里村欣三のフィリピン・バギオにおける戦死(昭和20年2月23日)の状況は、従来、今日出海氏の『山中放浪 私は比島戦線の浮浪人だった』(昭和24年11月15日、日比谷出版刊)により伝えられていたが、浜野健三郎氏の『戦場 ルソン敗戦日記』に、より詳細な状況が記録されていることが判った。里村欣三氏の死を悼み、以下に転記します。

       

 

     

浜野健三郎著『戦場 ルソン敗戦日記』 昭和54年7月30日 績文堂出版刊 四六判330ページ

 同著の「あとがき」に次のようにある。
 「お断りしておきたいのは、これは私の個人的記録で、公表を予定して書いたものではないということである。しかも寸暇を盗んでの走り書きだから文章も整っていないし、いまとなって見れば、明らかな間違いもあり、滑稽な独断もあり、矛盾もある。ことに読者に時代錯誤的違和感を与える言葉や感想も多分にあるだろうと思うが、これは終戦を境にしてあらゆる価値観が大転換してしまったからである。しかし私は、日記を再録するに当って、これらを戦後の風潮に合わせて修正したり、削除したりすることを一切しなかった。これが三十四年前の戦場で書かれたものであること、つまり“記録性”を大切にしたいと思ったからである。」
 日記は前書き部分の記述を除けば、昭和19年12月31日から昭和20年12月4日まで、比島派遣軍報道部嘱託として体験したフィリピン戦線での敗戦と抑留生活が、ほぼ毎日欠かさずに記録されている。
 以下の引用で、その日の記事中で省略した部分は(中略)(後略)としたが、まるごと引用しなかった日にち部分は(中略)(後略)も付していないので、ご了解下さい。[ ]は原本のルビ、引用は昭和20年2月9日から始めます。

二月九日 晴
(中略)
 午後の爆撃は大分ひどかったようだ。僕の部屋にも機銃弾が一発、隣室の天井から三十度の角度で貫いていた。付近一帯を掃射したらしく、裏壁に一発、防空壕の入口にも三発めりこんでいた。
 バギオ教会とともに比人の避難場所になっているホーリー・ファミリー教会が爆撃されて、修道女二名即死、負傷十数名の被害があり、修道院は全焼したという。ケソンヒルの報道部にも爆弾十数発投下され、宣伝科、総務科、二号兵舎の建物に相当な被害を受けたが、死傷はなかった由。

二月十一日 雨がち
 紀元節。六時起床。小雨が降っていた。星が暗く光っていた。検問所のあたりで爆音を聞く。今日は来るだろうと思った。本部前に着いたら、すでに整列していた。皇居遙拝。部長、日本の国体の悠久を信じ、必勝を信ずと言う。
 バヨンボンより天野、来往野[きしの]、黄条[こうじょう]の諸君、それに里村欣三さんが来た。里村さんとはマニラで別れて以来だ。ぜひ会いたいと思ったが、会えずにすぐ帰る。
 八時四十分ごろ爆音。それ来たと壕に入ると、三挺団十九機が旭兵営の上空を左に旋回して、頭上に迫って来た。と思う間もなく、高射砲の発射音を聞く。高射機関銃の音も混じって、一斉射撃である。久しぶりに溜飲を下げた思いで、壕中で怪哉を叫ぶ。敵機は、高射砲の出現に狼狽したのか、いつもに似ず次々と投弾。壕しきりに揺れ、胸に来る爆風もあった。約二十分で静かになったので、壕を出て見ると、憲兵隊の方向に灰色の煙が上っていた。特殊情報部が吹っ飛んだという。
 次の爆撃を待っていると、果たして二十分後に来た。二十機近い敵機が、こんどは初めから投弾し、その炸裂音と機銃掃射音、それに前回より多少微弱になったが、友軍の高射砲音が入り混じって、しばらくは息もつまるほどの烈しさであった。
 台風一過、間もなく静かになる。二階の窓から眺めると、バーハム公園の池北方の端の家が燃え、さらに第一回の爆撃で火を吹いた市場南側あたりに濛々たる黒煙が上っていた。
(中略)
霧が濃くなり、小雨が降りはじめたが、アパートの火勢は依然として猛烈を極めている。
(中略)
雨が本格的に降り出した。車軸を流さんばかりに降りしぶく豪雨は、火事には慈雨だったが、避難民にとっては涙雨であった。
(中略)
 夕食にロペスからもらったウィスキーを飲み、ホロ酔い機嫌で焼跡見物に出かける。小雨がまだ降っていた。火事は思っていた以上に広範囲だった。市場南側は、検問所の先からセッション通りまでほとんど焼け、まだ余燼がくすぶっていた。(中略)
 帰途、網野、島田、大川の諸君と、今朝バヨンボンから来た里村欣三さんに会う。請じ入れて、ロペス給与のウィスキーをご馳走する。破壊消防をやったことは、来往野君が吹聴したらしく本部で話題になっているという。(中略)
 いずれにしても大変な紀元節であった。

