西暦 月日 満年齢 記事 出典
1943
昭和18
1月4日 40 二度も三度も、出直せるものではない。私は昭和十二年七月に、支那事変に応召して以来、私は祖国日本と共に出発してしまつたのである。香港沖の船中で宣戦布告の大詔を拝した時、涙を流しながら武者振ひ立つたが、その時の悲壮な感激を思ひ出すたびに、(中略)傍若無人にのしかゝつてくる米英の抗戦力には、切歯扼腕、無念の怒りを禁ずることが出来ない。(中略)私に可能なことは兵隊に召されることである。私は年頭と共に、身辺を整理してその日を静かに待つ決心である。 「新年の感想」
里村欣三
『讀賣報知』
昭和18年1月4日
1943
昭和18
   40 綿部とおなじような心理の経過で軍国主義作家に踏み切った独身時代以来の親友前川二享のことを思い合わせ、人の心の動きに一つの法則のようなものがあるのを感じた。(中略)ある期間仮面をかぶりつづけていると、その仮面は伝説の肉付きの面のように顔から離れなくなり、心も仮面の通りに変化する。 『妖怪を見た』
小堀甚二
昭和34年7月10日
角川書店
1943
昭和18
  40 彼は戦況が次第に悪くなるにつれて益々憂鬱な顔になつた。「僕は再転向はしないからね」と宣言するやうに言つていた。(中略)彼が書いた「第二の人生」は河出書房から出て相当部数売れたが、私には不徹底な告白書だつた。彼は腹の底からの転向者ではなかつたが、又転向者でなくもなかつた。(中略)彼の転向の角目には、一身上の便宜や処世術が相当影響していたが、あとでは彼は自分の心理の暗示にひつかかつて便宜を信念にかへている。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1943
昭和18
  40 彼が南方の報道班員から帰つて私の病床を見舞つたのはそれから一年位後だつたろう。南方の戦地でT元帥から並々ならぬ恩顧をうけているといふ評判は他の人からもきいていた。(中略)「これで南無妙法蓮華経!と大きな声を出したらT元帥がびつくりして、『お前は日蓮信者か』ときいた。それから目をかけるようになつたね」(中略)彼は私達が識る以前すでに日蓮に関する著書を無名の書店から出しているし、隠し藝をする時お経をよむ所をみると、前から彼は日蓮宗と何か関わりがあつたかもしれない。(中略)[フィリピンに]再派遣される前の里村は、日蓮宗の説教所にお詣りして家族にもそれをすすめるやうに変わつていたさうである。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1943
昭和18
  40 彼が左翼に走ったことも青春時代の思想的変化といふよりは寧ろ自然発生的な極く素直な経路からで、それだけに苦しい思想生活と実生活をなめて来たのだ。従って転向も単なる思想生活の変化では治まらぬ根本的な革命であった。これは苦しい難行苦行が必要だった。富士山麓の寺にも入った。その時の片身として彼は肌身離さずお珠数と経文を持っていた。然し彼を追及する執拗な影は静謐な宗教的勤行では消えやらず、激しい命のやりとりの場たる戦場へ駆り立てた。彼は只ペンを執る従軍ではなく、戦場を禊の場、灌頂の道場と心得て、出来るだけ激しい戦闘、苦しい戦場へと志願した。 「同行二人」
今日出海
『人間』
昭和21年1月号
1943
昭和18
2月初旬 40 [日本文学報国会、大日本産業報国会、讀賣新聞社主催の「生産戦場躍進運動」の一環として磐城炭坑に派遣される]
いづれも顔と身體つきの逞しい坑夫さんたちであつたが、遠慮深くて無口で、その純朴な人柄には、土の霊を感ずるやうな心地がした。
「増産必勝魂3 磐城炭坑を訪ねて」
里村欣三
『讀賣報知』
昭和18年2月18日
1943
昭和18
2月 40 [新嘉坡陥落一周年座談会に出席]
出席者 里村欣三、栗原信(画家)、横田高明、日高一郎
『週間朝日』
昭和18年2月11日号
1943
昭和18
2月 40 東横電鉄の○○○○前で下車し、新しい舗装道路を左折すると、ほど遠からぬ町中に○○精機会社の明るい、白い建物が見える。航空写真機や回光機などを製作している近代的な、清楚な感じのする工場だ(中略)喰うか喰はれるかの決戦下の非常時局を背負つて立ち、軍需産業の第一線に働くこゝの少年工の健げな姿には、思はず涙が出るほどの感激であつた。 「誇らかな少年工」
里村欣三
『オール読物』
昭和18年3月号
1943
昭和18
2月 40 [陸軍報道班員座談会に参加]
出席者里村欣三、高見順、大江賢次
「遙かなる南の映画を語る」
『映画之友』
昭和18年3月号
1943
昭和18
3月 40 第一回マレー会。(中略)新宿の料亭で。中島健蔵、井伏鱒二、里村欣三、寺崎浩、栗原信の面々 『大本営派遣の記者たち』
松本直治
1993年11月20日
桂書房
1943
昭和18
3月 40 [宮崎県児湯郡川南村の陸軍落下傘部隊訪問]
飛行場では、朗らかな春光を浴びて、滑走路にたち並んだ輸送機の銀翼が、まぶしい白さで輝いてゐる。(中略)搭乗機の前へ整列した空の神兵の姿は、プロペラと爆音がかき立てる土埃りのために、見えたり隠れたりしてゐる。
[4月7日『讀賣報知』に「落下傘部隊 基礎訓練」を発表]
朝の点呼が終了すると同時に、真白い運動衣袴の兵隊さんが、掃き清められた営庭にひろがつて青年体操をはじめてゐる。
「陸軍落下傘部隊─○○部隊見学記─」
里村欣三
『現地報告67』
昭和18年4月号
1943
昭和18年
5月 41 桐生から足尾線に乗換へる。客車二輌に、沢山な貨車を連結してゐる列車が、喘ぐやうに渡良瀬川の渓谷に沿うて走る。(中略)私たちは足尾についた日に直ぐ、通洞の選鉱所を見学した。門柱には──やるぞ、やつてみせるぞ!と書いた大きな標語が貼ってあつた。銅山では五月一杯、五人組出勤競争といふことが行はれてゐる。五人組が無欠勤無遅刻で、きめられた採鉱量を確保する競争である。 「増産基地を観る 高々と『勝ち幟』揚る足尾銅山」
里村欣三
『週刊朝日』
昭和18年6月6日号
1943
昭和18
9月 41 [北千島の幌筵島・占守島へ報道班員として派遣]
