弾丸に見舞はれたこともありますが、私は一心にお題目を唱へて、身に一寸の負傷も負はず、御本尊の功徳の廣大さに、今更ながら驚きました。こちらへ来てから、私の南無妙法蓮華経は相当有名になりました。どうか御本山へ御参詣になつたら、私の謝恩の念を御祈念下さい。
「昭南島より」
里村欣三
『大善生活實證録』
第四回総会報告
昭和17年8月10日
創価教育学会
1942
昭和17
6月 40 昭南へ入つた私は喜んで迎へてくれた里村君と酒では歩調が合った。何一つ物を買はず、すべて酒に投じてゐると云つて有名であつた。 「小さな想ひ出」
寺崎浩
『文学報国』
昭和20年3月1日号
1941
昭和17
6月 40 井伏、里村、新聞記者の林信夫、園[寺崎]と連れ立って歩く。里村が飲み屋に通じていた。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1942
昭和17
7月23日 40 明日は、宣伝班員の集会がある。会場は新々旅館。記念撮影もするさうである。六時半、事務所の前に集合とのこと。 井伏鱒二全集第十巻「十七年七月下旬頃 」
昭和40年2月25日
筑摩書房
1942
昭和17
8月 40 八月中旬に私[井伏]と小栗虫太郎は、ボルネオ報道部へ転属の内命を受けていた。ちやうど東京日日の連載を引受けたところで、ボルネオなんかに行きたくなくて腐りきっていると、堺、里村の二人が、私と小栗に代わりたいと宣伝班の将校に申し出た。もう命令が出ているか駄目だと断られた。ところが堺君は、その月末にシンガポールで南方軍司令官会議が開かれることを知って、ボルネオ派遣軍の前田中将に頼んでみることにした。二人の属する文化奉公会の会長は前田中将である。(中略)二人は将軍に、井伏、小栗の代わりにボルネオに呼んでいただきたいと申し出た。すると前田中将は、すぐ附添武官の少佐を呼んで、マレー軍参謀部に前田の希望だと云って、堺、里村の二人をボルネオによこすように電話での交渉を命じた。 「徴員時代の堺誠一郎」
『海揚り』
井伏鱒二
昭和56年10月20日
新潮社
1942
昭和17
8月 39 私[井伏]と小栗虫太郎にボルネオに行けといふ命令が尾高少佐から出た。(中略)同じ宣伝班の堺誠一郎と里村欣三が、折から司令官会議でシンガポールに来てゐたボルネオ軍司令官前田中将を宿泊先のホテルに訪ね、ボルネオ行きを志願して出たので私と小栗君の代りに堺君と里村君が行くことになつた。堺君と里村君は前田中将を会長とする戦前からの文学会に入つてゐた関係で、前田中将が附添の軍人に云ってマレー軍の方へ交渉さしたのであった。おかげで私[井伏]はボルネオに行かなくてもいいことになつて、毎日新聞に連載原稿を送ることが出来た。 『徴用中のこと』
井伏鱒二
1996年7月10日
講談社
1942
昭和17
8月 40 堺が里村を誘って二人[井伏、小栗]に代ろうと提案した。里村に異存はなく、確認した堺はボルネオ派遣軍の前田中将に頼むことにした。シンガポールで南方軍司令官会議が開かれると知っての申し入れとなった。前田軍司令官は百万石の殿様前田利為侯爵で、(中略)文化奉公会の会長をつとめる文化侯爵だから、会員である堺は交代に自信を持っていた。 『大本営派遣の記者たち』
松本直治
1993年11月20日
桂書房
1942
昭和17
8月 40 里村君は徴用になる前、堺君と同じく「文化奉公会」に入っていた。これは戦地から帰還した作家、画家、ジャーナリストたちの会で、会長は前田利為中将であった。翼賛会が出来てから、時流に反きかねて結成された会だろう。 「『キナバルの民』の作者のこと」
井伏鱒二
(中公文庫・堺誠一郎『キナバルの民』の解説)
1942
昭和17
8月 40 新しい命令を受けて近いうちに僕[堺誠一郎]はここを立つことになつた。半年暮らした町だけに別れ難い思ひも残らぬことはない。(中略)今度の行く先のボルネオは未開の土地だといふことだから、未開の中に何か新しい希望を見出すことが出来るかもしれぬ。 「友への便り」