二月二十三日 晴
 本部へ行く。部長や横井大尉と壕の中で一時間ばかり雑談。町のニュースや特工班の生活ぶりを、せいぜい面白おかしく、かつ勇ましく話してやったところ、帰りに部長殿の曰く、「これから時々来て貰いたい。君の話を聞いていると大いに元気がつくよ」
 里村欣三氏が爆弾で負傷したという。くわしいことはまだわからないが、盟兵団の本部で原稿執筆中、至近弾の弾片で負傷し、第十二陸軍病院へ入院したというのだ。明日にも見舞いに行ってみたいと思っている。
 敵は明後二十五日を期してバギオ総攻撃を開始する、トリニダッド盆地には落下傘部隊が降下するという流言が比人間にささやかれているという。ナギリアン方面へ転進する部隊が、夜をこめて陸続と続く。月はようやく明るい。

二月二十四日 晴、のち霧
 硫黄島の戦闘は激烈の度を加えている。小さな島に五個師団も揚陸したというのだから、米軍の戦法は無茶だ。これに対して、幾多の島嶼戦で貴重な経験を積み重ねて来たはずのわが軍がまた不覚を取ろうとも思われぬ。今度こそ勝ちほこる米軍を叩き落として貰いたいものである。そして硫黄島の戦いを契機にして大反撃に転じたいものである。
 里村欣三氏が亡くなられた──。
 夕刻、来往野君と里村さんを見舞いに出かける(来往野君は、マニラ出発以来バギオに来るまで、里村さんと行動をともにした間柄だ)。道をまちがえて兵站病院の方へ行ってしまい、第十二陸軍病院へ着いたのは約一時間半後であった。ここも爆撃のあとが月光に生々しい。通りすがりの看護婦に第二分院への道を聞くと、入院患者はどなたですと言う。その旨言うと、里村さんは亡くなられました。昨夜九時半ごろのことでしたと言う。おどろいてくわしい事情を聞くと、それは婦長さんから直接お聞き下さいと言って、第二分院の婦長室へ案内してくれた。
 しかし婦長さんも病中だったとかで死の前後のことは何も知らず、死因は弾片によるものではなく、爆風による内出血だったとのみ教えてくれた。そして遺品として、ノート、日記、万年筆、時計、証明書、遺髪、水筒その他を詰めた雑嚢を渡してくれた。遺骨はなかった。埋葬いたしましたとのことだったから、遺骨は取らないことになっているのかもしれない。
 帰途、里村さんを見舞いに行くという中正男氏に会う。憮然たる思いで、月の明るい松林の中を帰る。すでに十時近く、疲れもひどかったので、本部への報告を中氏に頼み、明朝改めて出直すことにする。
 惜しい人を死なせたものである。比島戦記を書く最適任者だったのに。マニラ以来のわずかな付き合いだったが、兄事すべき人として、その素朴で真摯な人柄をひそかに畏敬していたのに……。
(後略)