報道部から北千島へ行ってくれということで小樽に行きまして。もう輸送船がずいぶん潜水艦でやられていた時期でしたから、渡る船がなくてひと月くらい待機させられて、やっと来た船が進水したばかりの砕氷船宗谷でした。戦後、南極観測船になった宗谷です。宗谷を旗艦にして十隻くらいで船団を組んで出かけまして。
『従軍カメラマンの戦争』中の小柳次一談
写真・小柳次一、
文・構成石川保昌
平成5年8月5日
新潮社
1943
昭和18
9月 41 輸送船は敵潜水艦が出没する危険海面を巧みに通過して、静かに北方基地の湾内に投錨した。(中略)
誰一人として『キスカ』とは言はない。はつきり『鳴神』と呼んでゐた。アッツ島のことも同様である。……私たち五人の報道班員は、○○湾のツンドラ地帯の台地にあるキスカ撤収部隊の三角兵舎で、山口中佐以下の若い将校に集まっていたゞいて座談会を開いてもらってゐた。(中略)柴田君と日比野君が座談会を進行させてくれてゐたが、私も小柳君も池邊女史も言葉を喪つてしまつた形で、粗末な食堂のテーブルを前にして首垂れてゐた。
「北千島にて」
里村欣三
『中央公論』
昭和18年11月号
1943
昭和18
9月 41 兵舎のがらんとした将校食堂……殺風景な板囲ひの中に、暖炉が一つ赤々と燃えてゐるだけである。二十餘名の、キスカ撤収部隊の将兵と私たちは向ひあつてゐた。(中略)「報道班員日比野士朗、里村欣三、柴田賢次郎氏と写真班の小柳次一氏でありますが、キスカ撤収部隊将兵の偽らない心境を語つて欲しいといふご希望でありますので、集つて貰つたのであります……」瀧田中尉が、武骨ではあるが、要領のいい簡単な紹介をする(中略)
「アツツ島の山崎部隊が玉砕してからの、キスカ島の話に移つて頂きませうか……」遠慮するやうに里村君が口を出した(中略)聲は曇つて、説明する林中尉の顔には二筋三筋涙の線が流れてゐた。(中略)涙もろい里村君も泣いてゐる。
『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 珍らしく雲もなく暖かい日であつた。(中略)その朝、里村、日比野両君と写真の小柳君は、須山中佐らと硫黄山へ視察に行く、と言つて早く出かけた(中略)[翌日は]深い霧の朝であつた。雨の振るやうにひどく散つてくる霧である。里村君は工兵隊へ、日比野君は高射砲隊へ、私は(中略)もう一度飛行場へ行くために宿舎を出た。 『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 北の海舟艇塁々秋鰈[かれい]
これは里村君の即興である。一丈も二丈もある昆布が流れるやうに生えている海底に、味の良くない水鰈が群をなして泳いでゐる。里村君は海岸事務所の能戸部隊へ、私と日比野君は村上湾に駐屯してゐるキスカ島部隊を訪ねるべく舟艇に乗つてゐた。風はあるがよく晴れた空だつた。
『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 其の日、私たち報道班員は今度新しく出来あがつた飛行場落成式に招待されてゐた。朝早く海峡を軍用船で渡つて迎への自動貨車に便乗した。(中略)「鳥居が立つてゐる」その時、里村君が呟き喜ぶやうな聲で言つた。(中略)「なるほどお宮が建立されてゐる」感慨深そうに里村君が呟いた。 『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 行きましたのは幌筵島と占守島です。めったに報道班なんか行きませんから、守備隊から大歓迎されまして。私たちが訪ねたころは、守備隊のほかにも塩鮭の工場なんかがまだ操業してまして民間の女の人も働いてました。(中略)幌筵島に着いた翌日だったですか、(中略)B-25が六機編隊で爆撃に来まして、ついさっきまでいた宿舎が直撃されて、本当に何分かの違いで助かりました。ちょうど前日に占守島に飛行場が完成して戦闘機が到着したところだったですから、早速、空中戦が始まって、山の上からB-25が撃墜されるのを撮影しました。 『従軍カメラマンの戦争』中の小柳次一談
写真・小柳次一、
文・構成石川保昌
平成5年8月5日
新潮社
1943
昭和18
9月 41 食事をしてゐるところへ、岡中尉から傅令がきた。今日船舶部隊の一部が、部隊の一所へ局地輸送をやるが、それに便乗して島を一周しないかといふのである。私たちは直ぐに賛同した。(中略)波しぶきは装甲艇をおおふやうに降りかかつた。(中略)岬をまがる頃には、あれほど重なりあつてゐた雲の層がほぐれて、薄い陽が射しはじめた。(中略)岬をまはつて私たちは装甲艇から小舟に移乗して上陸した。(中略)處女の美だね、と里村君が沁々と言つた。(中略)装甲艇二雙は反対に東海岸をまはつて帰ることになつた。(中略)「装甲艇で乗りきつたことは、一番の思ひ出です」里村君が呟く 『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 「私もやはり兵隊として支那の前線に行つてゐたのですが、あの頃の私たち兵隊の気持と、今の前線の将兵の気持を較べてみて随分変わつてゐることに驚きます。恥じます」里村君は言つた。(中略)それからまた現地自活班の話が出た。敵機来襲の時の話が繰り返へされた。(中略)「南方の将兵もえらいですが、北の将兵の生活はまた苦しいですな」里村君が言ふ。(中略)「その将兵が、敵に直面すれば生命を捧げて突入してゆくのですな」と、里村君が感激した語調で答へた。 『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 北千島の涯には、たくさんな軍属さんの人夫や大工さんが来て、一生懸命に働いてゐる。(中略)私は九月十二日の空襲のあった翌日にこの○○湾の鱈工場を訪ねた 「北辺の皇土」
里村欣三
『建設青年』
昭和19年1月号
1943
昭和18
9月 41 里村君は別所二郎藏氏を訪問するために早く出て行つた。 『霧の基地』
柴田賢次郎
昭和19年6月20日
晴南社
1943
昭和18