堺誠一郎
『マライの土』
1943年3月5日
新紀元社
1942
昭和17
9月5日 40 里村君の『河の民』の後記によると、里村君と堺君がシンガポールから北ボルネオ灘部隊報道部への転出命令を正式に受取ったのは、昭和十七年九月五日であった。九月二十一日に先ず堺君と里村君が飛行機でクチンに渡り、その後から、写真の石井幸之助、撮影の中村長次郎、漫画の松下紀久雄が出発した。 「徴員時代の堺誠一郎」
『海揚り』
井伏鱒二
昭和56年10月20日
新潮社
1942
昭和17
9月5日 40 前田[利爲]閣下は、私たち帰還文化人の団体である『文化奉公会』の会長である。私たちが九月五日附の命令で、マライ軍宣伝班からボルネオ軍報道班へ転属になったのは、即ち閣下のお骨折りのお陰であつた。閣下が昭南へお出でになつた時、堺君や石井君と共に私たちが閣下に面会して、是非とも会長閣下のお膝元で働かして戴きたいと申し上げたことがあつた。その時、閣下は自分たちの申出でを大変にお喜びになつて、マライ軍から私たちをボルネオ軍の報道班へ転属させて下さつたのである。その命令が出たのが九月五日であつた。 『北ボルネオ紀行 河の民』
里村欣三
昭和18年11月25日
有光社
1942
昭和17
9月 40 昭和十七年九月半ばから十一月一ぱい、都合二ケ月半をボルネオで暮らした。(中略)当時ボルネオ軍には宣伝班はまだ非常に小さな形でしかなかつたし、新たに転属になつた里村欣三氏はじめ私たちの上には、まだ知られてゐないこの土地を内地の人々に紹介するといふ任務が負はされた。(中略)私たちがボルネオに行くことになつたのは故前田利為閣下の御尽力によつてであつた。陥落直後からずつと半年以上を昭南で暮してゐた私たちはもうそこから何か新しいものを発見する眼を失つてしまつてゐたし、この未開の土地に行くことに大きな希望を持つてゐた。そして、私たちは喜んでそこに行つた。 『キナバルの民』あとがき
堺誠一郎
昭和18年12月21日
有光社
1942
昭和17
9月21日 40 翌月二十一日、堺君たちがボルネオに着いた日に、将軍は飛行機事故で行方不明になっていた。後で戦死と聞いた堺、里村君は、まるで階段を転がり落ちるやうに一度にがっかりしてしまった。もし将軍が健在であったとしたら、里村君は徴用解除になってもボルネオに居残ると言い張ったらう。フィリッピンへ行ったのと思ひあはせてみて、どうもさうとしか思へない。一方、堺君は里村君を連れ帰るのに苦労したことだらう。 「徴員時代の堺誠一郎」
『海揚り』
井伏鱒二
昭和56年10月20日
新潮社
1942
昭和17
10月15日 40 今夜の十一時に、目的のサンダカンへ着く筈であつた。軍司令部所在地のクチンを、堺君や石井君たちと共に出発したのが、九日であつた。堺君と石井君は、キナバル山の麓を旅行するために、サラワクのミリーで下船した。(中略)九日にクチンを出帆してから、まるまる一週間の船旅であつた。 『北ボルネオ紀行 河の民』
里村欣三
昭和18年11月25日
有光社
1942
昭和17
10月20日 40 七時には、夜が明け放れた。スルー海からのぼる旭日に対して、桟橋の上から旅行中の無事を祈つた。街がざわめき始める頃、定期船が出帆した。七時半であつた。(中略)ピリツ農場の桟橋へ到着したのは、午後四時半であつた。 『北ボルネオ紀行 河の民』
里村欣三
昭和18年11月25日
有光社
1942
昭和17
10月28日 40 彼[シェヤーマン]曰く、私があまり苦力の取扱いに親切すぎるといふのだ。(中略)私が苦力たちの食事や寝場所のことを心配したり、食糧をわけてやつたり、また途々品物を買ふのに金を払いすぎるといふのだ。(中略)私は武力の背景を持たず、また征服者の誇りを捨ててしまつて、一放浪者として人間的に交際し、友達になつてみたいと考へて、今度の旅行に出て来たのである。私のそんな考へが通用するかどうかを試して見るのも、この旅行の目的の一つであつた。彼等がつけ上がつてもいいし、時と場合によつては、私たちが彼等の苦力になつてもいい、私はそんな風に考へてゐる。 『北ボルネオ紀行 河の民』