二月二十五日 晴
 朝本部へ行き、部長に里村さんの死を報告する。すでに中氏から聞き知っていたが、残念なことをしたと悵然としておられた。あまり古い付き合いではなかったとのことだが、将来戦争文学の第一人者になるのは、この人をおいて他にないと期待していたのにと、心からその死を惜しんでいた。遺骨のことをしきりに気にするので、なんでしたら片腕でも持って来ましょうかと申し出ると、そうして貰えれば有難い、あとで金山伍長(衛生兵)をやるから一緒に行って貰いたいとのことだった。
 部長宿舎を辞し、報道科の壕で吉岡少尉に里村さんのことを報告しているところへ部長が来た。部長は、報道科員を壕前に整列させ、「これから里村君の遺髪は、里村君が諸君といっしょに掘った壕に入る」と言って、僕が昨夜受け取って来た遺品入りの雑嚢を捧げながら壕に入った。
 夕刻、古賀准尉、金山伍長、それから今度里村さんに同行した那須(拓南生)の三人とともに第十二陸病へ行く。途中、那須から当時の状況を聞く。
 里村さんの一行(那須と日映のカメラマン)が、ベンゲット道キャンプ1の盟兵団本部へ向かって山を下ったのは、去る十六日のことだった。キャンプ3の旭兵団本部で、盟兵団のナギリアン道への転進を知った里村さんは、直ちにこれを追及すべくバギオへ戻った。二十日深更のことである。ナギリアン道は報道部のあるケソンヒルの麓を通っている。疲労困憊した那須とカメラマンが、今夜は報道部に一泊してと申し出たところ、日ごろは温厚な里村さんが、このときばかりは色をなして怒り出した。命令をうけて出発した以上、子供の使い走りではあるまいし、任務途中で帰ることは絶対にできない。あなた方がどうしても嫌だというなら、自分だけ先行するというのである。その勢いに呑まれて結局同行することになったが、カメラマンがフィルムの取り替えに本部に立ち寄ったことも、里村さんはあまり心よく思わなかったらしいと那須は言う。誠実、朴直な里村さんの面目躍如たる話である。
 その夜、幸い自動車に便乗してナギリアン道を下ることができたが、盟兵団本部を三キロも通りすぎて下車したため、同夜はそこで野宿し、翌早朝、本部を訪ねた。里村さんは、参謀長や幕僚から地図を前にして戦闘状況を聞きながらノートを取っていた。それから山あいの底地に移りトランクを机代わりにして、“盟”の戦闘詳報を写しはじめた。そこへ敵機が来た。転進直後のこととて、“盟”本部にはまだ壕もできていなかったが、このことが里村さんの不運になった。敵機はノースアメリカン二機で、小型爆弾を一個ずつ落とした。その一弾が里村さんのところから十メートル以内という至近距離に落下して炸裂した。すぐ里村さんは戦闘詳報やノートを抱えて待避した。背中に小銃弾くらいの弾片をうけたが、盲貫で大したことはないような様子だった。ただし、腹部の疼痛をしきりに訴えていた。この爆弾で盟兵団の下士官がひとり頭部に負傷したが、里村さんの傍にいた那須やカメラマンは全く負傷しなかったというのだから、よくよくの不運だったとしかいいようがない。不幸中の幸いは、負傷後間もなく入院できたことだった。その日、“盟”の伊沢中尉が、功績関係その他の要件で第十二陸病へ行くことになっていたので、その車に便乗できたわけだ。これに那須が付き添った。
 入院するとき那須が、ノート類などを預かっておきましょうかと言うと、里村さんは烈しく断わって、二、三日すればまとめるのだからと言っていたという。自分の負傷をあまり重く見ていなかったらしいことがこれでわかるし、一方そこにきびしい作家魂をみたような気もする。
 病院で昨夜の婦長さんから、里村さんの担当看護婦を聞き、将校病棟に山口さくさん(新潟県南蒲原郡長沢村字馬場)を訪ねる。山口さんは、病棟の前で患者の傷の手当てをしていたが、その話──。