9月 41 私が別所氏の住居を訪ねたのは、風のはげしい日であつた。片岡湾からツンドラ地帯の丘陵を越えて、ほとんど三十四里の道程を歩いて、別飛の海岸へ出たのである(中略)砂利が干上つてしまつてゐる川尻を傅つてゆくと、砂丘と砂丘の間に風をよけて建てられてゐる開墾小屋のやうな建物が、別所二郎藏氏の住宅であつた。(中略)粗末な暖炉が流木をくべられて、心細い炎の音を立ててゐる板張りの部屋で、別所さん一家の人々と面会した。(中略)私は、人擦れのしない純朴な人柄に接して、云ひやうのない慕はしさを感じた。 「北千島に定住する人々」
里村欣三
『週刊毎日』
昭和19年1月16日号
1943
昭和18
10月 41 昭和十八年の十月末に、並川は亡父の法要を営むために故郷へと旅だつた。滞りなく簡略な法要をすませると、彼はふと思ひついて、堀島託一[戦友]を訪ねてみる気持ちになつた。(中略)黄金色に稔つてゐる豊かなA川渓谷の稲田を眺めながら、並川は私鉄のボロ汽車に揺られてゐた。(中略)沿線の農村は、少年時代の記憶と、あまり変わつてゐる風景ではなかつた。 「補給」
里村欣三
『文藝春秋』
昭和19年6月号
1943
昭和18
11月30日 41 [日本文学報国会勤労報国隊結成大会に参加]
十一月三十日午後一時から大政翼賛会講堂に於て都下各種文化団体と合同で華々しく挙行された。この日参加人員千余を数へ講堂に溢れるばかりで、(中略)いづれも戦闘帽にゲートルでキリッと身支度(中略)第三中隊第一小隊長里村欣三
『文学報国』
昭和18年12月1日号
1943
昭和18
11月30日 41 勤労報国隊には自発的に参加した(中略)すこしでも生産上や労務の上でお手伝ひが出来ればと望んでゐるだけだが、(中略)発会式の当日は参加した人たちが、みんな真剣だったのでそれを大変にうれしく思ひました。 「勤労報国隊結成式の印象」
里村欣三
『文学報国』
昭和19年1月1日号
1943
昭和18
12月12日 41 少国民総決起大会の日に参加─
私は見てゐた。両国橋から行進をはじめた戦車隊が、鉄軌轟々のひびきをあげて、(中略)富岡八幡宮前の巷路を右折して数矢国民学校をめざして乗り入れてくる。
[朝日新聞社主催]
「街の少年戦車兵」
里村欣三
『週刊朝日』
昭和18年12月26日号
1944
昭和19
2月 41 [東京都目黒区の陸軍輜重兵学校を訪問]
兵舎には火の気ひとつなく、氷室へ入つたやうな寒気がみなぎつてゐた。
「万能部隊」
里村欣三
『週刊毎日』
昭和19年3月5日号
1944
昭和19
3月 41 現在では文学の傍ら百姓をして、食糧増産をやつてゐます。 里村欣三
『文学報国』
昭和19年3月10日号
1944
昭和19
4月1日 42 強力な部会整備 新陣容の各部会役員の顔触れ(中略)小説部会(中略)常任幹事十名(中略)里村欣三 『文学報国』
昭和19年4月20日号
1944
昭和19
5月12・13日 42 川崎市へ文報勤労報国隊は五月十二、三日大政翼賛会川崎支部の斡旋で勇躍出動した。川崎市が今最も重要且つ緊急を要する臨港鉄道敷設工事の鍬入れなのだ。 『文学報国』
昭和19年5月20日号
1944
昭和19
5月12・13日 42 参加した隊員たちは川崎市建設事務所より支給されたシャベルや鶴嘴で溶鉱炉が排出した残骸で埋まる路面を整地した、という。 『日本文学報国会』
櫻本富雄
1995年6月1日
青木書店
1944
昭和19
5月12・13日 42 二日間、汗を流して働いた後は何ともいへず爽快な気持ちでした。殊に川崎在住工員のための通勤電車の工事だと知り、いつそう有意義な奉仕だつたと思ひました。 「川崎出動の感想」
里村欣三
『文学報国』
昭和19年5月20日号
1944
昭和19
5月27日 42 里村君来訪、こんどは支那へ報道班員で行くと云ふ。これで出征共に四度目になるさうだ。戦争と一緒にどこまでも運命を共にすると云つてゐる。伊藤永之介君も報道班員で出るさうだ。この年配の人達の不幸な幸福を思ふ。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1944
昭和19
6月 42 [毎日新聞社特派で河南作戦に従軍]
洛陽城内に一歩足を踏み入れて胸にせまるものは、期待した古代文化の街の面影ではなくして、激しい闘争のあと形だけが惻々として浮かぶのである。(中略)古都の面影はどこにもなく、要塞化された軍都としてのうらぶれはてた姿だけである。
「黄土を征く」
里村欣三
『週刊毎日』
昭和19年7月30日号
1944
昭和19
6月 42 報道部へ立寄ると、運よく洛陽へ帰るトラックが一台、九時に出るといふことであつた。(中略)虎牢関を登りつめたところに、明月坡と呼ばれる風光絶佳な景勝の地があつた。(中略)栗原[信]画伯が、ふと「やあ、これは支那人の文人墨客好みの景色だよ」と洩らした 「洛陽への道」
里村欣三
『時局情報』
昭和19年7月25日号
1944
昭和19
7月 42 洞庭湖畔のどの地域に作戦しても、必ず湖沼と河川によつて、作戦が阻害される。(中略)私はヤンマー船をひきつれて、湖畔の入り江に待機してゐる油一郎少尉を訪ねてゐた。衝陽攻撃に要する重要兵器の輸送任務をはたして、つい先頃この泊地へ帰つたばかりの少尉である。 「洞庭湖畔にて」
里村欣三
『週刊毎日』
昭和19年8月6日号
1944
昭和19
7月 42 私たちがサイパン島の悲報を知つたのは、湖南作戦が最も激化してゐる時期であつた。七月中旬の太陽は、湖南平原を焼け爛れるほどに照りつけてゐた。(中略)衝陽包囲のわが軍は、数十ケ師の逆包囲を受けて苦戦につぐ苦戦をつづけてゐた。戦況は必ずしもわれに有利だとはいへなかつた。(中略)私たちは長沙対岸の『大陸』といはれる中洲の別荘風の宿舎にゐたが、七月十七日の爆撃で長沙の湘湖沿ひの河岸は、きれいサッパリに焼き払われてゐた。 「鯉のひもの」
里村欣三
『週刊毎日』
昭和19年12月10日号
1944
昭和19
8月 42 長沙にゐた時、蝮や犬をつかまへて食べようかといふ話が出た。三度三度冬瓜の汁ばかり吸わされてゐたので、みんな肉類に飢ゑてゐて、口を開くとビフテキの話が出た。(中略)やがて柴田賢次郎氏と私は、自動車行軍で衝陽へむけて発つたが、その道中に○○日かかつた。敵機の跳梁がはげしいために、昼間の行軍が出来ないからであつた。 「鯉のひもの」