里村欣三
昭和18年11月25日
有光社
1942
昭和17
11月1日 40 私たちは明日、もう一日行程だけこの河を溯江し、ムルット部落へ最後の記録を残すつもりである。最初、私たちはこの河を水源地まで溯つて、陸路のジャングルを突破して、西海岸州のクニンガウへ出るつもりであつたが、今はちやうど雨季のためと、ジャングル旅行の旅行準備が整つてゐなかつたので、遺憾ながらその計画を放棄しなければならなかつた。(中略)残念ながら、再び同じコースを辿つて、サンダカンへ帰るより仕方がないのである。 『北ボルネオ紀行 河の民』
里村欣三
昭和18年11月25日
有光社
1942
昭和17
10月21日〜
11月4日
40 里村欣三氏がこの大キナバタンガンの河口にちかいビリツ農場を基点として上流のスンガイ・ミリアンまで踏査旅行したときの紀行「河の民」(オラン・スンガイ)というのがあるが、当時、ボルネオ軍報道部員だった映画カメラマンの藤波次郎氏が所持していた地図を里村氏がそのとき借用持参し、里村氏はその地図のうえに小さな字でメモをかきのこしている。(中略)里村氏は一九三六年版の英国製の古い地図のうえに、ツルサン・キナバタンガン河口にあたる「アバイ」(ABAI)にペンで印をつけ、ビリツ農場(BILIT)のところに二十一日と記している。さらに上流にあたるピンタサンでは「小屋に一泊、二十四日」、クアムツ(KUAMUT)では「栄利順(ヨーリースン)に一泊」、バカル(BAKAR)とカラカラ(KARAKARA)の中間にKARAGHNという地名を書きこんで「二十六日舟中に一泊、中洲あり」と記入している。もう、キナバタンガンもここまで遡上してくると、かなり上流となり、どうかすると丸木舟でも難行する。タンクラップ(TANGKULAP)では「二十七日栄利順に一泊」と記して地名のところに二重まるで囲んでいる。そして、その上流には書き込まれた形跡はない。が、さらに上流のトンゴット、ピナンガまで遡上して里村氏はここに十一月四日までとどまり、スンガイ・ミリアンのムルット部落を調査したり、原住民とさまざまな交歓を行なっている。 『キナバル三十年』
松本國雄
昭和50年8月10日
金剛出版
1942
昭和17
11月8日 40 私と中村長次郎君とが、キナバタンガンを下航して、再びその河口近くのビリツ農場へ到着したのが、十一月八日の未明であつた。 『北ボルネオ紀行 河の民』
里村欣三
昭和18年11月25日
有光社
1942
昭和17
11月 40 里村君は堺君と一緒にボルネオのクチンに渡り、ミリといふところで西東に分かれてサンダカンの川筋を取材した。帰還後、その探検記を『河の民』といふ題で出した。 「徴員時代の堺誠一郎」
『海揚り』
井伏鱒二
昭和56年10月20日
新潮社
1942
昭和17
12月上旬 40 ボルネオから昭南市[日本占領時のシンガポール市]に戻り、徴用解除で日本の土を踏んだ里村(後略) 『大本営派遣の記者たち』
松本直治
1993年11月20日
桂書房
1942
昭和17
12月21日 40 私は一年ぶりに南方からかへり、陸軍予科士官学校の掃き清められた校門に立た(中略)その日は、ちょうど十二月二十一日の午前十時になったばかりであつたがまだこの学校には煖爐が焚かれていないのである。 「逞し陸軍の若雛」
里村欣三
『婦人画報』
昭和18年3月号
1942
昭和17
12月 40 東京へ帰ってきた宣伝班員はそのまま報道班員と呼ばれるようになった。そして時局講演や戦地の報告に駆り出された。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社