 入院時刻は二十一日の二十二時三十分ごろ。腹部と胸部の痛みをしきりに訴えていた。腹部が膨満していたのでガスを取ってあげると、五十ばかり放屁し、気分がよくなったとたいへん喜んでいられた。一方、血尿とともに吐血もしたので、爆風のため内出血を起こしていたことはまちがいない。弾片による負傷は大したことはなく、内出血が致命傷になった。手術はしなかった。こんな際なのでと済まなそうに詫びていたが、あとで担当の小川尚一軍医中尉(東京都浅草区馬場公園裏)に聞くと、内出血の場合は負傷直後、遅くとも六時間以内に手術せねばならないとのことであった。里村さんが負傷したのは二十一日の午后三時半ごろで、その夜の十時半には入院しているのだから、すぐ手術すればあるいは好結果も望まれたのではないかと思うが、その夜は手術できなかった(電燈もなく、忙しくもあったろうから無理はあるまい)。
 翌二十二日の早朝五時ごろ、那須から報告を聞いた部長が見舞いに行くと、里村さんは苦しそうに唸っていたが、部長だよ、秋山だよと言うと、「こんなことになってしまって申し訳ありません」と詫び、「こんなに苦しいことはいままでにありませんでした」と言っていたということだったから、よほど苦しかったものらしい。
 その日も手術はできなかった。病院も爆撃されて十五名も死者を出すという騒ぎがあったからである。もっとも昼間は患者を壕に入れておくことになっているといっていたから、よほどの場合でないと手術はしないようだ。仮りに手術が成功したとしても、内出血の場合三日間くらいもつのが普通で、快癒は大して期待できないということだったから、これも里村さんの不運とあきらめねばなるまい。戦陣の間、誠にやむを得ないことだった。死亡時刻は、同夜九時半ごろ。
 病院から帰ったのは八時に近かった。食事を済ませてから報道科へ行くと、すでにお通夜がはじまっていた。月原兵長が出発直前に撮影したという里村さんの写真が引き伸ばして飾られていた。重油のお燈明が、祭壇に供えられた一升瓶と、盆に盛った昆布と高野豆腐と、それからいっぱいに飾られたブーゲンビリヤやダリヤの花をうすぼんやりと照らし出していた。お線香もなく、鉦もないお通夜であった。
 六畳くらいの小さい部屋に二、三十人も詰めているので、割りこむ隙間もない。やむなく入口に立っていた。やがて部長の挨拶がはじまった。里村さんと知り合った動機から語りはじめ、美なるもの、真なるもの、善なるものを一筋に求め続けて来たその誠実さを讃え、最後に里村氏の遺志を継承して比島戦を勝ち抜かねばならないと結んだ。言々句々に参列者の胸を打つ悲痛さがこめられていて、なかなか見事な挨拶だった。金山伍長がお経をあげた。金山が僧侶だということは聞いていたが、お経を聞くのははじめてだった。本職がだけあってさすがにうまいものである。
 一応お通夜が済んでから、去る十六日、里村さんと同じ日にサント・トーマス山の観測所付近に出かけた「朝日」の木村記者の報告があったが、その要旨──。
 サント・トーマス山には虎兵団と海軍の観測所がある。朝は十時ごろまでたいがい晴れているので、リンガエン湾を眼の下に、それから南方遠くクラーク地区のアラヤット山を見ることができる。サンファビアン、リンガエン、ダモルテスの各飛行場の敵機は、その数まではっきり読み取れる。サンファビアンがいちばん大きく、三本の滑走路の両側に現在百七、八十機が並んでいる。毎朝七時かっきりに一、二機の偵察機が離陸し、それが帰って来ると、今度は編隊が飛び出して行く。
 リンガエン湾の敵艦船は最近少なくなった。現在六十隻の輸送船が、巡洋艦や駆逐艦に守られて投錨しているが、いずれも吃水が浅いので、すでに人員資材は揚陸し終わったようだ。輸送船は一週間に約三十隻くらい入って来る。この二十三日に一万トン級の病院船が入港して来たが、小艇で患者を運びこみ、二日ほどして去った。それらの艦艇は、夜間どれも煌々と電燈を燈している。友軍機が二十三日夜から攻撃をかけるということだったが、自分たちのいる間は敢行されなかった。
(後略)