里村欣三
『週刊毎日』
昭和19年12月10日号
1944
昭和19
6月・7月
8月
42 支那派遣軍が(中略)湖南作戦の大進軍を起したのは本年の五月下旬であつた。(中略)作戦開始後たちまち営田・新市を攻略し、六月十六日には長沙の占領、その二十六日には衝陽の外郭陣地と飛行場へととりついてゐたのである。(中略)大陸戦線の様相は、著しく変化してゐる。その原因の最大なものは、在支米空軍の跳梁である。米軍の出撃が頻繁なために、皇軍の昼間の行動が制限されて、ほとんど行軍も戦闘も夜間のみである。(中略)私はこんどの湖南作戦に従軍するために、漢口から武昌へ渡り、武昌から岳州までは列車であつた。南京から漢口へは揚子江を輸送船でのぼつたのであるが、この航路も夜間であつた。(中略)漢口へ滞在中にも、二回敵機の空襲を経験した。武昌から岳州までの沿線の停車場附近は、爆撃による相当の被害の跡が見受けられた。(中略)私たちは三日間、岳州に滞在してゐたが、この廃墟街へ多い時には一日に二十五回、敵機が来襲したことがあつた。(中略)岳州から長沙へ、私たちは洞庭湖と湘江の水路を利用して水上勤務隊のヤンマー船に便乗した。この部隊は赤山島の攻略に殊勲を樹てた輸送隊であつた。(中略)私たちが自動車に便乗して長沙を発つたのは、衝陽陥落[八月八日]の直前であつた。 「大陸新戦場」
里村欣三
『征旗』
昭和19年12月号
1944
昭和19
12月 42 大陸の衡陽作戦に従軍して十月に帰ったばかりなのに、また比島へ行かうといふ戦場慣れた里村君が(後略) 「同行二人」
今日出海
『人間』
昭和21年1月号
1944
昭和19
12月 42 比島派遣と決定した通知は私が出した。初めニューギニアと話があり、それならば望む所と里村君は云ってゐた。三ヶ月位といふ話で、それは短いとさへ云つた。それが比島になつた。 「小さな想ひ出」
寺崎浩
『文学報国』
昭和20年3月1日号
1944
昭和19
12月10日 42 夕近く、妻が里村君のそばの畑へ、前に買っておいた葱をぬきに行った。日比野士朗と里村君が濁酒をくんでおり、近く今日出海と三人でレーテへ行くことになったさうだ。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1944
昭和19
  42 もっと手痛い批判は彼の仲間からおこった。ファッシジムに里村はなったというのである。彼の近作『熱風』が、如実にその傾向のあらわれだと云うのであった。(中略)『実際に、君はファッショになったのか?』『と、とんでもない』(中略)しばらく里村は返答せずにうつむいていたが、ふたたび顔をあげたときは、ある種の決意に似たものを眼に閃かしていた。『実のところ、僕は久しく迷って来たんです。しかし今はそうじゃありません。この戦争がどうなるか知りませんが、僕はどこまでもこの戦争について行くつもりです。』『ふむ、じゃ、やっぱりファッショだ。立派なファッショだよ。』『そうですかな。そういうことになりますな。』(中略)里村は重苦しそうに頭を下げて、じっと胡座をかいていた自分の膝頭のへんを瞶めていたが、やがて思い悩んだように片手でがむしゃらに髪の毛をむしった。『わからん。どうも──わかりません。それで、僕は報道班員として、今度フィリピンまでいくことになっているんですからね。』 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』
1960年4月創刊号
全線
1944
昭和19
12月 42 欣チャンの愛称でたれからも親しまれた里村が、二回目の戦線へいくのだということで、わたしを訪ねてきてくれたのは、昭和十九年ではなかつたろうか。労働者出身の里村は手くびに珠數をまいていて、南無妙法蓮華経と唱えていた印象は強烈なものであつた。里村はそのときわたしの問いにこたえて『戦場にでることは死を意味するのだから、自分は死を怖れぬために佛陀を念じるのだ』とかたつたが、この善良な労働者作家はそのご間もなくフィリピンの戦場で死んだ。 「懐かしい作家たち」
間宮茂輔
『現代日本文学全集69プロレタリア文学集』付録月報
昭和44年1月10日
講談社
1944
昭和19
12月 42 花田[里村]が志願して危い前線に赴いたことは、東京にいた頃、生方[小堀]への手紙で、一家は知った。彼はいたって簡単なハガキを一枚よこしただけだったが、もうすでに、そのとき目的地と本国との連絡は、途切れる寸前だった。何でそんな無謀な志願をしたのか、古い友人たちは首をひねった。が、戦況に通じた彼には、彼なりの見とおしがあったのだろうと解釈するほかなかった。しかし、生方には、ハガキの文言は、花田の気持の在り所を想像するのにちょっとした道しるべだった。「戦争の帰趨をどうお思いですか。いろいろな言説がひそかに行われているようですね。が、私は決して、再転向などしません」 『鉄の嘆き』
平林たい子
昭和44年12月25日
中央公論社
1944
昭和19
12月 42 昭和十九年も終わりになって突然比島へ行くことになり、里村欣三、火野葦平、日比野四郎[士朗]と私の四人が飛行機の便のあり次第直ぐに出発せよといふことで、東京にゐない火野と日比野が第二便、私と里村が第一便と決定した。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月 42 十月、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島を攻撃、さらに、ルソン島も危機に瀕した。私[火野葦平]は、また、従軍を志願した。今日出海、日比野士朗、里村欣三、三君と私が行くことに決定した。しかし、四人いっしょに飛行機に乗れないで、二人ずつ、二度に行く手筈になり、まず、十二月二十九日、今さんと私とが先発、一月六日、日比野、里村、両君が後発することに打ち合わせした。ところが、東京で、いっしょに開いた送別会の席上、私が、ふと、仕事がまだ残っていることを洩らすと、里村君が、「そんなら、火野さんはあとの飛行機に乗んなさい。僕は、もう、仕事はなんにもないから、先に行こう」という。そうしてもらうとありがたいといって、私は交替した。今さんと里村君は、予定通り出発した。 『火野葦平選集第4巻』解説
火野葦平
昭和34年2月20日
東京創元社
1944
昭和19
12月 42 私は暗いうちに起きて女房子供を連れて羽田へ行った。(中略)『なアに大丈夫ですよ。(中略)僕は運のいゝ男ですから、随分危険な目に遭ひながら助かつてゐるのです。僕と一緒にゐたら絶対大丈夫です』里村君の朴訥な言ひ方は妻を安心させると同時に私まで頼もしい同行者だとひそかに北叟笑んだものだ。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 出発の日は天候は良かつたが、気流が悪く、難航し、福岡泊りといふことになつた。(中略)この日から寝ても覚めても一緒にゐた。(中略)今でも思ふのだが、一体彼に悪いところなどあつただろうかと。私は徹頭徹尾彼が親切で善良で犠牲的だったと思ひ続けてゐる。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 福岡から台北と飛び、(中略)親密の度が一日一日と濃くなるが、それと同時に我々の快適な旅が危険極まりないものであることを知らされた。旅客機の乗組員達が露骨に反抗を示し始めたのだ。(中略)前便前々便悉くマニラ到着前に敵機に喰はれてゐるのだつた。『わざわざ死にに行くこたアないでせう』(中略)兎も角台湾の南端屏東まで飛ぶ妥協が成立した。台北では外套と冬シャツが不用となり、屏東ではもう夏だつた。ここの戦闘司令所ですったもんだの末に戦闘機四機の護衛をつけるからマニラまで行くことに決着した 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 燈火管制をした台北の暗い宿屋の座敷で、私達は夜更けるまで話し合つた。(中略)『僕は戦争が済んだら、西国のお禮所廻りをしたいと思ふんだが、一緒に行かないか』と突然私を勧誘する。里村君と菜の花盛りの四国路を巡禮することは思つたゞけでも楽しいことだつた。彼の左翼時代の同志達とも今は余り交遊がないらしく、遠い過去の友人を懐かしげに回想する。 「同行二人」
今日出海
『人間』第1巻第1号
昭和21年1月1日
1944
昭和19
12月28日 42 恰度私の到着した十九年十二月二十八日には、陸軍の主脳部はもうマニラを捨ててバギオにあつた。このような逼迫した情勢は東京には全く知られていない。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 マニラに着いた晩、どんなに秋山報道部長が我々の到着を喜んでくれるかと私は部長公館の階段を駆け上つた。然し秋山部長は困った時に困ったものが着いたといふ風に青い顔をしたまま、『また何故こんな時に来たのです』(中略)段々聞いてみれば手違ひだらけで、秋頃誰か報道班員を寄こせと大本営報道部へ言ってやつた覚えはあるが、戦況がここまで来てから寄こすのは解せぬといふのである。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 わざわざ死ににここまで来る必要はない、また何も知らぬ二人を殺すわけにはいかぬといふ意味を部長が婉曲に言ふのも私にはよく解った。すると突然里村君は私の健康の点も気遣はれるし、戦争には不向きな人柄だから一刻も猶予なく飛行機を見つけて内地へ帰してやるように頼み、自分だけはどんなにしても比島へ残してくれと哀願し始めた。『私は戦場に来たので、ここが戦場になるのは本望です。一兵卒にして下さい。それでなかつたら、一兵卒の下働きでも結構です』彼は頬を紅潮させ、訥々として部長に手を合はせた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 里村君はどうあつても居残りたいと希望する。折角来た以上戦局不利だから帰るといふ気にはなれぬ。兵隊の下働きでも、手伝ひになつてもいゝから置いて欲しいと、秋山報道部長に懇願した。頑強で、兵隊にも行って来た彼は労働も恐れず、行軍にも堪へられると自薦し、そのような健康にも恵まれず、戦場と化したら到底兵隊達と行を共に出来ぬ私[今]を、一日も早く内地へ帰してやってくれとも申し添へてゐた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 『里村君、君も一緒に帰らんか』(中略)が、この問題ばかりは彼は梃子でも同意しない。『呂宋島が玉砕の憂き目に遭ふなら、僕も玉砕させてくれ』彼は私に手を合はすのだ。『何故君はそんなに死にたがるのだ』『いや、死なん。死にたくもない、然し……』彼は常に議論を回避した。説明を嫌つた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1944
昭和19
12月28日 42 私[と里村]の乗つて来た飛行機が最後のものである以上、最早内地帰還は望み薄い。(中略)薄暗い広間で里村君と小説の話でもしてゐる方が気楽だつた。(中略)追ひ詰められ、内心不安に戦いてゐると全く人の和を失ひ、誰も彼も誹謗蔭口を必ず漏らす。内地から着いたばかりの私達には聞き苦しく、堪へられなかつた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月6日 42 宿酔の眼をこすりながら[朝日支局]編輯室へ行くと、(中略)『今ちやん、内地へは帰れなくなつたよ……(中略)敵艦隊はリンガエン湾に姿を現はし、今朝未明より艦砲射撃を開始せり』と小さな紙片を朗読する。(中略)秋山[報道]部長は(中略)自分だけバギオへ行ってしまふのだろうか。にはかに心細くなつて、私は報道部の玄関口へ行つた。(中略)三時に報道部の前に兵隊が物々しく武装して集合、部長と一緒に先発する兵だ。私もマニラに着いて八日目に撤退しなければならぬのだ。(中略)五時になっても出発の模様はない。