二月二十七日 晴
 戦況──マニラ逆包囲作戦は、兵力不足、ことに飛行機の不足で成功しなかったらしい。マニラ守備隊も結局壮烈な玉砕をとげたようで、敵側ではすでに掃蕩戦を終了したといっている由。
(後略)

五月五日 曇、のち一時晴、夕方スコール
(中略)
 桔梗五郎が見舞いに来てくれた。マニラ以来である。三月下旬、帰国を急ぐ今日出海氏に同行してエチャゲ方面に行っていたが、台湾に飛ぶ今氏を見送って、数日前に帰って来たとのことである。顎ひげなどのばしている。
 (註 暮の二十八日に来比した里村欣三、今日出海の両氏は、一月七日、宣伝科長人見大尉の一行とともにマニラを出発して、バギオへ向かった。ところが、リンガエン湾に上陸した敵や、一斉に蜂起したゲリラに行手を阻まれて、やむを得ずカガヤン河谷のブシクラに落ち着くことになった。二月三日、里村欣三氏がバギオ本部への連絡隊に加わって出発したあと、今日出海氏は内地への飛行機を求めて北上した。今氏の『山中放浪──私は比島戦線の浮浪人だった』によると、単身放浪したように書いてあるが、実は桔梗五郎(元「文芸」記者)が同行していたのだった)

昭和二十年九月一日
(中略)
 桔梗五郎が死んだという。又聞きなのでくわしいことはわからないが、どうやら事実らしい。戦争も終わったというのに……、ここまで生き延びて来たというのに……、痛恨の至りだ。いつのことだったか、内地へ帰ったら九州をいっしょに旅行しようと話し合ったことがあったが……。
(後略)

九月二日
 班長集合ということで、本部へ出かける。横井大尉から、転進は十日前後になる見込みだが、携行糧秣の確保にさらに一段の努力を払って貰いたいという要望があった。
 (註 この日、私たちの知らぬことであったが、山下大将は山を降り、キアンガンで米軍に投降した。投降がのびのびになっていたのは、南方総軍から山下大将に対して、降伏調印の権限を与える旨の指令が来なかったからであった。しかし、その間にも死者は相つぎ、米軍からもしきりに軍使派遣を催促して来るので、山下大将は自己の責任において、八月二十八日、軍使をして米軍と接触させたうえで、この日非公式に投降したものであるといわれる)
 部長から桔梗五郎の死の経緯を聞く──。
 出発から大腸炎を患っていた桔梗五郎は、やがて歩行困難に陥った(中略)。大口班は、その拠点をアンチポロ手前のホヨに作ったが、桔梗五郎とこれも病気の平井報道班員は、ホヨへ行く途中のカモテ畑にあったイゴロットの小屋で、久米二等兵(臨時召集組の嘱託)の看護をうけながら療養していた。
 この家で平井報道班員が病死したので、桔梗五郎は大口班を追及すべく、久米二等兵とともに出発した。病気の衰弱と脚気(僕のように栄養失調性の浮腫を来していたのであろう)から、依然歩行困難を極めていたが、そのため崖から足を踏み外して谷底へ転落してしまった。その詳細については、肝腎の久米二等兵がこれまた病気のため邦人村で療養中なのでわからないが、崖から転落したのが直接の死因だったらしいという。八月二十五日のことだったという。