(中略)敵の熾烈な艦砲射撃と艦載機の銃爆撃が行はれてゐるといふのに、その砲煙をかいくぐってバギオへ向ふ我々に萬全の用意はおろか、ガソリンが一缶もないとはどうしたことだろう。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月6日 42 里村君は(中略)『ここまで軍規が弛緩してゐるとは思はなかつた。ラム酒やビールの製造に大童になつて、防御を怠つてゐた罪は歴代の軍司令部にあるね』彼は最近洛陽作戦から帰つたばかりで、その苦戦振りをつぶさに見て来たのだが、支那の派遣軍とは比較にならぬ弛緩振りを私以上に昂奮して語つた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月6日 42 十一時半に(中略)報道部本部前に集合した。兵隊達も銃を持ち、背中に鉄甲をしばつて、暗い中に既に整列してゐた。(中略)『弾丸を込め』この号令が一番不気味で、この夜の出発の実感をよく表はしてゐた。里村君も息詰まるやうな緊張の後で溜息をついてゐた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月7日 42 プラリデルといふ寒村に入つて、『小休止』の声がかかり、我々は暑い車を捨てて、地上に降り立つた。(中略)『待避』と叫ぶ声がした。(中略)ノース・アメリカンの超低空の銃撃だ。(中略)一間と離れぬところに一発くらつた。大きな穴があいて、途端に火をふいてゐる。もう生きた心地もない。(中略)二十機は来たろうか。(中略)私のスートケース、夏服も髭剃り道具も手拭ひも悉く目の前で焼け失せ、身體につけてゐるものだけが助かつた。里村君と丹ちやんと私は何故かからからと笑って三人で握手した。(中略)里村君は鼻の先にべっとり泥をつけてゐるし、服は泥まみれ、さういふ私とてどんな姿をしてゐたらう。再び三人は笑いころげるほど笑つた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月8日 42 [アンガット河の]白鷺橋が爆撃されては、河を渡る術がない。(中略)上流へ行ってみよう。浅瀬の渡河点が見つかるかも知れぬ。(中略)夜中、(中略)遂に[河中でエンコした]トラックを悉く対岸に渡し切つた時は、どうやら暁け方近かつた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月9日 42 夕方まで間断なく敵機は頭上を旋回し、ここ[タンボボンという小部落]から這い出ることも出来ぬ。(中略)五時出発と決定。(中略)グラマンは低く降りて銃撃をほんの脅かし程度に加へ、他に目的があるらしく飛び去つて行った。(中略)本街道に出た頃は真ッ暗になつてゐた。ヘッドライトを消して、殆ど歩くやうにのろのろと進む。(中略)サンミゲルの町へ着いたのだ。(中略)『一時出発!』と兵隊の声が静もり返った街に木精して耳もとまで響いた。(中略)合歓の木に群れとぶ蛍のぽッと蒼い光を眺めながら、もうそれが美しいとも思はず、『後続来てるか』を反復してゐると、里村君が眠さうな声で、『蛍の国だなァ』と呟いた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月10日 42 また昨夕と変らぬ夜行軍が始まつた。(中略)夜の白々明けにサンホセの町へ入つた。(中略)サンホセに一泊して今日明日と休養をとり、充分余裕を持って[バレーテの]峠路に向はうといふ隊長の命令が降つた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月11日 42 夜は蝋燭のまはりでウィスキーの残りを飲んだ(中略)里村君は不断は無口な人だが、酒が入ると突然雄弁になり、手振りを交へて中国の戦線、馬来の話だの、また自分の身の上話をする。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月12日 42 夕方六時、出発。(中略)二十分もすると、はや山道である。(中略)十二時間走り続けてアリタオに着く。(中略)漸く空家が割り当てられ、私と里村君は畳にして二畳位の竹の小屋で手榴弾を枕もとに置くとそのまゝ眠ってしまつた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月13日 42 五時半、赤い夕焼雲が山の端にたなびくのを眺めながら、また北進。(中略)バレーテ峠を越して山嶽地帯に入る(中略)バンバンを過ぎ恰度真夜中頃バヨンボンの町へ入った。(中略)人見大尉が帰って来て、『最早、これから先に進むことが出来なくなつた。我々はバヨンボンにとどまり、独立部隊としてこの地区の報道任務につくやう命令を伝達されたのである。』 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月 42 バヨンボンも山の中では、大きい方の町なので、いづれ近いうちに爆撃を受けるだろうと人見大尉は観測し(中略)毎日我々の安全な定住地を探して歩いた。(中略)山の向こう側にブシラク村という屈強な場所が見つかつた。(中略)粗末な竹で作ったニッパ小屋が林の中に七八軒まばらに建つてゐる。(中略)移転して三日とたたぬうちにバヨンボンの大爆撃があった。(中略)私は、里村君と一緒に焼け跡を見に出かけた。議論の嫌いな里村君は、『どうして新聞記者の連中はあゝも議論をするのかね。こんな山の中へ来ても、飽きずにやつてるね。僕は労働者出身だから、左翼にいた時分もインテリのイデオロギーの論戦が一番厭だつた』 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月 42 バヨンボンは死の町になつた。町外れの森の中に爆風で屋根のすッとんだ木造家屋に台湾の鉱山会社の社宅があった。入口のところに白髪の老人がゐたので、私と里村欣三君と二人で入つて行つた。(中略)茶卓の上に積み重ねた書物が埃を浴びてそのまゝにあるのを里村君は目ざとく見つけて手にとった。『これ僕に貸してくれませんか』彼は頓狂な声で叫んだ。青野季吉の文学評論集である。『この著者は僕の親友なんです。若い時分から一緒に雑誌をやつたり、教へを受けたり、世話になった人なんです』(中略)里村君は夢中でページを繰つては拾い読みをしてゐるが、中味を読みたいといふよりは、むしろ著者を懐しんで、書物を撫でさすつてゐるといつた風である。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
1月 42 『(中略)今日若い社員が二人死にました……』(中略)私は遭難者の遺骸を弔はうと里村君と外へ出た。(中略)北澤老人が瞑目すると、二人の社員がむしろを穴の中へ入れ、土をかぶせ始めた。(中略)北澤さんは両手を合はせて、『南無妙法蓮華経』を呟くやうに繰返す。これに和して私の隣りにゐた里村君が突然同じやうに『南無妙法蓮華経』を唱え出した。ふと見ると、彼の合掌した手に珠数がかかつてゐた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
2月3日 42 [秋山報道部長のいる]バギオへの連絡隊に同盟通信の岩本君、日映の田口君、写真部の岸野君、池田伍長と一行が十二名決定した時、里村君はどうしてもバギオへ行くと言ひ出した。(中略)『どうせ死ぬんなら秋山さんの傍で死にたい』と彼は腕を組んで頑なに後は口を緘んでしまつた。(中略)一行十三人の出発の朝は霧が深かつた。(中略)東京を出る時から寝ても覚めても一緒にゐた里村君とこの時別れたのが最後になってしまつた。彼が私に残したものは小さなセルロイドの針箱と妙法蓮華経一巻だつた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
2月3日 42 「必ず帰ってくるから待っていて下さい」と私の手を握って去って行ったが、彼は死ぬ覚悟を人知れず堅めていたらしく、遂にこれが最後の別れとなった。 『隻眼法楽帖』
今日出海
昭和53年5月30日
中央公論社
1945
昭和20
2月11日 42 [里村氏が]バギオにたどり着いたのは確か昭和20年2月11日紀元節であったと記憶している。里村氏が作家であることは知っていたが、本人と会ったのは初めてだし、まして過去の経歴など、何も聞いていなかった。ところが報道部へ着いた翌日から、炎天下、しかも激しい砲爆撃の続くなかで、壕掘りや土運びに一人で汗を流している。だれに命令されたわけでもないのに、どうして危険なことを平気でやるのか、むしろその行動は異常とすら思えた。やがて米軍が上陸を始めると、報道部長に前線行きを志願し、バギオを離れていった。 「北サンの里村欣三氏」
船戸光雄
『集録「ルソン」』第28号(比島文庫)
出版年不明
1945
昭和20
2月20日 42 里村君は二月十六日にバギオに着くと二十日にはもう前線に出たいと申し出て、例の頑固さで到頭部長を説得し、前線部隊本部へ二三の部員と出かけて行つた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
2月22日 42 とある凹みに天幕を張り、そこで部隊長に戦況を聴いてゐた。彼は丹念なたちでそれをノートに控へてゐる時、頭上に敵機が舞ひ、一発爆弾を落とされたのが、運悪く天幕真近で炸裂した。傍にゐた人は思はず臥せたが、鉛筆を握つてゐた里村君はおそかつた。背中に爆弾の破片が突き刺さつたか、掠めたかして倒れた。だが背中の傷よりも悪かつたのは爆風を腹に受け、腸が切れたともいはれ、兎も角腸の内出血が致命傷であつた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
2月23日 42 けれども彼はこの重傷を受けながら未だ生きて来た。バギオの病院へ直ちに護送したが、一日『腹が痛い、痛い』と虫の息で唸り続けてゐたそうだ。病院の屋根は吹きとび、ベッドに横たはつていると青天井が見えたといふ。そして夜が明けると医者も看護婦も空襲時間と称して疎開してしまう。誰もゐない危険にさらされた病院で、彼は痛い痛いと唸り続けて翌日息を引きとつた。 『山中放浪』
今日出海
昭和24年11月15日
日比谷出版社
1945
昭和20
2月23日 42 あとで軍医に聞いたが、米軍機の落とした爆弾の爆風で、里村君の腸は十三に切れていたそうだ。 「ある左翼作家と戦争 里村欣三のこと」
『毎日新聞』昭和58年4月11日夕刊記事中での今日出海の発言
1945
昭和20
2月23日 42 昭和二十年二月二十三日十五時三十分、軍報道班員として比島に従軍中の小説部会員里村欣三氏は砲煙渦巻く第一線でペンを握ったまゝ、従軍作家として初の戦死を遂げた、この日はわが陸軍部隊と敵米軍との間に、旧マニラ城をめぐって、寸尺を争ふの死闘が繰り返されてゐたが、新聞紙の伝へるところに依れば、里村氏は第一線に出動中の某部隊を訪れ、リンガエン戦線の華、西村大隊長の最後の戦闘報告書を筆写中、敵九機の爆撃を受け、破片創と爆風による内部出血のため『部隊長に相すまぬことをしました、必ず書きます』と苦しい息の下から叫んでゐたといふ 『文学報国』
昭和20年3月1日号
1945
昭和20
2月23日 42 彼は、敗戦近くなって報道班員として、ふたたび戦場におもむき、弾丸雨下を突進して、倒れたといわれる。自殺であったかも知れない。『第二の人生』にも「愛想がつき」はてたのではあるまいか。 『戦士の碑』
向坂逸郎
昭和45年12月25日
労働大学刊
1945
昭和20
2月23日 42 レイテに派遣された里村や今がフィリピンへ飛んだ時にはレイテ戦は終わっていたのである。火野[葦平]や日比野[士郎]が台湾へ行った時には台湾の航空隊はすっかりやられていたのである。(中略)米軍の上陸で里村欣三はむしろ死を選ぶように死んでいった。 『戦争の横顔』
寺崎浩
1974年8月15日
太平出版社
1945
昭和20
2月23日 42 ファシズム下の日本軍国主義の最も生きにくかった時代を屈折を強いられながら、自殺ともいうべき死に突入して行った一人の左翼作家 「或る左翼作家の生涯」
堺誠一郎
『思想の科学』
1978年7月号
1945
昭和20
2月23日 42 里村欣三君は北ルソンで戦死し、今さんは死にまさる苦労をした。行っていたら、今度こそは私[火野葦平]も死んでいたかも知れない。里村君が身代りになってくれたようで、胸の疼く思いがしている。今さんは辛うじて生還したが、その惨苦を象徴するかのように、皮膚は青黒く、歯は一本もないほど欠けていた。 『火野葦平選集第4巻』解説
火野葦平
昭和34年2月20日
東京創元社
1945
昭和20
2月23日 42 「しかし、花田[里村]君の場合なぞむしろ自殺に近いような気がしますね。彼は、それを覚悟して行ったんじゃないでしょうか」(中略)生方[小堀]は、気の小さい花田がここ一年か一年半の間に見戍った戦況の推移につれて、心の中に、どんな恐ろしい地獄が生まれていたか見たように知っている。(中略)短い数年間に社会や軍の当事者からうけた寛大と優遇は、過去の逃亡兵だった凄惨な経験の償いのようなつもりでうかうかと享けて来た。ところがその評価は昨今見事にどんでんがえししていた。彼は、償われるいわれをいつのまにか喪失していた。彼のうけた寛大と優遇とは、みんな彼の新たな負債となって、彼がうっかりしている間に彼に負わされていたのである。この傷だらけの体で、どうしてこれからその償いができよう。生方は、彼が「再転向はしない」という宣言にも似た調子高い言葉を生方にかき送ったのを、そんなニュアンスとして受けとった。彼が縋るもののない孤独な心を抱いて出発したろうということだけはいわずともわかっていた。 『鉄の嘆き』
平林たい子
昭和44年12月25日
中央公論社
1945
昭和20
2月23日 42 葉山にしろ里村にしろ、あんな足掻きをしさへしなければ命にさし障りはなかつたものをと恨めしくて仕方がない。戦争中我々と里村とは日毎に疎遠になつて行つたが、彼が戦局を見ながら「自分は再転向はしない」と言つた言葉は忘れられない。彼の最後の場所となつたフイリッピンへの従軍志願は、その無暴[謀]さから言つても一種の自殺的な気持で行はれたのではないか。軍国主義に痛めつけられて若い生涯を終へた彼の死の餘韻がいつまでも私たちの耳にきこえてゐる。 『現代文学代表作全集2』の解説
平林たい子
昭和23年8月15日
萬里閣
1945
昭和20
2月23日 42 [里村は]率先して危険なところへ行った。(中略)兵隊ではなく、従軍の作家にすぎないのに、みずから死地に赴いた。(中略)あれは贖罪の気持ちからではなかったのか(中略)転向したんでもないし、兵役を逃れて天皇陛下に申し訳ないというのでもなかった。贖罪は神か仏か、何かそういうものに対してなのだ。彼は法華経を読んでいたが、絶対者を求めていたんだね。非常につきつめたものが感じられた。 「ある左翼作家と戦争 里村欣三のこと」
『毎日新聞』昭和58年4月11日夕刊記事中での今日出海の発言
1945
昭和20
3月2日 東京新聞の宮澤君来訪、里村欣三の戦死を知つた。夕刊のゲラ刷を持つて来たのだ。(中略)里村君の一生を憶ひつゞける。(中略)一度帰宅して妻と同伴でまた出掛けた。いまは若い未亡人となった妻君はしつかりしてゐた。前日軍から内報があつたと云ふ。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1945
昭和20
3月3日 金子[洋文]君来訪、里村宅へ案内する。前田河、中井[正晃]、栗原信などが座つてゐた。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1945
昭和20
3月3日 公報か何かで、里村の死がわかった日に鎌田の里村の家に集まった人のうちに、栗原という画家の報道班員があった。栗原君は里村と同行した人で、温和しい、あまり事実を誇張しないような人柄である。(中略)私は、遺骸といっては、万年筆一本しかない里村欣三の死を、そのペンに見出そうとするかのようにあかず眺めた。なんのへんてつもないエボナイトの柄をすげた品物だった(後略) 「里村欣三」(遺稿)
前田河広一郎
『全線』1960年4月創刊号
全線
1945
昭和20
3月9日 今野[賢三]君来訪、里村宅へ同伴した。奮い友達だけで通夜をすることになつてゐたのだ。洋文、湊、今野、青木、鈴木、鶴田、他に栗原画伯などが集つた。供養の品々は湊のそなへものだつた。六時からはじめて九時半に去つた。 『青野季吉日記』
青野季吉
昭和39年7月25日
河出書房
1945
昭和20
3月29日 里村欣三氏の告別式 報道班員として比島で壮烈な戦士を遂げた作家里村欣三氏の告別式は来る廿九日午前十時から佛式により四谷見付平山堂跡で文化奉公会葬をもつて営まれる 『読売新聞』
昭和20年3月24日
朝刊第2面
1945
昭和20
3月29日 彼の葬式は、「肉弾」の櫻井忠温少将を委員長にして盛大に営まれたさうだが、私の家には葉書一本来なかつたので全然知らなかつた。この以前から、彼は、陸軍の将官だつた親類や縁者と互角に交際してゐた。が、彼が死んだとなると、「暴風」の原稿料で細君が建てた家を親切ごかしに安く買ひとつて岡山に疎開させた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社
1945
昭和20
7月20日 戦記文学章 故里村欣三氏に
日本文学報国會では比島で戦没した陸軍報道班員故里村欣三氏の報道戦おける赫々たる殊勲とその壮烈な戦死に対し同會最初の戦記文学章を贈ることになり、近く記念品並びに賞金五百円を遺族に傳達する
『朝日新聞』
第二面
昭和20年7月20日
1945
昭和20
  終戦と共に里村の名誉も泡のやうに消え去つた。時勢の浪のそとで、唯一筋に働いて来た細君は三人の子供を抱へて、学校の炊事婦となつて子供を大きくした。「槿花一朝の夢」といふ言葉は、この細君には当てはまらない。彼女の生きてきた道は里村のジグザグコースと違つて一直線、一筋だつた。 『自伝的交友録・実感的作家論』
平林たい子
昭和35年12月10日
文芸春秋社

 里村欣三の死去の状況を伝える浜野健三郎著『戦場 ルソン敗戦日記』を、次の年譜にまとめて掲載しています。ご覧ください。